第24話(壱) 通学時間の桃源郷
今日も、寒気の渦が朝の街を包み込んでいた。
「……」
僕はいつものように、カバンを片手に体を震わせながら学校への道を速歩きで急いでいた。
しかし、押し寄せてくる生理現象の前にその足が停滞してしまう。嗅覚を塞がれてしまう程の鼻づまりを前に、何とも言えぬ不快感が込み上げて来たのである。
――ああ、マズいな、これは……
ただでさえ鼻がつまっていた上に、マスクを着用していたので半ば呼吸困難に陥っていた僕は、通学路をそれた脇道にある小さな公園に向かった。
まさか、そこがそんな素敵スポットだったなどとは夢にも思うこともなく。
公園のトイレ(男女共用)で鼻をかみ、備え付けのゴミ箱に捨てる。本来ならば人目をはばかることでもなかったのだろうけど、僕の場合はそれだけで好奇の目に晒されてしまうのである。
「お前、こんなところで鼻かむなよ。汚いにも程があるだろ」
中学時代に教室で鼻をかんでいたら、面倒臭いクラスメートの男子にそんなことを言われた。
「そういうことはトイレでやれ、見苦しい!」
高校に入りたての頃、廊下の片隅で鼻をかんでいたら、生徒指導の教師に見つかって背中を叩かれた。
「……」
どうにも僕は、今さらながら鼻炎持ちの体質以前に、いじめられやすい体質というヤツを不本意ながら持ち合わせているらしい。最近は少しずつ収まって来ているとはいえ、まだまだ改善の余地があることに変わりはない。
鏡を見ながら息を吐き、この先のことを考えながら僕が物思いにふけっているその時だった。
「あっ、健二お兄さん!」
明るく元気な声が響いて思わず背後を振り返る。すると、そこには現役の小学生にして、僕のコミケ仲間である又下未衣ちゃんがいた。
「あれ、未衣ちゃんじゃないの。通学時間に会うなんて珍しいね」
「へっへ~、何を隠そう未衣はここのトイレの常連さんなのだっ!」
両手を腰に当てて、未衣ちゃんが得意気に胸を張る。これが、赤いランドセルを背中に担いでそんなことをするものだから、何とも可愛らしくてたまらない。
「常連さんって……未衣ちゃんはここのトイレをいつも利用してるの?」
「うん。ここは未衣が通ってる小学校の通り道だから、行きと帰りはいつも使ってるよ」
「あっ」
いつの間にか、未衣ちゃんが僕のズボンの裾をつかんでいて、満面の笑顔を浮かべていた。
「えへ。お兄さん、せっかくこんな場所で会ったんだもん。今日は久しぶりに見せてあげちゃうよ☆」
「見せるって、まさか」
「もちろん未衣のウンチしてるところだよ」
ギュム。
未衣ちゃんは、僕のペニスを一握りすると嬉しそうに二つある個室の手前側へと直行した。僕もまた、そんな未衣ちゃんにちょっとだけ呆れながらも心を躍らせて同伴したのであった。
「未衣はね、毎朝おうちのトイレをお姉ちゃんたちに譲って朝ウンをここで済ませてるの。だから、結構溜め込んじゃってるんだよね」
ブシャァァァァァ…………
段差式の和式便器に屈んだ未衣ちゃんが、トイレ事情を語りながら放尿する。こんな時、女の子によってはスカートを垂らして肝心な部分を隠している子もチラホラ見受けられるけど、しっかりとめくり上げて小ぶりなお尻を丸出しにしている辺りが未衣ちゃんらしくて微笑ましかった。
「そうなんだ。未衣ちゃんは、お姉さん思いなんだね」
「えへ。朝のウンチぐらいはお姉ちゃんたちにゆっくりさせてあげたいから、未衣だって少しぐらいは気を利かせてあげちゃうのだ」
ブッ! プッ……ムリムリムリムリムリッ。
未衣ちゃんが二発ほど放屁して、その勢いのまま排便する。どうやら、彼女の朝便は少し緩めながらも健康便と呼んで差し支えのなさそうな形と色合いを保っていた。
ムリッ、メリリッ……ブプッ、ブリリッ!
「はぁ~~……今日も健康なウンチがひり出せて、未衣は幸せだよ~~。しかも、お尻を拭いてくれる健二お兄さんまでいてくれて、朝から最高の気分だよ~~」
未衣ちゃんが気持ち良さそうな声を上げながら、ペーパーを引き抜いて僕に手渡してくる。もちろん、この展開で拒否権などあるはずがないし、拒否するつもりなどさらさらない。
「僕も嬉しいよ。いつも憂鬱な通学時間に未衣ちゃんのウンチ姿が見られるなんて、一日中笑っていられそうだよ」
クチュッ!
右手でお尻をつかんでしっかりと固定しながら、左手で肝心な部分を拭く。冷たい空気に入り混じった便臭が少しキツかったものの、未衣ちゃんのお尻を間近で見られる幸福の前ではそんな臭いはフローラルな香りも同然だった。
「お兄さん。いくらオチンチンが勃ったからって、学校でオナニーしちゃダメなんだからね。ちゃんと家に帰るまで我慢なんだからね」
「分かってるよ。でも……そろそろ未衣ちゃんのお口が恋しいから、近いうちに頼むよ」
「うん! また今度お兄さんのおうちに行ったら未衣、絶対にオチンチンをナメナメしてあげるからね☆」
僕たちは、互いの股間を熱くさせながら淫靡な約束を交わした。
余談ではあるが、そんな未衣ちゃんのお股は(年齢的には当然ながら)相変わらずの無毛地帯だった。
ザザ~~ッ!!
「それじゃあ未衣ちゃん、気を付けてね」
「うん!お兄さんも、頑張ってね!」
朝便を済ませてスッキリした笑顔の未衣ちゃんを手を振りながら見送る。心なしか、未衣ちゃんのおかげで僕の心中も、大分スッキリと晴れているかのようだった。
「そういうことはトイレでやれ、見苦しい!」
……まさか、あの時の生徒指導の言葉通りトイレで鼻をかんでいて、こんな幸運を引き当ててしまうとは。あの冷徹そうな面構えの男に感謝をするつもりはないが、不思議な運命の巡り合わせには感謝したい。
「……」
どんどん遠くなる未衣ちゃんの後ろ姿を見ながら白い息を吐き、今度こそトイレを出ようとしたその時だった。
「あっ、健二先輩がいる!」
再び明るく元気な声が響いて思わず横目を向ける。すると、そこには現役の女子高生にして、僕と同じスカトロ嗜好を持つコミケ仲間の葉枷奈美子ちゃんがいた。
「奈美子ちゃんじゃないか。まさか朝便かい?」
「も~健二先輩、女の子が公衆トイレに立ち寄って、オシッコとウンチ以外に何があるって言うんですか」
最もなことを言いながら、奈美子ちゃんが僕の手をつかんでくる。
「えっ、奈美子ちゃん?」
「せっかくここで会えたんです、先輩には私のウンチタイムに付き合ってもらいますからね」
「あ、ちょっと!」
奈美子ちゃんは、僕の手を引いて嬉しそうに二つある個室の奥側へと連れ込んだ。
僕は、性的な本能に従ってそんな奈美子ちゃんに抵抗することなく喜んで同伴した。
「あはっ。今日はお腹が痛いから、ちょっと臭くて見苦しいウンチが出ちゃいそうです」
段差式の和式便器に屈んだ奈美子ちゃんが、むき出しのお尻から脂汗を流しながら、便質を予測する。
先ほどの未衣ちゃんにしてもそうだが、奈美子ちゃんもしっかりスカートをめくり上げ、程良いサイズのお尻を晒していたので、これもまた眼福ものだった。
「腹痛か……だったら学校に着く前に出しておいた方が身のためだね」
「さあ、ウンチが出ちゃいますよ!」
ブリブリブリッ! ブブブッ、ビチャア!
奈美子ちゃんのお尻から、可愛らしい合図とともに汚い下痢便の雨が吹き荒れた。
ブビッ、ビビッ、ビリビビッ!!
程なくして、便臭が未衣ちゃんの時と同じく、冷気に混じって鼻腔へと突き刺さる。
今回は下痢便だったのもあって、臭いのキツさは相当のものだった。
「う~……こんなドロベチャなウンチしちゃったのは久しぶりかも……」
プシャァァァァァ……
奈美子ちゃんが放尿をしながら自分の便臭に鼻をつまむ。僕は、奈美子ちゃんが気落ちしているように思えたので、とりあえずフォローを入れておくことにした。
「気にしなくて良いんじゃないかな? お通じなんて、食べた物や精神状態でいくらでも変化しちゃうものなんだし」
「健二先輩……」
「ほら、よく毎日快便なのが健康の証って言うけどさ、そんなのただの理想論だと思うんだよね」
話の弾みで奈美子ちゃんのお尻を優しく愛撫する。
「ひゃっ」
「奈美子ちゃんはこんな魅力的で可愛らしいお尻を持っているんだもん。たった一度の下痢なんて、エッチなイベントの一つだとでも考えて、笑い飛ばせば良いんだよ」
僕は、思いついた限りの見解を述べながら、萎れてるっぽい奈美子ちゃんの気持ちに寄り添った。同じスカトロジストとして、僕を心から慕ってくれる彼女にはいつも笑顔でいてほしかったから。
「や、やだなぁ……先輩っていつもこうして色んな女の子のお尻を触り回ってるんですか?」
「はは、まさか。僕がお尻を触るのは、心を許せる女性限定だよ」
つまり、当たり前ながら僕は奈美子ちゃんにも心を許しているということである。
「もう、先輩のエッチ! そんなお花畑なエッチマンは、罰として私のお尻を拭かないといけないんですからねっ!」
奈美子ちゃんが顔も向けずにペーパーを引き抜いて、僕に手渡してくる。どうやら、僕の言葉でエッチな罰ゲームを強要する程度には元気になったみたいだった。
「……言われなくても最初からそのつもりだよ、ウンチの大好きな奈美子ちゃん」
グチュッ!
先ほどの未衣ちゃんと同じように、右手でお尻を固定しながら左手で奈美子ちゃんの肝心な部分をフキフキする。正直、便臭がキツくて嗅覚には大打撃を受けていたものの、奈美子ちゃんのお尻の感触をたっぷり味わえる幸福の前では、そんな苦痛さえもボーナスステージだった。
何たって、奈美子ちゃんの局部もツルツルで、文句なしの無毛地帯であるという大発見をしてしまったのだから。
「私、今日のこと日記帳に書いておきます。『ウンチは下痢、エッチな先輩にお尻を触られた後でオ〇ンコまで拭かれちゃったエッチ全開の日』って」
「何だよそれ。いつも日記にそんなことを書いてたりするのかよ」
「はい♪ 私、いつも出したウンチはチェックして、カレンダーと日記帳に記録してるんですよ☆」
「恐れ入るね。それは、かなりの上級者だよ……」
トイレでのやり取りを経て、僕は奈美子ちゃんが数年前から毎日お通じチェックを続けているという衝撃の事実を知った。
余談ではあるが、健康便をひり出した時は赤ペンで花マルを付けているんだとか。奈美子ちゃん、それはあまりにも上級者過ぎるだろ…………
ザザ~~ッ!!
「先輩、またどこかでお会いしましょうね!」
「う、うん。次に会うのは多分、望気荘辺りが濃厚だと思うけどね」
朝便を済ませて、スッキリした笑顔の奈美子ちゃんを手を振りながら見送る。未衣ちゃんに続き、奈美子ちゃんのトイレまで見届けられたおかげで、僕の心中は完全に晴れ渡っていた。
「そういうことはトイレでやれ、見苦しい!」
生徒指導のM先生、背中まで叩いてあなたが僕に伝えたかったのは、そういうことなのですね。決して好きな教師ではないし、尊敬には微塵も値するような男ではないが、今ならば彼の言葉も少しは理解出来る。
「……」
鏡を覗くと、朝便を済ませた未衣ちゃんや奈美子ちゃんだけでなく、僕の表情も先ほどとは打って変わって赤みが灯っているかのようだった。どうやら、思っていたよりも未来は明るい方向に向かっているらしい。
「さて」
もう一度鼻をかみ、呼吸器官の風通しを良くさせたところで改めてマスクを付け直す。気が付けば、穏やかな日差しが顔を出し、通学路に戻ろうとしていた僕の背中を優しく後押ししていた。
第24話(弐) 赤マントと鋼の編集長
放課後、本屋に寄った帰り道で『玖粗久井(くそくい)荘』の前に人だかりが出来ているのを見つけた。ここもまた、『望気(のぞけ)荘』に同じく、同人作家たちの共同住宅のようなアパートである。
「とんでもない詐欺商売をしやがって! 本の代金を慰謝料込みで弁償しろ!」
「何だ、この広告だらけの中身は! こんな姑息な水増しで、ページ数を稼いでんじゃねーぞ!」
「出て来い漢電池、俺のこの手で金玉を握り潰してやるっ!」
聞こえてくるのは一貫して、怒声と罵声と脅し文句ばかり。どうやら、察するまでもなく彼らは怒れるクレーマーのようである。
「ちょっと……失礼しますよ……っと」
クレーマーたちを押しのけて敷地内に入ると、中では知り合いの同人作家――椎名薙(なぎ)氏が、今にも内部に押しかけてきそうな剣幕の一団を前にして、苦笑いを浮かべていた。
「これ、一体どうしちゃったんですか?」
「……ご覧の通りや。みんな読者の人たちみたいやけど、すっかり怒らせてもうてなぁ」
先日のコミケとは打って変わって表情の重苦しそうな薙氏が、頭をかきながら事情を説明する。
「昨日、ナディアックスゆう出版社から百合スカトロをテーマにしたアンソロジーが出たんやけど、知っとるか?」
「は、はい。一応」
買いはしなかったものの、ナディアックスのホームページはこまめにチェックしているので、百合スカ本の新刊の情報は知っていた。確か、Buccoとかいう人が表紙のイラストを担当していたんだっけか。
「そのアンソロがどうかしたんですか?」
「どうもこうもないわ、そん中で漢電池はんが巻頭カラーで汚いオッサン同士で絡むゲイのスカ漫画描いとったんや!」
「げえっ!?」
驚愕の事実を受けて思わず声を上げる。確かに同性愛という括りで考えたら一緒なのかもしれないが、だからといって百合本の中にゲイ本――それも汚いオッサン同士の絡みという誰得な漫画をカラーページでねじ込まれたら、そりゃあ期待して買った読者が怒るのも当然という話だろう。
「しかも表紙に『巻頭:尾晒通』ってハッキリ書いてあったのが漢電池はんになっとるんやで。そら僕でも堪忍袋の緒が切れますわ」
「あ、確かに……」
詳細まではチェックしなかったが、そういえば表紙には以前フリマで僕を助けてくれた恩人でもある尾晒氏の名前がしっかりと明記されていた。
つまり、百合アンソロにゲイ漫画をねじ込んだ上に表記ミスまでやらかした、ということである。
「おーい! 責任者早く出て来て詫び入れろー!!」
「表記も満足に出来ねーんだったら、アンソロ出すのやめちまえー!!」
「漢電池の漫画は速効破って燃やしちまったぞー!!」
放置している間にクレーマー――読者たちの怒号がますます激しくなる。怒りの勢い任せに、あと少しで彼らが敷地内に足を踏み入れ暴徒と化そうとしていたその時だった。
「何だ、この騒ぎは!」
玖粗久井荘の玄関が開き、当事者である漢電池氏が姿を見せる。
「……何やオッサン、それが人前に出る時の格好かいな?」
「……失礼ながら僕も薙さんに同意見です」
念のためにフォローを入れておくが、この漢電池氏も以前コミケで僕を助けてくれた恩人の一人である。だが、それを差し引いても、この時の彼の服装は明らかに常軌を逸していた。
「俺の作業着が、そんなに輝かしくてまばゆいか?」
「いや、確かに衣装としてはアリなのでしょうけど、この場に現れるには不適切かと思います」
法被にシルクハットを被った海パン姿の漢電池氏に的確な見解を示す。
「うむ。確かにシルクハットは頭が重くて執筆の妨げになるかもしれんから、外した方が良いのやもしれんが……」
「そんなんええからオッサン、あんたの漫画のせいでお客さんがさっきからめっちゃ怒っとんねんで、何とかしたってや」
話の途中で薙氏がシルクハットを取り上げて、漢電池氏に読者たちへの対応を促す。
「クレーマーだと? 俺は人殺しも強盗も強姦もした覚えはないぞ。ま、まぁペットプレイの強要なら以前コスプレの女に少しだけ……」
「ちゃうわ! オッサン、昨日発売されたアンソロでゲイ漫画を描いとったやろ。あれで怒れる読者たちが抗議に来とるんや」
「何だと? 俺は編集長にゲイ漫画のストックを作れと言われただけで、昨日の百合アンソロ用に描けなどとは一言も言われてないぞ!」
「な、何やてぇ!?」
まるで漫才のようなやり取りの中で、またしても驚愕の事実が発覚する。つまり、漢電池氏は編集長の指示でゲイ漫画を描いただけであって、百合アンソロの中で使用されるとは聞かされてなかったのである。
『謝罪!! 謝罪!!』
だが、真相が少しずつ明るみに出たところで、一向に事態が進まない現状に読者たちの怒号がより強大化する。
「ええい、仕方がないっ!」
そんな中、意を決して彼らの前に立ちはだかったのは当事者である漢電池氏だった。
「お前たちがそんなに俺が悪いと言うのなら、責任は俺が背負うべきだろう……すまなかった!」
漢電池氏が、海パン姿のままで読者たちに土下座する。
「なーなー読者の皆さん、オッサンもこうして頭下げとるんやし今回ばかりは大目に見たってーな。オッサンかてまさか自分のゲイ漫画が百合アンソロの、それも巻頭で起用されるとは思うてもへんかったんやから」
地面に頭を擦り付ける漢電池氏の脇に立って薙氏がクレーマーたちをなだめる。
『……』
そんな誠意ある同人作家たちの対応を前に、すっかり読者たちが心打たれて文句の一つも出なくなっていた、その時だった。
『ウガオ――――――!!!』
木々がざわめくほどの咆哮が辺りに轟き、おたけびの主である大男がのしのしと玄関から姿を見せる。 その背後には、前に望気荘の入り口で軽く会話を交わした漫画家――きトう氏の姿もあった。
「はっはっは、いち読者風情どもが随分と元気そうに吠えてたみたいじゃないか」
大男の隣に並び、きトう氏が読者たちを鼻で笑う。
「お前らもお前らだ、こんな金づるどもに頭を下げるとは物好きを通り越しておめでたい奴らだぜ」
同業者の薙氏や漢電池氏をもあざ笑ったきトう氏が、再び読者たちに向き直る。
「オジさ……いや、編集長! 俺たちのやり方が気に食わないって言うんなら、こいつらまとめて蹴散らしてやろうぜ!」
「わっはっは、きトう君は私に似てとても素敵な思考の持ち主だ。実を言うと、私もちょうどこの鋼の肉体を駆使して一暴れしたいと考えていたのだよ」
きトう氏と大男――編集長が、実に寒々しいやり取りをしながら気持ちの悪い笑顔を浮かべ合う。こんなモヒカン頭の、某28号のような風貌の明らかに異質な人が編集長を務めているなんて、ナディアックスというのは一体どんな出版社なんだ。
「行けっ、編集長!」
『ウガオ――――――!!!』
きトう氏の合図とともに再び編集長が咆哮を上げ、読者たちの一団へと突進する。
「あかん、何するつもりやっ! お客さんに暴行加えはったら僕らのアンソロ終わってまうでっ!」
「その通りだ、編集長! きトうの言葉など真に受けてはならん!」
薙氏と漢電池氏が編集長の両腕をつかんでどうにか制止する。
「わっはっは、お前たちの言葉を聞く耳など持ってはおらぬわっ!」
『うわっ!!』
編集長に腕を激しく振りほどかれて、薙氏と漢電池氏が転倒する。それを間近で見ていた僕は、気が付けば無意識のうちに両手を広げて、凶暴な編集長の前に立ち塞がっていた。
「やめて下さい編集長、読者の皆さんに罪はありません!」
頭で考える前にそんな言葉が口を突いて出る。僕はただ、クレーマーと化しているはいえ、読者である人たちが意見をしただけで暴行に晒される、そんな現状が我慢出来なかったのである。
「……何だ、お前は。編集長様に指図しようと言うのか?」
「このまま事を荒立てたら、読者と編集部の溝は深まるばかりです。せっかく漢電池氏が土下座までして穏便に済ませようとしていたのですから、ここは彼の意思を汲んで……」
「お前うるさいよ。つまり、文句があるんだったら僕をぶん殴ってくれって言いたいんだろ?」
僕は、足が震えながらも必死で意見を述べていたが、残念ながら編集長もきトう氏も、まともに話を聞いてくれる相手ではなさそうだった。
「きトうさん、僕はそんなこと……!」
「編集長、最初の獲物はコイツだ!まずは景気付けにボカーンと殴り飛ばしてやれ!」
『ウガ――――――!!!』
編集長のゴリラのような大腕が振り上げられ、痛恨の一撃を覚悟したその時だった。
「えっ?」
突然現れた赤い影に腕を引かれ、間一髪で攻撃を回避する。
「す、すみません、ありがとうございま……あっ!」
「まさか、このような形で貴様と再会を遂げるとは夢にも思わなかったぞ」
見覚えのある赤い仮面と青いシルクハットの風貌に、思わず声を上げる。なんと、僕を助けてくれた赤い影の正体は、かつて病院で出くわした赤マントの男だったのである。
「だが、勘違いをするな。私は単に、他の者によって貴様が血を見るのが気に食わないだけだ。貴様を血で染めることが許されるのはこの私だけなのだからな!」
「……よく分かりませんけど、僕を助けて下さって感謝します!」
「感謝などいらん。そんな暇があるのなら、グラビアアイドルのポスターにでも顔射しておけ」
赤マントが僕のお礼を下品な言葉で突っぱねて、編集長へと向き直る。
「無辜(むこ)の少年を相手に力任せの暴力とは漫画編集部の人間も随分と偉くなったものだな、冥土野鋼人(めいどのこうと)!」
赤マントが、力強い声音で編集長の名前(多分本名だと思う)を口にする。このモヒカン、確かに先ほど鋼の肉体だと自負していたけど、本当に鋼のような名前だったんだな。
「ほう。ならば、お前が先に力任せの暴力の餌食にでもなるか?」
一度攻撃を回避されたとはいえ、編集長――鋼人氏は、きトう氏ともども余裕綽々(しゃくしゃく)といった具合にヘラヘラと笑っていた。
「はっはっは、面白い道化が出て来たものだ。編集長、予定変更だ! まずはこの赤マントの仮面を砕いて素顔をフルボッコにしてやろうぜ!」
「わっはっは、きトう君は相変わらず発想がイカしているね。ならば私も言う通りにさせてもらうとするよ!」
きトう氏のイカれた発案に快く同調した鋼人氏が、ターゲットを僕から赤マントに変更する。
「……その傲慢、すぐに生き地獄の中で後悔することとなるぞ!」
赤マントは既に、二本のナイフを構えて臨戦態勢を整えていた。
「わっはっは、私の鋼の肉体の前ではどんな鋭利なナイフであろうと子供遊びも同然だ! この剛腕の前に、お前の骨ごと叩き割ってくれるわ!!」
鋼人氏は、ナイフに動じることもなく赤マントへと突進した。
『ウガオ――――――!!!』
巨体が頭部から湯気まで発し、すさまじい咆哮を轟かせながらダンプカーのような勢いで攻撃を仕掛けてくる。しかし、赤マントは何一つ動じることもなく、鮮やかなナイフさばきとともに、その脇をすり抜けたのである。
『……』
数秒間の沈黙が一帯を支配する。
――ハラリ。
そして次の瞬間、鋼人氏の服が下着ごと切り裂かれ、彼は靴だけを残して素っ裸になってしまったのである。
『ぎょえ――――――――!!!!!』
けたたましい悲鳴とともに鋼人氏が両手で股間を隠して飛び上がる。
「か~ちゃ~~~~ん!!」
そして、そのまま背中を向けて玖粗久井荘の裏口から逃走してしまったのである。
「……ふん。体が硬いと言うのなら服を裂き、丸裸にして辱めを与えてやるまでの話だ。さて……」
鋼人氏が消え失せ、赤マントの視線が残されたきトう氏に向けられる。気が付けば、彼だけでなく、薙氏も漢電池氏も先ほどまでクレーマーと化していた読者の皆さんも、全員がきトう氏に鋭い視線を注いでいた――もちろん、あわや暴行を加えられそうになった、この僕も。
「あわわわわわ……お、お、オジさ――――――ん!!」
きトう氏は、肩をガタガタと震わせながら背中を向け、情けない叫び声を上げながら、やはり玖粗久井荘の裏口から逃走した。途中、盛大にすっ転んで固い地面に顔面クラッシュをしていたが、もはや笑いのネタにしか過ぎなかった。
「何やアレ。きトうはんの漫画を見とるより、本人の仕草を見とる方がよっぽどオモロイやないか」
「同感だ。あんな男でも豆粒程度には人を喜ばせることが出来るものなのだな」
読者たちの笑い声の中で、薙氏と漢電池氏も心からの笑顔を見せる。どうやら、読み手と作り手の間に生じていた深い溝は、この瞬間をもって取り払われたみたいだった。
「これで厄介者どもの駆除は完了した。後は……」
赤マントの手が僕の右肩に添えられる。
「ここからの事後処理は私たちで済ませておく。貴様はとっとと帰れ」
「えっ、僕は居たらいけないんですか?」
「当然だ。仮にもここはエロ漫画の作家が暮らすアパートなのだぞ。高校生が居座るような場所ではないだろう?」
その言い分だと僕にしてみればあまりにも分が悪い。見渡すと、周囲の雰囲気も赤マント寄りで、これ以上出る幕などなさそうだったので僕は帰ることにした。
だけど、一応その前に赤マントに頭を下げておく。
「では、僕はこれで失礼します。重ねて言いますけど、今日は助けて下さってありがとうございました」
続いて、心優しき同人作家たちにも頭を下げておく。
「薙先生、漢電池先生。これからも同人や商業誌で頑張って下さい。次回作も期待してます」
「任しとき。健二君の喜ぶようなもん、またぎょうさん作っときますさかい」
「うむ。だが俺はその前に、君という好青年に出会えたことを妻に自慢しておくとするかな」
仕上げに、玖粗久井荘に詰め掛けていた読者の皆さんにも頭を下げておく。
「皆さん。多くの方々が手がけているアンソロジーである以上、色々と言いたいところはあるでしょうけど、今回の件に免じてある程度のところはこらえてあげて下さい。みんな、必死なんですから」
一通りに頭を下げたところで、僕はもう一度深く一礼をして玖粗久井荘を後にした。背後からまばらに拍手が起こっているみたいだったが、僕は振り返ることなく淡々と帰路についた。それは、間違いなく僕に向けられたものではなく、横暴な人たちを撃退した赤マントへの称賛の証だと思ったから――
翌日の昼休み、初めて僕の屋上飯に同伴した副担任の笠松先生が、愛妻弁当を手に衝撃の事実を告げた。
「先生がナディアックスの新しい編集長に?」
「ああ、何でも今の編集長が昨日急に姿を消したらしくて、どういうわけか俺に白羽の矢が立ってしまったというわけだ」
青空の下でジャムパンをほおばりながら、あまりにも突発的な展開に頭をひねる。確かに昨日の一件で鋼人氏がそのまま蒸発したというのなら、その代理として誰かが引き継ぐというのは自然な流れである。
しかし、その役職を編集部の人間ではなく、全くの外部であるはずの我が校の教員が担うというのはあまりにも不自然な流れである。
「とりあえず校長の許可も得たし、これで俺は晴れて教師と編集長の兼業家だ」
「すごいですね。順調に行けば、数年で蔵が建つぐらいは稼げるんじゃないですか」
「そうだな、行く行くはワインレッドのスポーツカーにでも乗って、ゆっくり全国を旅して回りたいものだ」
ワインレッドのスポーツカー――その血潮がほとばしるような赤々しい響きに、妙な既視感を覚えてしまう。まるで、学校や通学路以外の別の場所で、知らぬ間に笠松先生と出会っている、そんな感覚である。
「どうした? まるで人間を血染めにして悦に入っている悪趣味な怪物を見ているような目をしているぞ」
「いえ、何でもありません。ちょっと熱があるんだと思います」
「そうか。学校に来るのも良いが、あまり無理をするんじゃないぞ」
さり気なく優しい言葉をかけられて、少し気持ちが楽になる。どうやら、この妙な既視感は高熱から来る白昼夢の一種だったりするのだろう。
「大丈夫です。午後からの先生の授業さえ受ければ少しは回復につながると思うから」
「おっ、可愛いことを言う奴だな。今度また、俺の手書きイラストをプレゼントしてやるから楽しみにしておけよ」
僕たちは、和やかに談笑しながら青空の下のランチタイムを満喫した。いつになく、副担任の笠松先生が頼もしくも凛々しくも思えてくる、そんな昼休みだった。