弟のジュアンは亡くなったことに。
原作でもどうしようもない甘えたがりで金の無心ばかり、多分フロロー自身、ほっとしたのではないかと思います。
幽霊というのは総称でね大抵の人間が関わり合いになりたくないと思っている人間だと言われても女は、そうなんだと答えるとかできなかった。
だが、そう言われて見れば自分が地下にいたとき、あの激しく怒った詰問の様子にも頷けるものがある。
自分がパリの人間なら警察、いや他の人間に通報するのかと思ったのかもしれない。
だとしたら頷ける、では自分は、ただ運が良かったということになるのだろうか。
「外に出て困った事になるかもしれない」
あの申し出を素直に親切心からだと受け取ってしまったが、意味などないのだろうか。
【だから日本人は、危機管理というものがなっていないんだ】
そんな言葉を、ふと思い出し歩いていると、顔に何かが当たった。
雨が降ってきたのだ。
クリスティーナ・ダーエは困惑していた、いや、正直なところ、ほっとしていたいってもいい、音楽の天使と名乗る男、亡くなった父親から送られた天使だと思っていた男は実はオペラ座の怪人だった。
パリの、いや、オペラ座の地下に住んでいた男は確かに音楽に関しては天才といってもよかった、自分に的確なレッスンをしてくれたのだ、その甲斐あって舞台の中央に堂々と立つ事ができ、今では世間からも認められるプリマドンナとなった、それだけではない。
昔、近所に住んでいた大人馴染みの青年ラウル・シャニュイと再会したのだ。
貴族の次男坊の彼は桟敷席から自分に惜しみない拍手を送ってくれる。
その事に自分の師である彼は嫉妬し、会うなとまで言われたのだ。
プリマドンナとして舞台に立ちたければ、これから先も自分の生徒であり続けるか、それとも子爵を選ぶかと言われて彼女は迷った。
身分の差など気にしないと青年はいうが、それは自分達の間だけのことだ、世間が認めるわけがない。
それに周りの仲間、コーラスガール達は応援してくくれているが、心から喜んでくれ手いるわけではないことも知っていた、言葉の浦に隠された棘や妬みを感じるのだ。
舞台に立てなくなったら、これから先どうなる。
元女優やプリマドンナが貴族の愛妾屋愛人になる事は決して珍しくはない。
だが、待遇がよくて喜んでいられるのも最初のうちだけだ、身分が卑しい、貴族の社会のルールを知らないと陰口を言われて、陰湿な嫌がらせを受ける事もある。
恋の熱が冷めれば、ぼろ屑のように捨てられるのも珍しくはない。
だが、自分だけは違う、そんな事はならない、絹のドレスや宝石、美しく着飾って贅沢な暮らしができると夢を見るのだ、舞台の上で見る夢が永遠に続くと。
クリスティーナ自身、夢を見ないわけではない。
ただのコーラスガールから急激に舞台へと駆け上がってきたが、現実の冷たさ厳しさも知っている、だが、それを叶える事ができたのは自分一人の力ではない」
彼が、幽霊と名乗る男の存在があったからだ。
もしラウルを選べば彼は腹を立てるだろう、彼に何か危害を加えるかもしれない。
だが、パリを出て二人で逃げてしまえば、だが、そうなれば自分の未来だけでなく、ラウル自身の未来も奪ってしまうことになる、それを考えると簡単に答えは出せないと悩んでいたのに、ここ最近の彼の態度は一体何があったのか。
考え事であるのか、物思いに耽っているようで、自分の存在など忘れてしまったような時がある。
「先生」
「今日のレッスンは終わりだ、しばらくは来なくていい、喉を休めるのも大切だ、少し無理をしているだろう」
そんな事はないですと言いたかった、だが、言い出したらお終い、それきりだという事を知っているのでクリスティーナは頷いた。
「今度のレッスンは新しい公演の事もありますし」
「こちらから連絡する」
まるで、自分を追い出すような言葉に聞こえるのは気のせいだろうか。
このとき、ある一つの答えのようなものが頭の中をかすめた。
もしかして、新しい生徒を見つけたのではないだろうかと、プリマドンナとなった自分ほどでないとしても将来性があるとなれば興味を持つ筈だ。
もし、そうなったら自分の事など見向きもしなくなるだろう、見捨てられるかもしれない、そうなったら舞台に立つ事ができるのだろうか。
「先生、私はこれからもプリマとして、舞台に立ちたいと思っています」
それは本心だ、コーラスガールだった頃、いつも群舞でカルロッタを羨ましく思っていた自分がいた、あんな気持ちは二度と味わいたくない、嫌だと思う、二度とだ。
「そうか、なら体調に気をつけてレッスンを」
「ラウルの、彼の事は」
仮面をつけていてもわかる、自分の言葉に師である男は驚いている、いや、それはクリスティーナ自身もだ。
「今日は、もう帰りなさい」
まるで拒絶のような言葉だ、何に、ラウルに、いや、自分に。
理由はわからない、だが、これだけはわかる、今の自分は邪魔なのだと。
『それは過去 人生に迷いを感じていた若い僧侶の事』
「なあ、神のお恵みとやらを俺たちにも少しお裾分けとてくれねえか」
男の言葉に若い修行僧は困惑した、いや、内心怯えてしまったといってもいい。
自分が一人で街を歩いていたからだ、いつもなら司祭と、いや、他の仲間達や兵役達と一緒に行動するのだが、今日は運が悪かった。
修行中の自分の身なりを見れば金を持っていないのは一目瞭然、施しなどできるわけがない、だが、それを分かっていて文句をつけているのはあきらかだ。
これは日頃からジプシー達は悪だといっている教会、寺院の人間に対する嫌がらせだ、逃げ出す事ができればいいのだが、足がいうことをきかない。
なんて弱いんだ、僧侶になど向いていなのではと思う事さえあった。
相手は三人だ、思わず神様と祈りたくなるが、助けなど来る筈がない。
そのとき、肩を軽くつつかれた気がして若い僧は思わず声をあげた。
振り返ると女が立っていた。
「物乞いなんか相手にしてると大変ですよ」
その言葉にジプシー達の顔色、目の色が変わった。
「おい、物乞いだと、俺たちはジプシーだ」
「ジプシー、初めて見るわ、でもやってる事は物乞いでしょう」
「貴様外国人か」
「イエス、あたしの国ではね、あんた達みたいな人間は恥知らずっていうのよ、いや、ジプシーだから恥って言う言葉も知らないかも」
「なんだと」
女は相手を見ると大きな声で叫んだ。
「大人の男が三人も寄ってたかって、たった一人を取り囲んで情けないことをするなと言ってるのよ、欲しければ恵んであげるわ」
そうていって女は地面にばらまいたのは数枚の銀貨だ、欲しければ地面に這いつくばって拾いなさいと言われて、男達は顔を見合わせた、そのとき。
「てめえら、何やってる」
怒声が響き、一人の男、それもかなり大柄ないかつい顔をした髭面の男が、人混みをかき分けて近寄ってきた。
「さっきから見てりゃなんだ、誇りはねえのか、てめえら」
「ありがとうございます」
若い僧は項垂れたように女に向かって頭を下げた。
「ああいうときは逃げるのが一番だけど、囲まれてたら無理よね」
「本当に感謝しています」
女は首を振った。
「正直、怖かったのよ、本当、あのジプシーのボスって人が出てこなかったら、二人して大変な目に遭ってたかもしれないわよ」
「私は足がすくんで逃げる事さえできなかった」
「これから先、人生でもっとあるわよ、逃げ出したいこと、聖職者なんて辞めたいと思う事も沢山あると思うわ」
それは予想もしない言葉だったのかもしれない。
別れ際、青年は何度か振り返った、女が自分に手を振っていた。
聖職者を辞めたいと思った事は今までに何度かあった、他の教会や寺院では見習いとして入った若者や女が修行に耐えきれなくて自分の家に逃げ帰ったという話を聞いた事もある、そんな話を聞くと無性に腹が立った。
だが、腹が立つと同時に、それを受け入れてくれる相手と環境があるという事に羨ましさ、妬ましさを感じる自分もいた、そういう人間は大抵、成金上がりの商家、もしくは裕福な家の人間だ。
そういえば、あの女は自分より年上に見えた、外国人なので、もしかして、先ほどのような辛い目に遭ったことがあるのかもしれない、服装も裕福な人間には見えなかった。
頬に当たる冷たいものに青年は空を見上げた、雨が降ってきたのだ。
窓の外にふと見やったフロローは、自分がうたた寝をしていた事に気づいた、もしかして夢を見ていたのかと思ったが、それがどんなものなのか思い出せない。
数日前に弟、ジュアンの葬儀が終わり、ようやく自分の家族が全員、居なくなったのだと思うと正直なところほっとした。
子供時代から要領だけはよくて、家族から可愛がられていた弟の事が本当は好きではなかった、だが、嫌いかと問われたら困ってしまう、ただ、苦手だと思っていた。
だが、そんな自分の気持ちを知らない弟は「兄さんも、兄さん」と慕ってくる、そして助けを求めてくる、金を貸してほしいと何度も。
拒絶できない、切り捨てる事もできない自分の弱さ、たった一人の家族、弟だからという断ち切れないのは情けなのか。
だが、弟にしてみても、ずっと世話になってばかりではいけないと思ったのだろう。
ある晩、真夜中近くに 訪ねてきたときに女を、そして酒を持ってきた。
世話になっているからと、親切心からだと思うが、それが司祭に発覚し破門同然に鳴ったときの事は今も忘れる事ができない。
連れてきた女はいかにも男慣れした、どこかの安酒場で知り合った娼婦なのは明らかかだ、派手な化粧、安っぽい香水。
禁欲を神に誓っておきながら溺れた夜のことは人生の汚点といってもいい、一晩が過ぎて、それを知った大司祭の自分を見る目、これは秘密裏に他言は無用となかったことにされた、驚いた事に責められなかった。
もしかして、自分と同じ過ちを、大司祭も若い頃にと思ったが、それを聞く事はしなかった、彼が死ぬまでだ。
だが、それは全て過去の事だ、今の自分は自由だ、面倒をかけてきた弟が亡くなったことは世間から見れば哀しい事かもしれない。
だが、これから先、会う事もなければ「金を貸してくれよ、兄さん」甘えるような、あの声を聞く事もないのだ、ずっと、いや、永遠に。
女の言葉の意味が分からず男は躊躇した。
雨が降り始めて、歩き出した女の背後から声をかけるのは正直、勇気が必要だった。
少し前に仮面をつけていたバイオリン奏者の男と何を話していたのか分からないが、幽霊という言葉に男は落胆の色を隠せなかったのは当然かもしれない。
「世間に顔向けできない人間だ、だが、それは全て私のせいなのか」
女は少し困った顔になった。
「誰に、何を言われたのか知らないが、気の毒だと思って手を差し伸べるのも、いや助けられるのも嫌なのか」
「ありがとう、気持ちだけ、ありがたく受け取っておくわ、それに今は少しだけど、お金もあるの」
「ああ、君の歌は素晴らしかった、練習すれば、もっとよくなるだろう」
女は頷いたが、それを喜んでいるようには見えなかった。
他人から褒められたら嬉しいのではないか、男は思った。
「私は、こう見えて音楽には多少の覚えがある、もし、君さえよければレッスンをつけさせてくれないか」
この言葉は予想外のものだったのか、女は無言になった。
「歌のレッスン、普通は教えて貰う方がお金を払うんのではないの、別に歌がうまくなりたいなんて思ったことないわ」
「だが、うまくなれば街中でももっと客が集まるかもしれないだろう、もしかしたらどこかの演出家の目にとまるかもしれない、そうなれば」
「パリは外国人に厳しいんでしょう、あなた、そう言ってなかった」
忘れていた、内心、しまったと思ったが遅い。
「歌手になりたいと思った事なんてないわ、それに今は大事なことがあるの」
「大事なことだって、それは」
女は呆れた顔で男を見た。
「自分が何者なのか思い出すことよ」
そう言われて、男は確かにそうだと頷き、ひどく落胆すると肩を落とした。
「あなたって、そうねよく考えたらお金は大事に使いたいし、食べものを買えばあまり残らないだろうし、ホテルや宿屋も節約したい、もしよければ今夜一晩、泊めてくださいますか」
まるで舞台の上の女優のように、突然、女は深々と頭を下げた。
男は、内心、ほっとしながら自分も頭を下げると手を伸ばした。
「喜んでマドモアゼル」