部長、大丈夫ですか?!
「お巡りさーんッ!!!」
なにかしないで見過ごすには。
見知ってしまった人を見殺しにするなど、やはり私にはできなかったんだ。
「こっちで人が襲われてるぞーッ!!!」
ああ、なんだか情けない。
颯爽と飛び出して今田氏の前に立ち塞がり、倒れている彼女を庇えたなら決まるところだが。
どうせ臆病者、どうせ事なかれ主義、惰性で生きていながらリストラに怯える小心者の老人にはこれが限界だった。
ここは表通りから見えにくく声も通りづらい路地裏。
助けを呼んでも来やしないが、助けを呼んで“来た”という体を粧えばまだ逃げられる──いや、“逃げてくれる”可能性はあった。
誰が?
もちろん黒いコートに身を包んだ大柄で凶暴な髭の男、今田俊明氏だ。
今田氏は自分の肉体を半分サイボーグに改造しているから、生身の私では助けに入ったところで殺されてしまうのは目に見えている。
大体にして何の格闘技術もない一般素人の年寄り。割って入って何が出来ようか。
かといってこのハッタリが失敗すれば私の人生は此処で終わる。
リストラを恐怖している老人の癖になにをしているのだろうか。
クビで生活できなくなって餓死するより、ここで失敗して殺される方が確率的に高そうなのに。
何もないが故に、喪う物がこの年老いた命一つであるが故に、変な義心と義務感に勝手に煽られて、年寄りの冷や水的に行動してしまっていた。
見捨てられる辛さ、無関心の恐怖を味わってきたこの老人には、私と違ってまだ将来ある年若い女性の危機を見過ごせなかったのだ。
その女性がどんな人であったとしても。
でもどうやら、なけなしの運ってものはこの老人の味方をしてくれたようだった。
「──ッックソッ?! 今警察に見つかるのは──ッ!」
他力本願にもなっていないハッタリ。
情けないことこの上ないが、今田氏の焦り方を見る限りこれが一番効果的だったようだ。
彼のことだ、おそらく警察との間になにかトラブルでも抱えている最中なのだろう。
「コッチだコッチだーッ!! 女性が倒れてるぞ──ッ!!」
私はとにかくありったけの声で叫ぶ。
声帯がはちきれんほどに声を張り上げて居もしない“警察を”呼び込む。
演技がバレたら即終了なだけに殊更気合いが入る。
命懸けのじじいの演技だ、老い先短い分だけ命燃やして叫んでやろう。
「チッ! 監査部長殿には完成された素晴らしいM・Dの試運転を是非ともその身で体験していただきたかったのだが、こちらも今警察と事を構えるわけにも行かない事情があってね、見せられなくて残念だよ」
焦る今田氏は吐き捨てるような台詞だけを置き、私が来た道とは反対方向へと走り去って行った。
が、正直私は内心殺されることを覚悟していたので一生分の運を使い果たしたような気さえしてへたり込んでしまいそうだったよ。
ハッタリが上手くいったはいいが、此方に走ってこられてはそれもまたジエンドとなるところだったからね。
ただ今はそう悠長に構えても居られないときだ。
今田氏の姿が見えなくなった処で角から飛び出した私は、蹲っているキャリー部長に近づいて彼女を助け起こす。
「ううッ……」
抱き起こした時の呻き、さらりと流れる金の髪。髪に隠れていた顔が露わになった。
部長の碧い瞳からは痛みによるものなのか涙が溢れており、口角より流れる鮮血が痛々しさを感じさせた。
「大丈夫ですか部長ッ」
「あ……、貴方……、けほッ、げほッ!」
大丈夫かどうか、医者ではないのでなんともと言った処ながら、彼女は依然咳き込んでは口角より血を流している。
左腕で彼女を支えつつ、咄嗟に作業着のポケットに入れていたハンカチを取り出してその口元を拭って上げると、白のハンカチが真っ赤になってしまった。
清掃員をしてる関係でハンカチやらタオルやらは汚すことしょっちゅうだが、他人の血でおじゃんになってしまったのはこれが初めてのことだ。
まあ、こんなハンカチのことなんかどうでもいい。
「無理しないでください。とにかく移動しましょう」
無いとは思うが、万一今田氏が戻ってきたらそれこそ本当に殺されてしまう。私も部長も共に。
私は文字通りゴミのように一瞬で、そして部長は今田氏の口振りから考えるに強姦の果て何かの試運転とやらの実験台として。
私は彼女に肩を貸すとグッと身体に腰に力を入れてその場で立ち上がる。
ぐうう──―ッッ、お、重いッ。
肩を貸しただけで、一緒に立ち上がる格好と言っても相手は成人女性。
ましてや白人とも為ればたとえ女性でも平均的な日本人女性よりかは体格も良い。
要するに体重的に重く、70の老人である私の腰には結構な負担となる。
「こほッ……はあ、はあ、だ……大丈夫……?」
ビキビキ、コキコキ、といった音でも聞こえてきそうな程腰に痛みが走る私を、助け起こされた側のキャリー部長が心配する。
これじゃあべこべじゃないか……。
「なッ、なんのこれしきッ……ぶ、部長のような女性一人くらいッ、わけありませんッ……!」
もちろんのこと強がりでしかない。ブルーカラーの肉体労働者とはいえ普段から掃除用具くらいしか扱ってないのだ。
モップに、水の入ったバケツに、雑巾。トイレ掃除ではホースにデッキブラシ。その他では箒にちりとりに掃除機。
全部が女老人でも扱える程度の重量しかない。普通に考えるなら女性の体重を支えられる体力が付くわけ無くて当然の事。
しかし。しかしだ。
そんな非力な男である老人の私にだって男の矜持くらいあった。
太ってるわけでもない若い女性一人助け起こせなくてなにが男か。
「ふんぬぬぬぬ~~~ッ!!!」
「キャッ、ちょっ、無理しッ、けほッ」
「だ、大丈夫ですッ、大丈夫ですのでお気になさらずにッッ……ッッ」
男には無理をしなければならないときだってあるのです。
もう此処まで来たらと気合いを入れて、左腕を部長の膝裏に。
右腕を背中と腰の間くらいに入れて、腕と腰の筋肉に力を入れ部長を横抱きにして抱え上げた。
世に言うお姫様だっこ、腹の辺りまで持ち上げるのが限界で決まり悪くとも私はキャリー部長をお姫様だっこにしていたのだ。
彼女の柔らかい体は良い匂いがする。背中に添えた手に触れる長い金糸の感触もさらさらで気持ちが良い。
とても肉感的な身体だ、年寄りの私でも興奮を覚えてしまうようなスタイル抜群の白人美女だ。
メル=キャリー監査部長をお姫様だっこするなんて、まず間違いなく幸せで最高の瞬間なのだろう男としては。
だが、実際はぷるぷると震える手。
ガクガクと笑う膝と脚。限界を超えるか超えないか。
その究極の線上で彼女を抱き上げている私には、密着する彼女に劣情を催す余裕さえなかった。
「ぶ、部長ッ、でッできればですが、首に掴まるかなにかしてくださいぃぃぃ──ッッ」
「こ、れで。いい、かしら?」
部長が腕を回してくる。私の首で交差させてぶら下がるように抱き着いてくれる。
お陰で少し楽になった。密着度は上がった物の、いまだ手足はぷるぷる頭は重い重いと苦しみのみを伝えていたので彼女の容態以外に思い馳せる思考は生まれなかった。
彼女、これまでずっと息が上がりっぱなしなのだ。今田氏に暴行されたから?
理由は不明、ただずっと「はあ、はあ」と息苦しそうな呼吸を繰り返していた。
とにかく今は休める場所へ移動することが先決のようだ。急がねば。
「と、とりあえずッここから私の家まですぐですのでッ、一時避難しましょうッ」
そうして彼女を抱き上げたまま私は急いでその場を離れることにした。