昼の陽気な日差しが照らす鎮守府。今日も一日艦娘が近海の哨戒を行い、遠征にて輸送を手伝ったり、演習で他所と互いの鎬を削る、そんな風な鎮守府の責任者にとっては大きな変化も無く平和と言える一日。
鎮守府の近海に敵の偵察が来る気配は無く、遠征部隊も敵との接触は無く、演習も無事勝利をおさめたいつもの日常。
そう、何も変化は無く平和な一日で終るように思われたのだ。
それが、
「みゃあ」
猫となった江風を海風が連れてくるまでは。
事の始まりはほんの一時間前に遡る。
「て、提督っ!大変な事になりました!!」
けたたましい音と共に扉を強く開け放ち、執務室へと乱入したのは海風。いつもは穏やかで焦る事が殆どない彼女が息を切らし声を荒げている。
「おぅん?!どうした?」
焦燥感を露わにする海風に感化されてか、提督も書類を手放し、椅子に収まっていた腰をあげる。
「これをみてください!!」
海風は提督のいる机の前に急ぎ足で寄ると腕の中に抱えていたモノを掲げる。
海風が掲げたのは、触れたら心地よさそうな肉球のついた足に三角形のとんがりとした耳のついた生物。その体毛は白と黒の二色の体毛が小さな体を覆ているが白い毛は若干桃色の様にも見える。特徴的なのは、カチューシャの様な頭の飾りと一房だけ跳ねた毛と垂れた犬耳を思わせる毛の跳ね方と、身体を覆う裏地が黒で表が白の特徴的なマントの様な物といっぱいある。
色々と特殊な部分はあるが、海風が掲げているのは子猫であった。
だけど、この一杯ある特徴が明石に会ってくると言ったきり中々帰って来なかったとある艦娘に酷似している。
「おい、その猫って」
「提督も何となく察しているかも知れませんが――」
海風が真剣な目で提督の瞳を覗きこんでくるので提督も息を呑んでしまう。
「この猫、江風なんです」
「にゃあー」
「な、なんだってー!!」
海風からの衝撃的な言葉を肯定するように猫が返事をする。その瞬間提督の全身に雷が落ちたような衝撃が走った。
明石に所要があった江風が明石の元に赴き、そこで明石にとあるものを飲むように勧められた。それが、艦娘を猫にする薬だったらしく江風は見事に猫になってしまったのだ。余りにも江風が戻ってこない為、不審に思った提督は海風を迎えに行かせたので発覚したのだ。
「はぁ…完成してたのか…」
「…?何か言いましたか」
「いや、なんでも」
自分にも聞こえるかどうかの声量で無意識に言ってしまった様で、海風がおぼろげな反応を示したが提督は海風の反応を切り捨てこれ以上追及されないように先手を打つ。
提督は一度椅子に座りふぅと重く息をつく。猫となった江風はその瞬間を見計らっていたのか、海風の手の中で体を動かして暴れ、海風の手中から逃れる。
「ふぇ?」
「みゃっ!」
海風の手の中から抜け出した江風は机の上に華麗に着地。更にもう一度小さく飛び提督の膝の上に収まった。
「にゃあ♪」
江風は膝の上で体を横たわらせると、感触を堪能するように頬を擦りつける。髭がちょくちょく当たってくすぐったいが、猫となった江風はそんな事はお構いなしですりすりと可愛らしく押し付ける。
「……可愛い奴」
「うふふ、ですね」
提督が江風ネコの薄い桃色の体毛に覆われた頭を撫でてあげると、もっと撫でてと言わんばかりに頭を押し付けてくる。
普段は活発で男勝りな江風が猫となったことで見せた甘えるようなしぐさに二人はニッコリだ。
「すまん。仕事を手伝って貰っていいか海風?」
「ええ、海風は構いません」
本日の秘書艦であった江風が猫となってしまったのはいいが、このままでは仕事が滞ってしまう。なので海風に仕事を手伝ってくれるか頼むと海風は二つ返事で了承した。
彼女の表情から、江風が猫となってしまったことの負い目による暗さは感じ取れない。もっと猫となった江風の事を近くで見たいのだろう。
そんなわけで、海風を臨時秘書艦に任命して仕事を再開したわけなのだが、三十分を過ぎたあたりから頭を撫でて貰うだけじゃ足りなくなったのか、江風ネコは提督の膝の上からおりて提督の足にすりすりと甘えるように身体を押し付ける。
が、提督は江風ネコが膝の上から降りたのはわかったが、足元でどう動いているのかはまでは把握していない。提督の足元で遊びでも始めたと思っているだけだ。
「みゃあ」
江風ネコが甘えるように足元から声を発して、前足で提督の足をテシテシと叩く。
「海風、これの添付資料は?」
「それでしたらこちらに――」
しかし件の提督は書類仕事に完全に集中しており、江風ネコが足元へとおりたのをきっかけに完全に仕事モードへと入ってしまっている。
「ふにゃー」
これだけでは足りないと判断したのか、江風ネコは後ろ足で立って提督の足にしがみ付いたり、鼻を擦りつけたりして、何とか注目を浴びようと四苦八苦。
仕事モードの提督はよしよしとは言うが、その視線は全て書類へと向いている。
あの手この手で提督の注目を集めようと努力したが江風ネコを一瞥する事すらしない。
何時まで経っても提督が自分に注目してくれない事に痺れを切らしたのか、江風は提督の膝へと軽々と登り、膝と机の棚を経由して、机の上へと躍り出る。
「おう?」
「あら?」
突如机の上に現れた乱入者に提督はペンを動かす手を止め、海風も江風ネコに注目する。
「ふぅー!!」
江風ネコは毛を逆立たせ尻尾をバタバタとせわしく振っている。
猫と戯れたことが余り無い提督でも見ているだけでわかる。目の前の子猫は自分の事を無視された事に腹を立てているのだろう。
怒りのサインを出され困った様に眉をしかめる提督とは対照的に海風は口許を押さえてくすりと笑っている。
「ふふっ。提督、本日はこの子に構ってあげてください。お仕事の方は海風と村雨姉さんと春雨姉さんで終わらせますから」
「……そうだな。このまま机の上に居られたんじゃ仕事は出来そうにないしな」
猫となっても人の言葉はわかっているらしく、江風ネコは逆立てた毛を肌へと寝かせると、きらきらと期待するように光を放つ瞳を提督に向ける。
その期待に応えるみたいに提督は江風ネコを抱き上げる。提督の決断がとても満足いった様で江風ネコは喜びを伝える様に提督の鎖骨辺りをペロペロと小さく舐める。
「こらこら。くすぐったいぞ」
「にゃあー♪」
江風ネコに注意を発しながらも軽い足取りで提督は執務室から出て行く。海風は執務室から消えていく提督の背中に笑顔で手を振って見送った。
提督に付きっ切りで居て貰えて江風ネコは終始ご機嫌であった。
散歩に出掛ければ終始提督の周りをクルクルと周りながら動く。
「江風」
「にゃあっ♪」
時折名前を呼んであげれば気前よく返事をして、身体をすりすりと擦りつける。もっと名前を呼んで欲しいと懇願するように。
「あっ、提督!なになにその可愛い子猫!」
「ああ、何でも明石のやつが――」
散歩先で偶々艦娘と会って話しこむと、
「みゃう!」
「いてっ!」
指を甘噛みして自分に構って貰おうとする。
江風ネコに興味を抱いた他の艦娘に抱かせてみたりもしたが、
「みゃー……」
今一反応が良く無く。
しかし、提督が再び抱き上げると。
「にゃっ!」
瞬く間に上機嫌になる。この時、同時に頭を撫でてやると更に高ポイント。明らかにテンションが下がった江風ネコの邪魔をするわけには行かず、段々と艦娘達は遠巻きに見守るようになる。
「にゃふっ!」
皆の様子に何処か勝ち誇った表情を浮かべる江風ネコであるが、この子猫は何か勘違いをしているのかもしれない。艦娘達は別に提督を江風ネコから奪おうとしたり、引き離そうとしている訳では無いのだが、猫となって別の感覚が過敏になっているのかもしれない。
散歩の途中で江風ネコは疲れてしまったらしく、後半は提督の肩に乗ったり頭に乗って来たので、ちょっと首周りが凝ってしまったのだが、江風ネコが満足したなら十分だ。
海風が迎えに来ても提督と離れたがらなかった江風ネコは提督が預かる事になった。
「ふしゃあ!!」
「よーし、よーし。いい子だから暴れんなよー」
お風呂に一緒に入ろうとした時は、猫としての本能と人間としての羞恥心が残っているのか本気で抵抗してきたが、江風ネコの胴体を掴んで風呂桶に張った湯船に浸からせそのまま洗っていくと段々と大人しくなっていった。最終的には自分から湯船に移って泳ぎ回る位にはしゃいでいた。
ご飯に関しては、猫のようにキャットフードを与えるのは流石にどうか(それ以前に江風が食べたがらない)と思ったのでお皿に細かく切った刺身を盛ったがそっぽを向いて食べたがらない。
仕方なく提督が自分の手をお皿代わりにして、江風ネコの口許に持っていくと、
「にゃっ!」
「ふっ、いい子だ」
美味しそうにがつがつと止まる事なく食べたのだ。
猫らしい気まぐれな所が元々江風にはあったがそれが顕著になっているという事だろうか。手の中にある刺身を食べ終えたあとも残った味を確かめる様にペロペロと掌を舐めつくす。
「くすぐったいぞー」
「にゃー♪」
緩い声で注意を促すが、猫だから何を言っているのかと言わんばかりに無視して舐められつづけた結果、皮膚が軽くしわしわにふやけてしまった。
食後に提督がテレビを観ていると、江風ネコは提督の前でお腹を曝け出すように寝っ転がる。
このサインは言わずもがな、構って欲しいと言う物と、お腹を触って欲しいと言う所作。猫が一番心を許した者にのみ見せる信頼の証。
「愛い奴め」
「ふみゃっ♪」
そのまま提督に心行くまでお腹を撫でられ、満足した江風ネコは提督の膝の上で丸くなる。
「眠いのか?」
「みゃあ……」
提督の質問に答える様に江風ネコは小さく鳴き声をあげる。
可愛らしい子猫の要望に応えるため、寝室に敷いてある布団に江風ネコを抱きながら入る。
「おやすみ江風」
「にゃあ……」
江風は提督の鼻先に自分の鼻先を擦り合わせると、提督の胸元で丸くなる。提督は丸くなった江風ネコを抱いて、眠りにつく。かくして猫となった江風との一日は終わりを告げた。
眩い光に瞼を焼かれ、その熱に耐え切れなくなって瞼を持ち上げる。
「ンぁ……」
一番最初に目に入ったのは窓から刺す朝の日差しと、その光を浴びて影になっている提督。
「おはよう江風」
提督は江風に小さく微笑みかけながら目覚めの挨拶を述べる。
「あれ……?提督が居るンだ……?」
上半身を持ち上げながら、ぼんやりとした頭で提督が自分と同じ部屋になんでいるのかを考える。布団の中でうとうとと考えを巡らせていたのだが、日差しを浴びているおかげか、もやのかかった頭の中がすぐにはっきりとしていく。
思い出されるのは、明石から手渡された薬を飲み猫となった自分。そして、猫となった自分が散々提督に甘えていた事。
頭の中がはっきりとすると同時に彼女の顔が茶葉を入れたお湯の様に段々と赤く色づいていく。
「ち、違うンだよ提督!あ、あれは猫になってたからで!!」
顔を隠しながら昨日の自分の行動を否定する江風。
江風は提督の顔を見て無いので気づいて無いが、提督の口角はこれ以上無い程持ち上がっていて、目元と垂れ下がり切っている。簡単に言えば、ニヤニヤと江風の事を見ていた。
提督はニヤついた表情を隠すことなく江風の肩を掴む。
「なぁ、江風」
「な、なんだよ?」
「思う存分、俺に甘える事が出来たか?」
「……はっ?」
江風は思わず覆っていた手を取り除くと、提督の顔がこれ以上無い程ニヤついている事にやっと気がついた。
艦娘を猫化させた明石の薬は元々艦娘の欲求不満を取り除く為に開発された物。
ストレスと言う物は薬で抑えきる事は出来ず、いつかは自分で発散させないといけない。だけど、発散させる方法がわからない。
そこで、艦娘を一時的に動物化し思いのままに欲望を発散させようと言う考えのもとで作られた薬。それこそが江風が飲んだ薬だ。
この薬をつくるきっかけとなったのは、艦娘達のカウンセリングも時折行ってる明石に江風が『自分は意地っ張りだし提督はいじわるだから、提督に甘えたいしもっと構って貰いたいけど出来ない(超要約)』と言った相談を受けたからと言う物。
その事をこっそりと提督に報告した明石であったが、意地悪な所がある提督は『普段の江風だから恥ずかしがるのだ。例えば、一時的に猫になったりしたら素直に甘えられるんじゃないか?今の自分は猫だから仕方ないって。そういう事が出来るなら『多め』に予算を出しちゃおっかなー(超要約)』と明石にチラつかせた結果、明石が二つ返事で了承したのだ。
そうして出来上がった物を明石は『これを飲めばちょっとは気分が軽くなるので、提督に甘えやすくなるかも知れませんよ?』と江風に提案して飲ませたのだ。
提督は完成したと報告を受けて無かったので完成していたのは予想外であったが結果はオーライ。明石もサプライズのつもりでやったのだろう。予算を多めに出して正解であった。
「おかげで可愛い江風ネコが見れた。流石は明石だな」
つまるところ、今回江風が服用した猫化の薬は、提督が江風から甘えさせる目的で作らせた何とも愛情が籠った理由と、結局は猫化が解けた江風をこうやってからかうために作らせたと言う理由。
「ば……」
「うん?」
「バカぁ!!そンなンだから素直に甘えられないンだよぉ!!」
江風が恥ずかしがって、恥ずかしがる江風を提督が愛でる。そんな変わった鎮守府の変わった日常の一幕であった。