大人と子供
甘酸っぱい大人の口付けに心奪われていたゼファは某かの気配を感じて閉じていた目を開ける。
瞬間、飛び込む深い蒼。
それは瞳の色。
自分へと向けられた双の眼の。
彼女、氷牙の剣の閉じられていた双眸が開かれていた。
「ん゛ん゛──―っ!!?」
くぐもった声が相手方の唇との境界線上にて溢れる。
無論、彼自身の声であった。
一方ではもう一人。
叫んだ拍子に放たれたゼファの大量の息が重なる唇を通じて氷牙の剣の口から気道へと流入し、女性特有の高めな声音を重なり合わさる唇から溢れ出させていた。
「ンっ……!」
肺や胃を瞬間だけ膨張させられたのだろう。だがそんな彼女は苦しそうに表情を歪めながらも瞳はゼファへと固定させたまま視線を外さず見据えている。
批難の色も侮蔑も浮かばないその双眸。綺麗な瞳の色、海の底よりも尚深い蒼。夕闇迫る空の色とも云える蒼。
その瞳に見つめられ気の動転したゼファが取ったのは当然と言うべきか、合わせていた唇を離すという選択だった。
「──っぷは!!」
少し取られた彼女との空間に大きな息が拡散された。
それでも未だ間近と呼べる距離。
自然その息さえも彼女の顔に吹きかけられるようにして彼女の鬢を僅かに揺らしている。
「おまえっ──気がついてたのかよ!?」
親しくもない敵対者の女へ浴びせてしまう驚きの声。
無理もない。気を失っていると考えていたからこそ情動は少年の幼く未熟な精神を絡め取り彼を突き動かすことができていたというのに。
肝心の相手側が目を覚ましていたとなれば前提は崩され如何な未熟な心でも極簡単に正気へと立ち返る物だ。
女性の意思を無視した口付けや身体への接触がいけないことだとは幼いゼファであっても子供心にわかる。
それも行為その物を相手に知られてしまったというバツの悪い思いが心に渦巻くゼファは戦々恐々としながら眼前の女性を見た。
「ふんっ……、こんな好き勝手に体を触られてれば目だって覚めちまうよ」
自分がされていた行為に対する非難は無く、ただ此方を見つめてくるその瞳には若干の呆れが感じ取れる。
手は後ろ手に縛っている。剣は隠している。襲いかかられる危険は無きに等しくも警戒してしまうのは自分の行為が原因だろう。
女がされて嫌がる行為をしていたら女性である彼女は怒り心頭のはず。
(うう……、ど、どうしよ……)
情動に突き動かされふわふわした感じで誘い込まれるように彼女の唇を奪っていたとはいっても胸を揉んだのは確かに彼自身の意思の下でだった。
それをいえば口付けも同様ながら、まだしも頭がぼーっとしていたという自己弁護も可能。
しかし同時にそんな弁護は何の意味も成さない。例えどの様な言い訳を口にしようと彼女の唇を奪い体を触ったのは彼女が気を失っていたからこその卑怯な行為でしかないのだから。
そんなゼファの動揺を知ってか知らずか、先に動いたのは氷牙の剣だった。
「こっちへ来な」
あっちへ行けでも殺してやるでもない。落ち着いた静かな口調で自分の傍へ来いと言う。
どうするべきか? 言われた通り傍へ行けばいいのか?
それとも近付いた途端に何かしてくるのかと勘ぐるゼファに、しかし彼女はもう一度来いとだけ言った。
「……う、うん」
悩む余裕すらないゼファは彼女の言うとおり傍まで近寄る。
「なにぼーっと突っ立ってんだい。座りな」
有無を言わさぬ彼女に一応は安全が確保されていることもあって黙って従う。不安と、その中に正反対の熱を抱きながら。
「ゼファ──だったね。おまえ」
「あ、ああそうだよ! つむじ風のゼファ様だい!」
「あたしはニヴラス帝国ミンデル将軍隷下、氷牙の盾筆頭──氷牙の剣だ」
「知ってらぁそんなこと! さっき聞いてんだしさっきの今で忘れるほど物覚え悪かねーよ!」
「ああ、そう言えば名乗っていたねあたしは。すっかり忘れてたよ」
期せずして始まったよくわからない自己紹介。
ゼファが威勢を張ったのは心に渦巻く不安と、悪い事をしてしまったという後ろめたさの裏返し。
自分なりに気が付いていても虚勢を張るのは癖なので中々直らない。
後先考えずに行動してしまう無鉄砲なところと似たり寄ったりの悪癖だと彼は内心反省していた。
「で、どうだった?」
そんな自分への罰か? いま最も訊かれたくないことを訊かれてしまった。
「っ──?!」
びくっ、大きく振るえる己の体。どうだったというその問いが意味する事など一つしかないからだ。
誤魔化しは効かない。時間を跨いでならば惚けることも出来たろう。だが五分も経たずにそれはない。
「や……、柔らか……かった」
消え入りそうなごにょごにょとした声でも正直に伝えたのはやはり意識的に謝罪の念を持っている故。
自由の利かない彼女に対して圧倒的優位なゼファはいま我を押し通せる立場に在る。黙秘権ではないが質問に答えず話そのものを流すこともできたろう。
だがそれをしてしまうのは大きな誤りでしかなく、そして真っ直ぐに正直に生きてきた自分自身が許せないこと。
だから問われるままに彼女の求める返事として彼は柔らかいと伝えた。
「たぶん、今まで感じたどんな物よりも……柔らかい……」
そう感じる物は沢山ある。魚の身、木の実、ふかふかのベッド。
自分の手で触れたり感じてきた“柔らかい”はそれこそ幾らでもあり思い出せないほどに切り無く出てくる。
しかしそんな多くの触れてきた物の中でも恐らく一生忘れられない柔らかさだった。
「どっちがだい?」
どちら。
続く問いに蘇るのは被せた手の平、指に少し力を加えるだけで沈み込んでしまう肉感。
そして──柔らかさと湿り気、温もりを湛えていた甘いその唇。
「ど……、どっちも……」
どちらか片方を論って柔らかいとすることなど出来なかった。
「どっちも、その……。柔らかい……」
元より嘘が苦手なゼファだが知ったばかりの二つの質感が殊更に嘘を吐かせない。
彼女に対して嘘を吐きたくないし、自分の感じた未知の感触にも嘘を吐きたくない。
乳房も唇も、共に柔らかかったのだ。同じくらいにその良さを感じられたのだから。
「ふぅん……そうかい、どっちもかい」
答えを聞いた氷牙の剣は相変わらず穏やかな口調だ。穏やかに、それでいて回答を避けることを許さない雰囲気を醸し出している。
続く質問、いや詰問も前に同じく。しかし前以上にきちんと答えろというように感じるものだった。
「おまえ──あたしが生きていたこと、嬉しかったのかい?」
直球に投げ掛けられた質問は敵に対して問い掛けるものなどでは決してない。
「えっ?! あ、ああ……えっと、それってどういう……?」
「意味がわからないだろうね。あたしだってわからないよなんでこんなことをお前に訊いてるのかなんて……。でも聴いちまったからね」
「──っ?!」
数時間前に殺そうとした相手にこんなこと問い掛けるなんてどうかしている。
ゼファも同じ思いを抱いていたが、此処に彼女が聴いたという物を当て嵌めればこの質問にも明確な意味が生まれてくるのだ。
「おまえの独り言を聴いてさえなければあたしも訊ねちゃいないよこんな頭の悪いこと。ただ、さ……なんでって、ね……。まぁね、気になるじゃないか。自分を殺そうとする相手がさ、生きてることを喜ぶなんて……。おまえ、さっき本気であたしが生きてること喜んでたろう? その真意はどこにあるのかってね、思ったんだよ」
つまり記憶が間違っていなければ自身が口にした言葉を彼女も聴いていたということになる。
既にその時点で意識を取り戻していたということで。
そしてその記憶が間違いでないことも明らか。
彼女の問いかけの言葉は彼女の乳房に触れた後のものだからだ。
触れた後に確かに呟いた自分自身の言葉だからだ。
「もう一度訊くよ。あたしが生きていることがそんなに嬉しかったのかい?」
さあそれではどう返答する──等、なるはずもなかった。
自分が口にし彼女も知っている、ならばもう素直に答えるのみ。
そうするより他になにがあるというのか。
ありのままを、ただありのままに伝えればいい。
「嬉しかった……よ、生きていて……」
思った事のそのままを口にしながら無意識に伸ばした手。
向かい合う氷牙の剣の左頬に近付けられたゼファの小さな手が彼女の鬢を掴み、持ち上げていた。
「うん、嬉しかった」
しっとりとした滑らかさを保つ長い鬢の髪。火に照らされたそれは濃紺の蒼みを帯びる黒。
右も左も先端部で纏められている鬢は触れてもばらけることはなく、ゼファの手の平が彼女の頬の横の辺りでその髪の束を包み込むと、胸の下まで伸びる髪束はしなやかに揺れた。
彼は慈しみを込めるような静けさで頬の横より、胸へと……包み持ったまま撫で下ろしていく。
「……」
彼女はなにも言わない。静かに始まった髪への愛撫をただ見つめたまま、繰り返されるゼファの言葉に耳を傾けている。
「嬉しかったんだ」
偽りの言葉は要らない。自分が言ったのだ“生きていて良かった”と。
敵にかける言葉ではない言葉を先にかけたのは他ならぬ自分。
彼女の今の問いかけは自分から始まったその延長線に過ぎない。
なら、そのときの心の内は“嬉しい”以外の何物でもない筈なのだ。
「オレ、すっごく……嬉しかった。鼓動を聴いて、息してるってわかって……、よかった、嬉しいってさ」
事実、嬉しかったから嘘じゃない。
「理由とかはわかんないんだ。オレ、あんまし深く考えてないし。でも氷牙の剣が死んでたら嫌だなって思ったのは本当だよ。敵とかそんなんじゃなくて……、うーん、オレもなにいってんだかわかんねーや」
*
考えが上手くまとまらないのは其処に打算がないから。
敵が生きていて嬉しいというのは損失の肯定である。
それも自分の命が掛かった最大級の損失。
それを、自分が殺される可能性を自分で喜ぶなど狂気の沙汰だ。
しかしそこにある要素を加えれば自ずと見えてくる物もあろう。
似たようなことは質問者たる氷牙の剣にも云えること。
自分を求めるゼファ。愚直なまでに彼女だけを求めて口付けを行う少年のその姿を目にしただけで、すとんと心になにかが落ちてきた。
心に落ちたなにか。落ちて、沸いて、宿って。灯り嵌め込まれたなにかの強い力。
その働きが導き出した少年を受け入れてやろうとする考え。
なにもない事こそがこの場合には無いと云える。
なにもなくて一度は殺そうとしていた少年の口付けを黙って受け入れるだろうか?
普通に考えてそんなことがあるだろうか?
────無い。
確信を持って言えることだがあり得ない。
だがその時に心に嵌ったなにか……ゼファと同じその要素を継ぎ足せば有り得るへと変化する。
つまり、二人は共に打算的な考えを持ち合わせず、たった一つの切っ掛けから生まれた流れに身を任せたからこそこうして向き合っているのだ。
切っ掛けとはつまり刹那に発生する病の菌みたいなもの。
ゼファは一人で旅をしてきたことで僅かにあった寂しさと、そんな中にあって偶然にもこの状況下において彼女に触れたこと。
氷牙の剣は殺されそうになった相手の生を喜び、そんな相手を必死に求めてきた少年に触れたこと。
その時に心の中へと侵入してきたのが切っ掛けの正体でありまたなにかの正体でもある。
恐ろしいところはこの種の切っ掛けは無限に存在することだろうか。
体に触れたくらいならまだましな方で視た瞬間というものさえ稀に起きうるのだ。
但し、切っ掛けは精々切っ掛けまで。その切っ掛けが本物に昇華していくのかどうかはその後の関わり方如何で幾らでも変わってくる。
そして二人の場合は、それは示し合わせたかのように両方へと向っていた。
「と、とにかくっ生きてて嬉しいと思ったんだ!」
時、場所、経緯、心と体の状態。すべては自分達次第ながら偶然にも無意識に流れを作っている。
「ああそうだよおかしいよ絶対にっ! オレのこと殺そうとしてきた奴が生きてて嬉しいとか言うなんてどうかしてるってオレだって思うよ! でもおかしくてもオレは氷牙の剣が生きてること嬉しいって感じちまったんだからどうしようもないだろっ、敵だからって女の人を死なせたくなんかないし生きてるんだから別にオレからどう思われてよーがいいじゃんか!」
ゼファも、氷牙の剣もまるで互いに。
「そうかい、そんなに……嬉しいのかい」
この流れの先が何処へ繋がっているのかを理解しているかのように。
「いや──確かにおまえがあたしのことをどう思ってるかなんて、おまえの言うとおり気にすることじゃないんだろう。だけどそんなにもはっきり言ってくれるとね──……」
左耳の横から胸へ垂れ下がる鬢を撫で続け己の心の内の思ったままを口にしたゼファの手。
再び頬まで戻された少年の小さな手の平に髪束は依然掴まれ包み込まれたまま。
「あたしも、嬉しくなってくるじゃないか」
その自身の髪を握り込んだ小さな手が形作る拳に、氷牙の剣は自然に頬を押し付け、すりあげていた。
「だから改めて訊きたくなったのさ。この無鉄砲でお馬鹿なガキんちょは、一体なに考えてるんだろうってね」
「氷牙の剣……」
拳に擦り付けられる彼女の頬の熱を受けて少年の愛撫が止まる。
包み込まれていた鬢の髪束は拳に掛かる柔らかな力の伝わりに、胸へと垂れ下がるまでの間で波打ち彼女の乳房を叩く。
さながら猫の尻尾のように揺れる左の鬢。
ぐっと強く頬を擦り込んだときに傾いた頭の重心が、右の鬢をも大きく揺らし少年の手が掴み持つ左の鬢と胸の前で接触した。
左右二本の鬢の戯れは、まるで今の自分達の様子を表しているかのようだ。
敵対者でありながら今もこうして静かに語らい心を許し合っているかのように触れ合うなど、つい先刻までの自分達を思えば理解できないことだった。
だが共に思うことは、先までよりも今の方がずっといいということだ。
*
「あたしは素直に嬉しいんだよゼファ。おまえはあたしが死ねば悲しみ、こうして生きていることを喜んでくれるって、そう言うんだろ?」
「う、うん……。オレ……、オレは、……氷牙の剣が死ぬなんて絶対にヤダ」
ゼファは心からそう訴えている。
「敵とかじゃないんだ、さっき会ったばっかりなのにってのでもないんだ、なんかさ上手く言えないんだけど嫌だったら嫌なんだよ」
真剣に、必死に、氷牙の剣が死ぬなんて嫌だと自らの思う本心をぶつけてきている。
「ふ、変な奴だね本当に」
無意識下で生まれた流れの中、氷牙の剣は考える。何度も考える。
きっとこれはこの少年の本質なのだろう。
誰かが傷付いたり死んだりするのが嫌だという優しさ。
殺し殺されるいくさばに立ち続ければ変わるだろう其れはしかし本質的には変わらない。
人の死を極力回避したい。それが女という男にとっては守るべき対象と成り得る相手ならば特に。
たとえ敵であったとしても非情には成りきれない優しい心の本質だ。
よもやその対象に自分自身がされてしまうとは予期せぬ事態であった。
(甘いガキだ、優しさなんてのは斬った張ったのいくさばに立つ上で不必要としか言えないよ)
殺らなければ殺られる、それがいくさばだ。
だが曲がりなりにもそんな場に踏み込んできて自分を斬ろうとした相手へ優しさを向けるなど。
優位に立っても尚離れず放置もせず、こうして傍に寄り添い真摯に求めてきては生きている事をこそ喜ぶ。
(初めて会ったよそんな奴に)
子供故の未熟さ?
動けない女を前にした男の余裕、或いは女への興味から?
(違うね……、たとえその種の未熟さや女に抱く劣情があったとしても、殺そうとしてきたあたしの無事を確認して嬉しいなんて態々口にしたり思ったりするもんかい……、それも心から……)
そして何度考えてもたった一つの思う場所へと辿り着くのだ。
「そうか、あたしが死んだら嫌だ──か」
心からの生存を願われて嬉しくない人間などいないというところへと。
「初めてだよ、心からそう言ってもらえたのは」
変な少年の場違いな言葉に、氷牙の剣の心は喜びの感情一色に埋め尽くされていく。
(ひょっとしたらあたしの死に涙を流してくれるのかも知れないね。いや、このガキんちょなら……きっと……)
誰かに心配されるとはこれほどまでに嬉しいことなのだろうか?
上辺の言葉なら今までも聴いてきた。
大丈夫か? 無事か? 心の籠もっていないそれらの言葉ほど虚しい物はなく、どんなに取り繕おうとも必ず伝わり来る無関心さには唯々気分を害するだけで益を生むことなく右から左へ抜けていく。
直属の上司として仕える相手ミンデル将軍とてもし己の身に何事かが起ろうとも涙一つ流してはくれないだろう。
(冷徹なお人だからねあの方は──……)
氷の将軍とはよく言った物だ。心まで氷のように冷たい上司はこなせて当然の労に報いる事はまったくの無駄であると言わんばかりに部下に対して任務失敗の叱責こそあれ成功について労うことは本当に稀だった。
それでも剣士としての実力を認めて側近として取り立ててくれた大恩ある上官には違いなく絶対の忠誠を誓っている。そんな自分はどの様な状況であれ自らの全力を以て氷牙の盾としての使命を果たすのだろう。
将軍は無視していたが、たかが子供のした事といってゼファを見逃したりせずこうして追い掛けてきたように。
(でもあたしだって望んじゃいるんだよ。どうせならあたしの為に泣いてくれるような奴の傍に居たいってね)
そんな相手に巡り会えたのは幸か不幸か?
この少年、このゼファという少年ならば間違いなく自分の為に泣いてくれる気がした。
(自分の事を殺そうとしたあたしを求めてさ、あたしの身を心配してくれて……、大馬鹿だよまったく)
そんな相手が敵対者ということが皮肉すぎて笑えない。
将軍の副官エキルなどもそうだが味方は揃いも揃って酷薄な人間ばかりだというのに、よりにもよって自分の殺そうとした相手が己の為に泣いてくれそうな人間なのだから。
(あたしも人のこと言えないか)
そういう自分自身もどちらかと云えば冷徹な方である事が更なる自嘲を誘うのだからこれはもう喜劇としか例えようがなかった。
「で、でも氷牙の剣にも心配してくれる人はさ……、仲間とかさ、いるんだろ?」
心配してくれる人。
「居やしないよそんなものは」
人生を振り返ってみてもそんな人間はいま目の前に居るこの少年以外に思い当たらなかった。
「ニヴラス帝国軍がどういう軍組織かはおまえだって知ってるだろう? あたしが死んだら死んだってだけで誰も気に掛けたりしやしないのさ」
「……」
「仲間とは随分と耳障りのいい言葉じゃないか。軍に席を置いてなければあたしにも居たかもねそんなのが」
結局其処なのだ。自分も含めてニヴラス帝国軍には非情な人間が多すぎる。
「世界を手に入れようって話だからね国のお偉いさん方は。そうなると他国に攻め入り隷属を迫る実行者の一番手たる軍人が情にほだされるような輩だと使い物にならないわけだ。いまはこうしておまえと談笑してるがあたしだって戦争に私情は持ち込まない……敵に対しては非情な方なんだよこう見えても。今までも見てきたろうニヴラスの占領地での横暴ってのをね。要するに強いか弱いかなんだよ。ニヴラスと他国もそうだしニヴラス軍内でもそう。戦争やってる以上は人が死ぬ。死ぬ人間一人一人を振り返っていたらキリがない」
世界制覇を目指し各国への侵略を開始したニヴラスでは日々誰かが死ぬ。
弱肉強食のニヴラスにあるのは強いか弱いかだけで一々同僚の心配をするだけ無駄だ。
自分は強いからこそ今がある。剣の腕には絶対の自信を持っている。
死ぬのは弱い奴だけで、生とは自ら勝ち取っていくもの。
生存を願う? 弱いからこそ死ぬのになぜ弱者の生存を願う必要があるのか。
直属の部下である氷牙の矢や斧が目前で惨殺されたとして気に留めるか? 留めるわけがない。
戦争なんだ、そういうこともあるだろうで終わり感傷に浸ることすらないだろう。
「おまえは悪い奴をやっつけるなんて言ってたが正義だの悪だの、国と国との戦にその種の定義を持ち込もうってのがそもそもの間違いさ。各々の祖国に忠誠を誓う国民や軍が祖国の命令で殺し合う──其処には善も悪もないよ。唯一在るとするならば其れは個々の中の正義だ。ニヴラスにはニヴラスの、ギートにはギートの、カルタグラにはカルタグラの、各々の国同士の正義があって其処で戦う一人一人にもまた自分達の正義がある。国の為、家族・知人の為、生活の為。それは千差万別だけどね」
「そんなっ──ニヴラスが正義だって云うのかっ!? そんなの、そんなのってないよっ!!」
「それぞれ皆正義だって言ったろ? “ニヴラスが”じゃなくて“ニヴラスも”だよ。そして生憎だがそんなのが国やら大人の世界なんだよ。それを以て悪だとするならそれもまた真実なんだろ。おまえ達純粋な子供から見れば何処かしら汚れちまってる大人なんてのは殆どが悪党だからね」
子供の正義と大人の正義もまた違う。子供の理屈は大人に通用しないが逆もまた然り。
十二、三のゼファはやはり子供側であり、二十二、三といった一回り大人である氷牙の剣とは考え方が違うのだ。
直情的なのが子供、物事を多方面から視て考えるのが大人。子供が正しいと思ったことでも大人から見ればそれは違うと感じる物もある。
「所詮立場が変わりゃ同じ様に変わっちまうのが正義と悪の関係だ。あたしの祖国ニヴラスの正義は弱者に対して特別非情だった、そしてそれは他国にとって罷り通らぬ悪だった……それだけさ」
ニヴラスでは強者こそが正義。強さが正義だという定義は非情その物だが、現にニヴラス本国やニヴラスの占領地域ではその正義が罷り通っている。
そんなことはこの少年だって身にしみて分っている筈だ。
「……オレは、オレはそれでもニヴラスが悪い国だって思う……、弱い人を力で虐げるのが正義って間違ってるよそんなの……」
だがそれでもニヴラスを悪いという少年に氷牙の剣は押し付けたままの頬をひと擦りしながら理解を示した。
「それでいい」
「い、いいの?」
「ああいいよ。それがおまえの正義ってやつならあたしになにか言う権利は無いよ。ゼファにとってニヴラスの在り方は悪、ゼファの正義はニヴラスの正義と相通ずることはない」
一方に取り正義であっても他方に取っては悪。論ずるまでもなく其れこそが歴史が証明してきた人間の在り方なのだ。
「それならおまえはおまえの正義を貫けばいいじゃないか、あたしは否定しないよゼファの正義を」
正義なんてのは世の中全員がそうだといっても言い過ぎではないかも知れない。
個々一人一人違う考えを持っているのだ。合う合わない、好き・嫌い、好みも趣味も主義主張も思想も違う。
全てが正義で全てが悪。それなら自分の正義を貫くしかないだろう。自分は自分なのだ、他の誰かとは違うのだから。
「ただ下手な正義ごっこだけはやめておきな。何も考えず一時の感情に任せて戦場に首を突っ込むのは正義じゃなく単なる馬鹿のすることだ。無謀で無鉄砲な行いは街中でなら未だしもいくさの場で持ち出すような物じゃないんだよ」
「うう……オっ、オレだって……っ、オレだって悪い癖ってことくらいわかってらぁ……」
「だったらいいんだけどね……」
この身を心配してくれるこの少年に馬鹿な死に方だけはして欲しくない。
ゼファに死んで欲しくない──そんな思いが彼女の心には生まれていたのだ。
「さて──大分逸れちまったが、あたしの話に戻そうか。結論から言うとニヴラスは弱者に対し情けがないのさ」
「弱いとダメなの?」
「ダメってわけじゃない。戦争には多くの兵が必要だからそれなりの役割ならあるさ。ただ重要視はされないしどれだけ死んだって数としてしか見られる事はないよ。その辺りは何処の国でも似たような物かも知れないが、他国じゃ割と個を尊重してくれるだろう?」
「あ~……。……うん、オレが見た他の国の軍隊ってそういうところあった……かな?」
「歯切れが悪いね。はっきりしな」
「だ、だってオレそもそもシーフであっていくさ人じゃないし……、軍隊とか、よくわかんねーよ。ニヴラスはまあ滅茶苦茶するから自然と覚えたってだけで」
「なるほど、非情だからこそニヴラスの印象が強く残り、ニヴラスが非情であればあるほど他国軍の印象はあまり残らないってところかい?」
「そんなとこ」
「戦乱真っ最中の世にあってずいぶんと暢気だねぇ……、まあいい。他の国は個を尊重してるよ、大体何処の国でもね。だがニヴラスじゃ弱者の個なんて殆ど顧みられない、死んだら役立たず扱いされて死体なんて置き去りにされるか捨て置かれる事例がままあってね。埋葬してくれたのが敵対国だったって冗談みたいな話が結構あるんだよ」
「ひでェ……なんだよそれ……。国の為に頑張ったのにそんな扱いされるのかよ──……」
「それがニヴラス帝国軍の現実ってやつさ。甘い世界じゃないんだ」
魔獣師──ビーストコマンドには特に残忍な性格の人間が多く、死んだ部下をゴミのように打ち棄てることさえあった。
否、ニヴラス帝国軍全体を見渡してもやはり苛烈な人間が多い。力による征服を目的とした軍組織であるから致し方ないのだが、上は将軍から下は一般兵までが弱肉強食で好戦的な軍隊など世界広しと云えどもニヴラスぐらいのものだろう。
「そんな軍事組織がお仲間同士の馴れ合いごっこなんてやってると思うのかい? あたしが死んだって手向けの言葉一つ掛けちゃくれないよ」
「……」
無論、氷牙の剣は自身が死ぬとは考えていない。
強者たる自身が早々敵に倒されたりするものか。
死を考えて戦うよりも打ち勝ち生きることを考え戦う。
生存を願われるのではなく生存を勝ち取っていく。
それが自分なりの戦いへの心構えだ。
「そこへいくとおまえはとんだ甘ちゃんだ。子供ってことを差し引いても自分を殺そうとしたあたしに情が沸くなんて頭が緩すぎる」
剣を手にこの道に生きると決めたときから氷牙の剣は情け容赦なく生きてきた。
「へんだっ甘くてもいいよ別に。強い奴が正しいとかギスギスした関係なんてオレだったら端っからお断りだもん」
女である身、侮られる訳には行かないと並の剣士以上に修練に励み技を、体を、心を磨き上げてきたのだ。
自分の生き方には敵に情けを掛ける要素など無く、また必要であるとも思えない。
「そんなだともしゼファがミンデル将軍の下で働いたら義心に駆られて余計な進言でもして早死にだろうね」
だがもし。
「べ~~~っ、あんな奴の子分とかこっちからお断りだいっ。もし本当にそんなことになってて氷牙の剣が死んでも知らんぷりしてたらオレ将軍の顔ぶん殴ってると思う」
仮にもそれをこそ願ってくれるなら?
「あはははっ、そんなことしたらあたしの後追い自殺になっちまうじゃないか。将軍は部下だろうが身内だろうが関係無く手向かう奴に容赦しないよ?」
自身がそう願われるなら?
「構うもんかっ仲間を見捨てたりする奴なんかに頭下げたくねーもん」
氷牙の剣という人間に生きていてくれと願う誰かがいるのなら?
「……」
悪意や無関心には嬉しさを呼び起こされないが喜びの気持ちを向けられれば無条件で嬉しい。それが人間だ。
「ずっと一緒に戦ってきた仲間が死んで悲しくないってそっちの方がよっぽど悲しいよ」
そしてその言葉通りにゼファがニヴラス軍で共に戦う同僚であったならば、その上でいま話している通りに自分が死に、それを将軍が無視すれば? ……この少年は自分の死を悼み将軍に食って掛かって殺される、そんな未来しか想像できなかった。それでも自分の信念や正義を曲げることはないのだろう。
(嬉しいじゃないか……悪くないよ、こういうのも……)
剣を取って以来久しく忘れていた甘さから感じる嬉しいの気持ち。
それをこの緋色の髪の少年がもたらしてくれた。
「優しい子だねおまえ」
触れ合わせたままの頬はそのまま。
鬢を触るゼファの手も己の頬に添えられたまま。
触れ方は同じまま氷牙の剣の瞼だけが閉じられる。
「優しいよ、本当に……」
視界を閉ざすことでより強くこの少年の暖かみを感じられるのだ。
「そ、そうかなぁ? こんなの普通だと思うけど……、ていうかニヴラスが酷すぎるだけだよ絶対」
「だとしてもだ。おまえ、あたしの為に泣いてくれそうじゃないか」
くれそうではない。この純粋な輝きを湛える瞳を持つ少年ならば疑う余地無く泣いてくれるだろう。
「あたしはね、嬉しいんだよそう言ってくれる奴と出逢えてさ。長く、忘れていたよ……、自分に向けられる優しさは、本来こういう嬉しいものなんだってことを……、たぶん、今までで一番嬉しいよ……」
「うっ……、う~ん……、なんか、照れ臭いや」
自身の生を喜んでくれるゼファを氷牙の剣は強く意識する。
(胸が、温かい……。なんだろうね、この気持ち……)
このような気持ちになるのはきっとこの少年が強い喜びを抱いてくれたからだ。
見ず知らずの敵でしかない自分に対し向けられることが不思議なくらいの強い喜び。
氷牙の剣が生きていてくれて嬉しいという喜びの気持ちを表してくれたから。
「ゼファ……、おまえ、あたしを信用できるかい?」
「え?」
だから踏み込んだ。こんなにも嬉しい気分にさせてくれた少年がまだ求めるなら。
温かい気持ちにさせてくれた少年がまだ自分という女を求めているのならと。
「もしあたしを信用できるってならこの鬱陶しい拘束を解きな。暴れたりしないから」
暴れようという発想すら其処にはない。
こんなにも自分の生を喜ぶような変わり者の少年に、どうして斬り付けたりすることが出来ようか。
「ほ、本当に?」
「心配するな。敵だってのにあたしのことを気に掛けて剰えあたしが生きている事を喜ぶようなお人好しにあたしも危害を加えたりしないさ」
*
「……」
拘束を解け。
その言葉にゼファは何も言わず掴んでいた氷牙の剣の髪を離すと、その手を彼女の腰の後ろへと回し、そして拘束を解いた。
逆襲の可能性は充分あった。まず敵対者というのが一番の理由であるし、体を触られたことを本当は怒っているかも知れない。
だが、ゼファは何もしないと言う彼女の言葉の方を信じたのだ。
ちょっと話しただけ、それで信用するなんて油断しすぎだと思う。
しかし彼は信用した。理由……それは彼女の目だ。
真っ直ぐに見つめ合って話をしていたその瞳に嘘のようなものが見えなかったから。
それに先程の話。子供だからこその純粋な心には甚く響いた話。
(氷牙の剣もオレと同じなんだ……)
心配する人は居ない。
それは自らの身の上と同じであることを物語っている。
ゼファは一年と少し前に父親を亡くしていたが、それから始まった旅は道連れの居ない天涯孤独の一人旅。
そんな身の上だ。何処かで野垂れ死んでも誰にも気付いてもらえない。
彼女はニヴラスの軍人で自分とは全く違う身の上ながらもそんな自分と似たところがある。
重ね合わせてしまったのだ自分と。
立場も性格も生き方さえも違えど自分と彼女は似た者同士。なにか通ずる物があるのではないか?
無いなら無いで、それなら通じ合うなにかを作り上げたい。
こうして二人で一緒の時間を過ごしながら語り合えたのだから。
だから信じたくなった。
信じて、そして──拘束していた腕のベルトを外してあげたのだ。
果たしてその彼女を信じた自分は、間違ってはいなかった。
「よくもまあこんなにもきつく縛り上げてくれたものだ」
立ち上がり縛っていた腕を揉む氷牙の剣は、でも飛び掛かってくることはなく。
「ごめん、目を覚まして暴れられたらって思ってたからさ……」
ただ自分の手首を回しつつ、ほぐしているのみ。
「だろうね。ま、ガキのなりじゃ大人のあたしと取っ組み合いになればやられると考えるのが普通さ」
そこには敵意も殺意もない。
「が、ガキじゃねー! もう十二なんだぞオレ!」
こうして普通に話をしているのは、彼女が言ったように少しでも情が沸いたからだろうか。
「それをいうならまだ十二だろ。あたしの半分ほどしか人生経験のない立派なガキじゃないか」
「う、うるせーっ!」
どちらからともない相手に対しての情がお互いの中に生まれて、だから殺伐とした空気にならず自然体で話が出来ているのでは?
(そうだったらいいな)
ゼファは思う、今となってはもう氷牙の剣と敵対なんてしたくないと。
それよりも仲良くしたかった。
こんなに穏やかに話が出来てお互いを知りつつあるのだ。
もっと氷牙の剣のことを知りたいし、氷牙の剣にももっと自分を知って欲しい。
(仲良くなるにはどうすればいいんだろ……、やっぱりもっと話を……?)
一番の近道は言葉を重ねること。
なんでもいい、好きなことや好きな物、普段はなにをしているのか、どの様なことでも話してとにかく交流を続けるしかないのだ。
限られたこの場所で、限られた時間の中で精一杯。
なぜなら彼女はニヴラスの剣士。いずれニヴラス軍に戻ってしまう人間だから。
そうなればもう会う機会は、言葉を交わす機会は失われてしまうだろう。
(そんなの嫌だ……っ)
仲良くなってさえいればまた会う機会だって生まれるかも知れない。
ニヴラスの侵略行為が収まらなくても彼女に軍を辞めて貰えるよう説得できるかも知れない。
ただそれらの試みを行う前にゼファには一点、気になっていたところがあった。
それは自分がはだけさせた彼女の胸元についてだ。
「な、なあ、服……着ないの?」
腕が自由になったにも関わらず彼女ははだけた胸元を直そうとしないのだ。
つまり乳房が露出したままで、それを気にすることなく手首だけに気をやっている。
「む、胸がさ……、あの……見えてんだけど」
さっきまで触っていた氷牙の剣の豊かな乳房。丸い二つの乳房がふるっと揺れた。
まだ手に残る心地良い弾力感に、正直に云えば少し恥ずかしい感じがしていた。
勝手に触って、勝手に揉んで。
乳首まで捏ねたりしながら彼女の乳房の柔らかさを堪能していたというのに今更恥ずかしくなるとはどういうことか。
(あ、あんなに触ってたってのに……でもさっきはなんだか気持ちがふわふわして、カッと熱くなってたような?)
彼自身は思い至らぬ性の情動の支配下にあった精神状態がそれらを可能としていたのだ。
だが目覚めたばかりの性衝動に突き動かされていた催眠状態にも近しい先程までとは異なり、いまのゼファはもう普通の精神状態だった。
歳相応の、思春期を迎えたばかりの子供という。
女性の裸を見て興奮し、興味を覚えながらもまじまじと視る事が出来ず、しかし男としての反応を示す。
そんなゼファが指摘した彼女の服の状態、直さないのか?
どうしていいかわからない彼なりの、その場凌ぎの指摘に──
「……」
腕をほぐし終えた彼女は無言のまま脱げ掛けだった衣服に手をかけ。
「え……!?」
脱ぎ始めた。