今回はエロなしです
ジャンヌ・ダルクの旗を回収したという知らせが伝わってきたのは、聖女を軟禁してから数日後だった。回収したのはセミラミスである。魂を物質化する第三魔法を行使しているとはいえ、魔力を霊脈から吸い上げ続けている大聖杯は無尽蔵に等しい。海の底に沈んだ旗を引き寄せる程度は造作もなかっただろう。
王の間に呼び出したアタランテに聖旗を見せつけたセミラミスは、
「お主が持つか?」
と、尊大に問う。
空中に漂うそれを眇め見たアタランテは小手の爪を擦り合わせる。欲しい気持ちはなくもないものの、使い道を思いあぐねているように。
「……まず聞かせろ。なにゆえ回収した?」
「使える物は一つでも多い方がよかろう。ジャンヌ・ダルクは田舎娘とは思えないほどに頑強だ。肉体の話ではないぞ? 精神面での話だ。崩すには折れるまで何度でも、力の差を教えてやった方が効果的やも知れぬ。案ずるな、死んでいなければ如何なる傷でも治癒してやる」
吟味するまでもなくアタランテはかぶりを振る。
暴力で従わせるつもりはないのだ。
「力に頼るのは最後の手段だ。どうしても従わないようなら使う」
「また慎重な意見を出してきたな。子供らを慮るなら少しでも早い方が良いのではないか? それに――〝我が勝てば我に従え〟は実にお主らしい」
古今東西の英雄の言い分。野蛮で粗野だが効果的な方法でもある。その手の類の契約を受け入れさせてから勝負し、勝利すれば恐らく全てが終わる。ジャンヌ・ダルクは敗けたからと言って取り消しを求めるような女ではあるまい。もしそんな軟弱な女だったのなら捕まえるまでもなく縊り殺している。
しかし――、
「無理矢理では駄目だ。子供には親の真の愛情がいる。父にしろ、母にしろ、どちらともの愛情があって然るべきだろう。……吾々には与えられなかった愛情が子供たちには必要なんだ」
アタランテは父に捨てられ、セミラミスは母に捨てられた。
実の親に育てられなかったという点で共通する二人の間に形容しがたい間が流れる。
さしもの女帝も、アタランテのこの弱音を切り開く事は難しかったのだ。
仕切り直すように吐息を一つ、
「聞き流す。よいな」
「よりによって汝に弱味を見せたのを後悔していたところだ。助かる」
「…………お主は問題外として、ジャンヌ・ダルクがジャック・ザ・リッパーを愛するようになるのが難題だ」
「……そうだな」
一度は存在を否定し、抹消した相手を孕んで親になる。常識の埒外にある英霊でも一笑に付すような問題だ。ただし幸いにも時間はある。ジャンヌと違い、こちら側が逸る必要がないのは大きなアドバンテージだ。
さすればじわじわと染み込むように責めていってやろう。
それこそがセミラミスの本領、毒の本懐である。
「まずはジャンヌ・ダルクをお主の色に染めなければならぬな」
「む……やはりそうなる、か」
「歯切れが悪いぞ? 力に頼らぬなら色を駆使する他あるまい? あの女を口だけで調教できると豪語するなら任せるが」
「……できぬ」
「であろう? シロウでも難しいだろうさ」
女帝は困り果てる少年を思い浮かべ、くつくつと笑う
「さて、まあ、男共に凌辱された女には優しくしてやるのが定石だ。そこはお主なりに理解していたようだがな。ヒッポメネスに誑かされた経験でも活きたか?」
事のほか、アタランテはジャンヌの待遇に気を使っている。
閉じ込めるにしても石牢じみた殺風景な部屋ではなく、観葉植物などが置かれたサンルームにも似た暖かい部屋だ。初夜もその部屋にある豪奢なベッドで臨んだという。しかも痛くならないよう、なるべく気を遣ったそうではないか。およそ囚人とは思えないような扱いである。あれやこれやと手配したのはセミラミスだが、疑問に思うのも不思議ではないだろう。
「私が選んだやり方だ。あの卑怯者なぞは関係ない」
吐き捨てるように言ったアタランテからは嫌悪感が滲み出ていた。ヒッポメネスの妻となった後の記憶は思い出したくもないらしい。確かに――高潔であり、尚且つ純潔の誓いを立てた身とすれば、黄金の林檎を餌に徒競走の勝ちをもぎ取った男は赦し難いだろうとも。
そんな女狩人がジャンヌ・ダルクという聖女を女として、妻として、母として欲しがっているのだから面白い。純潔の女狩人と聖処女の組み合わせ……何が起こるかわからないものだ。
「精々優しくしてやれ。だが、あくまで己が上である事実を忘れさせるな。頃合いを見計らって蹂躙してみるといい。我を忘れるような痴態が見られるだろうよ」
そう言ってセミラミスは聖旗に目を遣る。
「今しばらくは使い道がなさそうだな。とすれば、シェイクスピアに預けるか……」
「シェイクスピアに? なぜだ?」
役に立たないサーヴァントと自称する男の名を出され、アタランテは顔を顰める。世界に名だたる劇作家なんだか知らぬが、聖杯大戦で碌に戦いもしなかった英霊に預けるのは望ましくない。とはいえ、セミラミスも目的があってこそ口に出した筈だ。
アタランテの先を求める意を汲み取った女帝は、
「あの男は『エンチャント』を所有しておる。奴によれば他者の武装を題材にして文章を描き、概念を付与することで性能を限界以上に引き摺り出すスキルらしい。シロウの刀……『三池典太光世』といったか。あれを宝具の領域にまで引き上げたのはシェイクスピアだ」
説明されている内容は解るが納得はし難い。
ジャンヌ・ダルクの旗を強化すると言っているも同然なのだから。
「どうせなら花火のように派手にしたい――だそうだ」
額を押さえて呆れる。
「まあ、庇うわけではないが……敵にお膳立てされて敗れれば折れやすくもなろう。許可するなら、お主の弓とカリュドンの皮にも手を加えるようだが」
苦しい言い分にアタランテは半目になっていく。
セミラミスは、なにゆえに我がこんな目を向けられなければならないのかと思いつつも、「どうせ使う機会は暫くないのであろう? それともあれか? 対等の条件でジャンヌ・ダルクにもう一度勝てる自信がないのか?」とアタランテのプライドに揺すりをかける。
果たして効果はあった。眦を鋭くしたアタランテが「乗ってやる」と返してきたのだ。
己の武装を聖旗の近くに置き、ジャンヌ・ダルクから奪った聖剣も置く。
聖なる旗と同じように空間に固定されたそれらは淡い光に包まれたのち、シェイクスピアがいるのであろう書斎に転移されていく。
かくして英雄の四つもの武装が劇作家の元に届けられた。遠くで歓喜の雄叫びが聞こえた気がしたが反応してしまわないよう努める。
「使わざるを得ない状況にならなければよいのだがな」
「そこはお主の手練手管次第よ。戦わずして手に入れられるのなら越したことはない。幸い、元を正せばジャンヌ・ダルクも田舎娘だ。如何に強固であっても長くは守れん」
ああ、とセミラミスは今になって気付いたように笑声を零す。
「そういう意味では、お主は聖女を人間に戻そうとしていると言えなくもないな」
――時間は進み、現在に戻る。
完成したという連絡が寄越されたのはジャンヌとレティシアを置いて部屋から退出し、四時間ほどが経過してからである。庭園で代わり映えしない光景を感慨もなく眺めていたアタランテは『作家の筆はのろまだと聞いていたが』とセミラミスに念話を送り返す。女帝としてもまさか一月余りで完成するとは思わなかったらしく驚いた様子だった。
『四つもあったというのに……何があったのやら』
何はともあれ完成したのであれば早々に受け取るべきだ。己の誇りにも等しい弓がいつまでも道化師の手にあるのは我慢ならない。早足で向かい、シェイクスピアの書斎の扉を問答無用で開け放つ。目に映るのは本、本、本……何千冊とある書物だ。天井まである棚に整然と並べられている物があれば、床に乱雑に置かれている物もある。
重厚な机の椅子に腰かけていた劇作家は黒い装丁の本を閉じると立ち上がり、大袈裟な仕草でアタランテを迎え入れる。
「これはこれはアタランテ殿、お早い到着で。女帝にはつい先ほど伝えたばかりなのですがね。もしや完成するのを心待ちに? 天草四郎時貞が生まれた国の言葉で言うなれば『一日千秋』の想いの如しですかな?」
無視してシェイクスピアを睨むように観察する。
圧迫感すら伴う閉塞的な空間に長くいたにも関わらず、彼の血色は健康体そのものだった。魔力が十全に供給されている現状ならば不思議ではないのだが、アタランテは一つの異常を嗅ぎ取っていた。古臭い男と紙しかない筈のこの部屋で女の香りがあるのだ。しかも相当に上物だと伺わせるような匂い……だが、纏わりつく魔女の類で鬱陶しい。これならばジャンヌ・ダルクの飾らない素朴な匂いの方がずっとよい。
「「『What is your substance, whereof are you made, That millions of strange shadows on you tend?(あなたの心は何でしょう、あなたは何によって作られているのでしょう、百万もの影があなたに従っているのはなぜでしょう?)』」
芝居がかった動作でシェイクスピアは語る。どうせまた自作品の台詞から適当に抜き取っただけの言葉だろうと聞き捨てようとしたが、いささか気になるニュアンスが含まれていた。
自分を言い表しているように聞こえたのだ。
「何の意味がある」
「助言でございます、気高き狩人よ。吾輩、今回は賢者役を任せられましたので。意味については自分でお考えくださいますよう。いや、考えるよりも見た方が早いですかな」
「誰に命じられた? シロウか、セミラミスか――それとも、この部屋に訪れたのであろう女にか? 私は最後だと確信しているぞ」
「ふうむ、鼻の利き具合も獣並みですな」
貴女の知らない女が来たとシェイクスピアはあっさり認める。
「それはそれは美しい少女でした。あらゆる色を持たず、それ故に、あらゆる色に染まることのできる少女。聖女にも魔女にも獣にさえなれる変貌自在。アタランテ殿でも、ジャンヌ・ダルクでも、アッシリアの女帝でも敵いませんでしょう!」
「だからどうした。いいか、シェイクスピア。私が気に掛けるのはな」
「む?」
「私が知らぬ間に呼ばれたその女が敵か味方かだけだ」
「……」
「名言と名文を生み出し、数多の人間を操った貴様がそこまで絶賛するからには大した美の持ち主なのだろうが興味は湧いてこぬよ。むしろ危険だと思っている」
気に掛ける少女はジャンヌ・ダルクとレティシアの二人。
ただし、惹かれるのはジャンヌ・ダルク一人のみだ。彼女より遥かに美しかろうと、可愛らしかろうと――より子供たちの母体として優れていても他の女を選んだりはしない。
選んだからには責任を必ず取る。いつか訪れる最期まで添い遂げてみせる。
私が守るべき最低限の約定である。
「いささか急な展開だが……お答えしましょう。彼女は我々の味方です」
神経質に顎鬚を擦ったシェイクスピアは一転して元に戻り――無駄な手振り身振りを交えて言い――張り詰めた糸の緊張が僅かながらも緩まる。
「誓えるか」
「誓いましょう。ここまで早期に四つもの作品を仕上げられたのも、彼女のお陰です。ちなみに寄越してきたのは女帝ですぞ」
「であろうな……しかし、貴様のような男でもあるものなのだな」
「あー……誤解なさらぬよう。吾輩、一応、ハサウェイがいますので」
アタランテとジャンヌの武装が安置されている場所、書斎の奥に進みながら二人は話す。
「彼女とは趣味と趣向があいまして。その繋がりで色々と盛り上がったのです」
「趣味と趣向?」
「ええ。彼女はとある物語に感銘を受け、自らもまた物語の創造主たらんとし、その為には多少の欺瞞と詭弁も『有り』とする考えの持ち主です。面白いものをより面白くしようとする。大変よろしい、作家とはそうでなくては」
嫌な共通点である。
「真名は何だ?」
「シメールと名乗っております。ご存知で?」
「シメール? ……キマイラの別名ではないか」
テュポーンとエキドナの子供の一匹。
獅子を骨子として山羊と蛇が混ざり合ったギリシャ神話の怪物。
リュキュアの火山に棲み、人々を食い荒らしていた魔獣である。最終的に退治したのはベルレフォーン、ペガサスを駆る英雄。ギリシャの怪物としての格は低くはないが高くもない。ある程度名の知れた英雄ならば問題なく退治できるだろう。ギリシャ最高の女狩人であるアタランテは言うに及ばず、彼女が後れを取るような相手ではない。
「アタランテ殿が知るキマイラとは大分違うでしょう。言ってしまえば同姓同名の別人。我々が知らない世界――並行世界か、万物万象のルールそのものが全く異なる世界のキマイラです」
「……そんな輩が何故召喚されたのだ?」
「女帝の退屈しのぎの結果ですな。あのお方は毒の逸話があれば幻想種でさえ呼べるらしいのですが、ご存知の通りキマイラに毒の逸話はありません。ただ、蛇が毒を持っているという理由だけで強引にも呼び寄せたそうで。その結果、本来ならば繋がりのない彼女……シメールが招かれてしまったのです」
「だとしても有り得るのか、そんなことが」
「シメール曰くタイミングがばっちりだったのもあるとか。タイミングが何なのかは吾輩も知りませんのであしからず。謎多き少女ですぞ」
厳重な錠前を幾つも開き、別室の中に招き入れながらシェイクスピアは補足した。
確かにアタランテが知るキマイラは美しくもなければ少女でもない。
「彼女についての話はここまでとし、依頼品の完成のほどをご覧頂きましょう」
それぞれ机の上に置かれた『
文豪といえど名文を付与した程度で洗練されるものなのかと半信半疑だったが、この出来栄えには納得せざるを得なかった。『エンチャント』のスキルも侮りがたい。
「不足はありますかな?」
「いいや、ない」
二つ返事で応じれば満足げな首肯を返し、確信犯めいた顔で戯言を言う。
「しかしアタランテ殿はまだしも、あれほど虚仮下ろした田舎娘の物にも手を加える事になろうとは。吾輩、反省はしていますが複雑な心境ですぞ」
「口が笑っているぞ、道化師」
「はっ、はっ、はっ、これは失礼。何しろ楽しかったですからなぁ。間違いなく丹精込めて書き切ったそれらで、アタランテ殿とジャンヌ・ダルクはどう演じてくれるのか」
悲劇になるか惨劇になるか、愛憎劇になるか。
「見物ですな? 吾輩は観客としてとっくり見せてもらうとしましょう。野次は飛ばしませんし、煙草も吸いませんのでご安心を。マナーを弁えない客ほど煩わしい存在もいませんので! 決して邪魔はしませんとも! ええ、決して! リテイク要求など以ての外!」
喧しい男だ。耳が痛くなる。
「して、渡すつもりはあるので?」
「いざとなれば、だ」
「一度勝った相手に負けるような貴女ではないでしょうが……ひょっとすると大聖杯を破壊されるかも知れませんぞ? はたまた、道連れにアタランテ殿を焼き尽くそうとするかも」
「ジャンヌ・ダルクの聖剣がどういう物かは知っているさ。……己に科された処刑が宝具になるなど理不尽過ぎる。異端審問といい救いがないにも程があろう」
「解釈の違いですな。彼女を断罪した者たちは懲罰だと信じたのでしょうが、彼女は救済だと信じたのでしょう。信仰する宗教においては、自らの身体が灰となる火刑は最も恐れるべき死なのですがね。アタランテ殿的にはゼウスかキュベレーの神域で、ヒッポメネスかメラニオーンと交わり、どちらかの神の怒りを招いてライオンにされる逸話が宝具となるようなものですか。聞きたいのですが、最後はいったいどうなったのです? 女神の車を牽引させられたとは伝えられておりますが」
「……二度と筆を握れない躰になりたいのか。ああ、本を読めなくなるのも地獄であろうな」
アタランテは指を鳴らし、悪鬼羅刹の形相で睨み付ける。
これは少々突っ込みすぎたようだ――道化師はいなす様に両手を押し出す。
思い出したくもないであろう記憶を掘り起こすのは迂闊だった。完成した依頼品を渡していなかったら射貫かれてもおかしくなかった。か弱い作家相手に殺傷沙汰は勘弁願いたい。
天草四郎時貞の人類救済は格別だったが、アタランテとジャンヌ・ダルクの顛末も非常に気になる。だから現世に残り、協力的な態度で書き上げたのだ。物語をより劇的なものへと昇華できるのなら喜んで力を貸す。物語に仕え、尽くし、創る者であるが故に協力は惜しまない。
「貴女とジャンヌ・ダルクが終わりを迎えるまでは退場できませぬ」
深々と頭を垂れる道化師。殺しに掛かられても生き延びられるよう策は講じているが、八つ当たりで書斎を滅茶苦茶にされては事だ。ひたすら低姿勢に徹し、アタランテの獣のように無駄なく研ぎ澄まされた殺意が薄まるのを黙して待った。
一分ほどして苛立ちを発散する舌打ちが聞こえ、慎重に顔を上げれば、アタランテは聖女の剣に触れていた。
「……あの女は私の番いとなる女だ。最期まで救おうとしなかった神に委ねてたまるか」
これだ、これだからこそ見ていたいのだ。
変哲もない凌辱者で、悪霊を孕ませるだけが目的ならばこうも好奇心をそそられはしない。
この麗しい魔獣が聖女に抱きつつある感情と、それに対する葛藤と罪悪感。どういう風に折り合いをつけ、どういう風に聖女に接していくのか楽しみでならなかった。
「『Expectation is the root of all heartache.(期待はあらゆる苦悩のもとになる)』。貴女がジャンヌ・ダルクに愛される筈がない」――そう言ってしまいそうになる口をシェイクスピアは噤んだ。言えば、今度こそ殺しに来られるからだ。
――――さて、ところで。そろそろ始められるようだ。
理解者でもあり、忌むべき異端者でもある彼女からの念話が届いた。
ジャンヌ・ダルクとレティシアを呑み込む、と。
「助言を贈りたいのですが、よろしいですかな?」
四つの武装を回収したアタランテは完全に固まっていた。
二人の少女が部屋から連れ出されたのを本能で察知したらしい。いやはや、涙ぐましい感知能力である。そこまで執着しているのだ。
「アタランテ殿が往く道が茨の道であると、吾輩は願っております」
呆然としていた魔獣はその言葉で振り返り、
「貴様ジャンヌを――――っ!!」
道化師はもうそこにはいなかった。
「セミラミス様、どれくらいの時間を稼げるでしょう」
「精々十分だ。あやつは英霊最高峰の脚を持っている上に『アルカディア越え』も保有しておる。生半可な障害では足止めにもならん。鳥のように飛び越えてくるわ」
「お茶会は開けそうにありませんか……仕方ありません、妥協しましょう」
何事もなく、むしろお互いに親しみを抱いているかのような自然さでシメールとセミラミスは確認を取り合う。召喚した時期は不明だが、一週間そこいらの付き合いではないとジャンヌ・ダルクは判断した。
シメールへの警戒は緩めないまま、玉座のセミラミスに疑問を投げかける。
「これは一体どういう事ですか」
「そこな魔獣はお主とアタランテを大層気に入っておってな、手助けしたいそうだ。あくまで我は観客よ」
セミラミスが片手を伸ばす。するとその前方の空間に歪みが生じ、この場所――王の間を目指して駆け抜けている魔獣の姿が映し出された。
アタランテ。その決死の形相を見るからに彼女はこちら側の味方だ。
空中庭園の防衛機構として襲い掛かる槍に、振り子の鎌に、Aランク級の魔弾に、前触れなく開く落とし穴に一度たりとも引っ掛かったりはせず。
毒の霧が充満し、竜牙兵が整列した悪辣なトラップ部屋に閉じ込められても止まらない。魔術でコーティングされた分厚い扉を矢の一撃で粉砕し、雑兵など歯牙にも掛けず掻い潜っていく。
あらゆる障害にかすり傷一つ負わず、五体満足のまま奔り抜ける姿に安堵してしまう。
不覚にも、場違いにも、自分は守られているという安心感に浸りそうになった。
危機的な状況は変わっていないのに。
「なんて素晴らしいのでしょう……」
悦に浸った声はシメールから発せられたものだった。
赤く染まった頬を両手で押さえた彼女はジャンヌの視線に向き直ると、恥じらうように微笑み、それから羨ましそうに「愛されていますね」と告げる。
「これでもワタシ、色欲を冠する身ですから色々なヒトに……ヒトではない存在にも求められる質なのですが、アタランテさんのように一筋な方は一人一匹一頭もいませんでした」
「……それがどうしたのです」
「あんなに必死なのに、どうして受け入れてあげないのかなぁ……と思うわけでして」
言いつつ歩み寄ってくるシメール。
ジャンヌが、その整いすぎた貌に蹴りを放ったのはまったくの無意識だった。
が、紛れもなくトップクラスの英霊である彼女の渾身の蹴りは、少女の手の平に軽々と受け止められていた。特殊な宝具でもスキルでもなく、卓越した技量も感じられないとなればそれは――生物としての純粋な身体能力の差だった。
シメールは幼い少女に靴を履かせるような丁寧さで脚を下ろさせると、
「貴女が大切だからアタランテさんは必死なのですよ」
聖母マリアかと見紛う慈愛の面差し。
大切……? アタランテが私を大切にしている……?
そんなはずがないと否定しようとして喉が痞える。魔獣の尽きぬ想いを向けられ、味わってきた肉体が否定するのを拒んでいた。
その気になれば代わりなど幾らでも調達・用意できる状況なのに、アタランテはジャンヌ・ダルク一人に固執している。自然の価値観を持つ彼女らしからぬ不効率さ、不合理的さ。
どうして? 〝切り裂きジャック〟を浄化したことの贖いをさせるため?
でもそれが目的なら、どうして気遣うような行動をとる? 女帝の毒を飲ませ、心が壊れるまで拷問し、孕むまで徹底的に犯せば済むのに。
そうしないのはアタランテが私を――――認められない。認められるワケがない。
亡霊に憑りつかれ、ジーク君を捕まえ、レティシアを惑わす彼女のことなど。
挫けることのない聖女は己の意思を叩き付け、されどシメールは微笑みを濃く深くする。
「答えなさい、貴女の目的を」
「〝私は恋をしてはならない、愛に堕ちてはならない〟。
〝恋も愛も私には関係のないもの、そうでなければならない〟。
――そう思い、誓ってしまった御二人を結びつける。純潔の女狩人と聖処女の恋愛成就。互いを愛し合う夫婦にする。それがワタシの
「……馬鹿げています」
いいえ、と否定したシメールはただ一人の夢見る少女であった。
「誰しも愛し合い、幸せになれる道がある。悩んで、苦しんで、死ぬよう目に死ぬほど遭っても、立ち続けて進み続ければきっと辿り着ける。父は4万2355回の死を乗り越え、母は決して諦めないと誓った
ジャンヌは理解した。
このキマイラはギリシャ神話のそれではない。根本から異なる世界のキマイラなのだろう。知りもしない世界の出来事を言われている。本当に一切関係のない話だ。しかし、真実味は確かにあった。両親への愛情、その二人から生まれた自分への絶対的誇り。
「ハッピーエンド主義者なんですよ、ワタシは」
両手を大きく開いてシメールは告白し、この少女に抱いた憧憬のような感情は霧散する。
言葉面の聞こえはいいが、どこか、致命的な異物を含んでいるように聞こえたから。
そして確かめるまでもなくシメールは語り始める。
「幸福な結末を迎えさせる為ならワタシは何だってやります。何にだって成ります、成ってあげましょう。止まっていては始まらない。時間は大切にして、速やかに動かなければなりません。当たり前でしょう? このままいってもジャンヌさんは堕ちるでしょうが、アタランテさんが求めていたジャンヌ・ダルクではなくなっているでしょう。そんな風になるのは悲しいですし、報われません。ワタシがこの世界に来られたのはまったくの偶然ですが、アタランテさんとジャンヌさんのお二人を見て、思い直しました。それこそ啓示を授かったような気分でした。ワタシがここに来たのは必然だったのです。純潔を誓った女狩人が聖処女を女として妻として母として欲しがっている――こんなにも心踊らされる恋愛に、こんなにも理解しがたい夢に、このワタシが呼ばれない筈がなかったのです!! ええ、ええ、手伝います。この身を捧げてお助けします。必ずや成立するように尽くしましょう。貴女がアタランテさんを愛せないなら、愛せるようにしてあげます。
だから、だからだからだからだからだからだから――――」
高らかに歌い上げ、締めようとしたシメールがぴたりと止まる。
「速過ぎるでしょう」と誰にも聞こえない小ささで呟き、王の間の扉を注視する。そして突如として両開きの鉄扉の上部分が砕け散り、そこを飛び越えて現れたのは――無論、
「私のジャンヌを返せ……!!」
『
狙いは違わず。回避は望めない。蛇の尾の自立防御をすり抜け、シメールの額を漆黒の矢が貫く。魔獣は後ろへと藁のように吹き飛び、魔力を込められた矢が炸裂する。爆炎に混じって頭の中身が四方八方に散乱した。致命傷なのは疑いようもない。即死は免れないだろう。
アタランテがジャンヌの前に降り立つ。
「怪我は、大事はないかっ!?」
肩越しに顔を向けてきた彼女の息は荒い。だが目立った外傷はなく、毒の影響も見られない。
ちゃんと助けにきてくれた――心身が安心してしまう。
まだ安心してはならない状況なのに、安心できる相手ではないのに。
「……心配は要りません」
「そうか……ならば、よい」
二人がぎこちなく確認を取り合い。
王の間に楽しそうな笑い声が木霊する。
首から上を失った仰向けのシメールからである。いったいどこから声を出しているというのか。白髪の魔獣は何事もなかったかのように立ち上がり、瞬く間に頭部が形成されていく。
再生能力……それもかなり上級のものだ。ヒュドラに匹敵しよう。能力的にもギリシャのキマイラとは別物だと考えた方がいいだろう。亜種や上位種では収まるまい。
「薄皮を一枚剥がせばこれです。ジャンヌさんは女の顔になっていますし、アタランテさんも呼び方が変わっていますよ。本当は『ジャンヌ』と呼びたかったんですね」
いじらしいヒト、と片目を瞑る。
「貴様がシメールか」
「はい、そうですよ。ところでワタシを見て、感じ入るモノはありませんか? 今はちょっと劣化していますが見てくれには自信があります。個人的にはパンドラに勝るとも劣らないと」
「目障りだ」
「…………即答かつ断言とは。ジャンヌさんとレティシアさんは見惚れてくれたのに」
傷ついた表情をしながらも余計な情報を知らせ、猶更アタランテを苛立たせる。
ちらりと垣間見たシメールは含み笑いをこぼす。
「安心してください。お二人を自分のモノにしようなんて考えておりませんから。どちらかと言えばですね、アタランテさんとジャンヌさんを結びたいのです」
先ほども言った狙い。ジャンヌには、虚偽だと感じられないのがむしろ恐ろしかった。
「だからお願いがあります。貴女の覚悟を見せてください。悪夢の中でも、地獄の中でも、ジャンヌ・ダルクへの愛を貫き通してください」
片手の親指と中指を擦り合わせようとするシメール。膨大な魔力がその二本の指に集約される。宝具の真名開放かは判別がつかないものの、合図なのは明白であった。
この魔獣の再生能力を見るに生半可な攻撃では止められない――。
セミラミスが吾々の味方ではなかった場合、彼奴が支配する王の間で戦う危険性――。
即座に闘争よりも逃走を選び、アタランテはジャンヌを抱き上げて、
「此よりは地獄」再演にして再構築された悪夢である。「さあ、獣狩りの夜を始めましょう?」
指が鳴らされる。
世界に暗幕が下り――すべてが圧倒的な闇に覆われる。
幕が上がったときには――場所と状況は何から何まで一変していた。
もはや隠す気などない……!
次回からは『悪夢の都』が始まります。かなりの長丁場の予定。
濡れ場はありますのでご安心ください。