「―――――」
どこか遠くから小さな音が聞こえる。それは意識に伝播して、木霊するように僕の沈んだ意識を揺さぶる。
「―――――!」
その音は、段々とはっきりとした形となり僕の耳朶に浸食する。水が地面に染みこむかのように、僕の頭に働きかけてくる。
「―き――い!」
地の底に居るかのように真っ暗に閉ざされていた僕の意識は音に導かれて――
「おきなさい!」
僕は固く閉ざされていた瞼を持ち上げる事に成功した。
うっすらと開かれて確保された視界。新たな一日となって僕の瞳が一番最初に映したのは、実験動物を観察するかのような細められた胡桃色の瞳。
「……おはよう」
「おはよう、じゃないわよ。全く、高校生になってもあなたは一人で起きられないの?」
呆れたように息を吐きながら、遠ざかっていく胡桃色。
目覚めたばかりで靄のかかっていた僕の瞳だが、身体機能を段々と取り戻して視界がはっきりと鮮明になる。
薄く開くだけだった瞼をこじ開け、大きく視界を確保する。
先程移った胡桃色の瞳の他に、常夜灯だけがついた暗い部屋の中でも映える栗皮色の髪に学校指定の紺色のブレザーの制服。
すでにわかりきっていた事ではあるけれど、僕を起こした人物が誰であるのかはっきりと認識した。
「おはよう、大井」
「はぁ……おはようございます」
彼女からの呆れの言葉などどこ吹く風と呑気に挨拶する僕に、大井はまた呆れた様に息を吐きながらも挨拶を返してくれた。
自慢じゃ無いが、僕は家事が得意では無い。
料理なんて出来ないし、掃除や片づけは効率よく出来ないし、洗濯物を干そうものならシワシワのヨレヨレとなってしまう。
そんな家庭力0の僕が一人で家の留守を長らく任される事になったらどうなるだろうか?
想像に難くないだろう。大惨事だ。
御飯は買った物や即席ラーメン中心、掃除や片づけは一日かけて、洗濯物は惨状。
簡単に予想できるし、そうなった。
僕の両親は転勤で暫く家に居ないのだ。
今年の春から高校生となった僕はホイホイと両親についけいける筈もなく、留守を任される事となった。
家事能力の無い父親からは『これもいい経験だ』と無責任な言葉を、家事能力抜群の母親からは『無理しないでね』と僕を案じた言葉を賜った。
家事と炊事の能力は段々と改善の軌道に乗って来たのだが、料理だけは上達曲線の低さとめんどうくささからコンビニ弁当やお惣菜、それと即席ラーメンに頼りっきりになってしまった。
とある日の学校の帰り道、ご近所さんで付き合いの深い一つ年下の少女――大井と会ったので、笑い話としてそんな現状を話したつもりだったのだが。
『現役の高校生がそれでいいと思っているの!?』
と、糾弾されてしまい、そのまま説教。最終的に大井が我が家に来て料理を作ってくれることになった。
その時、大井が作ってくれた御飯がとても美味しくて、
『美味しいから毎日食べたい』
と、僕はつい言ってしまったのだ。
その時の大井は仏頂面で頬杖を突いて、面倒くさそうに息を吐いてた記憶しか無かったのだが、翌朝、
『起きなさい!』
とキツめな口調の大井に起こされ、大井手作りの朝ご飯が振る舞われたのだ。
そして、お昼御飯のお弁当も手渡され、夜も大井の作ったご飯、と久しぶりに手料理に溢れた一日を送ったのだ。
合鍵の隠し場所は大井なら知っててもおかしくないから家に入って来られてもまだ問題ないけど、何でご飯を作ってくれるのかと聞いてみたら、
『親御さんにあなたの現状を伝えてみたら、頼まれたのよ。偶にでも良いからご飯を作ってあげてくれないか、って』
そうやって、面倒くさそうにちょっとだけムスッとした表情で言う大井。
お駄賃も後で渡すと言われたので了承したらしい。
僕の食生活は確かに酷い物かも知れないが、大井に迷惑をかけるわけには行かないのでやめていいのだと説得しようとしたが、
『知った以上見逃せないわ。それにあなたが気にする事じゃないわよ』
僕が気にする事じゃない、何処か突き放すようなその言葉が気になりはしたが僕は大井の好意に甘えさせて貰う事にしたのだ。
それから、ほぼ毎日、大井は僕にご飯を作ってくれるようになった。
朝は軽めの朝食、昼はお弁当、夜は夕食と言った具合に。
その日常は勿論今日も――
「ご馳走様でした」
「お粗末様でした」
朝のニュースがTVから流れるリビングで僕と大井は同時に食べ終わった。
本日の朝食は白米に味噌汁、焼き鮭。白米は大井に負担を軽くする為に自分で炊いたもの、味噌汁は昨日大井が作ってくれた残り、焼き鮭は大井が今朝、僕を起こす前に焼いてくれたもの。
ご飯はまだ少し水分が多い。休日に大井から習っているのだけれど、上手くいかない。やはり料理の腕は一朝一夕で上がる物では無いのだと実感させられる。御飯を口に含んだ大井が渋い顔をしたのを思い出す。申し訳ない。
大井が食器を洗ってくれている内に御飯を炊飯ジャーにセットする。今度は昨晩より水は少なめにして。
歯を磨き、寝癖を直し、自室に戻って制服に着替え、姿見で確認する。
「よし」
リビングにいる大井の元に戻る。
僕の通っている高校は電車に乗ったりして40分近く通学時間がかかる。対して、大井の通っている中学は徒歩15分程度の距離。僕の方が早く家を出なければいけない。
「ありがとう大井。行ってきます」
朝食を作ってくれた大井に感謝を述べつつ、意気揚々と家から出ようとしたが、
「待って!」
玄関を出る寸前に大井に呼び止められてしまった、
「忘れモノよ。全く、ちゃんと確認しなさい」
そう言って、大井が手渡したのはお弁当が入った包み。
「あっごめん……!ありがとう」
大事なモノを忘れるところだった。これが無いと僕の昼食は焼そばパンとコロッケパンになってしまう。
「いつも負担かけてごめんね。……ありがとう。行ってきます」
「……行ってらっしゃい」
大井に負担をかけて申し訳ないとは思ってる。余計なお世話だと言われそうだが、負担になってるならやめていいと彼女に何回も言っている。だけど、彼女は意固地に首を縦に振ることは無い。
『余計な心配しないでちょうだい』
ぶっきらぼうにそう言って。
だから、料理が出来るようになって、大井に頼らない、否心配をかけない生活を送れるようにならないといけないのだ。
ぶっきらぼうだが世話焼きな大井を背に、今日は帰りに家事の上達本でも探すと決めながら、僕は学校へと向かった。
彼が出て行ったドアからの光の奔流が収まるまで大井は手を振り続けていた。
「負担ね――」
大井は口許を隠す様に手を宛てる。それは誰に向けて隠すような動作だろうか?
当てはまるのは一人しかいない。
――あなたの事を想えば
「こんなの負担に入らないわよ」
踵を返し、再びリビングへと向かう大井。
「今日の晩御飯、何にしてあげようかしら?」
手が外された彼女の口許は、彼が『おいしい』と言いながらご飯を食べてくれる姿を想像して微笑んでいた。
素晴らしい感想を書いてくれた方のリクエストを叶える為に書いてみたけど、多分こんな話は求められてない気がする(邪推)