「おまえは誰だ、どこから入ってきた」
激高する声に相手は無言だった、驚いたのか、それとも男の怒る様に怖くなったのかもしれない、何か言いかけようとして口を開いたが、それを遮るように男が苛ついて声で叫ぶのだから、無理のないことかもしれない。
ようやく出てきたのは、ごめんなさいという、細いかすれた一言だった。
そして、このとき初めて男は自分の勘違いに気づいた。
「女、女性なのか」
相手はわずかに俯いた顔を上げようともしない、その様子に心底、怯えているのだとわかり男は迷った、だが、完全に気を許した訳ではない。
「どうやって、ここに入り込んだ、地上からここまで仕掛けがあった筈だ、罠があったんだ、それを簡単に」
「わからない、気づいたら周りは暗くて、地下だと気づいて歩いていたら、いきなり、あなたが」
言い訳にしては随分と間が抜けている、それにズボンにシャツという格好もだ、色合いも布地もパリの街の人間が身につけている物とは違う。
胃少し冷静になり、男は自分の態度を詫びるように言った。
「怒鳴って悪かった」
勿論、心の底からそう思った訳ではない、だが相手の素性を知る必要がある、怯えさせて、怖がらせては無理だろう、優しく声をかけると相手は顔をあげた。
自分に向けられた視線、その顔立ちに驚いたように男は叫んだ。
「パリの人間ではないな、外国、東洋人か」
「あなたは違うの」
男は簡単に、ここはパリの地下道だと説明した、すると信じられないと女は肩を竦めたまま黙り込んだ、しかし、その沈黙は長くは続かなかった。
「これはよくあるライトノベル小説とか、映画のトリップものにある夢墜ちとかいう、つまり夢ではないかしら」
意味が分からず男は問い返した。
「何を言ってるのかわからないが、君には夢に思えるのか、私にとっては現実だ、そして、ここに君がいるというのも現実だ」
女が自分の状況を理解するのに、多少の時間がかかったのは当然かもしれない。
だが、状況を理解してもどうすればいいのかわからない様子だった。
出されたお茶を一口飲み、変わった味だと思ったが、それが顔に出たのだろう、男がハーブティーだと説明すると頭を下げて女は美味しいですと答えた。
だが、正直、女には味などわからなかった、上の空だったのかもしれない。
ここが自分の家ではなく、パリの地下の下水道と繋がった場所でオペラ座の地下だと説明されてもすぐには信じられなかった。
夢ならと思い、自分の手を叩き、つねってみた、はっきりと痛覚が感じられる、現実だとしても受け入れるほど心は広くはなかった。
だが、一晩、眠ってしまうと、これを受け入れなくては大変なことになるかもしれないと彼女は自分に言い聞かせた。
「泊めてくださってありがとうございます」
朝食を食べ終わると女は深々と男に頭を下げた。
「外に出るのはどうしたらいいんでしょう」
「どこか目的が、行く宛とかあるのか」
「ないです」
素っ気なさ過ぎるくらい単純な一言に男は自分の考えを口にした。
「君は外国人だ、英語はあまり上手ではないな」
「でも、今こうして話すのは楽しいです」
外に出たら苦労する、もしかしら不審人物だと思われて牢屋に入れられる可能性もあると言われて女は驚いた。
「パリは厳しいんですね、外国人に対して」
「ああ、旅行者や身元が怪しいと思われたらお終いだ、ジプシー達に対しても悪魔の使いだと厳しく警察だけでなく教会も厳しい目を向けているからな」
「異端尋問とか、魔女裁判、絞首刑もあるんですか」
「昔よりはましになったがね」
この時代のパリなら無理はないかもと思いながら女は頭を下げ、外へ出る道はと尋ねた。
「そういえば名前を聞いてなかった」
「名前ですか、あたしの、名前は」
言いかけて女は黙り込んだが、思い出せないと呟いた。
「名前だけか、歳は、家族、友人は、どこに住んでいたのか、それも覚えていないのか」
開きかけた唇から言葉は出てこなかった。
昨夜から驚きの連続で、そのショックで一時的に忘れているのかも多分と、曖昧な言い方をして男に大丈夫ですと言った。
「君が嫌でなければ、思い出す間だけでも、ここにいればいい、少なくとも外よりは安全だと思う、荷物も旅行の通行証もなく身元を証明できるものは何もない、警察に尋問されて覚えていないでは通用しない、牢屋に放り込まれたらお終いだ」
そんな恐ろしい、嫌な結末だけを、何故、さらさと口にできるのと思いながら女は男の顔を見た。
「私、何も持っていないんです、お金とか、その代価というか」
「わかっている、愛人になれと強要するつもりもない」
「愛人ですか、外に出て娼婦になったら病気になりそうだわ、梅毒、フランス病とかあるんでしょう」
話が予想もしない方向に向いて、男は軽く咳払いをした。
「パリの事をある程度は知っているようだが、それは」
「よくわかりません」
「記憶喪失というやつかもしれないな」
「だとしたら刺激を与えればいいかも、いろいろなものを見たりして、やっぱり、外に出て歩き回ってみます」
そう言って女は外に出た。
だが、元気よく外に出たのはいいのだが、いい加減、疲れてきた、歩き続けているうちに足もだるくなってきた。
時々、立ち止まって周りを見ながら、腰を下ろす事もあったが、すれ違う人間が自分を不思議そうに見ているのが、はっきりと感じられた。
なんとかなると言って外に出たのはいいが、正直、思っていないのだ、自分でも。
このまま、もしかしたら野垂れ死にするかもしれない、外国人だから地面に穴を掘って埋められるなどという事もなく、ゴミの山に投げ捨てられてしまうのかもしれない。
暗いことばかり考えてしまう、これが夢ならいいのに目を閉じて眠って起きたら、自分の元いた場所、家だったらいいのにと思っていると、どこからか聞こえてきたのは楽器の音色だった。
一人の男がバイオリンを弾いていた、しかし、皆、視線を送るだけで立ち止まってじっくりと見たり聞いたりしている人間はいない。
演奏は上手とはいいがたい、足を止めて聞いてくれる客の一人でもいたら少しは頑張ろうという気持ちになるのかもしれない。
なんだか、少しばかり気の毒だと思いながら女は近づいた。
自分は外国人だが、一人でも客がいれば少しは演奏に熱が入るのではないだろうかと思ったのだ。
この曲、聞いたことがあるような気がする、外国の曲だろうか、有名な歌ではないだろうか、思いだそうとして目を閉じた。
一つの光景が見えた気がした、部屋の中には大勢の人がいて口々に何かを話しているのだ、仲良く話しているかと思えば議論するように大きな声で叫んで熬る人間もいる。
まるで貴族のような身なりをしている男女もいればボロをまとった人間もいるが共通しているのは会話だ。
「パリの音楽は絵画は、全ての芸術は、ミューズはディーヴァは、今」
演奏が終わっていた。
気づいて目を開けると訴えかけるように男が自分を見ている、そのとき、男の足下に置かれた帽子に気づいたが、だが、それには目も向けず女は声をかけた。
「歌って、演奏だけじゃもったいないわ」
「何だって、これは」
「有名な曲でしょう、ほら」
バイオリンを演奏していた男は唖然とした表情になった、だが女が歌い出すと、それが自分の演奏していた曲だとわかり、再び弾き始めた。
「なんだい、聞いた事がねえな」
「不思議な歌だねえ」
「ジプシーじゃないのか、へえっ」
通り過ぎる人々が足を止めたのはバイオリン、歌なのか、いや、その両方になのかわからない。
建物の陰から、この様子を見ていた男は驚いた。
しばらくして、歌と演奏が終わると人々は地面の帽子に硬貨を投げ入れた、見ていた子供達は食べかけの菓子や石ころだ。
「ありがとう、グラッチェ」
受け取った菓子にかぶりついた女がにっこりと笑うと少年も笑みを返した。
「ありがとう、あんたのおかげで今夜は、ご馳走を食べられそうだ、これは、あんたの取り分だよ」
「いいの、これでパンとか、ジャム、どれくらいが買えるかな」
その言葉に男は不思議そうな顔をした。
「パリは初めてか、今夜、泊まるところは宿は決まっているのかい」
「それを聞くなら、あなたは仮面をつけてるのは外国人だから、それとも顔を見られたら困るの」
「色々とね、最近のパリは特に厳しいから」
「そう、でも、さっきの曲だって皆、拍手してくれたじゃない」
「あれは昔、貴族が歌っていたんだ、どうして、知っていたんだ」
自分でもよく思い出せないと言いたげに女はお仮面の男を見ると、そういえば地下に住んでいた男性も仮面をつけていたことを思い出した。
ジプシーは流浪の民、パリの一部の人間からは忌み嫌われていたといってもいい、彼らが街中で歌い踊り、金を稼ぐことを取り締まるようになったのは最近になってからだ。
以前は、それほど厳しくはなかったのだ、というのも彼らが占い、まじないだけでなく医療行為まで行うからだ。
中には堕胎という医者顔負けの医療を格安で行うので医者が権力者たちに泣きついたというのが本音だろう。
医者の言い分から最初のうちこそ権力者たちは彼らに便宜を図ろうとしたが、それも遺書のうちだけだった。
彼らが自分たちに差し出す代価が少なすぎたのだ。
医者が最後の砦とばかりに頼みの綱と縋ったのは寺院、教会だった。
ジプシー達は人々を悪道に誘い堕落させる、若い修道層達の言葉にフロローは確かにと頷いたが、わずかばかりの慈悲というのもある、やりすぎてはいけないという忠告も忘れなかった。
最近は彼らに触発されてか、パリの売れない芸術家気取りの人間が大道芸人のように振る舞っているのだ、善良なパリ市民に手を挙げたという事で世間から白い目で見られてしまうこともあり得る。
若い僧侶の行動が間違っていれば、自分は、それを正さなければいけない立場にあるのだ。
珍しいバイオリンを街中で演奏しているのか、聞こえて来た音色にフロローは馬を下りると確かめるために歩き出した。
一人の男がバイオリンを奏でているが、仮面をつけている、素顔を見られたくないのだろうか。
服装からして貴族の変装とも思えない、他に理由があるのだろうか。
「フロロー様、どう見ても怪しい輩では」
自分の隣から若い司祭が声をかけた、尋問しましょうと言う言葉にフロローは迷ったが、そのとき、歌が聞こえてきた。
あの女は何者だ、自分の記憶がないといいながら、街中でバイオリンにあわせて歌い始めた光景を思い出す、あのとき自分がどれほど驚いたか。
バイオリン奏者の男が仮面をつけていたことから、ただ者でないことは確かだ。
だが、今、女は一人だ、パンとリンゴを食べながら歩いている。
どこへ行くつもりなのかわからない、泊まる場所も決まっていないだろう、日が暮れたらパリの人間でさえもあまり出歩く事はない、ごろつきや酔っぱらい、盗人が出るからだ、女はそれをわかっているのか。
いや、知らないから、暢気に歩き回っているのだろう。
自分の家に連れて帰ったほうが安全なのは確実だ、だが、女自身が断ったらどうする。
悩んだが結局のところ、どうすればいいのか答えが出ない。
自分の弟子、生徒のクリスティーナなら黙っていうことをきくだろう、だが、あの女は、はっきりとノウというかもしれない。
すれ違う人間が、男も女も子供も、皆振り返る。
服装と異国人と顔立ちが珍しいのか、いや、自分たちとは違うと感じているからなのか、その両方なのかもしれない。
このままではどうしようもない、声をかけて引きとめようと決心して男は足早に歩き出した。
そのとき、待ってくれと自分ではない男の声がして女が振り返った。
先ほどバイオリン演奏していた男だった。
「礼をさせてくれ、泊まるところとか決まってないんだろう」
女は不思議そうな表情になったが首を振った。
「決まっていないけど、親切な人がいて、多分、その人は泊めてくれると思うの」
「信用できる人間なのか、あんたはどう見ても外国人だし、最近は人買いとか、危ない奴もむいるんだ」
「阿片窟に売り飛ばされたりとか」
「あっ、ああ」
「その親切な人も仮面をつけていたけど」
その言葉に男は小さな、あっという叫びを漏らした。
「もしかして、地下に住んでいるのか」
幽霊かという男の言葉に女は笑い出した。
足はあったし、食事も一緒にした、そんな幽霊なんて聞いた事がないというと男は分かっていないなと真剣な顔になった。
地下に住んでいるのは犯罪者や、世間で昼間は外に出られなくなった曰くつきの人間ばかりで幽霊というのは、その中でも一番、怖い人間の事を言うのだ。
その言葉に女は黙りこんだ。