「……ここを翻訳すると、一行は霊が出るという噂の旅館に文芸部と偽って、1泊したっちゅう意味になって……」
いつもなら、頭の中には入らないけど真剣に聞き入るであろう香子先生の授業さえも、中途半端に聞き流す。今、僕の頭の中は明日開催されるコミックマーケットのことでいっぱいになっていた。
――広いスペース……たくさんのコスプレイヤー……
今回のコミケは、従来の市民会館4階の小ホールではなく、一駅先の産業会館だった。しかも、会館全体を貸し切っての開催ということなので、大規模なイベントになることは想像に難くなかった。
――サークル巡りはともかく、今度こそコスプレ撮影をしたいものだな。
過去2回の参加では、いずれもエセカメラマン連中の人間バリケードに阻まれて、撮影はおろか声すらもかけること叶わず1枚も撮れないまま終わりを迎えてしまった。だから、今度こそは2度あることは何とやらではなく、3度目の正直といきたいところである。
「……そこで水が流れなくなった時、二人の男女は確信するんです。これこそが霊的現象のミステリーだと」
話の内容も興味深かったが、それ以上に熱弁を奮う香子先生の姿が可愛らしくも美しくもあり、愛しかった。僕のクラスの担任でもある彼女は、果たして明日のコミケに来るのだろうか。直接本人に聞いてみたいのはやまやまだったけど、来ないと言われた時のガッカリ感が嫌だったので、僕は敢えて聞こうとはしなかった。
そして迎えた日曜日、僕の姿は言うまでもなく産業会館の前にあった。
――まだまだ暑いな~~……
自転車を走らせて約30分、小休止をせず駆け抜けた体がちょっとだけ汗ばんでいる。時刻は現在10時半。またしても、早めの行動が無駄な空白を作ってしまうかのような時間帯に到着してしまっていた。
――水分補給でもしよう。
僕は会館脇の自販機でペットボトルのミルクコーヒーを買うと、近くにあった少し古ぼけたベンチの上に座った。本来なら、こんな時はお茶かコーラ辺りを飲むのが筋なのだろうが、風が心地良くあまり暑くなかったので、個人的な嗜好を優先してコーヒーを選んだのである。
「はー」
半分以上を一気にグイッと飲み干して大きく息を吐く。
「なーに日曜日の朝から黄昏(たそがれ)てやがんだよ辛気くせぇ」
すると、そんな僕の元へ見覚えのある女の子がやって来た。
「よっ、久しぶりだな健二」
「君は確か、桃美ちゃんだったっけ」
彼女の名前は丸尻桃美。夏休みの帰省時に寄ったリサイクルショップで知り合った、アルバイトの女の子である。
「へへ。俺のことをちゃんと覚えてるたぁ可愛い野郎じゃねーか」
桃美ちゃんがニヤニヤしながら僕の隣にドカッと腰掛ける。そして、腕を回して僕の肩を無理やり抱き寄せてくる。
「お前も今日のコミケ参加するんだろ?」
「おいおい、今ここに来ている相手にそんなこと聞いてくるのは野暮ってもんだろ」
まさに聞かなくても分かるような質問というヤツである。
「やっぱアレか? 目当てはコスプレギャルの撮影とエロエロ同人誌か?」
「うーん。大体みんな、それが目的だったりすると思うんだけど」
むしろ、他に何を求めてわざわざ入場料を払ってまで参加する必要があるというんだ。いや、上級者になると、女子レイヤーのお持ち帰りが目的だなんて人もいるという話だけど。
「なぁなぁ、ぶっちゃけ撮影中にチンポが勃ったりしたらどう対処してんだよ、オイ」
「知らないよ。そもそもこういう会場で勃った経験なんてないし、それ以前に撮影が出来た試しすらないし」
脳裏に否応なくエセカメラマン連中の悪どい顔が浮かび上がってくる。それを思い出すだけでも、勃つどころか萎えてくる気分である。
「けっ、相変わらず寂しい野郎だなぁ。だったら景気づけに俺がチンポ勃たせてやるよ」
「ちょ、ちょっと」
何を思ったか、桃美ちゃんが急に僕のペニスに手を伸ばして愛撫を仕掛けてくる。
「ソレでっかくなーれ、でっかくなーれ」
「わ、何かやらしいその言い方。でも、これは……」
桃美ちゃんの気持ちは嬉しかったが、外でこれをやられると周囲の目が怖い。特にエセカメラマン連中や単独参加の男どもに見られでもしたら、変な妬みを買って後でシバき倒される典型的なパターンだ。
「今は人がいないからいいけど、そろそろ集まってくる頃合いだし……」
「だったら来る前に一発ビュルッと出しちまおうぜ、ほれほれ」
弱腰な制止を一蹴するかのように愛撫にますます熱がこもり、ペニスが刺激を受けてくる。僕がグイグイと胸を押し付けられながらも、どうにか止めさせようと思索していたその時だった。
「こらーっ! 健二お兄さんのオチンチンをオモチャにするなーっ!!」
「あっ」
またしても、僕の元へ見覚えのある女の子がやって来た。
「お兄さんのオチンチンをモミモミしていいのは未衣だけなんだからね!」
この子の名前は又下未衣。コミケを通じて知り合った、現役小学生の女の子である。
「何だよ健二。お前、こんなガキにチンポしごかせたりしてんのかよ」
「だからつまり、これは……」
「違うよ。未衣が自分からお兄さんのオチンチンをケアしてんの。だって未衣とお兄さんはエッチはまだだけど、心も体もつながってる、そんな関係だもんねっ」
僕の釈明を遮るかのように未衣ちゃんがフォローを入れながら、膝上にドカッと乗っかってくる。
「痛っ」
ペニスの上に添えていた手が未衣ちゃんのお尻の下敷きになって、桃美ちゃんがあわてて引っこ抜く。
「へっへ~。悪魔の手を押しのけて、服越しだけど未衣のお尻とお兄さんのオチンチンが密着しちゃったね☆」
「う、うん。とっても気持ちいいけど、さ」
ほら見ろほら見ろ、少しずつ集まってきた参加者たちが、みんなこっちを見ているじゃないか。未衣ちゃんの無邪気なスキンシップはありがたいけど、周りの視線が痛々しい。
『……!!』
生温かい目で見ている奴らはいいとして、予想通り一部の男衆は恨みと妬みと僻みのこもった視線で突き刺すような眼差しを向けてくる。ああ、間違いなく今の彼らは万遍なく殺意の波動に目覚めている。
「そこ離れろよクソガキ。健二のチンポが触れねーだろ」
「やーだよ。お兄さんの膝上は未衣の特等席なんだもん」
「まぁまぁ二人とも、もうすぐ開場時間なんだしモッコリ、じゃなかったマッタリいこうよ、マッタリと」
そんな具合に開場時間までの間を、僕たちは他愛もなくやり過ごした。周囲の視線が痛かったと言えばそれまでだったが、強制射出が避けられた上に両手に花状態を満喫出来たんだから、まぁ良かったことにしておこう……と、この時まではそんなお花畑なことを考えていたのだけど。
ドンッ!
僕は開場から1分も経たないうちに、見知った顔のカメラマン連中に開場裏へ連れ込まれ、壁に突き飛ばされた。ついでに言うと、コスプレ参加の桃美ちゃんと未衣ちゃんが更衣室に消えたタイミングを見計らっての暴挙というヤツである。
「随分と手荒いご挨拶だね。それとも最近のカメコ(=カメラ小僧)さんの間じゃ、こういう挨拶が主流だったりするわけ?」
「お前調子に乗んなっちゃ」
肩に大きなカメラを提げた背の高いカメラマンが、威嚇するかのように僕の胸ぐらをつかんでくる。
「少なくとも、君たちにそんなことを言われる筋合いなんてないと思うんだけど」
「とぼけんないや! さっき女とイチャイチャしようったじゃろうが!」
ノッポカメラマンの脇から、僕よりやや背丈が高めの筋肉質カメラマンが苦虫を噛み潰したような形相で喰いかかってくる。予想通りとはいえ、やはりそういうことらしい。つまり、僕ごときが女の子と仲良くしている光景が羨ましくも妬ましいから、一人になったところを見計らってこういう行為に及んだということ。まぁ僕だって、学校で危害を加えてくる男子が可愛い女子と親しそうに話していたら羨むこともあるから、言い分が分からないこともないけれど。
「彼女たちは僕の知り合いだ。僕が僕の知り合いと仲良くしていて何が悪いんだ?」
「何だとぉ?」
ノッポカメラマンが顔を歪めてより醜悪な表情を向けてくる。
「そっちこそ何だよ。そんなに僕が羨ましいなら、君たちだってコスプレの女の子でも同人の女の子でも引っ掛けてイチャイチャすればいいじゃないか」
「うっさい(うるさい)っちゃ」
「そうか。つまり皆さん根性が悪すぎて、女性陣も表面上のお付き合いしかしてくれないってオチなんだね」
「黙れっちゃ!」
あれ、売り言葉に買い言葉で少し言い過ぎちゃったかな。どうにも今のやり取りで、連中をカメラマンから血に飢えた獣(ケダモノ)に変貌させてしまったらしい。
「おいお前、歯の1本は覚悟せいよ!」
いや、歯の1本どころかあばら骨の5、6本は軽く砕かれそうな剣幕なんですけど――ともあれ、僕が本能的に身の危険を感じていたその時だった。
「アターーーーック!!」
バアァァァン!!!
大きな叫び声とともに、全速力のマウンテンバイクがノッポカメラマンを盛大に撥はね飛ばす。
「ぶへらあっ!」
ノッポカメラマンは汚い悲鳴とともに宙を舞うと、そのままアスファルトの地面に頭から落下した。
「お前たち、何をやっている? もうイベントは始まっているんだぞ?」
『……』
「開催時間中にこんな場所でこんなことをしているということは、コミケ自体に興味がないと見なして次回以降は全員出入り禁止措置で構わないな?」
「いや、それは……」
「だったら、早く入場するでも帰るでもしてとっとと散れ!」
『は、はい~~』
地面にのびているノッポを除くカメラマン連中は、一喝を受けるとバツが悪そうに散り散りに去って行った。
「……」
強引ながらも僕を救ってくれたその男性もまた、僕の見知った顔の一人だった。
「自警団・パイナップルパトロール第1号にして……」
「妖術の担い手・乙山さんでしたよね?」
「その通り! ……って、君はあの時の」
男性も僕を思い出したらしく、感慨深そうな目でこっちを見る。そう、この人は町の平和を守るために人知れず活躍している自警団・パイナップルパトロール創始者にして、コミケスタッフの一人である乙山カヅキ氏なのだ。
「二度も助けて頂いてありがとうございます」
「礼ならあの女子児童に言ってくれ。あの時も今回も彼女が報告してくれたから、大事に至る前に事が済んだんだ」
女子児童、つまり未衣ちゃんのことか。
「彼女、コスプレ更衣室に入る直前に君が連れ去られているところを見たらしくてな、大慌てで俺たちの待機所に駆けつけて来たんだよ」
「……」
「全く、小学生は最高だぜ。こりゃ次の同人誌もJK(=女子高生)ネタはやめにして、女子児童で決まりだな」
乙山氏の嗜好はさて置き、どうやら僕はまたしても未衣ちゃんの機転によって助けられたということらしい。いやはや、彼女への感謝は当然として、この絡まれやすい体質はどうにかしないといけないな……
「あっ、健二お兄さん!」
会場に入った僕をコスプレ姿の未衣ちゃんが出迎えてくれる。どうやら今日の衣装は、数年前に流行ったラノベ系アニメに登場した土の精霊のようだった。
「良かった、無事だったんだね……未衣、すっごく心配してたんだから」
服の袖をきゅっと握って今にも泣きそうな表情を浮かべている。察するに、僕を心配して着替えたのにコスゾーンには行かず、ずっとここで待ってくれていたということか。
「ありがとう未衣ちゃん。僕のためにスタッフに連絡してくれてたんだよね」
僕は偽らざる本心とともに未衣ちゃんの頭を優しく撫でてあげた。
「話はこのガキから聞いたよ。お前、こんなトコにまで来ていびられてんじゃねーっての」
「あっ」
そんな僕と未衣ちゃんの間に割り込むかのように、コスプレ姿の桃美ちゃんが口を挟んでくる。
「しっかしお前も大変だよな。実家じゃパシられコミケじゃいびられ、行く先々でやられてばっかりじゃんかよ」
「いや、僕の事情はどうだっていい。それよりも何だよその衣装は」
「ああこれか? うん、なんっつーかオリジナルの戦闘服っつうかよぉ」
見覚えのない桃美ちゃんの衣装は、やはり版権作品とは関係ないオリジナルのコスチュームだった。だが問題はそこではなく、その過剰なまでの肌色率だった。
「何だよ健二。俺の背中に恋しちまったってか?」
「うーん、背中と言うよりお尻かな」
そのレオタードのような衣装は、彼女の大きな胸こそピッチリとコーティングしていたものの、下半身を限りなくさらけ出していた。局所はデリケートエリアへと通じるVラインがクッキリと、バックは豊満なお尻がムッチリと。
「……」
心なしか、無意識のうちに股間が少しビビッと反応を示していた。
「ところでよ、さっき更衣室で今日のコミケにブリリーヌでコス参加する奴がいる、とか言って盛り上がってたけどお前何か知ってる?」
「えっ」
空気が一転、桃美ちゃんが口にした驚くべき名前に思わず目を丸くする。
「あっ、それ未衣も聞いたよ。詳しいことはよく聞き取れなかったけど、ブリリーヌって名前は間違いないと思う」
「まさか、そんな……」
やや懐疑的な僕に二人がにじり寄ってくる。
「なぁ、ブリリーヌって何者だ? 俺も結構オタクだったりするから、そういうの知りてーんだよな」
「うんうん、未衣も知りたい。何か知ってるんだったらお兄さんの分かる範囲で教えてよ」
「あー、うん。知ってるといえば知ってるんだけど、何分なにぶんコアなジャンルだったりするからなぁ」
「何だよ。知ってるんならもったいぶってねーで話しちまえよ。少々のエロなら喜んで聞いてやるからさー」
「そうだよ。未衣も海よりも広いお兄さんのエロスをちゅーちゅー吸って、エッチの知識を蓄えたいもん」
僕のエロスが海よりも広いって、それは褒め言葉になるのだろうか……だけど、知りたがりな二人を前に口ごもっていても始まらない。
「分かった。でも、人目につかないところで話そう」
僕はゆっくりと口を開きながら、二人を連れて会場の隅へと移動する。
「確かにエロはエロだけど、これは特殊性癖の領域になるからね」
そして、やや声のボリュームを下げて二人が気にしている『ブリリーヌ』について語ったのである。
「……」
ブリリーヌ。それは、昨年の夏に発売されたPCゲーム『トイレの女神・ブリリーヌ』のメインヒロインの名前である。これは、いじめを受けて登校拒否となった主人公と、そんな彼のために押しかけのカウンセラーとして現れた女性――ブリリーヌの心の交流を描いた純愛系のエロゲーなのだが、とにかく完成度が高い。サウンドや絵柄・ストーリーといった基本的な面に関しては及第点を気持ち上回る程度なのだが、この作品の最大の長所はご褒美グラフィックの一言に尽きる。
「では、朝の排泄をいたしますのでとくとご覧あれ」
早起きを定着させる意味合いで、主人公は毎朝排便に付き合わされるのだが、その度に彼女の和式便所での排泄シーンが専用CGはもちろんのこと、音とセリフ付きで楽しめるのである。しかも、その便質が主人公の精神状態に応じて、下痢便だったりカチカチ便だったりするのだから芸が細かい。ついでに言うと検尿イベントでは、顔を近づけすぎて主人公の顔に飛沫がかかってしまうのである。
「〇〇君。完全に立ち直った君に、教えることはもう何もありません。明日からはその足で、しっかりと現実に踏み出すのです」
最終的に主人公が立ち直ればそんなセリフとともに別れを迎えて数日後、4月の新学期に復学した主人公の入る新しいクラスの担任は……なんてロマンチックなオチでエンディングがやってくる。逆に引きこもりのままだと、スカトロ嗜好に目覚めた主人公は謎のAVメーカー「排泄菊門会」にブリリーヌともども入会して、それぞれが助手と女優をしながら新しい人生を歩む……というエロチックなオチでエンディングがやってくる。
ちなみに、ブリリーヌなどといってもその正体は異世界系でも外国人でもなく、れっきとした日本人女性で和式便所の似合う天然系のムッチリ美人である。
「……とまぁ、そういうゲームのそういうキャラだというわけだ」
『……』
僕の説明で分かったのか分かってないのか、二人が微妙な表情を浮かべている。
「で、もう一つちなみに言うと、彼女の本名は西村香(かおる)っていうんだ。どこぞのヒロインによく似た名前だけど、別に主人公がモッコリさせてても100tハンマーは出てこないから安心してくれ」
『……』
ちょっとふざけたつもりだったが滑ったか、と思ったら。
「なるほど分かった。要するにブリリーヌってのは、エロゲはエロゲでも排便上等のまさにクソゲーの部類に入る作品のキャラってわけだな」
「クソゲーって言うなよ。これは立派な純愛系スカトロジーというジャンルを作り上げた、草分け的作品だぞ」
「うんうん。それでお兄さんも、もちろん買ってクリアしたと」
「当然じゃないか。これは僕の人生最初のエロゲーだったんだぜ。そりゃもう1週間で全CGフルコンプまでしたさ」
親指を立ててポーズを取り、熱狂ファンぶりをアピールする。
「ま、健二だもんな。それぐらいの変態嗜好を発揮してこそのお前、ってことだろう」
ギュム。
桃美ちゃんが僕のペニスを握ってからコスゾーンへと向かう。
「言うなればお兄さんは『夢見るスカトロジスト』だもんね。だけどそんなお兄さんが未衣、大好きだよ」
ギュム。
未衣ちゃんも僕のペニスを握った後で桃美ちゃんに続く。
「それじゃあ俺たちゾーン入りすっから後で来いよー」
「今日こそはお兄さんにたっぷり撮らせてあげちゃうんだからねー」
気がつけば、いつの間にやら意気投合していた二人は仲良く仕切りの向こうへと姿を消した。今日会ったばかりでさっきまでいがみ合ってたはずなのに、一体何があの二人を接近させちゃったんだろうね。
いやはや、乙女心って分かんない。
歩けども歩けども、目ぼしいものは見当たらない。探せども探せども、目を引くサークルが見つからない。それもそのはず、Juicy Fishをはじめとする注目のサークル陣は、商業用アンソロジーの執筆のために今回のイベントを欠席しているのである。
「あれ? 君は以前フリマで出会った男の子じゃないか」
「おや、そういうあなたは」
そんな中、一人ほど見知った顔に出くわした。前にフリマにて色々な意味で僕の中に鮮烈なインパクトを残した奇妙な漫画家兄弟の弟――サキマ羊(ひつじ)である。
「良かったら見て行くといい。饂飩飩(うどんどん)は君のようなオタクを常時歓迎する」
「は、はぁ」
饂飩飩とはまた随分と変わった名前のサークル名である。
「じゃあこれを」
特に買おうと思ったものはなかったが、ふと目についたので僕は小学生の女の子が便器に跨っているキーホルダーを手に取った。
「素晴らしい!その子はつぐみちゃんといって、衆人環視の中での排便を余儀なくされて恥ずかしくて便秘になっている女の子なんだ」
「えっと、周りで人が聞いているからもう少し小声で……」
「お買い上げ一丁! 和式にしゃがんでお尻をさらす便秘少女・つぐみちゃんねっ!!」
「――ッ!」
あまりの気恥ずかしさに、僕は代金を払うとキーホルダーを胸ポケットに入れるとそのまま走り去ってコスゾーンへと向かった。
「健二君! 本日よりつぐみちゃん係は君に一任するっ! 彼女のお尻は君の物だ!!」
多分悪気はないとはいえ、背後からものすごい言葉が飛んでくる。確かにあの性格では、彼が望気荘を追い出されたというのも十分に納得が行く。
――あ~~厄日だ厄日だ、本当にもう!
結果的に僕は前回まで重点を置いていたサークル巡りをわずか十数分で済ませ、早々と仕切りの向こうに足を踏み入れたのである。
「すみません、写真撮らせてください」
「はい☆」
見ず知らずの美女に声をかけて、4枚ほどコスプレ写真を撮影する。これまで何度となく人間バリケードに妨害され続けていた僕だったが、3度目のコミケ参戦でようやくコスプレ撮影に成功した。今回は会場が広くコスプレ参加者が多かった上に、先ほどの会場裏での一件でカメラマン連中が僕に尻込みしていたのもあって思いの外ほか円滑に撮影が進んだ。
――カメコってのも案外悪くないものだね……
Vサイン、見下ろしポーズ、全身、超アップ。僕のリクエストに笑顔で応じるレイヤーさんたちに、心が弾んでくる。しかし、全てが良い方向に向かっているのかというと、そういうわけでもなく。
ドンッ!!
撮影の途中で本日3度目の突撃を受けて転倒する。
「痛ったぁ……」
「大丈夫ですか?」
「あ、うん、問題ないから撮影続けましょう」
3回とも、会場裏で僕に絡んだノッポカメラマンの隣で険しい形相をしていた、筋肉質カメラマンの仕業だった。
「……ふん!」
ぶつかった後で一旦こっちを睨み付けてから移動する。偶然を装っているつもりなのだろうが、態度と雰囲気でワザとやっているのが丸分かりである。
――全く、そこまで根に持つようなことなのかね……
苦笑いを浮かべながらも、これまでずっと人だかりで近付きようのなかった桃美ちゃんと未衣ちゃんの周囲がまばらになってきたので、撮りに行こうと歩みを進める。だが、ここでついに事は表面化を迎えてしまうのである。
「!!」
ドゴオッ!!!
盛大なタックルを受けて肩から派手に転倒する。
「な、何だ」
思いきり打ち付けた左肩をおさえながらゆっくり立ち上がると、やはりそこに筋肉質カメラマンがいた。
「あっ、ごめん。急いじょったけえ見えんかったわ」
棒読みの「ごめん」に思わず怒りが込み上げる。
「アンタ、さっきから絶対にワザとやってるだろ。いい加減やめてくれないか、気分悪いんだけど」
「ええじゃろうが別に、ぶつかろうがぶつかるまいが俺の勝手いや」
「アンタはそれでいいかもしれないけど、僕が迷惑なんだよ」
気がつけば周囲がざわつき、撮影行為が一切中断状態に入っている。
「なに、文句があるんじゃったら今度はワザと殴っちゃろうか?」
周囲になど一切目もくれず、筋肉質カメラマンが乱暴に胸ぐらをつかんでくる。
「それは名案だ。だったら次回以降はアンタの顔を一切見なくて済むだろうから助かるよ」
「何だとコイツ、言わせておけば!」
「オジサン! 何おかしなことやってるのっ!!」
険悪な雰囲気の中で、未衣ちゃんがカメコの輪をくぐり抜けて仲裁に入ってくる。
「さっきから見てたよ! お兄さんに何度もぶつかってたの、ワザとやってたんでしょ!!」
だが、そんな未衣ちゃんの言葉もどこ吹く風といった具合に鼻で笑われる。
「とにかくお兄さんを離しなさい!」
「やめろ未衣ちゃん、こいつは……」
「うるせえっ!!」
危険を感じて口を挟むも手遅れだった。筋肉質カメラマンは、そのいかつい手で止めようとした未衣ちゃんの小さな体を叩き飛ばしたのである。
「きゃあっ!」
未衣ちゃんの体が宙を舞い、背中から床に落ちる。その光景が痛々しく、僕は思わず顔を歪めてしまった。
「お前のせいじゃけえの。お前がいらんこと言うけえ、ガキがああいう目に遭ったんじゃけえの」
「アンタ、よくも恥ずかしげもなく抜け抜けと!」
目の前の下劣にして愚劣な男を前に、僕が心の底から怒りに打ち震えていたその時だった。
「うらあっ!!」
じっと見据えていた筋肉質カメラマンの体が軽々と持ち上げられ、頭から床に叩きつけられる。
グジャァッ!!
「ぐへらっ!」
そして、虫が潰れるような汚い音とともに醜い悲鳴が漏れる。
「おいオッサン、今のは流石の俺も頭に来ちまったぞ!」
そこにいたのは、美麗ながらも鬼のような顔をした桃美ちゃんだった。一目見ただけで何やらヤバいオーラが湧き起こっているのが分かる。
「大人しい奴に醜い嫌がらせを繰り返した挙句に、止めに入った小学生の女の子に暴力たぁゲスのゲスだなてめぇはよっ!!」
豪快なバックドロップだけでは飽き足らず、桃美ちゃんが馬乗りになって筋肉質カメラマンの悪党面を殴打する。
「うらうらうらうらぁ! 根性が曲がってるついでに鼻も曲げてやらぁ!!」
「やめろ、桃美ちゃん! こんなことしてたら君まで出禁をくらっちまう!!」
パンチの数が10発を数えたところで桃美ちゃんを止めに入る。筋肉質カメラマンの顔面がどれだけ変形しようが知った話ではなかったが、こんな奴のために桃美ちゃんまでもが出入り禁止処分をくらってしまうのは何としても避けたかった。
「るっせー!! いくらお前の言い分でもこいつだけは許せねぇんだよっ!!」
「!」
止めようとした手を乱暴に払いのけられる。
――マズいな、これは!
ありがたいながら、頭に血が上り過ぎていた桃美ちゃんに困り果てていたその時だった。
「そこまでです。過剰な暴力はそこでおやめなさい」
澄んだ声音とともに、コスプレゾーンに眩しい肢体をさらけ出した女性が姿を見せたのである。
「……!」
その女性の登場とともに辺りが色めき立ってくる。
「おい、マジかよ!」
「すっごーい。あれ全部お手製でしょ?」
「間違いないだろ。だってアレの衣装なんか売ってるはずもねーし、オーダーメイドなら数百万はするだろうからよ」
金色の超マイクロビキニと、隠すべき部位を全く隠せていない金色の腰蓑(こしみの)。神秘さを醸し出す、エメラルドグリーンの髪飾りときらびやかな銀色のアンクレット。
間違いなくそれは、トイレの女神――ブリリーヌの化身とも呼ぶべきコスプレ姿の女性に他ならなかった。
「我が名は女神・ブリリーヌ。何があったのかは存じませんが、眼下のその者はもはや動ける状況にありません。そこまでやったのならもう十分というものでしょう」
「えっ、アンタが噂のブリリーヌだったりするのかよ、って」
ブリリーヌの登場に驚き、すっかり殴る手を止めていた桃美ちゃんがじっと下を見やる。そこでは、先ほどの言葉通りすっかり鼻の曲がった筋肉質カメラマンが、血を流しながら目を剥きアガアガとうめき声を立てていた。
「これ以上の暴力は、今後のあなたの活動にも支障をきたします。この先に進むと戻れなくなる可能性が十分に考えられます」
「……」
その神々しい空気に気圧されたのか、桃美ちゃんが大きく息を吐いて立ち上がる。
「……分かったよ。アンタに言われちゃ、何だかもうどうでも良くなっちまったぜ」
どうやらブリリーヌの御言葉は、桃美ちゃんの怒りの炎を鎮火させたみたいである。
「よろしい。その心、ゆめゆめ忘れえぬように」
ブリリーヌのその言葉はどこか優しく温かく、気がつけば辺りは拍手喝采に包まれていた。カメラマンたちが、コスプレイヤーが、一般の参加者たちが、果てはスタッフまでもがブリリーヌの降臨に心からの祝福の気持ちを送り続けていたのである。
――素敵だ……本当に素敵だ……
かく言う僕も周囲に流されたわけではなく、その美しくも艶めかしい御姿に心を奪われて拍手の音を奏で続けていた。
「……とっと!」
グジャリッ!!
桃美ちゃんが「うっかり」躓(つまづ)いて、筋肉質カメラマンの局部を盛大に厚底ブーツで踏みつけるまでは。
その後、事態が治まったとはいえ、僕たちはすぐにスタッフルームに呼ばれて事情聴取を受けた。幸い内情を把握していた乙山氏の口添えと未衣ちゃんの必死の擁護もあって、桃美ちゃんは口頭注意で済み、それ以上の処分を下されることはなかった。しかし、延々と続く細かな取り調べを経て終わった時には既にコスプレゾーンは閉鎖されていて、僕はブリリーヌを撮影することはおろか彼女と会話を交わすことすら叶わなかったのである。
その節は、病院送りにされた悪党2人を除くカメラマン連中がハイエナの如く群がり、しまいにはスタッフやサークル参加の顔ぶれまでが撮影に興じていたという話だから、いかにあの女性が魅力的でブリリーヌというキャラクターとマッチしていたかは説明するまでもないだろう。それをみすみす撮り損ねてしまったのだから、どこかで埋め合わせをしなければ今日のコミケに参加した元が取れない、なんてことを思いきや――
「なぁ健二、こういうのをアフターって言うんだよな」
「いや、もう少し健全な意味合いの言葉だったと思うんだけど」
「健全だよ。だって今日初めて会った人とお尻を並べて親睦を深め合うなんて、良いことじゃない」
「でもね、見てる方からしたらいけない気持ちがムクムクとさ……」
コミケの終わった帰り道。立ち寄った近くの古本屋で、何の因果か桃美ちゃんと未衣ちゃんは同時に便意を催したらしく、僕は二人に連れ込まれるかのように奥にある男女共用のトイレへと連行された。しかし、これまたどういうわけかそこのトイレは、入り口に入ると段差式の和式便所が二つ並んでいるだけでその間には仕切りが存在しないという、全くもって物珍しい構造なのである。
「……」
左側には大きなお尻を丸出しにして屈んでいる桃美ちゃん。右側には小さなお尻を丸出しにして屈んでいる未衣ちゃん。一人だけでも十分過ぎるというのに、二人の女の子がこうして並んでいる様を前に僕のペニスは言うまでもなく勃起していた。
「へへ、じゃあ親睦の印に連れションすっか」
「そうだね」
ブジャァァァァァァーーーー!!
プシャァァァァ……
満面の笑顔を浮かべながら二人が同時に放尿する。どちらも相当にためこんでいたらしく、横から覗き込む笑顔にはどこかしら安堵の表情も含まれている。
「何だよ健二、俺がマン毛を剃ってんのがそんなに珍しいのかよ」
「いや、剃毛に関しては肯定派だから気にしないでくれ」
「へっへ~。未衣はそんなエッチなお毛々なんて生えてない、ツルンツルンだもんね~~」
同じ鮮やかなピンク色ながらも、毛の有無に関しては対照的な局部を横目で見ながら生唾を飲む。こういう部分が簡単に拝めてしまう辺りに、和式便所の官能美を感じずにはいられない。
「じゃあさ、今度はウンチも一緒に出しちゃおうよ」
「……お前本当に小学生かよ。流石にそれはエロ過ぎるぞ」
今度は未衣ちゃんの方から大胆な申し出をしたものの、それは桃美ちゃんも難色を示していた。
「でも面白そうだからやってやるよ、今度は連れションならぬ連れグソってヤツだな」
「うん!!」
と思いきやあっさりと受諾していた。
「二人とも頑張って、後ろからしっかりと見せてもらうよ」
僕のエールを受けながら二人が同時に踏ん張る。
「んっ!」
「う~ん……」
先に出てきたのは未衣ちゃんの方で、それは緩めながらも健康そうな便質だった。
ムリムリムリムリッ、ボチャン。
「えへっ、今日も健康なウンチが出たぞっと」
ムリムリッ、ブプッ!
後を追うかのように健康便が次々と姿を見せる。
「えへへ、たっぷり食べてたっぷりウンチして、今日も明日も元気だぞっと☆」
「ちくしょう、俺だって!」
そんな未衣ちゃんに触発されたかのように、桃美ちゃんが両手で肛門を広げてより強く踏ん張る。
「う~っ……!」
すると、そんな気持ちが通じたのか、桃美ちゃんのお尻からは特大の便が姿を見せたのである。
ムリムリムリムリムリムリメリリッ……ビチャッ!!
「へへ、くそデカいの気張っちまったぜ」
二人は達成感満載といった感じの顔をしていたが、密閉状態のトイレの中は便臭で満ち溢れていた。もちろん、彼女たちの排泄姿をバッチリ見れた僕からすれば、嬉しい悪臭に他ならないのだけど。
「ほれ健二」
桃美ちゃんがさも当たり前といった感じでトイレットペーパーを抜き取り僕によこす。
「あの、それってやっぱり」
「当然じゃねーか。お前、俺たちのウンコしてるとこガン見したんだぜ。だったらお返しにケツ拭いてくれるってのが筋ってもんじゃねーのか?」
「そうだよお兄さん、ただ見は厳禁なんだからね」
いや、ただ見と言うより君たちが連れ込んで勝手に見せてくれたんでしょうが。何て思いながらも、こういう展開は既に織り込み済みだったわけで。
「そういうことなら遠慮なくお尻を触らせて……もとい、拭かせてもらうから覚悟してね、二人とも」
僕は口元を緩めながら目の前の愛しき女の子たちのお尻を交互に拭いてあげた。
「何だよ、ネチネチなぞるように拭かれちゃ、くすぐったいじゃねーかよ」
「これが僕の拭き方なんだから文句は言いっこなしだぜ」
「やだもう、お兄さんったら。そんな手触りでフキフキされたら未衣飛んじゃうよ」
「いや、飛んじゃうのは別のキャラだから」
正直なところ、ブリリーヌの件に関しては心残りではあったもののもう引きずらないことにした。だって、僕の周りにはこんな素敵な仲間たちがいてくれるのだから。それに、コミケに通い続けていればまたどこかで彼女に会える、そんな気がしてならないのだ。
――また会えるよね、きっと!
僕は大きく深呼吸をすると、ブリリーヌのことを記憶の片隅にしまい込み、丁寧に桃美ちゃんと未衣ちゃんのお尻を拭き続けた。トイレを借りただけで店を出るのも申し訳ないから、とりあえず後でアニメ雑誌でも2冊ぐらい買ってから帰ろう、なんてことを考えたりしながら――