口付けと求められること
キスをしてみたい。
身体の熱の高まりに意識を呼び覚まされていた女──氷牙の剣。
彼女は自分が闘い、油断していたとはいえ敗れた相手である子供の予期せぬ呟きに、戸惑いを覚えていた。
(あたしに、キスだって……?)
キスをしたい──そんな言葉を投げ掛けられたのは、この二十と少しの人生の中で初めてのことであった。
物心付いた頃より剣の道を歩んでいた彼女にとり色の話は縁がなく、また自身も求めてはいなかったが故に。
それが此処に来て予想外の求めを受けた。
当然、己の身を好きにされることを彼女は望んでなどおらず、身体の自由が利くならば逆に取り押さえていただろう。
不意さえ突かれなければ剣に腕があり、なによりも大人である自分が、こんな子供に負けたりすること等、考えられるか。
だが現実は負けた。
策に敗れた、自らの油断、子供だからと侮った。
言い訳など幾らでも出てくるが所詮それは負け惜しみ。
現在こうして手を後ろに縛られ、剣まで取り上げられているのだから。その件の子供の手で。
はだけさせられた胸元。
少しの間、揉まれてしまった乳房。優しく。静かに。労るような力加減で。
職業柄、前線で戦った経験もある彼女はそれこそ荒くれ者の一部兵士による女への陵辱を目にしたことはあったが、似たような今の立場にあってまさかこんな優しい触れ方をされるとは思わなかった。
子供だからこその純粋さが女を乱暴に扱う発想の発現を止めていたものとも思いつつ。
一方で正義の味方ごっこを戦場でやるくらいの正義感を持ったこの少年には、最初から下卑た考えなど無かったのだと気付かされるまで、さほどの時間を要しなかった。
(あたしの生死まで念入りに確かめるような甘いガキんちょだ……当然と言えば当然か)
不覚にも胸を揉まれて感じた心地好さに少し浸ってしまった彼女は、直後に乳房の谷間へと顔を当てられたことを思い返す。
生きててくれた──。
数時間前には自分の事を殺そうとしてきた敵の生存を心から喜ぶような声音を発していた少年。
(あたしが生きていること、そんなに嬉しいのか……、敵だってのに、なにを考えてそんなことを思う……?)
あれで毒気を抜かれてしまったと云えなくもない。
何処の誰が敵を心配するというのか。戦場でもしそんな輩が居れば断言できる。闘いに次ぐ闘いで精神が壊れたと。
翻ってこの少年はどうか? 前後の接し方、労りを感じる乳房への愛撫。
乳首をこりこりと触りながらも強く抓るような仕草はなく。触った後を指の平で撫でるような、まるで痛くなかったかと慰めるように愛撫をしてきた。
(子供故に、そんなところか)
純粋なのだ。極めて純粋で悪意無く、子供そのままの考えで彼はそうしている。
初めて相対した手合いに彼女は戸惑わせられるばかりだ。
大切な剣を奪われ、服をはだけられ、胸を触られ今キスをされようとするこの段階にあっても。
こうも毒気を抜かれては敵意を沸き立たせることさえできない。
やもすれば、この子供は自分にとって闘ってはいけない相手だったのかも知れず。
そうして困惑のまま今を向かえている。
少しずつ近付く気配に気絶した振りを続けるしかできずに居たその僅かな空白。
考えに考えた思考の時の帷は、不意に感じた頬に添えられた小さな手の温もりと。
水気に湿る生温かい感触を──
ん──
自身の唇に受けたところで破られた。
*
キス。
口付け。
経験のない彼に取って、本来ならば口付けとはより大きな一歩であっただろう。
何故ならば、子供にとっての異性との特別は何よりも先にまず口付けだからだ。
大凡の男児の頭には口付けとは特別な関係を築く好きな女の子とするものといった純なる想いがある。
それもかなり勇気を振り絞って行うような、それなりの覚悟を必要とするもの。
如何に恋をしたことのないゼファとは云え常時であったなら、同じ年頃の相手であったなら、その行動は完全に止まっていたことだろう。
しかし、この特殊な状況と大人の女性という、子供のカテゴリーからすれば別世界の異性であったことがその一歩を踏み出す切っ掛けを作った。
性への目覚めがいまこの時、相手は気を失っており大人。
敵として戦った上に既に胸を触っていたことで踏み込めやすい心の働きや衝動が構築されてしまい、好奇心のまま突き進める場が整っていた。
無意識に。
引き寄せられるように。
岩肌に上半身をもたれさせ動かずにいる氷牙の剣へと近づき。
両手を差し出して彼女の頬を掴んでいた。
微かに揺れた頭。
頬を掴む両手の甲を彼女の鬢の髪が触れ、頭の揺れに合わせて波打つ。
手の甲に触れる髪の滑らかさを感じながら、ゼファは静かに顔を寄せていくと。
正面に見据えた女の唇を。
「ん──」
塞いだ。
「ん……ちゅ──」
塞いだまま制止するのではなく、唇を動かし吸い込むようにしながら啄む。
一年と少しになる旅の途上。男女の馴れ初めと、大人の口付けを目にしたことがあるからこそ可能な咄嗟の行為。
(唇って、こんなに……やわらかいんだ)
胸に続いて発見した、女の体の秘密。
唇は柔らかい。
乳房とは違った別種の柔らかさだ。
そしてとても。
(甘い……)
甘い。
いや、甘さとそして──
(すっぱい……)
形の良い湿った唇は甘さのみを塗られていたのではなく、同時に酸っぱさをも内包していた。
甘味を濃厚に熟成させたことで引き出されるのか。
とても美味な甘酸っぱさを味わえている。
「んっ……、んっ……」
重ねたまま唇だけを咀嚼するように動かし、その甘酸っぱさと共に、彼女の唇を啄み続けたゼファはしかしそれよりも先へは踏み込まない。
「ちゅ──くちゅ──」
哀しいかな。大人の口付けと云ってもゼファが識るのはここまで。
更なる深みと濃密なる味を、男と女の双方にもたらすこの先はまだ識らなかったのだ。
ゼファが見た口付けとは、そこへと至る前段階。
顔の重なる位置関係から其処まで見えてなかった……というのが、彼の見た大人の口付けの真相だった。
*
(キス……あたしは、キスをされてるのか……)
ぴたり重なる小さな唇の形を思わせる湿り気。
滑りを伴うぶよぶよとした独特の弾力が、空気の逃げる隙間さえも見出せないほど己が唇に密着していた。
(これが、これが口付け……、男と女の……、接吻……)
初めての口付け。生まれて初めてとなる、男からの口付け。
生涯経験することなく終わっていたかも知れない、味わい。
剣に生きていれば、否剣に生きている自分が、女としての求めを受けたが為に実現した行為。
感慨深いものだ。縁のない行為をこの身で味わうことになるというのは。
もし仮に迫られても一蹴していただろう。
この様に抵抗できない立場に置かれていなければ、誰の求めにも応じなかったに違いない。
興味がないのだから。
しかしなんとこの身を高揚させ行くものなのか口付けは。
唇の角度が変わり、吸いながら啄まれて感じた温もりと、甘い味。
(ん……甘い、ね……それに、酸っぱい……)
少年が感じているのも同じ味だと思うと、未知のこの味に夢中になるのも何となくわからされた。
美味しい。どんな蜜よりも、高級酒よりも、断然この口付けに見出される味わいの方が上。
啄まれる唇も、表面での擦れ合いに留まっているというのに、快感となってこの身を駆け抜けていくのだ。
(気持ちいい……口付けが、こんなにも体を疼かせるなんて……)
正と負の感情。また同様の感覚があるのなら断言できた。これは紛う事なき正一辺倒に傾くだけの力がある。
誰にされてもこうなるとはとても思えない物の、少なくともこの子供にキスをされている今は、悦びの感情が支配していた。
接触する唇にはそれぞれの唾液が付着しているわけだが、口付けの時間が長ければ長いほど。
啄まれれば啄まれるほどに相手の唾液が自分の唇を濡らすというこの感じを忌避する者も多い。
貴族や豪商の手込めにされ、無理矢理のキスを味わわされればそれも致し方ないだろう。
しかし言うなれば自分も同じ状況。だが欠片ほども忌避感を感じないのは、この少年だからこそなのかも知れない。
初めて。無理矢理。構図は同じであっても、なにか違う要素がそこにはあるのだ。
「ん……ん……」
鼻の頭が擦れ、口が塞がりできない呼吸を代わりに行う息遣いが妙に生温かい。
これが自身の物と少年の物が混ざり合ったこの距離無き顔の間にのみ対流する空気だと気付く。
それほど顔が近いのだ。少し、少年に悟られないようにほんの僅かに薄目を開けると。
(近い……目と鼻の先、ってやつだろうねこれが)
間近にあるゼファの顔。緋色の短髪。あどけなさの色濃い子供らしい容姿。
そんな子供に胸を揉みし抱かれて。こうして今も唇を貪られている。
唇の表面のざらざら一つ一つの触れ合いが、この甘美なる痺れを引き起こしているのか。
こすりつけられる粘膜の接触が作り出す感覚は、彼女の隅々まで広がっていった。
(こうも必死なのは、あたしを求めてのことかい?)
ニヴラスの氷魔将軍ミンデルの側近にして氷牙の盾最強の自分を、ただのガキんちょが求める。
敗者が勝者に従うのは戦場の習わしだが、不意打ちに敗れて従うつもりはない。
だが、こんなにも純粋に求めてくる少年を払い退けられるだろうか?
剣の腕を求められる事は両手で余るほど。しかし女として求められたのは……そう、初めてだ。
(ゼファ、か)
男に興味は無い。されどここまで求められては揺らぐ。
(動けない女に対する興味本位──というわけでもなさそうだ)
子供の好奇心に付き合う気はさらさら無い。ただ、好奇心だけでここまではしないだろう。
自分が生きている事を確認して喜んでもいた。
場が場、立ち位置が立ち位置。今日のこの経緯と関係であれほどまで喜ぶのは、余程自分という……、氷牙の剣という女の生存が嬉しかったのだ。
人恋しさと、異性への興味と、生まれついての優しさと。複雑に絡み合う事情こそ有ったが、ゼファは彼女が生きている事を心の底から喜んだ。
強い思い、本当の思いというのは言葉にされると相手に伝わりやすい。
(あたしを求める男──)
氷牙の剣も女だ。たとえ相手が子供であっても自分が生きている事を心から喜び、自分だけを求めてくる男を前に感じ入らないはずもなく。
(こんなガキんちょが……このあたしを、ね……)
今までの経緯を敢えて無視し、直接問い質してやろうと考えた。
このまま気絶した振りを貫いてゼファのしたいようにさせてみるのも一興だと考えもしたが、それでは自分の自由が確保できないと。
未だ後ろ手に縛られた腕はそのまま。
「くちゅ……、んんっ……」
自分を求めて擦れる唇。小さな子供が必死に求めてくる。
腕が自由ならば、自分からも体に触れることができるだろう。
彼女はこの生まれて初めてとなる口付けを心より受け入れることにした。
そんなにもあたしを求めるならば、求めに応じてもいいという思いで。
氷牙の剣がすっ──と、薄目だった目を見開いたのは、間もなくのことである。