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あまえてほしい
刻は宵闇迫る夕暮れ。
鬱蒼と生い茂る木々の只中で、一歩前を歩いていた氷牙の剣は、脇に現れた大きな木の根元に差し掛かったところで足を止めた。
「今日はここらまでにしておくか」
担いでいた袋。食料等、旅に必要な物が詰め込まれている荷を下ろした彼女は、一日の疲れをほぐすように肩を回す。
体力には自信のある身ながら、ずっと左肩に加重が掛かり続けていたことで少々肩が凝っていたのだ。
そんな彼女を前に、後ろを歩いていた相棒の少年も立ち止まる。
「え、まだ明るいよ。もうちょっと先まで行けそうだけど、ここで休むの?」
「ああ、まだ日は出てるようだが場所も場所だからねえ。あと一時間もしない内には何も見えなくなっちまうよ。そうしたら後は獣の時間さ、夜目の利かない人間には不利なことこの上ないってもんだ」
此処はハルス島北部にある何処の国へも属さない自治都市アレクソニアへと繋がる街道沿いだが、この一帯は森林を貫く形となっており、開けた場所ではない。
日は出ていてもその姿は見えず、木々が日の光を遮っている為に実際の日没よりも早い段階で暗闇に包まれてしまうのだ。
星の儚げな光程度では足下も見えないだろう夜道となってしまってからでは適当に休める場所を探すだけでも苦労する。
丁度いい場所を見つけたのだ。無理をして先に進み下手を打つリスクは出来るだけ避けたかった。
「さっさと火を起こして夜に備えるに限るよ」
言うやいなや、手近に落ちている一抱えほどの石を集め始める彼女。
「あたしが竈作るからゼファ、あんたは薪になりそうな小枝を集めとくれ」
「がってんだ!」
そうして役割分担、と呼べるほどの事ではないが、各々自らのすべき事を割り振り、夜の森の中での安全を確保するべく準備をしていった。
*
真っ暗闇の中に煌々と浮かび上がる焚き火。
時折爆ぜる薪の音以外はお互いの声しか聞こえない森の中。二人は、作り上げた竈を向かい合わせで囲むのではなく、隣り合わせで腰を下ろしながら残り少ないパンを食べていた。
彼の女性と少年にとって、この隣り合わせというのは定位置といっていい。
氷牙の剣が座ればその隣にゼファが座るのだ。逆もまた然り。
誰がいうでもなく当たり前のようにそうする。向かいに人がいないため、眼前には殺風景な、ただ木々に閉じられただけの空間が広がっており寂しい限りだが、かといって寄り添い合えるこの定位置から動こうという意思など共に持ち合わせてなかった。
体の隅々までを触れ合う仲の良い恋人同士、態々離れて座る必要もない。
「まだ遠いのかなー」
囓り掛けのパンを片手に、氷牙の剣へと寄りかかりながら、ゼファは此処までの道程を振り返る。
「もう王都出て何日も経つのにアレクソニアのアも見えねー」
腕の下に感じる寄りかかってきた温もりに、下方を見遣りながら彼女は残りのパンを口に入れた。
「なんだいそのアレクソニアのアってのは」
「いや、なんとなくその先端が見えねーかなーと思ってね」
三週間と少しの間滞在した南カルタグラ王都を出立してより暫く。
氷牙の剣が取り敢えずの行き先としてアレクソニアを挙げ始まった二人の旅暮らしは、その第一歩の目的地まで未だ少し掛かる様子だった。
「島と言ったって亜大陸に近い広さだからねえ、歩いて数日で着くはずもないさ」
「大陸は分かるけど、その亜大陸ってのはなに?」
彼女の脇に押し付けていた頭を上に持ち上げて質問するゼファ。
彼も長い間一人で旅をしてきただけあり、街で親に見守られながら育つ同じ年頃の子供よりは若干成長しているのだろうが、子供故に知らないことはまだまだ多く、そこがまた子供たる所以だろう。
氷牙の剣は右腕の下から見上げてくる格好の緋色髪の少年の頭を、腕で抱くようにして抱え込みながらいいこいいこと言わんばかりに撫でてみた。
「あんた、子供扱いされるのが嫌いな割りにはこんなことやっても文句言わないね」
「頭撫でられるのって気持ちいいもん」
分からないでもない、彼女自身ゼファに頭を撫でられると気持ちが良いのだ。
「で、亜大陸ってなんなのさ」
「大陸に次ぐ大きな陸地を表す言葉だよ。その亜大陸に匹敵する広さをこのハルス島は持っていてね。カナーンからアレクソニアまでの距離も、ギートのヴィルフィングからタルチネアのトリアンタに近いくらいの距離があるんだよ」
「うわっ、国一つ跨いだくらい遠いんだ」
「そうだよ。だから王都を出立する前に食料買い込んで来た訳なんだけど、見通しが甘かったね」
ハルス島は手つかずの地域が多いだけあって街道沿いの盛り場も大陸に比べて少ない。
場所によっては食料調達自体が難しい。いま二人が居る深緑の森の中で商売をしようとする奇特な輩もいないだろう。
「ここを抜ければ海沿いに出る。そこらまで行けば店開いてる行商人だって居るかも知れないが、そこまで食料が保たないようなら現地調達ってことになるね」
野草や木の実を採ったり魚や動物なんかを狩るしかない。
「あっ、それは任せてくれよ。オレだって一端の男だってとこ見せてやるぜ!」
幸いにも狩りとなれば一人で長旅をしてきたゼファの得意分野だ。
なにぶん今までは仲間のいない一人旅。食糧が尽きることも一度や二度の経験ではなく、そうしたときにはブーメランやナイフを駆使して獲物を狩り糧としてきた。
「勇ましいこと言うねえ」
但し、それは彼だけの得意分野でもない。
「だけどね、その辺はあたしもそれなりの経験はあるんだ。あまり一人で気張らなくてもいいよ」
氷牙の剣とて元ニヴラス軍人。
糧食の尽きた場合に備えての狩り等、戦争中何度も経験がある。
剣士とシーフ。体を使うのが領分な二人の場合だと、どうしても大人なぶん氷牙の剣の方が優位となろう。
「ちぇっ、なんか決まらないなぁ」
「アハハハ、子供におんぶに抱っこされてる訳にゃ行かないんだよこっちは」
彼女としては恋人だろうと子供一人に任せっきりなのは大人の沽券に関わるのだ。
「ううー納得いかねー……。このままじゃ男として情けない気がする……、オレができる事で氷牙の剣ができないことってなんかねーのかなー」
頭を撫でられているゼファはまた彼女の脇に顔を押し付けてうーっと呻り声を上げた。そこだけを見れば思い通りにならないことに不満を表す駄々っ子その物だ。
だがそんなゼファにも彼にしかできないこと、無論あった。
「なにいってんだいあんた。あんたにもあるじゃないか、あんたにしかできないこと」
それを教えてあげようとする彼女は、撫でている少年の頭をくしゃくしゃと、少々手荒に掻き混ぜた。
「あたしを愛すること、あたしに甘えてくれること、これはゼファにしかできないんだよ」
愛してくれることはもちろんだが、特に甘えることについては純粋な子供が持つ特権のようなもの。
氷牙の剣が甘えようとしても大人故に羞恥が勝ってしまい、上手く甘えることができないのだ。
その点、ゼファはよく抱き着いてくれる。本人的には抱き締めようとしていたのだが、幼い彼の体躯ではどうやっても抱き着く感じになってしまい、女を抱き締める逞しく頼もしい男という感じには為らない。
その体格差も甘えられている感覚を強いものにしていた。
もちろん、肌を重ねたり、口づけを行ったり。愛し合うことで男としての自信が付いてきたからこそ好きな女=氷牙の剣への積極的な愛情表現を行えるという、ゼファの精神的な成長も大きかったが。
「えっと、ひ、氷牙の剣は……オレに甘えたいの?」
「そりゃあたしだって恋を知ったんだ、少しくらい考えもするさ」
女としての幸せに興味もなかった今までとは異なり、女としての幸せを覚えた今だからこそ思い至れる。
まるで自分も甘えてみたいとでも云うような彼女の口振り。実際にその含みを持たせた言い方に、ゼファからは意外な返しがあった。
「だ、だったらさ、氷牙の剣もその……甘えてよ」
少年の振り絞った言葉は、自らがしているように、彼女に甘えて貰いたいというもの。
「ハ、ハア? あ、あたしがあんたに甘えるたって……どうやって」
「あ、甘えたいんだろ?」
「だからってね、こちとらあんたみたく無邪気には──」
ふとした返しへの動揺に、少年の頭を抱え込んでいた彼女の腕の力が緩み、彼の頭が彼女の腕より離れる。
離れたゼファはそのまま正座するように座り直した。膝を、芝生の上で折り曲げて。
その様は女の子が座る体勢そのものだ。
とみにある事をする時など、女が積極的に行う座り方でもあった。
「ほ、ほら、氷牙の剣っ、……ここ」
「こ……、ここってあんた……」
パンを持つ手、空いている手、ゼファの両手が指し示す場所は無論、自らの膝である。
「……」
甘えることは自分にしかできないことじゃなくて、氷牙の剣にもできること。
甘えてみたいなら遠慮無くこの膝に頭を載せてみて。
「こういうのって普通は女のあたしからするものなんじゃないのかい?」
「い、いいだろ別にっ、ほら早くっ」
有無を云わさぬガキんちょの要請。
「し、仕方ないねえ」
どうしても甘えさせたい様子のゼファに、彼女は圧されて体を横にしていった。
「まったく、言い出したら訊かない子なんだからあんたは」
焚き火ではなく彼女自身の熱で火照った頭を、ゼファの小さな膝に載せて。
仰向けの体勢、後頭部が膝に乗り、氷牙の剣の視界は自分を見下ろす少年の顔を捉えている。
「エヘヘ。なんか甘えられるのっていいな」
「あのねェ、断っとくけどあたしは甘えてないよ……、あんたが強制してんじゃないのさ……」
その割りに紅潮した頬。頭に感じる小さな膝の温もりに、瞳は動揺を隠せずゼファの視線から逃れようとして、彼の体とは反対側の明後日の方へと向く。
しかしそれを邪魔するかのように彼の小さな手は彼女の頭を頭部から耳にかけてわしっとつかんだ後、頻りに子供をあやすかのように頭を撫でては、彼女の注意を自分へ向けさせようとするのだ。
「氷牙の剣」
呼び掛ける声に、どうしても注視せざる終えなくなった彼女の瞳が、自分を膝枕する少年へと誘導された。
「ね、気持ちいい? オレの膝枕」
期待に胸を膨らませて照れるようにはにかんだ少年の顔。
「あ、ああ……まあその、なんだね……、気持ち、いいよ」
そのつもりは無くても紅潮した頬と熱っぽく潤む瞳を泳がせる様は、いつも凛々しい氷牙の剣をさながら少女のように見せていた。
「か、かわいい」
小さな膝を枕に照れながら落ち着かない様子を見せる氷牙の剣が可愛くて、彼は思わず抱き竦めてキスしたくなる。
「うう~っ、氷牙の剣かわいいよっ、なんでそんなにかわいいんだよまたキスしたくなっちまったじゃねえか~っ」
「馬鹿っ、なにが、か……、かわいい、だよ……」
一方彼女もガキが大人をからかうなという言葉がどうしても出せなかった。
本心から可愛いと言ってる以上、無体に拒絶できないためだ。
「でもここは堪えてみせるぜっ、甘えてもらうんだからなっ」
「あ、あんたどうあってもあたしに甘えさせたいのかい」
「うんっ、つーわけで」
ときめく胸を押さえつつゼファは彼女の頭を撫でていた手を止めると。
「あ、あーんして」
子供へそうするように、手にしたパンの残り一口分を差し出してみた。
手ずから食べさせようというのだ。
泉の畔で、或いは浜辺などで、寄り添う恋人達がしているように。
「……」
膝枕をされているだけでも嬉しいやら恥ずかしいやらと、内心落ち着かない氷牙の剣は、どうするか戸惑っている。
「ほ、ほらあーんしてくれって」
口の前に持ってこられた一口分のパン。ゼファが食べていた物だ。
「~~~っ」
自分はもう食べたから要らないとこれを突き放すのか。せっかくの好意だからと受け取るべきなのか。
無論、好意といってもお腹を空かせているから食べてほしいといった意味など無く、あるのは自分に甘えさせようとする強固な意思だけだった。
キスすれば自分の愛欲に負けたことであり、甘えさせたいという意思が甘えたいという自分優先に切り替わってしまうからと、そのためにキスまで我慢して膝枕を続けてこんなことをしているのだ。
迷った末に、彼女は口を開いた。
「…………あ、あーん」
開かれた口、キスをするときには熱く絡ませ合う舌。
深いキスのときには頻りになぞる歯。
今は本来の役目を負うために開かれているそれら彼女の口に、ゼファの一口大のパンが差し入れられる。
「ん……もぐ、もぐ……」
口に入ったパンを咀嚼し、静かに食べる氷牙の剣は、まるで本当の子供に戻った錯覚を覚えつつ、口の中で小さくなっていくパンを飲み下した。
「……」
「美味しい?」
「あ、ああ」
「えへへ、なーんかお母さんになった感じ」
「あ、あんた男だろ。しかもガキんちょの癖してなにがお母さんだよっ」
「へへーんだ。今の感じは氷牙の剣が大きな女の子で、オレは小さいけど大人な立場だったもんねー」
「す、好きに言ってな」
膝枕をされている所為か、調子の狂う氷牙の剣。
頭を撫でる小さな手は、先程よりずっと顔をぺたぺた触ったり鬢に絡めて来たり、行ったり来たりと忙しい。
彼女はそっと目を閉じ、膝と手、二つの温もりだけを感じようと感覚を研ぎ澄ませる。
温かい膝、愛する少年の匂い。
「なんだかさ……、子供の頃に戻った気分だよ」
初めてなのに初めての気がしない膝枕。
「されたことあんの?」
「殆ど記憶にないけどね、小さい頃に母親か誰かがしてくれたことがあるような」
記憶の糸をたぐりよせても覚えはないというのに、感覚が覚えているのだろうか。
閉じた目を薄く開いて投げ出した手を腰にやる。指先に当たるのは剣の柄。
「この手の物を振るっていた記憶なら幾らでもあるんだけどね」
物心付いたときには剣だけだった。
ただ記憶の片隅に僅かばかり残っていた残滓は、誰かにされたようなことがあると語っている。ゼファではない誰かに。
それが母親なのかどうかは思い出せなかったが、別にそれならばそれでいい。
「へぇ、オレは拾われっ子だったから母親とかいねーし、拾ってくれた親父は優しかったけど膝枕してもらったような記憶はねーや」
「盗賊の頭だったね? あんたの親父さん」
「そうそう、だもんだから厳しいのなんのって。でも、好きだったなあ親父……優しくって厳しくって、盗賊なのに正義感あってさ、悪い奴からしか奪わない義賊ってそんな親父だったな……。もう一年以上前なんだな、親父が死んだの……」
少しばかり哀愁を漂わせるゼファ。亡くなった父と、この一年と少しの間の旅を思い出しているのだろう。
氷牙の剣はそんな彼の腹を頭で小突く。
「ゼファ、あんたにはあたしがいるだろ」
あんたは別に一人になったわけじゃない、今はあたしがいる。
ゼファと氷牙の剣は単なる旅の仲間じゃない。
旅暮らしという形ながら一緒に暮らしている家族。
いずれは結婚しようという本物の家族なのだ。
「う、うんっ……、オレには氷牙の剣がいるもんね、寂しくなんかないよ」
あのカナーンでの滞在中に深め合った愛は、何があろうと崩れることはない。
朱の差した笑顔で照れながら頭を撫で回してくるゼファに、心地良さを感じながらそういえばと彼女は思い出す。
「あたし、まだしてやったことなかったね……これ」
「これって?」
「いまあんたがやってることだよ」
自分がされている今の行為。甘い関係の男女が愛情を示すため自然と行う行為の一つ。
「膝枕?」
「他に何があるってんだい」
カナーンで過ごした三週間と少しの日々。
始まりの洞窟で以来となる秘め事を、宿の部屋に差し込んだ木漏れ日の中で、照らし出す月明かりの下で、昼夜を問わず交わし続けて確かめ育んできた愛情。
甘いを超え、切なく蕩けるほどの関係を確かな物とするさなかに有りながら、氷牙の剣は未だゼファに膝枕をしてあげたことはなかったと振り返る。
膝枕──特に思い付きもしなかったことだが、自分がされて心地良いことを彼女もしてあげたいと思ったのだ。
「し、してくれるの? ……膝枕」
探りを入れるように訊いてくるゼファの手が、彼女の鬢を静かに撫で、止まる。
「してほしいなら……、しないでも、ないよ」
聴くまでもなく分かるゼファの返事は、もちろん決まり切っているひと言だった。