オリキャラの老人清掃員×メル=キャリー監査部長
ご都合設定で超歳の差の純愛です。
2ちゃんねるエロパロ版、pixiv様にも投稿しております。
御批判、御批評、御感想、遠慮なく頂けると嬉しいです。
部長、すみません……
じりりりり。
「ん……」
耳に響く電子音に目が醒めた。
部屋は未だ薄暗く、しかし時計は起床時間を指し示している。
憂鬱な朝がやってきたようだ。
昨日と変わらぬなにもない朝が。
「はあー……」
爽やかな目覚め、と言えたらどれほど嬉しいのだろう。
古稀を迎え、間もなく一年が過ぎようとしているような歳。
一緒に歳を重ね来た妻がいて。
息子夫婦や娘夫婦がいて。
幾人かの孫がいて。
お祖父ちゃんおはよう──そうした挨拶を交わす。
そんな朝があってもいい年齢の私には、しかしなんにもなかった。
なにもないがらんとした六畳一間の部屋で迎える朝。
誰もいない部屋、古びた床の直ぐ傍には、古びた一台のブラウン管テレビだけが置いてある。
他には小さな冷蔵庫と、備え付けの調理台が一つ。
生活に必要な最低限のものだけがあるそれだけの寂しい部屋。
誰もいない、声も聞こえない、私一人だけの生活空間。
ずっと一人だ。
もう何十年か前に父と母を看取ってから、ずっと変わらない環境。
いつもと同じ、目的もなく生きる、意味も無く生きている朝だった。
早朝は薄暗く、一般的な定年の歳を迎えても未だ仕事をしなければ食べていけない都心のアパートに住む私の人生は、こんな何もない朝から始まる。
昨日の食べ残しだった冷や飯を取り出して、梅干しと味噌汁だけで済ませる簡単な朝食。
あまり食べたいと思わない味気ない飯は、それでも仕事をする上で必要だからと摂っていた。
とあるビルの清掃員をしている私は、身体を動かさねばならないから。
だから食べたくなくても食べる。
美味しくもない朝食を。
楽しくもない朝ご飯を。
誰もいない寂しいこの部屋で。
「ごちそうさま」
独り言その物なごちそうさまを唱えて、箸とお茶碗を洗い寝間着から作業服に着替えた。
青色の、簡素な作りの作業服には、胸にI・E・Mと、英語の刺繍が施されている。私の勤め先の会社名だ。
株式会社I・E・M、アメリカに軍需企業としての本社を持つ多国籍企業の日本支社。
勤めているのは皆一流の技術者ばかりだが、社を動かすのは別に技術者だけという話でもない。
事務職も営業も、警備も、それぞれの部門毎に社を動かす人間がいる。
ただの清掃員で、勤続年数だけは無駄に長い役職なしの平社員。
賃金は全く上がらずの低いまま。
所詮はそれだけの仕事しかこなせていないのだという超が付くほどの底評価。
そんな私でも、一応はこの多国籍巨大企業の社員だった。
「いってきます」
家を出た私は、その長年勤める会社へ向けて歩いて行く。
変わらない道をゆっくりゆっくりながらの、徒歩で駅まで向う道すがら通るのは、ある繁華街の裏通り。
通勤時には普段表通りを歩いて行く私だが、気分が優れないときなどはこうして裏通りを一人寂しく歩いている。
まるで自分の心の中でも歩いているような気分になるが、表の喧噪が煩わしくて人気のない場所を通りたいときも往々にしてあるものだ。
昼でも薄暗い特有の空気。
大都会の繁栄の日の光が届かない薄汚れた路地裏。
なにかに追われる逃亡者が逃げ込むには格好の場所のようにも見える。
社会のはみ出し者が日銭を稼ぐには丁度良き場所。
けして良くない治安、しかし通い慣れている所為かあまり怖さを感じない。
怖い人と出会いはしても金を持っていなさそうな作業服を着たくたびれた老人には、注目を集めることはないのだろう。
そんな外の繁栄から置き去りにされた路地裏を、一人静かに歩きながら、私は会社への途に付いた。
◇
社に着くと、聳える巨大なビルディングが私を出迎えてくれた。
見下ろしていたという方がそれらしく写るほど威圧的なI・E・Mの日本支社総合研究所ビル。
これだけ大きくなるまでに、一体どれ程の事をしてきたのだろうかといつも考える。
長年勤めていると嫌なものまで見えてしまうものだ。
I・E・M──この会社では違法研究、人体実験などが平然と行われているとまことしやかに囁かれている。
企業機密を守るためならば、人殺しも破壊工作も平気でやるような反社会的な裏の顔を持っているという噂だ。
直接、それらしい現場を見たことがない私には、それらが噂か真実なのかなど知る由もないのだが。
本日、査察に訪れた本社の監査部長から解雇を通達されたと言われている開発部の本部長だった今田俊明氏本人もが、殺しを行った事があるという。
本当なのかどうなのか、それを知っているもの居るだろう。だが誰しもが知らない振りをしている。
どんな企業でアレ、I・E・Mが世界的な一流企業であることには違いない。
皆、社員一人一人には生活もあるのだから、誰かが誰かを批判したところで自らの損になるだけの内部告発などを、誰が命をかけてまでやるというのだろうか。
知らない者は知らないままに日々の業務に就き、知っている者も知るままにして変わらずの業務をこなしている。
誰もが何もできないから、誰もが自らの生活の為に生きているから。
それに正義感を持つ者が真実を知ったところで何もできはしない。
アメリカ有数の軍需企業たるI・E・M本社。
それはこの会社がアメリカ国防総省ペンタゴン、合衆国大統領とも繋がっていることを意味しており、社その物が法の埒外に位置する企業の一つである証明なのだ。
表出って明らかにされてしまえば警察も動ける、しかし暴かれなければ法の論理が働くような会社ではなかった。更には現行犯でなければ捕まえられない。
アメリカという国を敵に回すには一警察組織には不可能なことだからだ。
超法規の企業、それに近い存在。それがI・E・Mという巨大企業の実態であった。
ただ、何れにしても私には関係のないことだ。
私のようなただの社員、ただの老人に、清掃業務の従事者に。
雲の上とも言える重役達との接点など糸一本分ほどもないのだから。
見たくもなければ知りたくも、関わり合いになりたくもない。
憂鬱ながら静かに過ぎ行く人生を送れればそれでいい。
だから私は仕事をする。いつも通りの清掃業務を。
「いつも通り上から行くか」
ブラシやモップ、雑巾といった清掃用具を専用のワゴンに乗せて、高層階へと上がっていく高速エレベーターに乗り込む。
行き先は重役達が仕事をしている階で、正直毎度同じ作業をするだけなのに無駄な緊張感がある。
会社の最底辺たる肉体労働の清掃員にとって正しく場違いなフロアだ。
勤続年数が長いというだけで私は此処の担当を強要されている。拒否はできない、意見も。
所詮平社員に口答えする権利など与えられていない以上、黙って従わなければリストラの道が大口開けて待ってるだけ。
この歳になってリストラされたら終わりだ、少ない年金だけでは生きていけず、都会の孤独死へと追い込まれることは必定。
そうならないためにも、唯々業務命令に従っていくだけである。
では長居したくない場所から逃げるにはどうすればよいか?
そんなこと、手早く作業を終わらせる以外に無かろう。
「さっさとこのフロア終わらせて下の階に行こう」
私はいつも通りの手順でトイレ掃除を始めた。
まず水を巻き、洗剤を投じてデッキブラシで床をこする。
あまり強くこすらなくてもこの階の使用者は皆エリートだからか綺麗に使っているのでこちらとしては有り難いことだった。
言わずもがな直ぐに汚れが落ちるからだ。
便器にしても掃除の必要があるのかと思えそうなほど清潔感溢れている。
この階で使用するのは、まず筆頭に支社長と開発部部長、続いて各秘書やら数少ない重役たち。
確かに人数も少なければ使用回数とて少なく、汚れが溜まる要素は低層階に比べて低い。
ああ、忘れてはいけなかった。
先日日本支社開発部を本社決定で管理下に置いた監査部長もフロア唯一の女子トイレを使用されているはず。丁度いま私が掃除中だったこの女子トイレを。
はっきりいってこのトイレ、監査部長の専用トイレみたいな扱いでは無かろうか。
いま此処の重役で女性なのはその本社監査部長だけなのだから、事実上ご使用になられる方と言えば一人だけだった。
とはいえ重役達のことをあれこれと考えていても仕方がない。
どうせ私には縁のない話なのだ。さっさと終わらせて階段掃除へと向うに限る。
「ふぅ~、後はサっと水を流して終わりだな」
そう考え勢い良く水を出したときだった。
偶然トイレに入ってきた人にホースの水が掛かってしまったのは。
「キャアッ!」
しまった!
「す、すみませんっ!?」
慌てて水道の蛇口を閉めるも時既に遅し、入って来た女性の服は濡れてしまっていた。
「もうッ、なにやってるのよッ!!」
トイレに入ってきたレザー製の黒いワンピース型のスーツに身を包んだ一人の女性からイラっとした怒声が飛ぶ。
「私にまで水を掛けて私の掃除でもしたいの貴方はッ!!」
「すみませんッ、すみませんッ」
腰下まで届く真っ直ぐな長い金髪は風に煽られればさらっと流れそうな艶やかさと潤いを湛えている。しかし今はその髪先からぽたぽた雫が落ちて重そうな印象しか受けない。
胸元が大胆に開いている水の掛かったスーツの襟部分と、頭に付けているカチューシャはデザインの統一されたヒョウ柄。
スカートの丈は太股の上までしかないミニで、太股の中程までを包む黒いサイハイソックスを留めた黒のガーターベルトが殊更にエロチシズムを感じさせる。
男ならば誰しもが見惚れてしまうような色っぽい服装の、出来る女というイメージを抱くアングロサクソン系の金髪美女。
わかりやすく言うなら白い肌の外人、白人さん、呼び方は多種多様だが要するに外国人であった。
ただ私にはそんな浮かれたことを考えている余裕など欠片ほども無く。
何も考えられず頭が真っ白になっていた。
心の中に自分の声が響く、「終わった」と。
この白人女性の名はメル=キャリー。
なんで知ってるのかと言えば、I・E・Mに勤めている者で知らない者など居ない立場の重役だからだ。
そう、この白人女性こそが本日付でI・E・Mを解雇された今田俊明元開発部本部長に代わり、暫定的ながら日本支社開発部責任者になったI・E・Mアメリカ本社監査部長その人だった。
本社監査部長の権限は、日本支社長よりも上。
つまりこの女性こそが現在のI・E・M日本支社を取り仕切る事実上のトップだった。
そんな相手に不注意から掃除用ホースの水を掛けてしまった。
あまり濡れてはいないようだがそんなことは関係ない、相手が……相手が悪すぎる。
一介の平社員の首など簡単に跳ばせてしまうような立場にいる人なのだ。
とにかく私は持っていたタオルで部長の水が掛かったところを大慌てで拭こうとした。
「も、申し訳ありませんっ、申し訳ありませんっ」
「ふん」
濡れた金色の髪に未使用の綺麗なタオルを当てて水滴を拭おうとすると、タオルを取り上げられた。
「男が頭を拭くように乱雑にされては髪がくしゃくしゃになって堪った物じゃないから自分で拭くわ」
「……」
取り上げられたタオルで髪を挟むようにして丁寧に揉みながら拭いていく部長はそれきり無言だった。
私は、それではと彼女の衣服の方を別のタオルで拭こうとしたが、こちらは何も言われず拭かせていただけた。
「本当に申し訳御座いませんでしたッ」
必死に捲したてながら部長の衣服の水滴を拭っていく私を、部長の冷たい瞳が捉えている。
一瞬目が合った。碧い、綺麗な瞳だ。白人さんは大体碧い目をしているが、こういうときは、その色が色だけにとても冷たく感じた。
「まったく……。入り口には清掃中の看板が立てられていないし、入ってくる人間への注意を払ってもいない……。いったいどこを見て仕事をしているのかしらね?」
やらかした後だからだろうか。普段なら普通に穏やかな視線なのだろうが、いまはとにかくキツかった。
睨み付けられている私はただ平身低頭、謝り続けるしかできない。
「ま、真に申し訳御座いませんッ、私のッ、完全なる私の不注意でございますっ」
「貴方の不注意でなければ誰の不注意だというの? そんな分かりきったつまらない事を一々口に出して言い訳にしなければ自己を保てないほどに耄碌しているのかしら?」
「は、はいッ、重ね重ね申し訳御座いませんでした……ッ」
「申し訳ない申し訳ないって、まるでオウムね」
「……ッ」
完璧に自分のミスだ。
まさか清掃中の看板を立てるのを忘れるなんて、ぼーっとしている証拠だった。
仕事に身が入っていないと叱責を受けるのは当然だ。
私はキャリー部長にひたすら謝った。
「貴方、名前は?」
「──です……」
訊かれるままに伝えた。この空気の中では拒否できるわけがない。
さしずめ針の筵に裸足で立たされてるようなもの。
部長の高級そうなブランドのオーダーメイドスーツの弁償代を払わされるだけで済ませて貰えたら御の字。
嘘や偽り、口答えした瞬間、最悪クビだ。
「清掃員の──です」
繰り返し職種と名を伝える。常ならば覚えられるはずもなかったであろういつ何時クビにされるかもわからない平の清掃員老人の名前を。
「そう……いいわ。まあ歳も歳のようだし、注意力の衰えもあるということで今回だけは大目に見てあげましょう。次からは気をつけなさい」
髪の毛を拭き終えた部長はもう要らないとばかりにタオルを突き出してくる。
突き出されたタオルを恭しく受け取りつつ、私は唯々頭を下げ続けた。
「は、はい……、寛大なご処置をいただき、誠にありがとうございました」
「でも一応ひとこと言っておくけれど、立場が低いから目を付けられないとでも考えているとしたら大間違いよ? 使えない人間はね、役員だろうと清掃員だろうと、我がI・E・M社には必要ないの。よーく肝に銘じておきなさい」
その後部長は下の階のお化粧室を利用すると言い出て行った。
女性なのだ、掃除中の場所を使用されるのは気分が悪いのだろう。
「大目にか、見逃されたと素直に受け取っても良いのだろうか?」
温情処置。現実に開発部の部長が解雇されていることを考えれば寛大なご処置なのだろう。
いなくなってもいいような替えの利くいち清掃員に対し口頭注意で済ませてくれたのだから感謝して然るべき。
だが本当にそれで終わりなのだろうか?
名前まで確認されてしまったのだ。目を付けられてしまってはいないだろうか?
もちろんリストラの対象という意味でだ。
「……ど、どうしたらいいんだ」
I・E・Mは確かに巨大企業だ。しかし不安点もある。業績の問題だ。
好調期の売り上げと比較したとき、少々下がり気味なのである。
日本支社は当然のことながら、本社の方も最近は世界的な軍縮傾向の影響で売り上げが落ちていると聴く。
米国政府にさえ意見出来る程凄い会社なのでどうとでもなるようだが、問題は其処じゃない。
それを理由とされる可能性についてだ。
使えない者は「最近不景気だから」そうやって切るための理由として使われないだろうかということだ。
I・E・Mは先端技術を取り扱う実力主義な社風だけあって無能にはとにかく厳しい事で知られていた。
特段、能力のいらない清掃員など、ミスを犯せば即解雇されても文句は言えない。
ただ一方では終身雇用の方針なので、ミスさえなければ死ぬまで雇用してくれる大きなメリットがあった。
だがその分無能即切り捨て、ましてや私がミスを働いた相手は開発部の部長を日本到着と同時に解雇させた本社の最高幹部のお一人だ。
(もしもリストラされて年金だけでやっていかなければならなくなってしまったら……)
そう考えると、いつものようにのんびりとしたマイペースで仕事をする気持ちにはなれず、終業時間を向かえるまでの間、唯々暗澹たる思いでいっぱいになってしまった。
***
夜遅く、私は繁華街の裏通りを歩いていた。夜間はそれこそ朝や昼以上に人気がない路地裏の通りをただひとり、ぽつりぽつりと。
出勤時は表裏双方を気分次第で変えながら歩く私は、しかし帰宅時についてはいつも普通に明るい表通りを通って帰宅の途についている。
暗く人気のない夜道をさすがに一人で歩きたいとは思わないからだ。
だがしかし、今夜に限ってだけは、表通りの方をこそ歩く気にはなれなかった。
落ち込んだ今の気分に、表通りの喧噪が煩わしく感じるのだ。
理由は当然メル=キャリー監査部長に水を掛けてしまったこと。
彼女から向けられたあの冷たく碧い瞳の色が忘れられず頭の中に焼き付いていた。
「やっぱり、クビにされるんだろうな……」
溜め息が出てしまう。自分で犯したミスだから自業自得には違いないが、なにか解決策はないものだろうか。
「ゴクッ、ゴクッ」
手に持っていた缶ビールを一気飲み。500㎜リットル缶これで三本目だ。
酒など碌に飲めないくせに、逃避するように飲んでしまう。
みたくない現実に直面したとき、逃げの一手を打つ。
所詮、先々を行く世の中の効率化に付いていけず取り残されただけの、くたびれた情けない老人さ、私は。
「自暴自棄になって酒を飲んだところで、何にも変わらないんだがな……」
そうやってふらふらと裏通りの路地を歩き続けていく。
今日のこと、明日からのこと、思いを巡らせながら考えるも何の案も浮かばない。
すべては社の決定。否、あの冷たい視線を持った監査部長殿の匙加減一つだ。
複数居るリストラ候補に老清掃員の名が一つ載るか載らないか。
名前を聞かれたのは痛恨時である。名を訊くということは、覚える必要があった。
なんのために平の清掃員の名前などトップの人間が覚えるのか?
こいつは気に入らないからクビだ。ただその為だけにだろう。
「あ~あ、くそ~。こんな爺でさえなければ最悪の事態になっても就職先が見つかる可能性もあるんだがなあ、この歳ではもう……そんなもの……」
そうして陰鬱な気持ちが晴れることなく、私は歩き続ける。この先に待つ自宅へと向けて。
自宅、築年数50年を超えたボロアパートだ。
隣は疎か、真下の部屋にも住人は入ってない二階の角部屋たる我が家。
同じアパートには精々下の階の端っこに私と似たような独居老人が住んでいるだけ。
私と同じ階の反対側にも一人入っていたが、それぞれ交流など無い。
朝目が醒めて顔を合わせても会釈するだけで言葉はなく、社会の敗残者のなれの果てみたいな者が終の棲家として居着いている。
そんな我が家であるアパートへ向けて、一歩、また一歩、脚を進めていたそんな時であった。
ドンッ!!
少し先の曲がり角から何やら音が聞こえたのだ。
柔いものを殴り付けるような鈍い音。
そう、時々この裏通りの路地で耳にする喧嘩の時の殴り合う音のような。
「ぐぶっ!!」
ほぼ同時に聞こえたのはくぐもった声。
女性の呻き声のような響きが、この先、下りの階段がある場所から聞こえてきた。
なんだろうか?
好奇心は猫をも殺す。関わり合いにならない方が身のため。
わかっているのに、何故か脚が勝手に前へ進もうとする。
私は急いで曲がり角まで駆け寄ると、身を隠しながらそっと顔だけを出して覗いてみた。
するとそこには、黒の分厚いコートに身を包んだ、坊主頭に近い短髪に口周りから顎に掛けて濃い髭を蓄えた4,50代と見られる大柄の中年男が立っていた。
この男の顔、私には見覚えがあった。
(あれは……今田部長?)
正確には元、だが。確かに開発部部長だった今田俊明氏だ。
あの一見落ち着いたように見えて、自分以外の人間をまるで物のように見る目だけは一度向けられたら忘れられない。
もちろんその容姿も、とても研究者には見えず、マフィアの頭目のような異種異様な雰囲気を醸し出していたが、とにかく強烈に印象深く残る人物であった。
その今田氏の前にももう一人、誰かが蹲っている姿があった。
誰だろう?
更にもう少し身を乗り出してみる。
そうして見えたのは、ワンピースタイプの黒いレザースーツに身を包んだ金髪の女性。
四つん這いになって蹲っているその女性は、膝まで覆う黒のサイハイソックスを穿きガーターベルトを付けていた。
(キャリー部長?)
顔こそ地面に垂れる髪に覆われて見えなかった物の、昼間見たばかりで忘れようもないその服装背格好。
間違いない、メル=キャリー監査部長だった。
「かっ、はッ」
キャリー部長は今田氏の前で蹲ったまま、苦しそうに咳き込んでいる。
顔を隠す髪の合間から一瞬見えた口からは血を吐きだし、肩で息をする姿から相当苦しんでいることが見て取れた。
な、なぜこんなことに。
これは、今田氏がキャリー部長に暴力を振るっているのか?
なにかを殴るような音。
蹲り吐血するキャリー部長。
そんな彼女を冷たい目で見下ろす今田氏。
これらの状況的に間違いなさそうだった。
「本社のヤンキー共のバカさかげんには辟易していたが、今日は感謝せねばならんね」
尚も苦しそうに膝を付いて、目から涙を流して咳き込むキャリー部長を見下すように今田氏は言葉を続ける。
「これ程やすやすと由加里を取り戻せるとは思っていなかったよ」
由加里? 由加里というのは、確か今田氏の娘だったはずだが……どういう意味だ。
何故その娘の名前が出るのかは分からない。
おそらく、I・E・Mの裏の部分と何か関係があるのだろうと思われたが。
「せめてものお礼だ。お見せしよう……記念すべき試運転だよ」
醜悪な笑みを浮かべる今田氏。
試運転とは、なんの試運転なのだろうか。
こちらから見る限り試運転という言葉に連想される機械の類を手にしているようには見えないが。
しかし、今田氏は、研究のために自らの肉体までサイボーグ化してきた事は周知の事実。社の誰でも知っていることだ。
もしかしたら身体に装着した何らかの装置があるのかも知れない。
「な……何……!?」
何をしようとしているか分からないといったような声を上げるキャリー部長。
私も彼女同様に今田氏がなにをしようとしているのかについては分からない。
しかしながら一つだけ、たった一つだけなら分かることがあった。
それは、キャリー部長が今正に殺されようとしているという事だ。
長年勤めてきたからこそ今田氏の性格は良く知っていた。
失敗に対しては容赦なく、とにかく短気で粗暴。
穏やかに接しながらも常に冷酷さを感じさせる。
自分の障害になる相手や、自分のプライドを傷つけた相手を笑って許すような人ではない。
何度も耳にした噂。
誰某が今田部長と会って以降行方不明。
今田部長と対立関係にあった役員が消えた。
この種の今田氏の周りで起きた行方不明事件や不審死事件。
今田氏が自分の邪魔になりそうな人間を謀殺したのではないか?
真実かどうかを私は知らない。なんど訊かれても直接見たことがないからとしか言えない。
ただ、確かに分かる。この眼前で行われているやり取りを見て、その噂が紛れもない真実であったことが。
いま彼女に向けられているゴミでも見るような目。
プライドを傷付けた相手を目の前にして浮かべる冷酷なる目が彼の持つ本性その物だった。
「幸いな事に、君は私好みのいい女だ」
それでいて、愉悦を滲ませた意味深な言葉。
確かに、確かにキャリー部長は美人だろう。
青春など味わうこともなく歳を取ってきた老人たる私でも掛け値無しに美人だと思う。
私が若ければ、あのトイレで水を掛けてしまったときに別の意味で緊張して声も出せなかったに違いない。
「夜はまだ長い……たっぷりつきあってもらうぞ」
そしてそんな美しい女性を自分好みだという今田氏。
自らに解雇通知を突き付けてプライドをズタズタにし、社から追い出した女に、なにがあったのか弱っている彼女に対し、今田氏がすることは想像できる。
殺害するのは確定事項だ。しかしそれだけでは終わらない。
彼女のことを暴力的な意味でも性的な意味でも暴行し、陵辱しようとしているのはもはや彼の台詞からも明らかだった。
某かの試運転というのもキャリー部長を陵辱しながら行うつもりなのだろう。
そうして満足行くまで試運転と陵辱を終えた後には、部長は殺される。
つまり、このまま放っておけばキャリー部長は死ぬ。
此処で、確実に、無残な死体となりはてる。
「……」
それは、哀れなことだ思う。
可哀想なことだと思う。
が、同時に私のリストラへのリスクが消滅することも意味していた。
仕事でのミスをしたのは彼女に対してだけ。
他に目立ったミスをした覚えはない。
もし、彼女が此処で殺されてしまえば、安泰とは言わずも、少なくとも彼女に水を掛けてしまった件に付いてだけは有耶無耶となる。
「……」
悪魔の誘惑だった。己が身可愛さに人一人の命を見捨てようという人でなしの考えだった。
仮にそうした処で私に罪はない。他人の命よりも自分の命を優先する。そんなこと当たり前だ。
彼女とてI・E・Mの最高幹部。裏側では相当違法性の高いことをやってきたはずだ。
報いが巡り巡って自らに降りかかってきたと言えなくもない。
まして助けられる力も無い癖に出て行って不利益を被るかも知れないのならば尚のこと我が身可愛くもなる。
緊急避難という考え方からも、この事件が明るみに出たところで関わっていない私は無罪だ。
「……」
だが。
だが本当にそれでいいのだろうか?
今日、たった数時間前に二言三言、言葉を交わしただけの、ほぼ見ず知らずな他人。
老い先短い、といっても平均寿命が大幅に伸びた昨今、まだ30年はありそうな残りの人生ながら、それでももうこの先一生関わり合いになる事の無いだろう本社の重役だからと。
彼女がどんな目に合わされて、どんな骸を晒すことになろうと、私には関係無いと。
そんな無関心でいても良いのだろうか?
誰かが倒れていても誰も助けない。
無関心に通り過ぎる人々。
関わり合いになりたくないから。
誰かが助けるだろうから。
別に自分が助けなくてもいい。
そんな場面、この大都会ではよく目にしてきた。
老人である身だ、自分自身がその対象となった事もあった。
邪魔だよ、退けよジジイ、そんな暴言を吐かれたこともあった。
それが悪いとは言わない、誰だって自分優先で、誰だって自分が一番可愛い。
次いで家族なり愛する者なりと優先順位があって当然なのだ。
自分の迷惑になりそうな輩を排除しようとすることも、関わり合いにならないようにすることも、共に当然の事であって誰からも責められる謂われなどない。
では自分はどうか?
自分には優先する何かがあるのか?
自分には──―、自分には…………。
「……」
そう、自分には──無い。
自分には無かった。
世話をしてきた親はもう居ない。
兄妹親類とはもう疾に付き合いなど無くなっていた。
迷惑を掛けてくる相手も、迷惑を掛けようとする相手もない。
自分はただ一人、都会の只中にひっそりと立つアパートで暮らす独居老人。
老い先とて短い、精々30年。上手く生きても40年。
年金を食い潰して、目的もなく、生きているのか死んでいるのか分からない人生を送って。
それでおしまい。
「……」
正直なところ、本当に怖い。
関わり合いにはなりたくない。
人生の大半を終えても未だ、やっぱり死ぬのは怖いんだ。
生きてるのか死んでるのか分からないようなボーッとした生き方をしていても怖いものは怖いんだ。
リストラされて生きていけなくなる可能性だってある。
この歳になって今更路上生活で生きようにもノウハウが無い。
多分、慣れた頃にはもう身体はボロボロで、直ぐにもおっ死ぬことだろう。
だが、それでもやはり。
“私には無理だった”
御批判、御批評、御感想、遠慮なく頂けると嬉しいです。