夫婦
〈トロイの木馬〉の手で引き起こされた連続殺人事件。その只中にあった吹雪の山荘に於いて、はじめと奈々は深く交わり身体を重ねた。
切っ掛けはどうあれ、抱き合うことで生まれた縁と心の結びつきは、やがて二人の関係を変えていく。
そう、一夜の交わりで終わらせることはない、本当の男と女の関係へと。
雪に閉ざされし山荘より始まったその関係は、やがて一つの部屋、一つのベッド、一つの枕で眠り、毎夜身体を重ね合う今へと繋がる。
積み上げられていくのは唯々愛欲に満ちた日々。
自分を救ってくれたはじめに抱かれる日々の中、荒みきっていた奈々の心も徐々に平穏を取り戻していった。
そうして辿り着いたこの場所で、彼女はいま己の腕に一人の赤子を抱いていた。
ふくよかでぷっくりとした体つきの健康その物な男の子を。
「ほ~ら優太~、おねむのお時間よ~」
優しい子に育って欲しいという思いを込めて“優太”と名付けられたその赤ん坊は、その名の通り手の掛からない大人しい子だった。
つい先程まで元気におっぱいを飲んでいたかと思えば、お腹がいっぱいになった事で満足したのか? いつの間にか眠りに就いて静かな寝息を立てている。
そして、そんな様子で赤ちゃんを抱く奈々の背後では、はじめが彼女の長い髪を手で持ち上げて指を絡めながら優しく撫で梳いていた。
いや、正確を期すのならば“梳いている”ではない。梳いていたのは先程までであって、いまは梳き終わった髪を束ね持ち彼女の頭の高めの位置にて絞り上げている処である。
「痛くないか?」
奈々の後頭部に髪を集めて抑えながらぐっと握られたはじめの左手。
その親指と人差し指の間より尻尾のように垂れている長い髪の束を見遣りながら一言訪ねた彼は、手にした髪ゴムを絞り上げ束ね持った髪束の根元へと上手く通していく。
「ええ、大丈夫よはじめ君。痛くないわ」
自身の髪が頭の後ろ上方に絞られるのを感じ取った奈々は今くらいが丁度いい絞り方であるとだけ伝えた。
あまり絞られすぎると頭皮までが引っ張られて痛いものだが、加減の分かっている彼が痛みを感じさせるほど強く絞ることもないので安心して任せられる。
「いつもありがとう」
「気にすんなよ。俺も好きで奈々の髪を触ってるんだからさ」
そう、いまはじめは奈々の髪の手入れをしていたのだ。
いや手入れだけではなく、手入れを終えたその手で彼女の髪をポニーテールに纏めようとしている処であった。
彼が好きでやり始めた奈々の髪の手入れは此処最近では毎日の事となっている。
切っ掛けは奈々が子供への授乳を行っている時。手持ち無沙汰となる彼が彼女の髪を弄って暇を潰しながらふと思い付いたのだ。
散々好きに触るのだからこれくらいはしてあげようと。
子に母乳を与える奈々に対して自分は何もできない。
こと子育てについては女と違って観てあげる以外に男には何もできないのが当たり前なのだが、それを良しとするようなはじめではなかった。
自分は子供を観ていることしかできないのは確か。
母乳を与える彼女の姿を黙って観ているだけ。
それならば母乳を与えている間にできることはないかと思い付いたのが、自分が良く触っている彼女の髪の手入れであった。
そうして行い始めた彼女の髪の手入れ。今では結ってあげるまでになっていた。
もちろん彼女が髪を下ろしたままでいるつもりの時はその限りではないが、括るという時のみという話で。
「でもはじめ君最近なんだか凄く慣れてきた感じしない? あたしが自分で纏めるのと殆ど変わらないわよ」
“感じ”ではなく実際に慣れている様子だ。
最初の頃は縛りが緩かったり逆に絞りすぎで痛かったり。
また括る位置が変であったりと散々で首の後ろに一纏めにするだけという簡素な髪型のみにされていたが、今ではポニーテールも結えるようになっていた。
「そうか? う~ん自分じゃ良く分からないけどそんなもんかなぁ。まあなんだかんだで結構弄らせて貰ってるしな」
実際に良く触られている。無論奈々ははじめに髪を触られることに抵抗感など微塵もない。
愛する男性に髪を触られるのはむしろ女として嬉しいからと、今みたく全て任せることにしているくらいなのだから否やはないだろう。
「それに俺もロン毛だしゴムの扱いにある程度慣れてるってのもあるか。ま、ちょっとは慣れてるって言っても奈々の髪くらい長いとなれば流石に勝手が違ってくるんで最初はポニーテール一つにしても上手く結えなかったけどさ」
一応自身がロン毛であるはじめは髪ゴムの取り扱いや纏めたりすることにそれなりの自信はある。
ただ幾らロン毛といっても奈々ほど長いわけでもないので最初の方は失敗ばかりしていたのだ。
「でもやっぱり感覚の掴みやすさで言えば普段髪弄る機会無い奴よりかはずっと上の自信があるぜ」
そう言うと彼は絞り上げた髪の毛の束をゴムの輪の中に通し慣れた手付きで纏めていく。
束をゴムに通して輪の中から抜き、根本をキュッと強めに引き絞り、絞ったことで出来る余り部分のゴムの輪に再び髪の束を通す。
そうやって二度三度と同じ作業を繰り返しながら、後頭部高めの位置に髪を絞り上げ作ったのは、背の中程より少し下まで届く一本の長い尻尾──ポニーテールだ。
「こんな感じかな?」
綺麗に結い上げたポニーテールにもう一度指を通し梳いていく。
長い尻尾の中を通る指には毛先へと抜けるまでの間に幾度かほつれと思わしき引っ掛かりを覚えたが、その感触が取れるまで梳き続けていると次第に滑らかで触り心地の良い質感のみが残るようになる。
「お、イイ感じになってきた」
五本の指に髪の毛を巻き付かせて弄びながらその艶のある尻尾の感触を楽しむはじめ。
後れ毛とうなじが色気を醸し出して目もまた楽しませるのがポニーテールの良いところだ。
さらさらとして艶のある滑らかな長い髪の束は絹糸のように細くきめ細やかで、青みのあるその黒髪が蛍光灯の明かりに照らされ光沢を放っていた。
「気持ちいいわ……」
奈々は髪への愛撫に、頭や首に触れる手の感触に目を瞑り、うっとりとした呟きを漏らす。
伝わり来る手の温もりが実に気持ち良い。
自然と笑みを零し小さく息を付きながら仕上げのときを待つ。
「よし、ほつれも取れたみたいだ」
はじめの指に絡まる髪の毛がするっと抜けていく。
先程引っ掛かったような違和感は完全に取れて手に残るのはたださらりとした触り心地のみ。
「うん、綺麗に括れてるみたいね」
彼の手で括られた髪の束を鏡越しに観る奈々も完璧な仕上がりを観てそう口にし微笑んだ。
「もういっそのこと今度からは全部美容師はじめ君に丸投げしちゃおうかしら?」
彼女としては別にそれでも良かった。はじめに髪を触られるのは嬉しいし心地良いから。
だがレパートリーの少ないはじめとしては少々困りものなのだ。
「いや別に構わないけどさあ、けど俺に出来るのって首の後ろで一つに纏めるだけかポニーテールだけだぜ? 他の髪型にしてくれって注文されても無理だからな」
無論頼まれれば丸投げされるつもりのはじめであったが生憎と結わえられる髪型は二つだけ。
首の後ろで一つに束ねるか若しくはポニーテールのみでありその他の髪型にはしてあげたくとも出来ないのだ。
といってもレパートリーが少ないのは彼が男である以上仕方が無い事と言えよう。
「いっつもポニーテールか適当に縛るだけってのはやっぱ拙いよなぁ。俺は気にならないけど奈々はさ、女だし。おしゃれとかそういうの気にすんだろ?」
はじめはあまり自分の髪型を気にしない。精々禿げたりしないかどうかを考えるくらいでいつも無造作に縛っているだけ。
まあ殆どの男はそうじゃないかというのは彼の勝手な思い込みに過ぎないのだが、少なくとも男というのは女性よりは気にしない物だと思っている。
しかし奈々は違う。女である以上髪の手入れに髪型にと色々考えることが多く、はじめとしても折角髪が長いのだから色んな髪型にしてみるべきだと思っていた。
奈々と同じく髪が長い美雪など恋人である草太とのデートの度に変えていたが、髪型が違うだけでその女性が持つ魅力は常々変化し男を魅了するようで、草太曰く「少しの変化で全く違って見える」のだという。
これについてははじめも全くの同意見だ。
奈々の髪型が変わるだけで何か胸にくるものを感じていたし、明らかに違う印象を受けていた。
そんな身近な例からして愛する女性の魅力を引き出してやるのもまた男の義務の一つだと考えていたが、三つ編みにしてくれだのお団子状の纏め髪にしてほしいだのと頼まれたところでやり方が分からないのだ。
女性の髪を結うのはコレで結構難しく、何度も練習してようやっと感覚が掴めてくるもので一朝一夕にできるものではない。
後頭部で絞り一本に纏めるだけという割と簡単なポニーテールを完璧に結えるようになるまでにそれなりの時間が掛かっている処からしても明らかだ。
故に無理だと答えたはじめであったが、奈々の方はまた異なる考えを持っていた。
「それなら練習してみない? 纏め髪なんか一見難しそうに見えるけれど慣れたら意外と簡単よ? あたしとしてははじめ君に髪を結って貰うの好きだから幾らでも付き合ってあげられるしね」
女というのは愛し信頼する男に自らの髪を触らせようとする処が往々にしてあるもので、奈々もその例に漏れず。
他の髪型が難しくて無理だというのなら何度も練習して覚えれば良いだけ。
暇なときや寝る前、風呂上がりなど、幾らでも機会はあるから是非ともやってみろと。
「あ~そうだな~……。う~ん……。わかった。そんなに言うなら明日からでも早速練習させて貰うか」
此処まで申し出られては引き受ける他ないだろうと、今し方結い上げたばかりのポニーテールを触りながらはじめは呟く。
自分で括ればとは言わない。奈々が自分で出来るのは当たり前であるしなにより彼女の髪を触るのは好きなので別に苦でもない。
髪を触る事を楽しみながら練習させて貰えばいいだけだとして。
女が愛する男に髪を触らせたいのと同様に、男もまた好きな女の髪を触りたいという事だ。
「でも女の髪ってのは観れば観るほど本当に綺麗で魅力的だよな。どれだけ触ってても飽きないし触れば触るほど癖になる」
「うふふ、それはしっかり手入れしてるもの。ほら髪は女の命っていうじゃない? 女だったら誰でもそんなものよ。テレビのシャンプーのCMからして髪を美しく保つ事を強調した内容になってるでしょ?」
「ああ~、まあ言われてみればそうだな」
彼女の背中にさらりと垂れ下がった長い尻尾へ顔を近づけたはじめは彼女に答えながらそっとキスをする。
「でも幾ら完璧な手入れしてたって男じゃこうはならないな。艶々してて光沢があって滑らかなのはやっぱり女の髪特有のものだと思うぜ」
鼻腔を擽る仄かな髪の香り。鼻から入るその何とも言えない甘い香りは、まるで脳の隅々まで染み渡っていくようにさえ思えた。
「男が髪伸ばしたってこんな綺麗にはならないし」
はじめの身近に居るロングヘアの女性と言えばまず誰よりも真っ先に奈々があがる。
続いて幼馴染みの美雪にアイドルの速水玲香だ。
この中で毎日のように触っているのは無論のこと奈々の髪の毛。というよりも奈々のしか触っていない。
思うままに触り、弄び、香りを嗅ぎ、屡々風呂で洗わせて貰うこともある長く綺麗で触り心地の良い彼女の髪には性的興奮を覚え、時にして貰う髪の毛をペニスに絡みつかせての愛撫など癖になるほど気持ちが良い。
奈々だけではなく、美雪や玲香の髪にも触れたことがある。
無論彼女達も今は特定の恋人とお付き合いしているのでその様なことはないし、はじめ自身あの電脳山荘で奈々を抱いた夜からは彼女以外の女性の髪に触れた事はないのであくまでも昔の話だが。
しかしやはり二人の髪も男特有の硬い物ではなく細く柔らかく艶のある、女だけが持っているであろう髪質だったのはよく覚えていた。
「そういうはじめ君も男の子にしては少し長い方だけれどね」
そして奈々の言うとおりはじめ自身もそのロングヘア、ロン毛のカテゴリー内に入るくらいには伸びている。
但し男にしては長いと言ってもそこはそれ。
腰近くまで届くような奈々や背中まで届く美雪の髪のような本格的なロングヘアではなく肩までの長さ。
それ以上は伸びないように切っているからまあ当たり前だが。
「男のロン毛と女のロングヘアは全く意味が違うし別物だってェの。だいたい自分のも含めて男の長髪に色気とか性的興奮なんか覚える変態じゃないぜ俺は。それに興奮する髪ってのはさ、こういう──」
はじめはそんな主張をしつつ彼女の艶やかな髪の束に鼻を埋めたまま舐めてやり、毛髪の舌触りを楽しみながら顔の角度を変えて更に前へと進む。
「奈々の髪みたいに長くて」
「んっ……・」
「綺麗で良い匂いで……、艶々した……、男の本能を刺激する女の髪のことを言うんだよ」
厳密に言えば長くても短くてもどちらでも良い。男はそれが女の髪ならば触りたいし匂いを嗅ぎたくなるものだ。
奈々の髪が長いというだけであってこれが仮にショートであったとしても触りたいし匂いたいと思う。
長い髪には長いなりの、短い髪には短いなりの魅力というものがある。
もちろんはじめは以前彼女から聞かれた時に答えたとおり長い方が好きであったが、正直な処は好きな女性の髪であれば長短どちらでもいいのだ。
身近にいた異性である幼馴染みの美雪の髪が長くてずっと目にしてきた所為か長い方が好みになっていただけ。
そして初めて性交を交わした女である奈々が偶然にも長かったのと、その後にこうして互いに好意を抱き愛し合うようになったというそれだけのこと。
好きな女の髪だ。長くても短くてもやはりその女の、はじめの場合は奈々の髪を好きになるのが当たり前であった。
ただそれは女の髪。さらに踏み込んで好きな女の髪のことであって男の髪なんて触りたいとも思わない。
ましてやこうして鼻を埋めて匂いを嗅ぐなど絶対にゴメンだ。
「でもさ、女なら誰でもいいってわけじゃないんだぜ……、いまのは男としての一般論を言っただけで俺は奈々の髪がいいんだ」
心の底から愛している奈々の。
「奈々の長くて綺麗な髪が……、好きだからさ……」
はじめは鼻と頬に触れながら通り抜ける髪の束の向こう側、うなじに沿って舌先を這わせつつ右の首筋に唇を付ける。
「はっ、ああっ……!」
「奈々が好きだから……」
奈々の全てを愛しているから。
「ふあぁ……、んっ……」
湿った唇の粘膜が肌の上を這い、奈々の女の部分を刺激する。
感覚などない髪を舐められただけでも興奮するというのに、肌を直接ぬめり濡れた舌でなぞられては嫌でも身体が反応するというものだ。
「んぅ……!」
首筋から伝わる舌の湿った感触と、吹き掛かる息を感じ、ジュン、と下着が濡れてくる。
股間に入るクレヴァス周りに滲み出てきた粘性の液体が下着に染み込んでいるのだ。
濡れた下着は流石に気持ちが悪く、行為へと至る至らないに拘わらず脱ぎたくなってきた。
「だ……めぇ……っ」
股間を濡らして疼きに堪える奈々の柔肌。
付けられたはじめの唇が、強めに吸い上げられキスマークを作られる。
「はっ、んふぅ……!」
「奈々……んちゅ、〈ぱとりしあ〉……ちゅっ、いい……匂いだ……」
はじめもまた己の首や頬に触れて擦れるポニーテールの感触と髪から舞う香りが心地良く、敏感に反応した一物がトランクスを盛り上げてきた。
早く奈々と、〈ぱとりしあ〉と一つになりたいという彼の意思を代弁しているかのようだ。
「ひ、はァっ」
「んちゅ……、もう寝ちまったのか……」
彼はうなじを舐められて小さく喘いだ奈々の声を聴きながら、彼女の腕に抱かれたまま静かな寝息を立てている赤ん坊へと目を移した。
「優太は……ちゅ」
金田一優太。この冬に奈々が生んだ己が息子。
つまりはじめと奈々の間に生まれた子供であった。
「んっあ──んッ、んんっ……っ! あっ……はあ……、ん……んう……、えっ、ええ、寝てる、わ……」
はじめが目を向けたように奈々も己の腕に抱いたままの優太へと目を移す。
「ぐっすりと、ね……」
はじめと優太の姓は生まれた時より『金田一』。
そして元の姓は『浅香』であった彼女、浅香奈々は、今年の八月より浅香から金田一姓へと変わり『金田一奈々』となっていた。
“金田一”という名字が示す意味。それは、はじめと奈々の間柄が正式な夫婦関係にあるということ。
夫婦のような恋人関係ではなく書いて字の如く“夫婦”。
夫と妻、旦那と嫁、二人は愛し合う男女の最たる関係を築いていた。
そう、法的に認められた夫婦としての関係を。