無邪気さ。それは何とも、可愛らしい印象を受ける言葉だろう。
しかし、知っておかなければならない。覚えておかなければならない。それは、無邪気さも行き過ぎれば狂気と何ら変わらないものになる事を。
どこまでも素直に自分の疑問をぶつける。どこまでも素直に自分の不満をぶつける。どこまでも素直に―――求めたものを手に入れようとする。
その恐ろしさは―――
「ズルい…ズルいズルいズルいズルい!!!!」
提督に馬乗りになって睨みつている深紅の双眸の少女、夕立が教えてくれるだろう。
夕立と提督の出会いは、この鎮守府の稼動初期にまで遡る。
「こんにちは、白露型駆逐艦夕立よ。よろしくね!」
戦力もまともに整っていない激動の時期、彼女はやってきた。
外見こそは亜麻色のストレートの長髪にリボン、大人しそうな印象と元気さを漂わせるパッチリと開かれた碧眼と幼さを残す顔立ち。彼女の外見から得た第一印象はお嬢様然とした優雅そうな少女だった。
が、その第一印象は彼女の戦闘を見た事で一気に変わる事になる。
「さぁ、素敵なパーティしましょ!」
一見すると愉快な台詞だ。それが戦闘中に紡がれた事を除けば。
夕立はその宣言の通り、爆炎と黒煙で彩られたパーティ会場を深海棲艦を材料に作り上げ、戦闘を勝利に導いたのだ。その激動の闘いっぷりはこの時の戦いが初の実戦だと思わせない位に、旗艦を務めていた初期艦が唖然とする位完璧な戦い方だった。
だから、この戦闘を見ていた提督は夕立に恐怖に似た感情を覚える。夕立は戦闘を楽しんでいる様にも感じ取れたからだ。彼女は戦闘の最中に笑う事などは決してなく、油断などは全くしてなかった。でも、彼女は確かに戦闘を楽しんでいた。舞うような、踊るような彼女の闘いの中で、彼女に狂気に似た物を見出してしまい、提督の背筋は凍えるような感覚を覚える。
その戦闘の後にも何度か戦闘があったが、最終的に夕立も初期艦も少破にも満たない傷を負っただけで終る。すっかり、見た目に反して穏やかなイメージから一気に武闘派なイメージに変わった夕立が中々に素直に受け入れられず、提督は唸る。
そうしている間にも、夕立達は決して待ってくれない。戦いが終わり、帰投したならその戦闘にかんしての報告の義務がある。夕立達は絶対に提督のいる執務室まで来る。
夕立と初対面した時は無かった緊張感が提督の体を包む。彼女の機嫌を損ねたらどうなる事かと内心戦々恐々としているからだ。
バタバタと喧しい足音がドアの方から聞こえる。タイムリミットはもうない。せめて、悪印象を彼女に与えないように表情を引き締めようと、強く頬を張って気を入れ直した瞬間、夕立が怒涛の勢いで執務室に流れ込んできた。
「あぁ…初戦闘お疲れ様夕立」
「提督さん!提督さん!夕立、結構頑張ったぽい!!褒めて褒めてー!!」
執務机に身を乗り出し、目をエメラルドの様に輝かせて褒めてとおねだりする夕立。
戦闘での勇猛さは何処へやら、目の前に居るのは成果を自慢し、称賛を待つ年頃の少女。
先程の戦闘で受けた印象から更に別の印象を受けた提督は、あんぐりと口を開けて声なき声で静かに驚きを表現する。
「…提督さん?」
呆けた顔で反応が無い事に不安を覚えた夕立が心配を含んだか細い声をあげる。何か自分は失礼な事をしてしまったのだろうか?夕立の瞳から輝きが失せ、不安に潤む。
彼女の弱い声に我に返った提督は、表情を一度引き締めた後に頬を緩める。引き締めた瞬間に、夕立の影の暗さが増したような気がしたからこれ以上、不安にさせないように。
「ありがとう。夕立、よく頑張ったな」
提督は夕立の頭の上に手を置いて、よく出来たと破顔しながら彼女を労う。まるで、兄が妹の事を褒める様に。
提督の笑顔で不安が吹き飛んだ夕立は目を瞑って、頭に伝わる感触を堪能する。
「ふふっ。ちょっとくすぐったいぽい」
気恥ずかしそうにほんのりと頬を染めながらも、決していやがる素振りはしない。
提督は少しずつ夕立の事を理解できている気がした。夕立は無邪気で無垢なのだ。とても、素直な女の子なのだと。戦闘を楽しんでいたような雰囲気は、彼女の無邪気さがそう感じさせていただけなのだと。
「お疲れさま。さっきの戦闘、凄く頼もしかったよ。また頼むな夕立」
「うん。もっと頑張るっぽい!」
夕立はしっかりと自分を褒めてくれた提督に心を許し、彼女らしい無邪気な笑顔を浮かべた。
他の艦娘が着任し徐々に戦力も整いつつある時期に、ある艦娘が着任する。
「長良型軽巡四番艦の「由良」です。どうぞ、よろしくお願いいたしますっ!」
程よく色づいた桜色の髪をポニーテールにしリボンで巻き付けると言う特徴的な髪型の少女。
おっとりと落ち着きのある雰囲気は、夕立とはまるで逆の印象を受ける。
「俺がここの最高責任者を務める者だ。これからよろしく頼む」
「こちらこそ、宜しくおねがいしますね。ねっ」
提督も着任した由良に簡単に挨拶を述べると同時に由良の口癖なのだろうか、「ねっ」と言う言葉に引っかかる。確認をして念を押す為の言葉なのか、それとも別の意味なのか…。
提督の機微に気づいたのか、由良は申し訳なさそうに口許を抑える。
「あ、ごめんさい。由良の口癖で」
「あぁいや、気にしないでいいさ。特徴的な口癖の子は君の他にもいるからな。さて、この施設の案内をしようかな。私に付いてきてくれ」
雰囲気を悪くしないように次の出来事を若干早口に捲し立て、由良についてくるように促す。
特徴的な口癖の子?と記憶を探って候補を探しながらも由良は提督の後を追う。
今でこそすっかり馴染んだが、夕立の「ぽい」と言う口癖はかなり特徴的だと提督は改めて思う。
その夕立は今の鎮守府の中で最上位の練度を誇る艦娘であり、戦闘には外せない要員。それでいて、提督にかなり懐いており、提督も応えるように思わず甘やかしてしまう事は多い。戦闘でMVPをとって帰ったら彼女の頭を撫でてやるのは習慣と化している位に。
夕立ばっかり甘やかすのも良くないかなと頭の片隅で思い浮かべながら、由良に施設の案内する為に歩みを止めない。
「提督さん、その…施設を見るだけなら由良だけでも平気ですけど…」
「ちょっと前までは余裕が無かったから、案内は秘書艦に任せていたんだけどね。今は余裕が出来たから、新人と少しでも距離を縮める為に自分から案内を買って出ているんだ。可愛い子と距離を縮める事が出来るなんて、男冥利に尽きるしな」
「もう、お上手なんですから」
提督の冗談めかした理由づけに、由良は口許に手を置いてクスクスと喉を鳴らす。
こうやって、雑談しながら少しでも距離を縮めるのが、今の彼のやり方だ。戦闘は味方の信用と信頼、連携と言う数値化、具現化が不可能な要素も重要である。作戦を立案し、彼女達の指導者としての責任感も持ちえた彼は、少しずつ距離を狭める為にこうした手段をとっているのだ。
施設を案内しつつ雑談に興じながら施設の案内をしていると、バタバタと騒がしい音が彼らの背後から聞こえ、二人が振り返ると―――
「ゆーらー!!!」
喜びに満ちた風音を立てて、亜麻色の風が由良の身体に抱擁する。
由良に抱き付いたのは夕立。由良の胸元に顔を押し付ける様は、まるで飼い主が帰って来た事を全身全霊で喜ぶ愛犬の様。
「もしかして、夕立ちゃん?」
「うん!夕立だよ!」
突然抱き付かれた事に困惑を露わにしながらも、髪とリボンで抱き付いて来た者の正体に由良も気づいたらしい。
「えへへ、会いたかったー」
「相変わらず甘えんぼさんね」
夕立の返答で安心したのか、由良は夕立の髪をよしよしと撫でる。提督から見てもその撫で方は、手慣れた物でどことなく二人の間の因縁を感じ取る。
「二人は知り合いだったのか?」
「うん!艦娘になる為の学校で相部屋だったぽい!」
「私の方が、後から入学したんですけどね。ねっ?」
由良の胸元でじゃれつく夕立に代わり、由良が夕立との経緯を説明する。
学校で相部屋だったこと。そこでは、夕立の素養が見つかるのが早かった為夕立が先輩ではあったのだが、彼女達に先輩後輩と言う垣根は無く、まるで姉妹の様に仲良く過ごした事。勿論、姉は由良で妹は夕立である。
「提督さん、夕立ちゃん甘えんぼさんで大変だったでしょ?」
「…本当は迷惑だったぽい?」
当時の甘えん坊ぷりを思い出しながら言ったのか若干苦笑交じりに語る由良と、その言葉を受けて不安そうな顔を浮かべる夕立。
「いや、そんな事無いさ。彼女の純粋さはここの雰囲気をよくしてくれる。それに嫌じゃないしな」
彼女の明るさがギスギスした雰囲気を飽和してくれた事がよくある。それに、夕立が自分を慕ってくれる証として甘えてくるのは悪くない。
「提督さん、ありがとう!」
「ふふっ、良かったね夕立ちゃん」
迷惑して無い問う言葉に二人は安心したのか、砕けた笑みを向けてくれる。
二人の反応に安堵した提督は、折角二人が会えたのだから、そちらを優先すべきだと判断し、懐から二枚のチケットを手渡す。
「二人が再会できた記念だ。甘味処があるから夕立と二人で行くといい」
「でも、まだ案内して貰っている途中…」
「案内はまた後にでもいいさ。今は再会の熱が冷めやらぬ内に二人で語り合ってくるといい」
由良は一瞬逡巡した後、素直に頭を下げて礼を述べる。夕立も由良に習って頭を垂れる。
「ありがとうございます。お言葉に甘えさせて貰います」
「提督さん、ありがとう!」
夕立が由良の手を引いて、駆け足に間宮へと向かう。仲睦まじい二人の背中を提督は小さく手を振り、思わず微笑みながら見送った。
あれから月日が経ち、由良の高い書類の処理能力が提督のお眼鏡にかない彼の秘書艦として従事する事になった。
だから、重要な戦闘要員であり報告の関係で執務室に出入りする夕立と由良と提督の三人で過ごす時間が多くなっていく。
この三人は、三人が揃った時間を過ごすのが好きで、いつしか執務室で三人揃って時間を共有するのが当たり前となっていく。
それは、三人にとって穏やかな時間。夕立が二人に甘え、二人は夕立の甘える事に癒され、三人で笑いあう。まるで仲の良い兄妹のような光景。その仲は余りにも良すぎて、他の艦娘に呆れられる事はあるにしろ誰一人悪く思うものなどいなかった。それは、本人たちさえも。
そして、ある時に夕立が改二となれる練度まで高まった。
提督の艦隊で初めての改二の艦娘。元々戦闘のセンスが高かった夕立にとって鬼に金棒と言った強化だ。
「夕立、ニューバージョンになれるっぽい!」
自信満々に、明石から貰った練度測定表を掲げる夕立の背中を押す様に、提督は改二になる許可をした。
夕立の後について工廠に向かう提督と由良。初めての改二への改造という事で提督と由良も立ち会う事にしたのだ。立ち合いと言っても、改装室手前の待合様の椅子で待つ事位しか無いのだが、夕立が無事に改装を終えるか不安でしかたなかった。
「じゃあ、ちょっと行ってくるっぽい!」
元気よく手を振りながら、改装室へと消えていく夕立。二人は夕立が不安にならないように小さく微笑みながら、彼女を見送る。
改装室のドアが閉まった瞬間、提督の身体は糸が切れた操り人形の様に力が抜け、ベンチの上に座った。
余りにも大きな音を立てて座った為、隣に控えて由良も驚きを隠せないようだ。
「提督さん大丈夫?」
「あぁ、別に体調は悪くないんだ。ただ、本当に不安でな」
提督を心配する顔色の由良とは対照的に、引きつった笑みを浮かべる。
改二は他の鎮守府ではすでに行われている、強化の為には当たり前の技術。しかし、この鎮守府の中では初の試み。それ故、緊張してしまうのも仕方ない。百パーセント手術が成功すると言われても、本人以外の人達からすれば心配するのと同じだ。
「由良も心配してますよ」
「その割には顔に出てないな」
「それは、明石さんや技師さんの事を信頼してるからですよ。それに――」
提督の不安を自分にも共有するように、彼の手を両手で優しく掬い上げて包む。
「夕立ちゃんの事は由良と提督さんがよくわかってますよね。あの子は強い子だから、改装の為の手術に負けたりすることはないですよ、ねっ?」
提督を安心されるように慈愛に満ちた笑みを浮かべながら告げる。
夕立の事は由良と提督がよくわかっている。
由良にそう言われた瞬間に湧き出るのは、溢れんばかりの歓喜。
夕立の姉のような存在であり親友である由良に、夕立の事がよくわかっていると認められたのだから。
「そうか。そうだよな。夕立は強いもんな。ありがとう」
溢れ出る喜びを感謝へと変えて、提督は思わず由良の頭に手を置いて、夕立の頭を撫でる時の様に朗らかに破顔しながら礼を返す。
間近で見る提督の笑顔。視界一杯に広がる笑顔。頭の上の温かく柔らくて優しい手の感触。
その要素たちを意識した瞬間、由良の血液が一瞬で沸騰した様に熱くなり、体中に熱が回る。
「そ、そう言うのは、夕立ちゃんの改装が終わったら沢山やってあげて…ねっ?」
由良は俯きながら、暗に断る様に言うが元々小さい声で言ったのと段々とフェードアウトがかかるように声が小さくなったため、提督には全く聞こえて無かった。
――あっ、駄目…。これ…
今まで提督に頭を撫でて貰っているのは、由良が知る限り夕立しかいない。その、夕立しか堪能すること出来なかった感触を今は由良も堪能している。
彼の優しく髪を梳くような手つきは病みつきになりそうで、夕立が彼にねだるのもわかる気がする。
感謝の気持ちを伝える様に、由良のよく手入れされた髪を撫でていると、改装室のドアが開かれて明石が現れる。
余りにも早い改装の終了に驚いたが、明石が言うには時間がかかる作業では無いとの事。
明石の報告を聞くために提督が椅子から立ち上がり、由良の頭からも手が離れる。
「あっ…」
何かを惜しむ様な声を出した由良の方を提督は思わず振り返るが、由良は誤魔化す様に笑うだけ。
少しばかり不審に思いながらも、提督は明石からの報告を受ける。
夕立の改装は無事終了。改二となり、強化された面もあるが、艤装は改二用に新調されたため、改めて強化していく必要がある事等の諸注意を説明される。
報告が終わり、明石が提督に一礼してから去ると、タイミングを見計らった様に夕立が部屋から出て来た。
「お待たせしましたー!」
元気よく部屋から出て来た夕立の容姿は、改装する前と明らかに変わっていた。
エメラルドグリーンの瞳は彼岸花の様な紅色へと変貌し、髪は謎の横はねが出来て先端が桜色に染まり、容姿は大分大人びて、背の高さは由良より下の目線だったのが殆ど同じになるくらいに伸びている。
大幅な変化に提督も由良も唖然としている。
二人の反応が余りにもなさ過ぎて、夕立は困惑の表情を浮かべる。
「ぽ、ぽぃ?」
可愛らしく小首をかしげて困った様子を露わにする夕立。
その反応に、二人は小さく笑い声を漏らす。
ああ、この子は間違えなく夕立だ。あの無邪気でぽいが口癖の夕立だ。
容姿が大幅に変わったのにその根幹が変わらなかった事の安堵と、吸血鬼の如き夕立の威圧感等、一気に吹き飛んでしまい、自然と二人からは笑みが零れてしまった。
「な、何で笑うっぽい?!」
二人の反応の意味がわからず、夕立は更に困惑する。
提督は相変わらず笑い声をあげながらも、夕立の頭に手を置いて撫でる。夕立の改装前によくしてあげていたように。
「すまん。容姿が変わっていたのに、夕立の根幹は変わらないんだなって」
「夕立ちゃんの大元は変わって無くて由良は安心したかな」
「夕立は夕立っぽい。夕立はそれ以外の何物でも無いっぽい!!」
自分が夕立で無いと思われた事が心外だったのか、夕立は頬を小さく膨らませて抗議する。
提督は頭を撫でながら、空いてる手で懐を探って、間宮のチケットを一枚取り出す。
「夕立、改装ご苦労様。これは改二のお祝いだ」
そう言ってチケットを手渡そうとするが、夕立はそっぽを向いたまま受け取ろうとしない。
「そんなんじゃ、夕立の機嫌は治らないっぽい」
予想外の反応に提督は狼狽える。そんなに夕立だと疑われかけた事が傷ついたのだろうか?
「じゃあ、どうしたら治してくれるんだ?」
「後、二枚くれたら考えるっぽい」
二枚?二枚では白露と時雨と村雨を誘うとしたら足りない。こんな初歩的ミスは夕立は起こす筈がない。
「二枚?一体誰と誰を誘うんだ?」
「提督さんと由良を誘うっぽい」
「俺を?」
「私を?」
「夕立の改装が終わるまで待ってくれたのと日頃のお礼に。それに…三人で食べてみたかったけど三人で食べに行ける機会を狙ってたっぽい?」
夕立の小さな野望。それは、提督と由良と共に間宮に行くこと。由良とはよく行っていたが、提督は日頃は忙しい為に、提督を誘うのはいつも控えていた。
だから、密かに三人で行ける機会を伺っていたのだ。
夕立の小さな野望の告白に、提督の頬は吊りあがる。自分は夕立にそこまで慕われていたのだと嬉しくなる。
「ああ、行こう。夕立の改二の祝いだ。今日は俺が全部出そう。二人とも今日は食べ放題と思って貰って構わない」
「うん。今日のお仕事の残りは明日に回しても影響ないし、提督さんのごちそうになろっかな?」
「二人ともありがとう!」
ごっはん~♪ごっはん~♪と思わず歌いだしながら歩く夕立に提督は続く。彼女の横にはねた髪が心なしか上下に揺れている様に見えて、まるで本当に犬の耳の様。
夕立の背を追う提督に由良も続こうとしたが、提督の手に思わず目がいってしまう。
由良はその場であの時提督が撫でてくれたように自分の頭を撫でる。勿論、あの時の感触も撫で方もまるで違う。
心の中に名残おしさが募るが、二人の背中は段々と遠ざかってしまい、由良は慌てて提督に駆け寄る。
「提督さん」
「どうした由良?」
「偶にでも良いから、由良が頑張った時には頭を撫でて欲しい、かな?」
「ああ、別に構わないさ」
何という事は無いと、由良の提案を受け入れる提督。
またあの感触を楽しむことが出来るという事に、由良の心は三人で間宮に行くことは別の歓喜に満たされていた。
提督、夕立、由良三人は変わらず仲睦まじく過ごしていた。
夕立が改二となって容姿こそ大幅に変わりはしたが、それでも中身は変わらない。純粋で、無垢で、無邪気な、可愛らしい夕立のままだ。
夕立と由良に深く認められた事を実感した提督は、殊更に二人と共に同じ時間を共有する。休日が取れれば、三人で出掛ける事もざらでは無い。
例えば、夏は三人でプールや砂浜の綺麗な海に出掛けたり、秋には三人でお祭りに出掛けたり秋刀魚を上手く焼くために三人で四苦八苦したり、冬は夕立と由良でこっそりと提督の為にケーキを焼いてサプライズで届けたり、正月は三人で炬燵に入ってのんびりグータラと過ごしたり、春にはこの鎮守府の昼間に皆で花見をやった日の夜にそれぞれ食べ物を持ち合ってこっそりと夜桜を堪能したり。
三人の繋がりはとても硬く結ばれていて、他の人がその隙間に入りこむ余地などほとんどなく、提督に対してとある感情を秘めている者達からすれば羨望の眼差しを向けられる程に近く強い繋がり。
それほどまでに、三人は信頼できる人達の様に、或いは兄妹の様に仲睦まじく過ごす日々が三年も続いた。三人の絆は姉妹達のそれ以上であり、姉妹艦達からは偶には妹を返して欲しいと冗談交じりに言われる位。
夕立は、三人で凄す日々が大好きだった。
戦闘は昔よりも激化し、特別海域では傷だらけになって帰投する事はもはや当たり前の様になっている。
でも、頑張ったら提督が一杯褒めながら頭を撫でてくれる。秘書艦を務める由良が夕立をいたわりながら、お菓子や料理を振る舞ってくれる。
これだけで、夕立は頑張れる。それの為に夕立はもっと強くなる。
作戦をこなせば二人が待っている。作戦が完全に終了すれば、また三人で何処かに出掛けられる。
辛い事は長く続かない。終わりはいつか来て楽しい日々がまた訪れる。
それだけの理由と思われても、夕立にはそれだけの理由で十分だった。
その理由だけで、夕立の日々は輝かしく明るく彩られていたのだから。
三人で過ごす色彩鮮やかな日々。この日々は三人が三人で居る限り、ずっと続いていく。
――夕立が違和感を覚えるまでは。
その違和感を感じることが出来たのは、悲しい事に夕立が二人と長い時間を共有していたからに他ならない。
違和感を覚えたのは何気ない日常の一コマの中。三時の休憩時間におやつを三人で食べている時に。
本日のおやつは由良の手作りのすあま。そのままの真っ白いものと黒ゴマを練り込んだ物の二種類を由良の入れてくれた緑茶と共に頂く。
「おいしーいっぽい!」
「うむ。旨いな」
「二人とも美味しそうに食べるから由良も嬉しいかな、ねっ」
もっちりとした食感と、程よい甘さが二人の仕事の疲れから癒し、虜にする。
二人の評価は好評。由良も出来栄えに満足げに頷きながら食べ進める。
一つを手に持ち三回に分けて食べる提督と一つを少しずつ口に運ぶ由良の二人とは対照的に、夕立は両手で一つずつ持って一つでも多く食べようとする。
書類仕事と作戦の立案の提督と、提督の補佐と、要員が足りなくなり補充として偶に遠征に駆り出される由良と違い、夕立は実戦と演習、それと訓練の補佐官を務めているので体力仕事に一貫している。
それはお腹が空くだろうという事で、由良もおやつは夕立の為に多く作っている。ここまで頬張ってくれるなら作った甲斐があると言う物。夕立のいい食べっぷりに由良も微笑む。
夕立も目の前のおやつを食べる事に集中し、執務室内に沈黙が訪れる。
「ねぇ提督さん?」
が、その沈黙は長くは続かない。何故なら由良が提督に話しかけたから。
「んー、どうした?」
「昨日のあのドラマ見たかな?」
夕立は自分に話しかけられたわけじゃないからと、和菓子に集中する為に聞き流す事にした。
話を聞いている限りだと、由良が毎週みているドラマを偶々見過ごしてしまった。提督も由良が見ているドラマを視聴している筈だから、よかったら昨日の内容を教えてくれないかと言った会話の内容だ。
夕立はドラマよりアニメ、小説より漫画と言った嗜好なので提督と由良の言うドラマは見ていない。
提督は由良の要望に応え、昨日のドラマの内容を思い出しながら少しずつ語っていく。由良にもわかるように言葉と表現を選びながら。時折、間違いを正そうとして提督が慌てる度に由良は口許を隠して笑う。
提督は若干ばつが悪そうな表情を浮かべながらも咳払いをして仕切り直し、再び話し始める。
これまで聞くと、あたかも普通の二人だけの会話に思える。でも、夕立は話を聞いていながらも違和感を覚えて、和菓子に向いてた視線を由良達に静かに移し、由良の表情を見る。由良は笑顔を浮べたり、興味深そうに頷きながら提督の話に聞き入る。
でも、その表情と声色の中に夕立が感じた違和感が隠されていた。それは、由良の笑顔も声色も夕立が知っている物と微妙な差異があったから。
今までも何か違和感を感じていた。でも、それが違和感と言う確証は無かった。今日のは確かに違う。今日の由良はよく表情に出すし、いつも以上に感情的な気がするし、何より、由良の事を綺麗に感じた。
由良の事は確かに姉の様に慕っているし綺麗な人だとも思っている。でも、今日の、否、今まで感じた違和感の正体がわかった事で殊更に彼女が綺麗に見える。
由良にとって興味がある事を話しているから活き活きとしているからそう見える。普通ならそう言うだろうが、夕立が感じとった彼女の綺麗さは活き活きとしている以上の物だった。いうなれば、女性的な綺麗さ――夕立が自分には無いと心の奥底で思い憧れている物。
なんで?どうして突然由良の事を更にそう思う事になったのだろう?
夕立自身にもわからない。何で、自分の鼓動が高鳴っていて、快適な空間で理由もなく汗が流れているのかもわからない。何で、提督が浮かべている笑みや照れ隠しの表情が、気になって胸に刺さるような痛みが来るのかわからない。何で、提督の表情も違って見えるのかもわからない。何でいつも以上に凛々しくて――格好良く――感じるのかわからない。
わからない。わからないことだらけで頭が混乱してきた。元々、彼女は深く考える事は得意でない。でも、今はこの状況を――
「ねえねえ?今度の休み、また三人でどっか行きたいかなぁって」
突然、話題を振って来た夕立に二人は夕立に顔を向ける。
夕立のおねだりにすぐに提督は腕を組んで、由良は顎に手を置いて考え込む。
「そうだなぁ…」
「うーん。じゃあショッピングに行くのはどうかな?ねっ?」
「カラオケに行くのも捨てがたいっぽい」
そのまま二人だけの話題では無く。別の話題に持って行けた事に夕立は小さく息をつく。
――やっぱり、仲間外れは寂しいっぽい
心の中ではそう思っていたが、彼女の心の奥底では別の事で安堵していた。それは、これ以上のあの二人を見て居たくないと言う感情。自分でもよくわからず認識すらしていない感情の一片。
三人は残りの休憩時間を次の休日の予定に費やした。
その日の晩。夕立はベッドの上で、あの休憩時間で見た二人の表情を思い出す。
あの二人の表情は、夕立に向けている表情とは微妙に異なっている物だ。それは、とても活き活きとしているような、いつもより明るいような。
違和感を感じておきながらはっきりしないが、あれは確かにいつものとは違う物だったのだ。
だから、夕立は謎の疎外感を覚えた。今も二人の事思い出すと、疎外感と胸にもやもやとしたものを覚える。
「…ぽーぃ」
弱々しく犬が鳴く様に呟きながら、腕の中の大きなぬいぐるみを抱きしめる。このぬいぐるみは提督と由良の送ってくれた大切な物。掛け替えのない贈り物。その贈り物から二人の事を感じ取ろうと強く強く抱きしめる。
考えすぎて疲れたのか、緩やかに眠気が襲ってくる。
でも、夕立はそれでも考えるのを止めない。
今考えているのは先程までの事では無く、由良が出来る事。
由良は、家事に炊事に書類仕事と何でもこなせる。戦闘は改二の艦娘が増えた事で、余り戦闘に出ることは無いが苦手では無いし、今は偶に遠征に出る事だけだ。
対する夕立は家事も炊事も出来ない。書類仕事を何度か手伝ったが、効率が悪くなる結果となってしまい、それからは迷惑をかけるといけないから手伝ってない。由良と違って出来るのは戦闘を効率よく行うことだけ。
由良にあって夕立に無い物が多すぎる。
それに、何よりも羨ましいのは、由良は仕事柄、長時間提督の傍にいられる事。戦闘で鎮守府から長期にわたっていなくなる夕立と違って、由良は遠征が無ければ提督の補佐としてずっと一緒に居られる。
「いいなぁ…」
――お仕事が出来ればもっと提督さんの近くに居れるかな?
残念ながら眠気はもうすぐそこまで迫っている。夕立は考えるのを今度こそ止め、瞳を閉じてしまう事にする。完全に眠りに入る前に夕立は一つ決心した。二人の見ているドラマを夕立も見て、話に加われるようにしようと。
夕立の疎外感は日に日に強くなっている。同時に感じる胸のもやもやは何時の間にか痛みへと変質していた。
何でそう感じるのかは明白だ。日々、綺麗に感じて行く由良と、提督が由良に向ける表情が夕立に向けている物と違う事。
何となく夕立もオシャレや手入れに気を遣う事にしている。その度に提督は変化に気が付いて褒めてくれて嬉しいのだが、由良は夕立を褒めつつも何処か複雑そうな色を隠そうとしている表情を浮かべる。
――わからない。あの二人がわからない。由良が何であんな顔をするのかわからない。提督さんが由良に対して浮かべる表情が何で夕立に向ける表情と違うのかわからない。
わからない。わからなイ。わからナイ。夕立にとって急にあの二人の事がわからなくなってしまった。
あの二人と居ると確かに楽しい。でも、心の中はいつも複雑で、胸の内側から針を刺されるような痛みがそれ以上に―――
この事を頼りになる(?)姉妹達に聞いても、村雨と時雨は曖昧な表情を浮べてわからないと言うだけ。白露だけが、「それは成長期だから」と自信満々に言ったのだが、時雨と村雨が全然違うと真顔で否定していたので違うのだろう。春雨は戦闘での疲れが中々取れてないのでは?と言われたが、それも違う。コンディションはいつでも最高。あの二人が体調も気遣ってくれるおかげで万全を維持している。
自分の納得できる答えが得られなかった夕立は他の艦娘達にも相談する。でも、皆は二人の姉の様に困った様な顔になってわからないと言うだけ。艦娘の身体に詳しい明石に聞いても、答えは得られなかった。ただ、「夕立ちゃんの心の問題かも知れないです」とだけは言ってくれた。
――心の問題?夕立の心は、何を望んでいるの?
頭で思っても心に語り掛けることは出来ない。自分でも理解できない苦しみからは解放されない。
最後の手段として、提督と由良に相談する事も考えたが―――出来なかった。出来なかったと言うのは語弊がある。夕立がしなかったのだ。詳しい理由は自分でもわからない。でも、二人にだけは相談しては駄目だと、何かが語り掛けているのだ。
頼れる人達からは答えを得られなかった。別の方法をとるしかない。
本を読むのは苦手だが、こういう時には役に立つ。彼女自身、頭は良い方で無い自覚はあるが、本を読むことで知識を得ることが出来るかもしれない。
一縷の望みを読書と言う手段にかけて、酒保の文庫本コーナーに足を運ぶ。心の事を知ると言う意味で、本を読むと良いと勧められたから。
が、普段から文庫本を読まない彼女にとって、何をどこから手を付ければいいかわからない。
可愛らしく唸りながら、適当に本を棚から出そうとするが――
「あっ!?」
ぎっしりと本が詰まっていたせいで夕立が出そうとした本だけじゃなくて、別の本も棚から何冊か落ちてしまった。
「やっちゃったぽい…」
落としてしまったら自分の責任だ。夕立のテンションはダダ下がりだが、落としまった本を手に持って、元の棚に戻す為に立ち上がる。
元の棚の位置を確認し、本を元あった場所に戻そうとすると、棚から抜け落ちた個所の奥に郵便受けのサイズのスペースがあり、一冊の本が置いてあった。
「なにかしら?」
カモフラージュするように置いてあった本に手を伸ばし、棚の奥から取り出す。本と言うには余りにも薄く、何かの雑誌の袋とじ並みに薄い本。表紙はシーツに包まれた男女。
パラパラとめくって中身を確認していく内に夕立の顔は夕焼けの様に真っ赤に染まっていく。
「ぽ、ぽぃ?!」
薄い本は漫画のようであったが、その内容は男女の夜の営み。夕立も夜の営みという知識こそありはするが、漫画とは言え実演している物は初めて見た。
夕立とて年頃の少女。そういう事には興味津々のお年頃。知らず知らずの間に本を読みふけってしまう。
その後も、暫く立ち読みの状態で薄い本を読んでいたが、奇声を明石に聞かれてしまい明石がやってきてしまった。
明石が言うには、それは成人女性向けの同人誌との事。隠してあったのは、夕立が読んでいた本はレンタルでの貸し出し専用の本なのだが、内容が内容な為、普段は幼い艦娘達が興味を抱きにくいコーナーの棚に秘密のスペースを作って隠しているとの事。
夕立は自分に新たな知識を付ける為に冒険して普段は行かないコーナーに行ったので、本当に色んな偶然が重なって気づくことになったのだろうと、明石に分析された。事実、本を一、二冊その場から引き抜いたくらいでは、夕立でも角度的に隠しスペースがあるとは気づきづらい。今回は隠しスペースのカモフラージュ部分が棚から落ちて殆ど失せたから気づけたような物だろう。
夕立はダメもとでこの本を自分が借りてもいいか明石に聞く。明石は顎に手を置いて考え込み、普段ならば許可しないけど今回は自分の管理責任のせいなので一日だけと言う条件をつけて特別に許可してくれた。
その日の晩、夕立は布団で全身を覆い隠し、近くで眠る姉妹達が起きてしまっても夕立の姿が見れないように配慮しながら、酒保から借りた本を読みふける。
内容は夕立の様に自ら慰める事を知らない少女にとって刺激的で、知らないことだらけ。女が男を、手で、口で、胸で、そして秘部で愛し、時には男から愛され、互いに愛の言葉を囁きあい繋がりあう。
夕立にとって、身近では無く、遠い世界の出来事の様な内容。でも、いつかは自分も行うかも知れない出来事。
そこに、夕立の求めている答えは無いかも知れないが、夕立はその本への興味を抑えきれず、どんどん読み進める。
そのうち、女性が言ったとある言葉が夕立に引っかかる。
『私の知らないあなたをもっと見せて』
女性が慈愛に溢れた笑みを浮かべて、男に囁く。
――知らない。夕立は提督さんのあんな表情。
本の内容に沿う様に思い浮かべるのは、由良と共にある時の凛々しくて恰好よく思えた提督の表情。
「提督さん…」
――あの表情を夕立にも見せて欲しいのかな?
読み終えた本を枕の下に隠し、曖昧な答えを抱きしめて夕立は眠りについた。
あれから更に時を経た。夕立の問題は相も変わらず原因もはっきりせず、解決することは無い。寧ろ、胸の痛みはずっと増していっている気さえする。
あの日から、提督の表情をよく観察するようになった。皆と居る時は、表情をしかめて皆の気が緩まぬようにしていて、力を抜くときは打って変わってよく笑っていて、夕立達と居る時はその時間を愛おしむように穏やかで。でも、由良にだけは凛々しくて格好いい顔を向けていて。
そんな表情を向けて貰える由良が羨ましくて。
――何でだろう?夕立はどうして提督さんの表情ばっか気にしているのだろう。
最近は、そんな事ばかりを考えて居る。
誰にも相談できず、一人悩み続ける毎日。
そんな日々を送る中、ある吉報が届いた。
由良の改二が実現できるようになったのだ。
提督がその事を由良と夕立が執務室で伝えた。由良は珍しく感涙まで流し改二となれる事を喜び、夕立はそんな由良の手をとって「これで由良も改二仲間っぽい!」とぴょんぴょん飛び跳ねながら全身で喜んだ。提督も由良の肩を優しく掴んで「おめでとう」と短く賛辞の言葉を贈る。その時の提督はまるで自分の事の様に喜んでいて――夕立にとっては何故かほんのわずかだが嫌な感情を覚えた。
「夕立ちゃん?」
「どうした夕立?」
急に提督の方を向いたまま動かなくなった夕立に二人は頭に疑問符を浮かべる。
我に返った夕立は、誤魔化す様に両手をブンブンと大きく振りながら「何でもないっぽい!」と誤魔化す。
提督は夕立に不思議だとでも言いたいような視線を送っているが、由良だけは時折夕立に向けていた様な複雑そうな表情を浮かべている。
先程までの祝福ムードが一気によくない方向になってしまう。夕立はこれ以上空気を悪くしないように、良い流れを何とか保つように由良の手を再び取る。
「そうと決まれば善は急げっぽい!提督さん、由良、早く早く!」
「あっ、ちょっと夕立ちゃん?!」
夕立に引っ張られた由良は駆け足で、執務室から退室する。これ以上、自分のせいで空気を悪化させないために。
「おいおい、そう急かすなって」
提督も机に置いてあった改装設計図を手に取り、二人を追いかけるべく走り出した。
由良の改装は無事に終了した。背丈こそ少し伸びたが、外見の変化は夕立と違って劇的に変化することは無く、服装がベージュのカーディガンに黒いセーラー服へと、今までの白と薄緑色のセーラー服からは正反対と思える物へと変わった。
「うんうん。いいんじゃない!」
改装が終わり、さらなる強化を果たせた事で自信がついたのか、改の時までの由良に比べて表情にも余裕が現れている。
由良の改装は夕立と違って大幅な能力の向上では無く、装備可能な装備の豊富さ。甲標的、水上爆撃機と水上戦闘機の運用、対空重視の能力向上。
全て、夕立には出来ない事である。
羨ましいとどうしても思ってしまう。由良には夕立には無い物が元から沢山ある。唯一、由良に自信を持って勝てると言えた戦闘面もこれでわからなくなってしまった。
装備可能な物から見ても、由良はこれからは激戦海域の攻略に重要になる事は間違いない。軽巡と言う手軽さと、手数の多さ。手軽さでは勝てても、手数では勝てない。
戦闘でも負けてしまったら、夕立が提督に褒められる機会は一気に減る事も考えられる。
「それだけは…嫌っぽい…」
由良への祝福ムードでかき消されそうなくらいに小さい声で夕立はごちる。今まで、ずっと由良の事を尊敬してた。自分には出来ない事が出来ていいなと思っていた事はある。でも、今ははっきりと羨ましいと思っている。――下手をすれば、改二にならないで欲しかったと思う自分も居るかもしれない。そんな自分を浅ましく感じて、夕立は少し落ち込む。
「夕立、行くぞー!あの時みたいに由良も三人で間宮に行きたいってさー」
「あの時のお返しにね、ねっ?」
夕立が改二となった由良を祝福しながらも、ずっと由良の性能について思案してると、いつの間にか二人で話が進んでしまったらしい。二人は夕立より、先に間宮に向かって歩き出している。
「ま、待って欲しいっぽい!」
先に歩き出した二人を追いかける様に夕立も足を進める。そのまま、二人の隣に行こうとして――出来なかった。
何故なら、由良は自信が増してより綺麗なった表情を、提督は凛々しく引き締まってはいるが穏やかな表情を互いに向けていたのだから。
二人の後に続く様に、後を付いていき三人で間宮の甘味を堪能した。
でも、夕立は二人と会話をしていながらも、ずっと提督の表情を伺っていた。
今回の主役は由良。三人で由良が改二になるまでの思い出話をしながら甘味を口に運ぶ。
由良が着任してきた頃、秘書艦となった由良の事、遠征要員としても頑張っていた由良の事。
提督はずっとずっと由良に顔を向けていて、その笑顔も由良に指摘されて照れる顔も全て由良に贈られた表情。思い出話も秘書艦である故か、専ら戦闘がメインの夕立も知らない提督との思い出話も含まれてる。
――いいなぁ。いいなぁ。羨ましい。羨ましイ。羨まシイ。
二人だけの思い出が多くある事も、提督が由良に構いっぱなしである事も、これからは由良が色んな面でかなり役立てる存在となった事も。
羨ましい事が多すぎて、何が羨ましいのか、夕立にもわからなくなって来た。
――でも、ずっと胸が痛い。どうしてなのかな、提督さん
夕立からも訓練校時代の思い出話をして会話に花を咲かせながらも、甘味処での祝賀会は全員が食べ終えた事でお開きになる。
甘味処から執務室への帰り道、由良は決意を秘めた瞳を提督に向ける。
「提督さん」
「うん?」
「今日のお仕事が終わったらちょっとお話したい事があるんだけどいいかな?」
「あぁ、仕事が終わった後には特に予定は入ってないしな」
由良が何を話すのかはわからない。でも、由良の瞳に秘めた意志から、今は二人と共に居るのは憚られる様な気がした。
提督の隣を歩いてた夕立が突然止まった事に不思議そうに二人は夕立の顔を見つめる。
「夕立、お腹いっぱいだし、演習の疲れが残ってるから今日はもう寮に戻るっぽい」
「…そうか。ゆっくり休んで明日に備えてくれ」
夕立の表情から何かを察したのか、少し間をあけて提督は彼女を労いの言葉をかけ、彼女にお疲れさまと口許を緩めて笑顔を浮かべる。
何も言える筈はない。何せ、夕立は拳を握りしめながら笑顔を作っていたのだ。
何かを堪える様に。何かが出ないように必死に抑える為に。
提督が目を伏せずに緩く笑みを浮かべただけでも、十分だった言えるだろう。
「うん。お疲れさま夕立ちゃん。今日はありがとうね、ねっ」
由良は夕立に労いを贈る提督の顔をぼんやりと眺めていたが、すぐに我に返って改二のお祝いの礼を改めて伝える。
「うん。二人ともお疲れさまっぽい!」
夕立は大きく手を振って二人の元から走り去っていく。
――何で、あたしは泣きそうになっているのかな?
何故か手を目元に持っていきそうになりながらも、二人から見えなくなる場所に行くまでは堪えた。
夕立は自分の寮部屋へと戻らず、別の場所へと何故か足を運んでいた。
足の赴くままに歩き、ついた先は提督の私室。年越しや夕立達が同じ休みだった時は、同じ時間を共有した休日限定の三人の憩いの場。
ここに来た理由もわからない。でも、何故かここに向かってしまった。それにここに来ても提督の私室は空いていない。何せ家主が居ないのだ。鍵は閉めて外出するのが常識 。試しにドアノブを回そうとしても動かない。
「…帰ろう」
提督の私室に向かったのはいいが、空いてる筈も無い。今度こそ自分の部屋に戻ろうと踵を返すと、足元から何かがぶつかる音がした。
何かと思って足元を見てみれば、由良と夕立を模した可愛らしいキーホルダーのついた鍵。由良と夕立でクリスマスプレゼントとして作ったささやかなプレゼント。
そのプレゼントがついた鍵が何故か足元に転がっている。大方、ポケットにしまい損ね、その場に落とした事に気づかなくてずっと落ちたままになっていたのだろう。
提督の部屋は執務室からも寮からも離れている所にあるので、提督の部屋に用が無い限り誰かが来ることはまず無い。だから、こうして鍵を落としてしまったとしても誰に拾われることは無くその場にあり続けるのだ。
「提督さんったら不用心っぽい」
変な所でうっかりしている提督に夕立も思わず苦笑いだ。
この鍵は提督さんに届けてあげよう。
頭では確かにそう思ったのに、身体は勝手に提督の部屋のドアを開け、靴を脱いで中に勝手に上がっていた。
部屋の中には必要最低限の家具しかない。
家具が殆どないリビングを通って、夕立は提督のベッドがある寝室へと向かう。
夕立はベッドの前で一度小さく息を呑むと、提督のベッドに飛び込み枕に顔を埋める。
ベッドからするのは提督の匂い。夕立が好きな匂い。
昔は嬉しすぎて興奮しすぎると、よく提督に抱き付いて喜びを表現していた。
夕立の抱き付く角度と背の高さで、夕立が抱き付くと彼の胸元に収まる形になっていた。その時にこっそりと匂いを嗅いでいるのだが、提督の匂いは不快感を覚える事が無く、不思議と安心感を得れて心地よい物だった。
夕立は心地よい匂いを鼻腔の隅々まで行き渡るように鼻で空気を吸い込む。
「………ていとく…さん」
枕からする柔軟剤と彼の匂い、それと窓から射す柔らかな夕方の日差しと今日の疲れが相まって、夕立は自然と意識を手放した。
ゆさゆさと体が揺さぶられる感覚がする。それは、夕立に目覚めを促す為の行為。この部屋の主が戻って来たと言う証。
まるでゆりかごの中に居る様に揺れる自分の体。本当はまだ目覚めたくない。まだ夕立の意識はまだ完全に覚醒しきって無い。
「夕立ー?大丈夫かー?」
でも、起きないと。起きないと、この部屋の家主に迷惑をかけてしまう。勝手にベッドに入り込んでおいて今更な話ではあるが。
「夕立?具合悪いのか?」
揺れる強さは激しくない。勝手に寝られているとはいえ、ここで寝てしまった事の原因を彼なりに探っている。声に籠っている心配の色が段々と濃くなっている。
「うぅん…」
夕立はこの部屋の主、提督の声に駆り立てられまだ重い瞼を持ち上げた。
「大丈夫か夕立?部屋の鍵は落としてたわ、鍵は開いてるわ、ベッドで夕立が寝てるわで驚いたぞ」
「うん。大丈夫よ。あの後、ちょっとお散歩してたら提督さんのお部屋の近くで鍵を偶々見つけたんだけど、提督さんのお部屋で少しは休憩してから渡そうと思って寝ちゃったっぽい」
夕立は苦笑いを浮かべて頬を掻きながら、即席で考えた理由を述べる。半分は本当の事なのだが、もう半分は自分でもわからない。
苦し紛れに笑みを浮かべながら、夕立はベッドから飛び起きる。窓を見ると、沈みかけだった夕日は水平線に沈み、星々が空で輝いていた。
「そうか良かった。全く、ちょっと休憩とか言いつつベッドで寝てた事をみるとがっつり休憩するつもりだったんじゃないか?」
夕立の答えに提督は安堵の息を付くと、冗談めかして言いながらも夕立の頭を撫でる。彼の頭を撫でる手は、先程まで寝ていて火照っていた体でもわかるくらいに熱を帯びている。
顔がほんのり赤い事から予想すると、ちょっとお酒が入っているらしい。
でも、彼の浮かべてくれている笑顔はいつもと変わらない。口を大きく緩ませて笑う。子供みたいな笑み。夕立が好きな提督の表情。
「鍵、拾ってくれてありがとうな。大して何もないが、ゆっくりしていってくれ」
提督の手が夕立から離れようとする。彼の体温が離れる感触を味わいたくなくて、食い気味に別の話題を振る。少しでも彼の与えてくれる温かさを保つ為に。
「て、提督さん!由良とのお話は何だったの?」
「あー、それかぁ…。その…ただ単に一緒に鳳翔のお店に飲みに行って欲しいってだけだった…かなぁ…?」
飲みに行くだけ。そうは言うが、提督の口調は妙に歯切れが悪い。
――ああ、何で顔を更に赤くしてるの?
些細な提督の顔色の違い。何故かわからないがまた胸が痛んでくる。――そんな顔を今はして欲しくない。理由を知りたくて夕立は更に追及を試みる。
「本当にそれだけっぽい?」
夕立の心の中は段々と嵐が近づいて来た海の様に荒れてきている。でも、口調だけは何とかいつも通りを維持できている。
提督はお酒も入っているせいか、夕立の心の中が変化している兆候に気づいて無い。普段の提督ならもしかして気づけたのかもしれないが思考の鈍い今では難しいだろう。
「うー…あー…そーだなぁ…」
提督は先程より顔を赤くして言い辛そうに口ごもっている。けど、彼の表情は困ったものでは無い。何処か照れくさそうに笑って頬を掻いているのだ。
――その笑い顔は、誰に向けられたもの?
ああ、決まっている。先ほどまで、その人物の話題にしてたのだ。ならば、その笑顔が誰に向けられた物かも簡単にわかるはずだ。
由良に、決まっている。
「その…だなぁ――」
提督が何かを口走る寸前に、夕立の中で抑えていた物が爆発した。
由良に対する羨望。自分より後に着任したのに、提督と過ごした時間は由良の方が長い。由良の方が夕立よりも多くの事が出来る。
何よりも、由良には夕立に向けて貰えない凛々しい表情。そして、今の照れくさそうな笑みが夕立の中に溜まっていた不満を許容量から溢れさせてしまった。
――羨ましイ。羨マシイ。ウラヤマシイ。由良は提督さんとの思い出が自分よりある。夕立に出来ない事が沢山あるから提督さんと長く一緒に居られる。
夕立が静かに抱いていた羨望の想いは、
――ズルい。ズルイ、ズルイズルイ、ズルイズルイズルイ!!!由良に対してだけ向けられる提督さんの表情が沢山ある筈!!夕立だって提督さんに見て貰いたい!!夕立も提督さんともっと一緒に居たい!あたしにも色んな表情を向けて貰いたい!!由良も知らない表情をあたしは知りたい!!
今ここではっきりと嫉妬に変性した。
栓を切った嫉妬の感情は、夕立の思考を支配し、その嫉妬を解消する為の行動に移る。
「うぉっ?!」
夕立は提督の肩を押して、ベッドに向かって倒れさせる。
突然の夕立の行動を予測できなかった提督は夕立の思惑通りベッドにされるがままに倒れる。
「ゆ、夕立?」
夕立の意図がわからず、打ち所が悪く痛みの信号を発する腰を抑えながら困惑の表情を表に出す。
夕立は追い打ちをかける様に提督のお腹の上に馬乗りになると、提督と鼻先がくっついてしまいそうな至近距離にまで顔を接近させる。
「ズルい…」
「なんだ?どうし――」
「ズルい…ズルいズルいズルいズルい!!!!」
自分の素直な感情を目の前の提督にぶつける。
夕立の強い語気に圧倒され、提督は夕立の瞳と視線を合わせる。今の提督は、捕まった草食動物が自分を捕まえた肉食動物に命乞いの視線を送るよう。
提督が覗きこむ夕立の瞳は狂気に満ち溢れていた。それは、夕立の最初の戦闘で感じた狂気とは比べ物にならないもの。戦闘狂じみた所もある夕立の狂気とは異質の物。
「由良ばっかりズルい!!!あたしももっと提督さんの事を色々知りたいのに!!由良も知らない提督さんの表情をもっと!!あたしだけに向ける表情を向けて欲しいのに!!!!」
夕立の言葉は提督の奥底にまで届いていない。何故なら、提督は彼女から発せられる狂気に――嫉妬の狂気に囚われてしまい、あの時感じた以上の恐怖に身を固めてしまっているから。
夕立は由良も知らない提督の表情を知る為の手段をとる。そう、ずっと『あの本』の言葉が心の片隅で引っかかっていたのだ。『私の知らないあなたをもっと見せて』。その為の手段をいま取ろうとしているのだ。
普段なら絶対に実行する事が出来なかっただろう。でも、今の夕立なら出来る。出来てしまう。嫉妬の狂気に取りつかれた夕立は手段を選ぼうとしない。
マフラーを外し、黒いセーラー服の上着と馬乗りになったままで器用にスカートまで脱ぐ。夕立の肌を隠すのは黒のハイソックスと手袋、それとレースの入った彼女の純真さを示すような白い下着のみ。
女性も羨む豊満な身体と染み一つ無い肌に提督が見惚れている余裕は無い。夕立の拘束から逃れる為に全力を注ごうとも、夕立の脚が腰を抑えた手を抜け出させてくれない。
夕立の瞳が歓喜に歪む。これで、やっと見れる。
――由良にも見せた事が無いあなたの表情が。
恐怖に顔を引きつらせ夕立を止める為の言葉を言おうとしても空気しか吐き出させない間抜けで彼女の狂気に震えが止まらない提督。
そんな提督の頬を包み込み、彼を安心させるように一度微笑む。今からされる事がわかり、全力で止めようとしていて必死な提督がそれで安心感を得られるはずがない。
――可愛い。怖がってる提督さん、ちっちゃい子供みたい。
目的の物が一つ見る事が出来た事に恍惚の笑みを浮かべる。
でも、今からはもっと知る事が出来る。由良も知らない提督の表情を。
夕立は提督の唇にそっと口づけを落とす。あの本で見た内容をなぞるように。
本格的に実行する前に、提督ともう一度視線を合わせる。
今は自分だけを見てくれる。あぁ、嬉しくてたまらない。その顔が恐怖に歪んでいようと今は関係ない。自分だけを見ていてくれることが彼女にとって優先事項だから。
「さぁ、すてきなパーティーしましょ?」
頬を押さえられた提督は静止の言葉をかけることももはや敵わない。
ニタリと嫉妬に憑りつかれた夕立が笑う。極上のごちそうを獲た夕立の狂宴が今幕を開ける―――
――あぁ、可愛かった。
何度も夕立を止めようとしながらも、快楽に顔を歪めてしまう提督。ついつい、意地悪すると懇願するような顔を浮かべる提督。泣きながらも快楽を受け入れる提督。
どれも、どれも由良が絶対に知る筈の無い表情ばかり。夕立だけが知る、提督の表情。夕立に向けられた快楽に溶けていく顔。
全部全部、夕立が引き出した表情ばかり。目的を果たせたおかげか夕立の中にあった嫉妬は幾分晴れやかになった。
行為の最中の提督の表情の顔を思い出して、下腹部がまた熱を生み出す。先程まで、提督の熱を注いで貰ったと言うのに。
「ごめん…。ごめん…」
提督は行為の途中から泣きだしてずっと謝罪の言葉を口にしていた。今も目元を腕で隠すように覆って夕立から隠れるように涙を隠している。それが誰に対する謝罪かは夕立の与り知る事では無い。
だけど、提督が泣いていて夕立は悲しい。
夕立は提督の顔を両手で包むと優しくまた口づけを落とす。
――どうか泣かないで、あなたが泣くと夕立も悲しいから
彼の顔を自分の胸に寄せる。汗をかいて彼の身体は火照ってはいるが、胸に直接落ちる涙は氷の様に冷たい。
その涙を直接受けた由縁か、夕立の胸にあった幸福感は消え失せ、さっきまで感じて無かった胸の痛みが心臓を握られているような激痛を走らせ提督と同じように涙を流す。
――あたしが見たかった彼の表情はこの方法で見て本当に良かったのかな?
その答えは今の夕立には到底わからない。
今まで以上に強くなった胸の痛みから逃げる様に、提督の髪に顔を埋める様にして、無理だとわかってても提督に聞こえないように声を出来る限り押し殺す。
嫉妬を司る赤色の二つの月から、冷たい雫が何度も零れ落ちた。
END A 『狂乱の赤い月』
「由良ばっかりズルい!!!あたしももっと提督さんの事を色々知りたいのに!!由良も知らない提督さんの表情をもっと!!あたしだけに向ける表情を向けて欲しいのに!!!!」
提督は僅かに腰を浮かして、ベッドと腰に挟まれた腕をすぐに救出できる状態にまで持っていく。先程までのほろ酔い気分は夕立の狂気に染まった瞳のおかげで一気に冷めた。
夕立がこんなにも自分の感情を押さえつけたままになった原因は間違いなく提督にあるだろう。だから、彼自身が彼女を受け止めなければいけない。本当は今にも泣いてしまいそうな夕立を止めないといけない。
それに、提督はやっとわかったのだ。自分の気持ちが本当に誰に向いていたのかも。
夕立は自分の服に手をかけて上に持ち上げている最中で、可愛らしい彼女の臍が見えている。だけど、この瞬間がチャンスだ。夕立は提督の手が自由になった事に気づいていない。
提督は上半身を出来るだけ持ち上げて少しでも夕立との距離を縮めてから、彼女の頭に手を伸ばす。
「えっ?」
突如自分の頭に手を添えられた事に驚き、夕立は服を脱ぐ手を止める。提督は夕立の頭を掴んだ手を重力に従わせるように引っ張る。
夕立は服から手を離し、提督の肩に顎を置く様に倒れる。
「て、提督さん?」
夕立は提督からの予想外の抵抗に驚愕の声をあげている。驚いたせいか彼女の声からは、先ほどまで感じた狂気も大分失せている。
「夕立…悪かった。俺がはっきりしないばかりに由良まで」
夕立の頭と背中に手を置いて撫でる。もう泣きそうな顔をしないでいい様に。
「なんで、提督さんが謝るの?」
「夕立の心の問題に答えを出せるのは俺が適任だったのに、ずっと答えを言わなかったからだ」
夕立の心の問題。ずっと胸が痛む、夕立だけの問題。ずっと答え合わせが出来て無かった問題。
どういう経緯かわからないが、提督にも夕立に問題は伝わっていたようだ。
でも、今の夕立に先ほどまであった胸の痛みはない。
それどころか、心臓が高鳴っていて、先ほどとは別の意味で破裂しちゃいそうになっている。
「提督さん、何か今変な雰囲気っぽい?!」
何でかな?何でこんなに心臓の鼓動が高まる事が恥ずかしく感じるのだろう。どうして、顔が熱くて体中が熱っぽいのだろう。
「あぁ、そうかもな。でも、こんな雰囲気じゃないと言えないさ」
夕立の身体には提督を押さえつけてやろうと言う強い力は込められていない。提督が横になると、夕立の身体も横になる。そして、二人の視線が絡みあう。
夕立から見える提督の姿は、何処か気恥ずかしそうに朱に染まった顔になっているが、瞳からは決意の色を感じ取れる。それは、由良が提督に話があると言った時と同じ色の物。
でも、その決意の目は夕立に、夕立だけの為に注がれている。
夕立は静かに息を呑んで提督の言葉を待つ。
「夕立、俺は君の事が好きだ」
「提督さん、あのね」
鳳翔のお店から寮までの帰り道。提督は寮まで送ると言い、由良はその好意に甘えさせて貰っていた。
その帰り道の途中で、由良は提督を引き止める。
「どうしたー?」
お酒は軽く飲んだだけとは言え、少しは酔っているのかもしれない。提督の言葉は少し間延びしている。
何か忘れ物でもしたのか?そう思って振り向いた提督だが、由良の瞳は真剣そのもので、彼はそれ以上喋る事を止める。
由良は胸元で一度、握りこぶしを作ると大きく頷いて、また提督を見つめ、言葉を紡ぐ。
「提督さん、由良は、提督さんの事が好き…です!!!」
言えた。今度こそは言えた。提督と飲みには確かに行きたかったが、本当は仕事が終わった瞬間にこれを言いたかった。
ただ、その時は勇気が足りなかったので、一緒に鳳翔さんのお店に行きたいとお茶を濁してしまった。
――由良は夕立ちゃんの様に強くも、積極的にもなれない。
改二になる前の自分では絶対に言えなかった。改二になった事でやっと勇気を出せてこの言葉が言えた。
突如伝えられた由良からの告白。湧きあがるのは嬉しさの感情。
何故なら、由良の事が好きだったから。由良の健気な所が好き。料理が上手な所が好き。皆を見守る時の優しい表情が好き。
好きな所をあげればキリがない。好きになるという事はそういう事だろう。
何となく、彼女に好意を抱かれている事はわかっていた。だから、それが本当だったことが嬉しさの中に含まれているのだろう。
思わず、彼女の告白に応えてしまいそうになる。俺も由良の事が好きなのだと。
でも、その言葉を紡ごうとすると、頭の中に砂嵐が走る。本当に彼女の想いに応えていいのかと。本当に好きなのは誰なのかと。
頭の中の砂嵐が晴れると、提督の頭の中に残ったのは由良では無く、
『ぽいっ!』
自分に無邪気な笑みを浮かべてくれるている夕立だった。
由良は提督の顔が一瞬曇った事を感知し、自分の結果を彼が答える前に察した。
「ごめん」
「うん。何となくそんな予感はしてた」
頭を下げて、由良の告白を受け入れられないと短い言葉で告げる。
由良は涙が出そうになるくらいの口惜しさを何とか堪えて笑みを作る。
「提督が本当に好きなのは、夕立ちゃんかな?」
「ああ…。今気づいた。夕立も由良の事も好きだ。同じ位好きだと思ってた。だから、自分から二人にいう事が出来なかった。でも、今やっとわかったんだ。俺が誰が好きだったのか。だからごめん由良。俺は最低だな…」
「うん。提督さんは謝らないで、ねっ?その…本当に泣きたいのは由良の方…だから…」
そこまで言った所で、由良の涙腺は我慢の限界を告げた。
両手で顔を覆って泣き出す由良。提督は思わず由良の傍にまで近づき、彼女の頭を撫でる。
頭を撫でてくれる提督の顔を見る為に、顔をあげると、提督も泣きそうな顔をしていた。
――ああ、本当にこの人は私の事を好きで居てくれたんだ。
彼からすれば、苦渋の決断だったのだろう。本当にどちらも同じ位好きで居てくれたのがわかる。
――由良にもチャンスがあると思ったんだけどな
でも、自分は夕立には勝てなかった。ほんの僅かな差で夕立に対する好意の方が上だった。
彼女には自分にはない可愛らしさや明るさがある。他にも、由良には無くて夕立にある物は沢山ある。何が負けたのかわからない。でも、今は負けた原因を分析する冷静さはない。感情が溢れてきて自分では止めることが出来ないから。
「ていとく…さん…」
由良は提督の胸元に顔を埋める様にして抱き付く。提督は彼女を抱きしめたい衝動に駆られる。もう泣かないで欲しい。悪いのは、はっきりとしなかった自分なのだから。
でも、頭を撫でてあげる以上の行為を優しさを今の由良には与えてはいけない。間違いなく彼女を傷つける行為になるから。
提督に頭を撫でられながら、由良は提督の胸に溜まり続けた思いを全てぶつける様に涙を流した。
泣きじゃくり、気持ちの整理がついた由良は提督の元から自分で離れる。
由良はこれ以上心配かけないように笑みを浮かべるが、目元は腫れかけていて見苦しい。でも、自分は彼女の表情をよく見ないといけない。それが、今の彼女に対しての責任の取り方だから。
「由良はもう大丈夫だから心配しないでね、ねっ?」
「…ああ、わかった」
「夕立ちゃんも提督さんの事が好きだと思うけど、自分にある物がどんなものかわかって無いみたいだから、早く提督さんから好きって言ってあげてね、ねっ?」
「ああ、絶対に近いうちに俺から言うよ」
「うん。良かった。今日はありがとう。由良はここでいいから、ねっ?」
「ああ、お疲れさま。おやすみ由良…」
「うん…。おやすみ…」
提督は由良に背を向けて自室に向かう。これ以上、由良の傍にいたら彼女に優しくしてしまいそうになるから。喉元まで来ている謝罪の言葉、出そうになる涙を堪えて提督は由良の元から去った。
「改二になった日を提督さんの記念日にしようと思ったのにな」
誰も居なくなった路上で虚空に向かって語り掛ける。
――提督さんの恋人になりたかった
そう思っても、今の自分には無理だろう。
脈はあった。でも、何かが足りなかった。それは夕立と提督との距離間に後僅かだけ届かなかった。
「あーあ…」
――夕立ちゃんだけに向けてる。子供みたいな笑顔、由良にも見せて欲しかったな。
夕立だけに見せる表情、告白を受け入れられなかった時の事を思い返して、由良はその場にしゃがみこんでまた泣き出してしまった。
提督は先程まであった由良との一部始終を包み隠さず話した。
夕立は知らず知らずの間に、涙を流していた。
嬉しい。提督が由良より自分を好きだと言ってくれて嬉しい。由良にはあって夕立に無い物が多くて、提督さんは由良と居た方が楽しそうだと思ったから。
でも、同時に夕立は悲しさも湧いていた。
何故なら、夕立の知っている恋と言う感情は、先ほどまでの夕立の様に汚らしい物じゃないはずだから。相手の想いを考えずに一方的に押し付けるような感情とは違う筈だから。だから、これは恋とは違うと自分に言い聞かせていた。本当は恋の感情が行き過ぎたから湧き出る嫉妬と言う感情だという事を知らずに。
無邪気で、純粋で、無垢だった夕立は恋と言う物を美化して考えすぎてしまったのだ。だから、答えが出せなかった。決して難しすぎることは無いこの問題の答えを。
「これは恋なのかな?さっきまで、夕立は提督さんに一方的に思いをぶつけてたのに」
「恋と言うのは人によって違う。だから、恋の仕方も人それぞれだよ」
「でも…、でも…」
「夕立、俺の事は好きか?」
「好き。提督さんの事は大好き」
「じゃあ、俺とここから恋を始めないか?お互いが好きあっているなら、恋を始めることが出来る」
「うん…、うん!!夕立、提督さんと恋をしたいっぽい!!」
夕立は提督に抱き付いて胸に顔を押し付けて涙を流す。今は完全に喜びだけが込められた涙を。
由良の時とは違い、今度は夕立を抱きしめ返す。感情に整理がつかないながらも、しっかりと自分と恋をしたいと言ってくれた愛しい人に感謝を込めて。
彼の腕の中で泣き続けた夕立は、泣き疲れて何時の間にか寝息を立てる。提督はもう一度、夕立が腕の中で安らかに眠っている事を確認し、髪に一度唇を落としてから夕立の後を追うように眠りについた。
翌日、由良に夕立と提督が付き合う事になったと、休憩時間に二人で報告した。
由良は一度何かに想いを馳せる様に目を瞑ると、二人に「おめでとう」と笑みを浮かべて祝福の言葉を贈る。
その後に、夕立と二人っきりで話がしたいからと提督を追い出し、椅子に座って二人きりで語りあう。
告白までの経緯と、夕立の想いは本当に恋だと言えるのかという悩み。告白の経緯は、夕立自身で言い辛い事も合ったので幾らか端折った。隠し事の下手な夕立は整合性がある話が出来ず、由良の頭に疑問符が大量に浮かぶ事になったが。夕立の恋と言う感情については由良からも肯定してあげた。「あの人に振り向いて貰いたい。ずっと一緒に居たいと思えるならそれは恋だと思うかな、ねっ」と。
由良の口から彼女なりの恋愛観を聞いた事で、改めて由良も提督の事が好きなのだったと思い知る。だから、由良に対してよくない感情を抱いていた事を思わず謝ろうとした夕立を由良は苦笑交じりに諫めた。
話し込んでいる内に休憩時間の終わりを告げる放送が流れる。
提督を執務室から追い出す形にしてしまったので、提督を探す為に二人は椅子から立ち上がって執務室から一度退室しようとする。
「夕立ちゃん」
執務室のドアに手をかけた所で、由良に引き止められる。
「もし、夕立ちゃんが隙を見せたら、提督さんが夕立ちゃんにだけ見せる表情も全部由良の物にしちゃうから、ねっ?」
口許に人差し指を置いて冗談っぽくに言いながら、由良がドアを押して先に退室する。
口調こそ冗談のように言っていたが、その言葉本気だった。何故なら、彼女の瞳の色は――昨日の夕立の様な嫉妬と向上心で燃え上がっていたから。
――こ、これはもっと頑張らないとだめっぽい?!
由良が今以上に強くなったら、本当に提督さんは由良の方に傾いてしまうかもしれない。彼の話を聞く限り、由良には僅差に勝っているのだ。
「夕立、もっと頑張るっぽい!」
由良に負けないよう、取りあえず家事から出来る様になろうと、花嫁修業の決意を固めた夕立だった。
END B 『嫉妬は連鎖と向上心となりて』
ここからは半ギャグエンドな上に適当感マックスなので閲覧注意。作品の雰囲気ぶち壊しでごわす。半ギャグなので平和です。
夕立が服とスカートを脱ぎ、素肌の殆どを晒し、提督を頂かんとしたその時、大きな音を立て部屋のドアが開かれた。
「えっ?」
「誰っぽい?!」
二人の予想しなかった来客。その正体は由良だった。
由良は提督と飲みに行くまでは良かったのだが、帰り道に提督に好意を伝えることが出来ず、そのまま寮まで送られてしまったのだ。
結局改二になっても何も出来なかったと、部屋についてから悶々としていた由良ではあったが、そんな自分からは脱却する為に、今、このタイミングで提督の部屋に突入してしまったのである。
二人の状態から、状況を察したのか由良は呆れたようにため息をつく。
「夕立ちゃん。それは由良も卑怯だと思うな」
「でも…でも…」
先ほどまで嫉妬していた相手が現れ、夕立は敵対心が2割、恐怖心が8割と混じった感情を露わにしている。
「うん…。でも、夕立ちゃんがこうなっちゃったのは、その方が都合がいいかもと思ってた由良も悪いから…ね」
由良は手を顎に置いて一度考え込む。
提督と夕立は突如現れた上に、どうみても修羅場な状況なのに冷静に言葉を発している由良を見て、呆気にとられている。
何か案が思い浮かんだ様で、由良は掌に判子を押す様にポンと叩く。
「提督さん。由良は提督さんの事が好きです。ね」
まるで恋する乙女の様に頬を染めてとんでも無い状況で告白する由良。こんな状況でも、いや、だからこそか、夕立の由良に対する視線は一気に敵対心マックスへの物へと変わった。
が、由良は夕立に指を指して制する。
「で、夕立ちゃんは提督さんの事、好きなのかな?」
「提督さんの事、好きっぽい」
「うーん。聞こえなかったからもう一回」
絶対ワザとだ。頭に血が上っている状態の夕立と違い、提督の頭は一気に冷静になっていた。
「好きっぽい!!」
「ごめんもう一回頼めるかな」
「好きっぽい!!!」
「まだ足りないかな」
「大好きよ!!!!」
部屋中に響き渡るような大声で夕立は思いの内を打ち明ける。
その瞬間、夕立は今まで感じなかった莫大な羞恥心と胸の高鳴りを覚える。どうやら、自分の想いが本当はどんなものであるか自覚したらしい。
大声で打ち明けた恥ずかしさに、夕立は提督に馬乗りになるのを止めて、布団をひったくって海苔巻きの具のようにぐるぐる巻きになって二人から隠れる。
「で、提督さんは、由良と夕立どっちが好き?」
「それは…。悪い選べない。由良も夕立も同じ位大好きだ。その…どちらかを傷つけてまでの選択は俺には出来ない」
「うん。知ってた。だから、提督さんに相談なんだけど…夕立ちゃんと由良、私達二人と付き合えないかな、ね?」
「それは…」
それは提督にとって夢の様な選択肢。誰も傷つかず、皆で幸せになる唯一の方法。でも、それは普通なら許されざる行為。道理に反した行為。
だから、提督は返事の言葉が上手く言えないでいる。
「でも、提督さんどっちかこの場で選べませんよね?由良達、それじゃあ納得できないかな」
「夕立、由良なら提督さんと付き合っても大丈夫よ」
「ほら、夕立ちゃんもこう言ってるし。ね?」
渡りに船の夕立の答えに由良さんもにっこり。
確かに由良の言う通り、自分には二人の内どちらか選べない。だから…、腹をくくって男としての甲斐性を見せる事にした。
「わかった。夕立、由良、俺の恋人になってくれないか?」
「うん。夕立、提督さんともっといたいっぽい!」
「由良は勿論オッケーですよ」
正式に提督の恋人になれたことに、二人は大喜びだ。由良の有無を言わせぬ迫力と言葉選びに流された気がしないでも無いが、今が幸せな気持ちでいっぱいなので提督は幸福感に身を委ねることにした。
「じゃあ、今から由良も良い所を見せちゃおっかな?」
そう言って、服を脱いで下着だけの姿になる由良さん。隠れた豊満な双丘の持ち主で、スタイルは夕立に負けず劣らずいい。
「何でそうなる?!」
が、突然の脱衣に提督も突っ込まざるを得ない。さっきまでそう言うムードでは無かった。それ以前に、恋人を二人作る空気でも無かった。
「だって、夕立ちゃんばっかりズルいですから、ね?」
「夕立は未遂だ!」
「由良ばっかりズルイっぽい!夕立も良い所を見せるっぽい!!」
布団に包まって隠れていた夕立もいつの間にか布団を脇に置いて、四つん這いの姿勢でじりじりと提督に迫る。
ベッドの上で由良も合流し、二人の顔が睫毛を一本一本が確認できるまでに近くなる。
「なぁ、二人とも今は冷静になれって…な?」
何とか雰囲気に流されないように必死な提督。しかし、獲物を今ここで仕留めようとする二人の狩人は止まらない。
「もう無理っぽい!」
「だから、提督さん」
「「由良(夕立)達と素敵なパーティしましょ?」」
二人の狩人が、一人の草食系を貪る宴がここに始まった。
END C 『幸せならOKですよね?』
夕立は拾った鍵を使って提督の部屋の鍵を開けようとした。しかし、鍵穴に鍵が入りはしても、シリンダーが回らない。
「鍵が違うっぽい?」
鍵穴から外してよく見てみると、鍵の頭に肉球の様なマークがある事に気づいた。
肉球のマーク。これに気付いた夕立は提督の部屋の隣の部屋に目をつける。その部屋のドアには犬の足跡の様なステッカーと『Observation room』と言う部屋名が貼ってあるからだ。部屋名の事は夕立もよくわかって無いが、そこは物置として使われている筈の部屋で、夕立はこの鎮守府に来てから一回も入った事が無い。
もしかしたら、この部屋に全ての原因が――
自分でもよくわからない位に溢れている自信を伴って、その部屋の鍵穴に鍵を差し入れる。
鍵は嵌った、ちゃんとシリンダーも回る。鍵はかちゃんと音を立てて、その役割を放棄する。
夕立は意を決して、その部屋に侵入する――
部屋の中は、監視カメラの監視室のように壁には画面とスイッチとレバーがついた大きな機械と使用用途のわからない機械が置いてあった。
その部屋にある唯一の椅子に座って、否、立って何やら機械を操作しているのはヘッドホンを耳じゃない所につけた一匹の柴犬。
この部屋が何の意味があるのかわからない。だけど、夕立は理解した。
「アナタノシワザダダノネ」
思わずその場でへたり込む夕立。柴犬は椅子から降りると、夕立を慰める様にペロペロと彼女の頬を舐めた。
DOG END
うん。何でDエンドを書いたんでしょうね?自分でもわかりません。
でも、癒されましたよね?ね?
一日か二日、日を置いたら、気まぐれでそれぞれのエンドの前提条件とかその後の推測なんかをTwitterでお話するかも知れないです。自分で書いててちょっとスパゲッティになってしまったので。
最後のエンドの元ネタはこちら↓
https://www.youtube.com/watch?v=Fr0fosnT3BA