気分次第で過去作にもつけます……。
それは執務中に起こった突然の出来事であった。
「ダーリン」
突如、執務室から聞こえる筈の無い呼称が聞こえてきたのだ。提督はその幻聴を左から右へと感慨も無く受け流した。その理由は簡単だ。今、執務室にいるのは提督と瑞鳳だけで、提督の事をだーりんと呼ぶ艦娘はここには居ない。
「……」
だから、提督の反応は沈黙。当然だ。彼はそれを幻聴だと信じているのだから。
「ダーリン!」
しかし、その幻聴はまだまだ聞こえる。聞こえる筈の無い声色、先程よりも大きな声量で。
「……」
だけれど、その声すらも提督は反応を示さない。誰かの言うダーリンとは自分の事を指しているとは一欠けらも思ってないからだ。都合よく解釈しようにも『鎮守府の外にいる外国人カップルがはしゃいでる声が風に流れて聞こえてくる』位にしか思えなかったのもその一因だろう。
「もう、ダーリンっ!」
「うぉ!?瑞鳳が呼んでたのか?!びっくりした!」
痺れを切らした瑞鳳が提督の耳元で呼びかけたので流石の提督も反応し、座ったままの姿勢で大きく飛び上がる事になった。
「もう……私と提督以外ここには居ないよ?」
明らかに不満ですと言うかのように瑞鳳は頬を膨らませる。
「確かにその通りだが……。この部屋にはジャーヴィスは来てないよなって。でも、何で急に呼び方を変えたんだ?」
人間、慣れてない事には反応できない物なのだ。その証拠に提督は、ダーリンと呼ぶ声を瑞鳳からではなく、ジャーヴィスからのモノかと思って反応して無かったようだ。ジャーヴィスは遠征に出しているので、ここにいる筈が無いと。
瑞鳳の事を無視していた訳では無く、彼は幻聴が聞こえると思ってて何のリアクションもしなかったのだ。自分は仕事に集中しすぎて、一周周って集中できてないのかと。
「知りたい?」
「知りたい」
首を傾げて提督の事を見上げる瑞鳳。その姿は、頑張った事を褒めて貰おうとする子供の様で微笑ましい。
「それはね。提督の事をダーリンって呼んだらどんな顔をするか見たかったからよ!」
瑞鳳は胸を張って答える。顔を自慢げな表情へと変え、ふんすと鼻息を出すオマケ付きだ。
「ハハッ、流石にびっくりしたよ。まさか瑞鳳からダーリンって呼ばれるなんて思わなかったから」
その証拠に提督はある意味びっくりしたと言うリアクションをとったと言えるだろう。そう呼ぶ筈が無いと思ってた人物からダーリンと呼ばれたのを幻聴として受け流す形で。
「それで?どうだった?」
「どうだったって?」
「嬉しいかった?それとも、変だった?」
提督の脇から顔を覗きこむようにして伺う瑞鳳。その姿は、フリスビーをとってきた愛犬の様に微笑ましい。
こういう仕種を狙ってやってる訳では無いのが、瑞鳳の魅力だと提督は確信している。
「それはその……。なっ?もう一回呼んでくれないか?」
先程は突然の事だったので、提督はリアクションをとれなかった。
だから、もう一度と要求する。
今度は、瑞鳳のいつもと違う呼び方をしっかりと受け止める為に。
「呼んで欲しい?」
「呼んで欲しいです」
「じゃあ、呼んであげるね」
「お願いしまする」
口許に指を置いて考え込む様な動作をとる瑞鳳であったが、その答えはもう決まっている。
お願いされなくてもやってあげるのだ。だってこれは瑞鳳が提督からのリアクションを楽しむ為にやっているのだから。
それだと言うのに提督は頭を小さく下げてまでお願いして来る。
そこから感じ取れるのは期待。それと今度はしっかりと聞くという強い意志。
「も、もうしょうがないなぁ」
提督から寄せられる期待を感じ取って人差し指を押し合って恥じらいを見せる瑞鳳。
先程までは一種の悪戯のつもりで軽くやれそうだったのだが、期待されてる事がわかって少々気恥ずかしくなったようだ。
「じゃあ、呼ぶね?」
瑞鳳の意を決した目を浮べたので、提督も息を呑んで待ち構える。
「だー――」
――あっ
たった一文字、そうたった一文字で提督の全ては弾け。
「りん?」
身体が融け落ちて行くような感覚を味わい提督は無事死亡したのであった。
「だ、大丈夫?!そんなに合わなかった?!」
瑞鳳が崩れ落ちる提督の身体を支える。
余りにも大きなリアクションに、提督の思いとは裏腹に瑞鳳はそんなに自分に合ってなかったのかと、若干涙目になってしまっている
「だ、大丈夫だ問題ない……。ちょっと三途の川の向こうにいたばっちゃに挨拶してきた……」
くらくらと目まいがして歪んでゆく世界の中、提督は瑞鳳の支えによって何とか真っ直ぐな世界に立つ。
瑞鳳からのダーリン呼び。それは今もなお生命の鼓動を刻んでいる提督を三途の川送りにし、川の向こうにいた祖母に挨拶をし、英語を生みだした存在に感謝を述べに行く位の破壊力があった。
「それって全然大丈夫じゃないよ……。お仕事休む?」
相変わらずフラフラと立っている提督の事を思いやる瑞鳳。
今提督が見たいのは、心配そうに眉を顰める瑞鳳では無い。
だから、急いで釈明せねば。この想いを瑞鳳に伝えねばならない!
使命感に燃えたことで提督の歪んだ視界は元に戻り、自分だけの力で床を踏み続けれる力を再び取り戻した。
「いや、本当に大丈夫なんだ。心配しなくていい」
「そお……?」
まだまだ心配とばかりに見上げてくる瑞鳳に微笑みかける提督。
彼の瞳の奥にある者を感じ取ったのか、瑞鳳は静かに彼を支えるのをやめた。
提督は一度大きく咳払いをして気持ちに尻をつける。
「それで、瑞鳳のダーリン呼びはな――」
「うん」
胸の前で手を組んで瑞鳳は待つ。
先程のリアクションのような曖昧な答えでは無く、明確に言葉にした想いを。
「最高だった」
提督の口から出たのはその一言。
恥らないがらダーリンと呼ぶ瑞鳳。その可愛さの暴力の前に出た提督の言葉はそれだけであった。
否、それだけではない。それしか出なかったのだ。瑞鳳の可愛らしさを表現する言葉は提督の語彙には存在せずに灰に還ってしまい。何とかのこった褒め言葉がそれだ。
つまり、今提督の口から出た最高の二文字は、提督に残された最高の褒め言葉なのだ。
「ホントに?」
「本当だ」
もし、他の言葉は無いのかと瑞鳳に追及されたら提督は多いに困ってしまうだろう。 何故なら、瑞鳳のダーリン呼びをほめたたえる言葉は今の提督には残されておらず、もはや自分で言葉を作るしかなくなってしまうのだから。
「えへへ……喜んでくれてよかった!」
「いやホント、ごめん。言葉で言い表せないくらい最高だった」
提督は思わず鼻を抑える。そうしないと両手を頬に当てて喜ぶ愛らしい瑞鳳を見て言葉の代わりに出てしまいそうな赤い液体を漏らしてしまいそうになったから。
流石にそんな液体が出たら、ダーリン呼び云々の話ではなくなる。今はこの甘ったるい雰囲気を楽しみたいのだ。
「えへへ……。本当はジャーヴィスちゃんの事がちょっと羨ましかったんだ」
「それは何でだ?」
「だって、提督の事をジャーヴィスちゃんだけが『ダーリン』って呼んでるでしょ?だから……ね?」
「もしかして嫉妬してたのか?」
僅かばかり期待を込めた言葉。瑞鳳が仲間に嫉妬するなんてめったにない事だから。
「ち、違うって!羨ましかっただけ。だって、提督が私のことが大好きだってこと、私がよくわかってるから」
「瑞鳳……。悪かったな、勝手に嫉妬なんて言って盛り上がって」
勝手な思い込みで、彼女の信頼を無下に扱いそうになった提督に微笑みで返す瑞鳳。
そこで、瑞鳳は瞬時に思いついた。嫉妬と言う口実。これは使えると。
「瑞鳳?」
唐突に瑞鳳は提督の隣に座り込むと、彼の左腕に自らの身体を巻き付ける。
「やっぱり、嫉妬してたかも。提督には私っていう恋人が居るのに、他の人に『ダーリン』と呼ばれてもいいって人だし」
「た、確かにジャーヴィスに『ダーリン』って呼んでもいいって許可したけど、別にジャーヴィスは――」
ジト目の瑞鳳による追及に、提督は身振り手振りで他意はないと全力で弁明すると。
「ふふふ――うーそ?ちょっと提督の事を困らせたくなっちゃっただけ」
小さく舌を出しつつも、冗談だと瑞鳳は彼に告げる。
「……今日の瑞鳳は意地悪だ」
「ご、ごめん!そんなつもりじゃ」
先程まで朗らかであった提督は何処へやら、彼はすっかりと消沈してしまった。確かに、ちょっとばかり彼の困った顔を見たくなったのは事実だ。でも、彼を落ち込ませようとしたわけではない。
「そ、その……」
瑞鳳にとって余り意地悪をしたつもりで無かったのだが、人によって受け取り方が違うのは常の事。両手を大きく振って取り乱しながらも提督を元気づけようとする瑞鳳なのだが、
「えっアレ?」
突如提督に両肩を掴まれ――
「あっ」
まるで流星が落ちるかの如く彼から口づけをされたのであった。
「俺を困らせた罰だ。身長と体格差が活かせる最大限の罰則を与えたぞ」
先程までの消沈っぷりは何処へやら、今の提督は悪戯が成功した少年の様なある種清々しい笑みを浮かべている。
「も、もう……イジワル!提督のイジワル!」
何時の間にか困らせる側から、困らせられる側へ。立場が逆転した瑞鳳が取れるのは言葉による抵抗のみ。
「ははっ!何とでも言うがいいさ」
「ううぅ……」
攻める側へと回った提督は、瑞鳳が何を言おうとどこ吹く風と言わんばかりに堂々としている。素直に負けを認めたくない瑞鳳は、両手で茹った顔を覆い隠す。
「意地悪したらまたこの罰を与えるからな」
「もう!『ダーリン』って呼んであげないからね!」
自慢げに鼻を鳴らす提督に、瑞鳳は反抗するようにそっぽを向く。
「いいのか、意地悪して?」
呼ばれても天国、呼ばれなくても天国。提督の行く先は、灼熱の炎で焼かれた地獄の悪路では無く、甘い香りをまき散らす満開の花々が咲き誇る天国へと繋がる路。提督は自分の優位を確信し、ニヤニヤと歪んだ表情を隠さない。
「いいもん悪いのは提督なんだから!」
口では相手が悪いと責め立てる。しかし、目は口ほどに何とやら。瑞鳳の視線は提督に通ったり、通らなかったりを繰り返している。口から出る言葉は、瑞鳳にとって彼がとるべき事を導く為の滑走路に過ぎない。
「素直じゃないヤツめ」
提督は痺れを切らしたように、瑞鳳の腕を引っ張る。だが、それは強引過ぎず瑞鳳の注目を再び自分へと集めさせる為のもの。その証拠に提督の表情は笑みを浮かべている。
「まぁ、そんなとこも瑞鳳の良い所だよ」
「もぅ……ばかぁ……」
微笑み、強引にだけれども包み込むように抱きしめる提督に、瑞鳳は熟れた桃の様な頬をそのままにして目を瞑る。
「大好きだーりん!」
「俺もだよハニー」
ソファーの上に鎮座する二つの影が再び一つに重なった。
執務室のドアの隙間からひっそりと中の様子を伺うジャーヴィスと綾波。
「ねぇアヤナミ?こういう時ってどんな顔をしてリザルトを渡しに行けばいいと思う?」
「笑えばいいと思いますよ」
口許が引きつった苦笑を浮べる新入りのジャーヴィスに、ベテランの綾波は見慣れた光景過ぎた光景の対処方法を死んだ魚の様に濁った眼で教えたのだった。