色々と事情があります
「地下で」
教会の中に入ってきた女の姿を見つけるとクロードは臆することなく、今度は自分から声をかけた。
「遅くなってすみません」
とんでもないと彼は首を振った、数日前に交わした会話から、女が仕事を探していることを知って、それならば教会で働いてはどうかと声をかけたのだ。
親切心からだとクロードは思っていた、慣れなた場所で、しかも外国人の女性なら、まともな職などあるわけがない。
いや、仮に働く場所、雇ってくれるところがあったとしてもだ、まともな場所である可能性は低い、運が悪ければ売春宿、外国人だから珍しいだろうと錬金術の実験台にされることもないといえなくないのだ。
この巴里では。
女が自分の地下の家から外へ出たい、教会で働きたいと言い出したとき仮面の男は正直、驚いたし、最初は反対するつもりだった。
まともな場所などあるわけがない、欺されて酷い目に遭うのが目に見えていると反対するつもりだった。
正直、安心したのは女が勝手に話を進めず、自分に話しをして許可を求めてきたことだ、これは予想もしないことだ、女は自分のことを信用できると思っていることになる。
「教会で働きたい」
この申し出は驚きだった。
駄目だと言えば女は諦めるだろうか、教会には大勢の人間が出入りしている、他の人間と知り合う機会も増えてくる、町の事を色々と知って、そうなれば戻って来ないかもしれない。
光のない地下の暗い場所になど誰が好き好んで、自分でえ嫌になるときがあるのだから。
そんな事を考えてしまう自分自身を男は情けないと嫌悪した、理由はわかっている、答えはひとつしかない、目の前にいる女を手放したくないのだ。
クリステイーナが自分の元に戻ることはないとわかってから、孤独なのだと思っていた。
だが、神の気まぐれか、どこから来たのか、別の女が現れた。
自分の名前も記憶もない女は、クリスティーナとはあらゆる意味で変わっていた、同じ同性でありながら考え方、行動が違い過ぎるのだ。
外国人、育ってきた環境が、そうさせているのか。
自分の心情を気遣ってくれる、教会で働きたいというのも、こうして相談してくるのだ。
「もし、君が記憶を取り戻したときに何か事情があれば教会は、それに対して責任を取る必要がある、そうなれば」
言葉を選び、男はよく考えてほしいと真剣に訴えた。
「教会で」
クロードは女の言葉を聞きながら考えた、これは女の本心かと。
親切な言葉は嬉しいが、この申し出を受けるのはという女の言葉にクロードは何故と思った。
自分が教会で働いてはどうかと申し出たとき、女はとても素直に喜んでいたのだ、それなのに、どうしてと思わずにはいられない。
「教会に迷惑がかかったら」
「何故、そんなことを」
教会には行くなと誰かが女に言ったのだろうか、もしそうなら相手は男かもしれない。
「あなたのことをお世話している人がいると言いましたが、もしかして、その人が」
女の表情がわずかに強ばったものになった、その瞬間、クロードは合点がいった、その親切な人間は男、いや、女だろうが、どちらにしても快くは思っていないのだ。
「大事なのは、あなた自身の気持ちではないですか、もし、よろしければ私が直接、その方に会って話をしても」
女の顔が驚きと安堵に変わったが、次の瞬間、低い声が聞こえた。
そのときまでクロードは気配も足音も聞こえなかったことに驚いた、いや、女もだ。
このとき、帽子の下から、わずかに覗く白い仮面にクロードは違和感を覚えた、いつもなら聖職者として温和な態度と様子で接するのだが、何故か、この時だけは、それができなかった。
このとき、神父は自分の心が酷く、ざわつくのを感じた。
それは聖職者となって初めて感じる感じた、感情だった。
「怒っているのか」
教会の外へ出て歩き出すと仮面の男は始めて口を開いたが、女はいいえと低い声で違うと呟いた、教会で働くということを諦めようとしていた、何か問題があれば外国人ということで迷惑がかかるかもしれないと仮面の男から言われて神父には断るつもりだった。
ところが、男が後をついてきた事は驚きだった。
そして、何故か、教会で昼間の間だけ手伝いをする事になったことに正直、女は驚いた。
ずっと地下で過ごす事、これから先もずっと男の世話になることは正直、避けたかった。
教会の神父から言われた手伝いをして欲しいという言葉に喜んだか、それを素直に受け入れたことで何か問題が起きれば教会に迷惑がかかると仮面の男から言われて諦めたのだ。
なのに。
「本当にいいの、教会で働いても」
「聖職者の言葉だ、信用してもいいだろう、だが、昼間の間だけだ」
自分が口にした言葉に男は内心、呆れた、神の存在も信仰も信じた事などないくせに、聖職者を信じるなど、正直、男は怖くなった偽善者のような言動と振る舞いを買いまくっていますとする自分にだ。
女が、この先もずっと地下で暮らすことを考えるなら一日のわずかな数時間でも外に出て過ごすようにすれば気晴らしになるはずだ。
地下が、いや、ここが自分の家だという自覚があるなら寛容な気持ちで振る舞う事ができる<手放したくない、この女を。
クリスティーナが自分の元には戻らない事が現実の物となっていくことを感じている今、側にいる、この女がいなくなれば自分はまた、一人暮らしにもどってしまう、孤独に慣れた、一人の方が気楽だと思っていたが、層ではないことを今更のように感じるのだ。
「我らが貴婦人の隣」
司祭は熱心に祈っていた、それは日課で、修行で毎日欠かす事のできないものだった。
祈りをすませて大聖堂に入ると、ステンドグラスを見上げている人影が見えた、足が自然と向いてしまう。
影は一人ではなく、男女の二人連れだ、気配に気づいて振り返った姿を見て司祭は内心、胸の中で小さな声をあげそうになった。
数日前の事を思い出し、司祭は礼拝ですかと思わず声をかけた。
振り返った女が驚いた顔で司祭を見たが、それはすぐに別の表情に変わった。
その表情に司祭は、ほんの一瞬、戸惑った。
「どうした」
男の声に女は首を振っただけで無言だった。
「帰ろう」
女は首を振った、まるで言い訳するようにだ、このとき、女が顔を赤らめるので男は明らかに快くは思ってはいない様子で小さな溜息を漏らした。
「もう少しだけ」
低い声に男は無言になった、だが、それは司祭もだ。
昼間の数時間、ノートルダム教会で女が働くことになったのは予想もしないことだった、教会の手伝いをしたいという申し出を一度は諦めさせた、だが、断ろうとしたときに神父の口添えで男は承知した。
もし、希望を叶えなければ、承知しないと言ったら、女は自分のことを嫌な人間だと思うだろう、嫌いになるかもしれない、いや、それだけならいい。
何も言わずに出て行くかもしれない。
そうなったら、自分は一人だ、今度こそ、ずっと。
死ぬまで、一人だ。
「人殺し」
「た、助けて」
悲壮な顔つきで命乞いする女を見て、これっぽっちじゃ足りねえよと相手は笑った。
あたし、私娼なの、許可証を持ってない、だから稼ぎだって少ないのよと必死に女は言葉を続けた。
すると相手は頷いた、だろうなおまえみたいな女を相手にする男の稼ぎ
など、こんなものだと女が差し出した金を地面に投げつけた。
女は驚いた、この男は金が欲しかったのではないか。
「俺の楽しみは、なんだと思う、まあ、おまえみたいな女にはわからないだろうなあ、ははは」
殺されてしまう、女がそう思ったとき、声がした。
「おまえは人殺しか」
静かな男の声に女を殺そうとしていた男の顔から殺意が消えたが、それは、ほんの一瞬だった。
「邪魔をするのか」
「殺したい奴は今まで大勢いたが、おまえはどうだろう、意味もなく女を殺すのか」
「意味はある、娼婦という存在は毒だ、男を騙して、堕落させる、虫けら以下の存在だ、俺は制裁を加えているんだ、これは神の裁きだ」
「まるで聖職者のような言葉だ、だが言い訳にもならない」
「邪魔をするな」
男は懐に隠し持っていたものを取り出した。
「邪魔をするな」
夜の街に響いた乾いた鉄の音、だが、それは女の悲鳴に飲み込まれてしまった。
まさか、本当に当たるとは思わなかった。
撃たれたのは足だ、心臓ならどうなっていただろう、そんなことを考えながら痛む足を引きずって歩き出したが、だんだんと増してくる痛みにがまんできなくなってきた。
家に帰れば手当ができるが、距離がある、途中で倒れてしまたら、そのとき気配を感じて男は振り返った。
見られたらまずいことになる女を助けて怪我をした、その前に自分の身元を詮索される、そうなったら。
善行など、他人を助けて自分にどんな得があるのだ、そう思ったとき、自分の視界に映ったものを見て男は笑った。
だが、次の瞬間、気が緩んだのか、もしかして、男の銃弾が粗悪なものだったのか、体が震えた。
目を覚ますと自分がベッドに寝ていることに男は驚いた。
「ああ、お目覚めですか」
男の声がした。
「気分はどうです、撃たれたようですが、消毒もしましたからね」
「だ、誰だ」
「知らなくてもいいでしょう」
「俺を、ここに連れてきて」
「私じゃありませんよ、それに、あなたを見つけたのは彼です、だから連れてきたんでしょう」
妙な言い方だと思ったとき、ドアが開いた入ってきたのは人間ではない一匹の猫だ。
「彼が、見つけたんですよ」
(この猫が)
珍しい毛色だと思ったが、思い出した、暗闇の中、振り返ったとき見えた二つの小さな光を、宝石のような、あれは猫の目だったのか。
そのとき、ドアをノックする音が聞こえた。
「ああ、気がつかれましたよ、入ってらっしゃい」
だが、扉の開く気配はない。
「緊張しているんですよ、フランスの方に会うのは初めてで」
(初めて、どういうことだ)
だが、中に入ってきた相手を見て、男は納得した、というより驚いて言葉を失った、真っ白な髪なので思わず、年寄りかと思ったが、そうではない。
外国人の女だった。
「二人の司祭」
教会に立ち寄ったのはふとした気まぐれだった、特別な用があったわけではない、だが、フロローには意味があった。
時折ノートルダム教会を訪ねて会うのはクロード神父だ。
一人の若い僧侶が犯罪を、娼婦殺しという大罪を犯した、本来なら教会は閉鎖されるのだが、それを止めたのはフロローだ。
教会には大勢の若い修行僧がいる、監督不届きだと攻めるのは簡単だ。
聖職者を辞めると言い出したクロードを引き止めたのはフロローだ。
「元気そうだ」
それは本心だった、部屋に入り、自分と変わらない僧侶の顔から感じ取ったのは変化だ。
何かあったのだろうか、だが、それを聞く前にドアがノックされた。
「クロード神父様、信者の方が神父様にお会いしたいと」
部屋に入ってきたのは真っ白な髪をした女だ。
自分に、すっと向けられた視線にフロローの体は緊張でわずかに強ばった。
「あなたは」
(知っている、私を、どこかで会った気が)
この時、何故か、フロローの耳に聞こえてきた、鐘の音が。
聞こえる筈のない、ノートルダムの鐘の音が。