教会のクロード神父は禿げ、こちらはサラダボウル、トンスラです
夢を見ていたのかもしれない、目を覚ました時、だが、それがどんな夢だったのか、少しも覚えていないことに女は寂しい気持ちになった。
今日はレッスンの日で自分の教え子が訪ねてくると言われていたので男の家には行かないつもりだった。
パンと水で簡単な朝食をすませ、女は何をしようかと考えた。
住んでいる場所が地下というのは涼しくていいのだが、それ以上に退屈で一人だとつまらない、それに明かりがないと何をするにも不便で仕方がない。
少し散歩をしようと思い、女は部屋の外に出た、遠くまで行くつもりはなかったのは、まだ自分は不慣れで男の住んでいる部屋にも一人で行ったことがないからだ。
いや、行こうとしたのだが、一人で勝手に地下を歩き回るなと男から厳しく止められたのだ。
何かが動いた気配を感じて女は立ち止まった、音が聞こえたのだ、ここには自分以外の誰かが立ち入ることは殆どない、男の言葉を思い出して不安になった。
だが、いくらなんでも絶対ということはないだろう、女は思い切って声をかけた、誰と。
驚いたことに暗闇から現れたのは一匹の猫だった。
思わず嬉しくなったが、同時に、この猫はどこからきたのだろうと女は考えた。
あの仮面の男の家で猫を見たことはない、飼っているという話も聞かなかった、近づいてきた猫の体は綺麗な毛並みだ、誰かに飼われているのだろうか、いや、他にも地下に住んでいる人間がいるのだろうか。
「散歩に行きたいんだけど」
独り言のように猫に声をかけてみた、勿論、通じるなどとは思ってはいない。
だが、座り込んで毛繕いをしていた猫は立ち上がると歩き出したので、女は猫の後を慌てて追いかけた、先の事など考えもせずに、だ。
ゆっくりとした足取りなので、猫の姿を見失う事もなく追いかけることができた。
気になるのは登りが多いことだ、もしかして地上に出ることができるのではないか。
いいのだろうか、あの仮面の男は怒らないだろうか。
だが、この地下でずっと男の好意に甘えているわけにはいかない、それを考えると、少しでも自分で考えて動かなければいけないという思いもあった。
ところが、途中で猫の姿を見失ってしまった、ひどく落胆し、しばし立ち尽くしていたが、風と空気の匂いが違う事に気づいた。
注意しながら歩き出すとほんのすこしだが、周りが明るい事に気づいた。
外に出られる場所が、入り口が近くにあるのかもしれないと思うと足取りもほんの少しだが軽く感じられて、女の口元にわずかだが笑みが浮かんだ。
もう少しだと自分に言い聞かせて視線を上に向けると、そのとき、声が聞こえた。
はっきりと、それは猫の鳴き声だった。
昼はとっくに過ぎている、昨日、用意した朝食では物足りないだろう、買い物に行かなければと思いながら、いつものくせが出てしまった。
自分一人だけなら好き勝手にできた、正直、面倒だと思うこともあるが、女の世話をすることを自分は嫌ではないと思っているのだ。
食べものや寝床を用意し、先日は外へ連れ出した。
もしかして途中で逃げ出すのではないかと思ったが、女は自分から離れる事はなく、二人で街を歩き回った。
「ありがとう」
女から礼を言われるのは最初は戸惑った、今まで他人からか感謝されることなどなかったからだ、憎まれ、嫌悪や畏怖の表情で見られることはあってもだ。
女が歌う事に興味がないことは残念なことだった、だが、裏を返せば歌と繋がりがなくても、自分のそばにいるのだ。
クリスティーナとは違う、そのことが大きかった、なのに。
ノックをしても返事はなかった、部屋に入ると女の姿はない、レッスンが長引いたことで急いで来たのに、部屋の中でしばし立ち尽くした。
近くを散歩でもしているのかと思ったが、しばらく待っても戻ってくる気配はない。
誰かが、ここにやってきて女を連れ出した事は考えられない、ここは地下の中でも最下層に近い、幽霊の噂を知るパリの人間なら、地下に入り込んでも、ここまで足を踏み入れる事はない。
途中には罠も仕掛けてあるが、万が一の為に仕掛けは動かないようにしておいた。
自分のいないときに女が少しでも家の周りを歩き、過って罠に落ちるかもしれないと思ったからだ。
女は、ここから出たかったのだろうか、数日前の外出のときはあんなに喜んで、また行きたい、連れていってほしいと自分に。
男の思考が、このとき止まった、本が好きだと言っていたことを思い出したのだ。
もしかして、女は外へ出たついでに、あの店を探して街を歩き回っているのではないだろうか、あり得ない事ではない。
自分の家に戻ると男は急いで出かける支度を始めた。
外に出ると雨が降っていた、女は雨よけのコートも傘も持っていない、雨宿りをしているにしても、どこにいるのか。
親切な人間が声をかけてくれたらいいが、自分に接するように近づいてくる相手にも同じ態度を取れば、女の事を欺しやすい外国人だと思うかもしれない、いや、それよりも。
頭の中に思い浮かべた想像を男は慌てて打ち消した。
男でも女でも性別に関係ないのだ、パリの人間は。
「お入りください、ずぶ濡れではありませんか」
声をかけたフロローは自分を見る相手の驚きと少し不安そうな顔から、ほんの少し、いや、しばらく目を離すことができなかった。
外回りからの帰り、馬車から降りて寺院の中に入ろうとしたが、雨宿りをしようと扉近くに立っていた人物の姿を見つけて思わず声をかけたのだ。
一瞬、ジプシーかと思ったが、よく見ると服装も髪の色もパリの女のものではない、いや、あり得ないことづくめで驚いた。
扉を開け、中に招き入れたフロローは風邪をひいてはいけないとそばにいた若い修道僧に拭くものを持って来させた。
雨の中、たどりついた店の前で仮面の男はしばし立ち尽くしていた。
店は閉まっていた、いや、休みだったのだ、落胆した。
あの日、初めて女は外に出たのだ、もしかしたらパリには以前、来たことがあり、何か思い出すのではと思ったが、そんな素振りも様子もなかった、見るもの全てが珍しいといわんばかの様子だった。
頼る人間などいない筈だ、自分以外にはと考えたとき、思い出したのは教会のことだ、ここ数日の会話の中で美術館、教会に行ってみたいと話していたことを思い出したのだ。
美術館や劇場は金がなければ入れない、だが。
この近くの教会、寺院は、男は自分の予感が当たっていればと歩き出した。
パリには寺院や教会が幾つもあるが、その中でもノートルダムと呼ばれる寺院や教会は幾つもある。
ノートルダムとは「我らの貴婦人」という意味を持つからだ、その為、小さな教会などもこぞって、この名前を使うことが多い。
足早に歩きながら、男は周りの建物、寺や寺院を探した。
雨が帽子やマントを、も仮面を濡らしていく。
正直、あんな女の事など放っておこうかという気持ちになった、きっと自分から出ていったのだ、だが、足は何故か止まらない。
視線は周りの景色と建物を何一つ見逃さないと言いたげに注意深く、ふと男の足が止まった。
「ここは寺院、ノートルダムか」
もしかしてと思いながら男は階段を上がり建物の中に入って行った。
人影を見つけ近づいた男は、それが捜していた女だとわかるとほっとした。
だが、それとは別に寄り添うように女のそばに立っている黒服の男の姿に仮面の下の顔を強ばらせた。
「すみません、すみま・・・・・・」
近づくと女の繰り返す声が、まるで泣いているように聞こえて仮面の男は驚いた。
何故、謝っているのか、ワケが分からず、どうしてと疑問に感じたのは無理もない。
そして黒衣の神父は両手を女の体に触れることこそないが、まるで抱きしめるように。
その横顔は戸惑い、狼狽しているように見える。
思わず男は叫んだ、いや、声をかけた、正直、どんな呼びかけをすればいいのかわからなかった、だが、黙って見ている事はできなかった。
自分を見る女の顔に男は開きかけていた口と言葉を飲み込んだ。
ほんの少しの間、無言だったが、出てきた言葉は帰ろうという素っ気ない一言だった。
勝手に外に出て道がわからなくなったことを女がぽつり、ぽつりと話し始めるが、男は返事もしなかった。
寺院の外へ出ると雨はやんでいた。
だが、それでも風は冷たい、地下への入り口まで来たとき、初めて男は振り返ったが、どんな葉を書ければいいのかわからなかった。
「ごめんなさい、ムッシュウ」
頭を下げた女がどんな顔をしているのかわからない、いや、聞きたいのは謝罪の言葉ではなかった、だが、怒りたくても、それができない自分がいた。