―――暑い。
そう思いながら大量の汗をかきつつ、眼が覚めた。ベッドシーツは寝相の悪さから蹴落とされ、体にかかっておらず、天井の扇風機から送られて来る冷風は焼け石に水とでもいうべき苦労しか果たしていない。ゆっくりと体に障り、傷があるであろう場所に触れる―――だがそこにはない。鍛錬で痛めつけられた古傷があるだけで、それ以外に致命傷に通じる様な傷痕はなかった。当然だ。あったら生きていない。つまり生きている事はアレは夢だった、という事だ。
「勘弁してくれよ……誰があんな夢を見たがるんだ」
はぁ、と息を吐きながら片手で頭を押さえる。忘れも出来ない、酷い悪夢だった。胸を満たす絶望、激怒、虚しさ、悲しみ、その感情が今でも蘇るような思いだった―――そう、リアルに。まるで現実だったかのように。だけどあれは夢だ。夢でなくてはならない。そうじゃなくては駄目だ。あんな悪夢、現実であってたまるものか。
「ふぅー……起きるか」
寝汗を落す為に水浴びと歯磨きを、なんだか変な夢を見て落ち着きもしないので、今日は家でゆっくり過ごそうと決める。そうと決まれば服装も制服ではなく、普段着用の黒いボトムスと、襟付きの白シャツだけでいい。ラフ&カジュアルな格好に着替え終わった所で朝食の準備を始める。今日は少しだけ、手を込んで朝食を作ろう。どうせ朝はゆっくりとするだけの時間があるんだ。数段重ねのホットケーキを作るのも悪くはないだろう。その上にはちみつとバターを垂らして食べるのだ。
素敵な朝食になるに違いない。
戸棚から小麦粉等の材料を探しながらゆっくりと朝を過ごそうと考えていると、不意に扉にコンコン、とノックする音が聞こえた。その音に動きを完全に停止させた。
「おーい、起きてるかー? 気配はするんだから隠れてねぇででてこーい、もてなせー」
パンダの声だった。その声と、そして登場してくるタイミングに、嫌でも夢の事を思い出してしまう。いや、アレは夢だ……夢なのだ、所詮は夢だから気にする必要はない。ふぅ、と自分に言い聞かせてから息を吐き、火を一旦止めてから扉を開ける。
「よぅ」
「よぅ、じゃねぇ―――」
「……どうしたんだ? 顔色が悪いぞ?」
「あ、あぁ……ちょっと夢見が悪くてな……」
「本当に大丈夫か? 顔色が悪いぞ……いや、お前そこに座ってろ。この匂いはメシ作ってた所だろ? 代わりに俺がやっといてやるよ」
「悪い」
素直にパンダの言葉に甘える事にする。少なくとも気分は最悪に近かった。頭を片手で抑えつつ、ダイニングにある椅子に座り、背もたれに体を預ける。その間にパンダはキッチンの方へと向かい、材料を見てホットケーキを作るのを察したのか、続きを引き受けてくれた。……どうでもいい事だがアイツ、あの手で普通に料理できるのか、とちょっと驚いた。相変わらずのパンダマジックだった。
そんな事を気晴らしに考えていると、少しだけ惨事の記憶を頭から追い出せる―――そう簡単に忘れられるものでもないが。
「―――良し、出来た。ホットケーキだ」
「お前見た目とは裏腹にほんと指先が器用だよな」
パンダが引き継いで作ったホットケーキには焦げ色を使ってデフォルメされたパンダの絵が描かれていた。その技量に軽く呆れながらも笑い声を零し、予め出しておいたはちみつをかけ、その上からバターを乗せる。ホットケーキの熱でバターが溶けはじめ、
「パンダが濡れ濡れのテカテカになっちまったな」
「お前、今から俺が食おうとしているんだからそんな事言うんじゃねーよ」
パンダの笑い声を聴きながらホットケーキにナイフを沈めると、パンダが苦しむようなジェスチャーを取り始める。その茶番に軽く笑い声を漏らしながら切り分けて、そして口の中へと運んだ―――はちみつとホットケーキの甘さが少しだけ、体に力を入れてくれる。美味しいと思いながら、漸く一息をついた。
「少しはマシな顔色になったな」
「心配させて本当にすまない」
「気にするな、ダチだろうが」
こういう性格をしているからパンダのクセして頼りになるのだ。人当たりはいいし、義に厚いし、困っている姿を見かけたらとりあえず助けるか、と考えるタイプの人間―――パンダだ。人間と言えないのがこのパンダに関する最大の弱点だ。なんでお前は人間じゃなくてパンダなのだろうか? お前が人間だったらもう少しまともだったのに、と何度も思わなくもない。そんな事を考えつつ、新鮮な牛乳を喉の中に流し込み、ふぅ、と息を吐く。
「酷い夢を見てな」
「あぁ、そんな事を言ってたな……聞くか?」
頼む、と軽く頷いた。今は見たこの夢を誰かに吐き出したい気分だった。気持が悪い程にリアルだった悪夢。その内容を少しずつ思い出しながらパンダに語る事にする。朝起きてパンダが来た事、学園で勉強した話、夜に襲撃があった話。人を殺した話、人が死んだ話。彼女が死しても尊厳を奪われ続けた話。その後で死んだ話。自分が夢で見た経験を言葉にして話すと、パンダが成程な、と言葉を置いた。
「それで夢の様に朝訪ねて来た俺を見て真っ青になった訳だな」
「だな……まるで夢じゃない、本当の出来事かの様にリアルだったよ。思い出そうとすればこの手で触れた感触さえ蘇ってきそうなほど吐き気がする。そんな現実、ある訳がないのにな。もしかして夢で見た景色が現実になるんじゃないか、と一瞬考えてしまってな―――俺とお前の最初の挨拶は夢で見たまんまだったし。それで一気に肝が冷えたわ」
「確かに、夢で見た内容が現実になったとしたら……ちょっと笑えねぇな。とはいえ、予知能力者でもないんでもないんだろう?」
「あぁ、その適性は俺にはない」
予知は未来を見る能力。時空属性にカテゴライズされるが、その中でも特に時に対する適性の高さがないと駄目である。自分は時間よりも空間に対する適性が高く、そういう能力はない。だから予知能力の暴発で未来を見た、なんて事は絶対にありえない筈だ。そこでじゃあ、そうだな、とパンダが言葉を零す。
「……神託の可能性もあるんじゃねぇか?」
「神託、か」
「あぁ、敬虔な信徒に対して神が行う啓示って線……も考えたが、そういやぁお前の神は武神エルクレセルか。武神は人々の生活には干渉しないって事で有名だしありえないか」
武神エルクレセルは神々の中でも人の生活には干渉せず、積極的に教義を広げる訳でもない、非常に珍しい類いの神だ。偶に武の極地を目指す武人に対して称賛の言葉を送ったり、熱心な信徒の言葉に対して答える事もあるが、基本的には見守り、そして頑張る信徒に対して神術という形で施しを返すだけの神となってる。その恩恵は他の神々と比べれば遥かに少ないが、これこそが本来あるべき人と神の関係であると一部では人気のある神だ―――ともあれ、
「俺一人に神託を与えて逃げろって言う程優しくはないよ、ウチの神様は。エルクレセル様なら寧ろ自らを磨き、そして立ち向かって自身の武勇を持って切り抜けろ……ぐらいは言うだろうな」
「手を貸さないけど干渉もしない……厳しいな」
確かに手厳しい神様だ。だが、だからこそ愛されているとも言える。努力は常に報いられるものではなく、そして実るものでもない。だけど、だからこそ求道は求めるだけの価値があるとおっしゃられた。それは他人との戦いではなく、己と戦い続ける事である。それは誰よりも、そして何よりも難しい事だろう。だけど武神エルクレセルはそれを見ている。彼は常に信徒の努力を眺めている。報われない、実らない努力であっても常にそれを見ているし、本気で打ち込む姿を認めている。助ける訳でも応援の言葉を送る訳ではない。
だが確かに見守っているのだ。
故にその勇気が信徒を前へと進む力を与える。
そういう神様なのだ―――だからこそ、信仰する。
そこまで敬愛する神の事を考えた所で、食べ進めていたホットケーキがなくなってしまった。美味しかったし、ふわふわで甘いその食べ物は小さな幸福を胸の内に宿らせた。内容をパンダと共有できたおかげで少しだけ前よりも胸の内が軽くなった気がする。やはり話を共有できる相手がいると気分がマシになる。胸の内を吐き出せてスカっとした。
「ありがとう、少しは気分が良くなったわ」
「おう、そりゃあいい事だ。俺は学園の方へと向かうけどお前はどうするんだ?」
「流石に勉強する気分にはなれないしな……今日は適当に街をぶらついて過ごすさ」
「そうだな……ま、ゆっくり養生しておけ」
流石に勉強だか鍛錬だかをするだけの気分ではなかった。それでも朝食を用意してくれたパンダに改めて感謝しつつ、学園へと向かうパンダを玄関から見送り、朝食を作るのに使ったものを簡単に洗う事にする。酷い夢を見たせいで気分は最悪だった。こういうのは一旦忘れて何か楽しい思いでもすれば変わるものだ。そうと決まれば行動は早い。夏休みに入って街の方も今は活性化しているのだ、探せば何か楽しい事だってあるかもしれない。そう考えて洗い物を終わらせたら財布をポケットに入れ、
「……まぁ、いらないだろ」
アレは夢だからな。そう自分に言い聞かせて弓へと伸ばしそうだった手を戻し、武装を持ち歩かずに街に出る事にした。しっかりと鍵をかけて施錠し、誰も家に入れない事を確認してから街へと繰り出す。これで武神以外の神々を信仰していれば教会で祈りを捧げ、神託を授かる事も出来たかもしれないが―――スパルタ方針のエルクレセル様にそれを求めるのは難しい。故に家を出て、気分転換に適当にぶらぶらする事にする。
そう言えばこっちに来てから、休みの日や用事がない限りは街の方はあまりうろつかないな、と思った。
大通り出て街並みを眺めながら、騒がしい日常の音に聞き入る。商いを行う者達が客寄せをし、道端で会話に興じる通行人の姿が見える。この景色が炎に包まれ燃え上がる様子なんてまるで想像できない。やはり性質の悪い悪夢だったな、と決めつけ、特にアテもなく歩く。気分転換なのだから当然と言えば当然なのだが。
「はぁ、馬鹿みてぇ……」
いい加減切り替えるべきなのだろう、思考を。だけど一度沈んだ心と頭は中々明るくなってくれない。今でも胸に吐き気がこびりついている。到底忘れようのない経験として、まるで本当に味わったかのように剥がれない。どれだけ自分にアレが夢だったと言い聞かせても、それでも頭の中から絶望的な景色が一切消えなかった。
……どれだけただの夢だ、と自分に言い聞かせても、それが真実だとどこかで、何かが囁いている。
どれだけ振り払おうとも絡みつく腕の様に頭の中から最後の景色が消えない。それが胸の中に吐き気を引き出してくる。クソが、と胸中で吐き捨てながらも、落ち着きを取り戻す為に軽く深呼吸をする。何時までも重く引きずる必要は無い、と自分に言い聞かせる。夢は夢で―――今は、今だ。何を見たにしろ、それは今は発生していない。つまり今は安全。そう自分に言い聞かせると、少しだけ落ち着く。それじゃあ適当に新規発掘でもするか、そう自分に言い聞かせた所で、声がかかってきた。
「あ、レイさん」
聞き覚えのある声に、心臓を鷲掴みにされたような気持ちになる。声のする方へとゆっくりと振り返る―――そこにいたのは予想通りの人物だった。生きていて、傷を一つも負っていないクレア・ラングリスの姿だった。一瞬、犯され、蹂躙された彼女の姿を幻視する。表情を変えず、最悪を頭の中から振り払いながら片手を上げてよ、と何時も通り挨拶をする。
制服姿のクレアを見て、心の底から安堵を感じた。あの死体を前に感じた無力感は生きている彼女を見れた事によって少しだけだが霧散した。柔らかく笑みを零しつつ、
「クレアか。や、おはよう」
自然に笑えているだろうか? そう思いながらクレアに挨拶をする。疑う事なく挨拶が返ってきているので、どうやら普通に出来たようだった。
「レイさん私服姿ですか、学園に行かないのは珍しいですね」
「まるで俺が鍛錬ジャンキーの様な……いや、まぁ、実際そうなんだろうけどさ。今日はお休みで。どうも頭がすっきりしないからな、こういう時は気分転換するのが一番という事で。クレアは?」
「私ですか? 今日はアルバイトです。と言っても孤児院のお手伝いなのでほとんどバイト料はでないんですけどね。家の中にいたのじゃ学べない事、出来ない事がいっぱいあって個人的には気に入っているんです」
本当に良く出来た子だと思う。バイト代が極端に少ないそういうアルバイト、自分では到底選べそうにはない。
「それじゃあ私、孤児院に行くので」
「あ、あぁ―――」
そのままクレアが孤児院へと向かうのを見送ろうとして、言葉を停止させる。パンダの予知、という言葉が妙に引っかかる。リアルすぎる夢。それが杞憂であれば問題はないのだ。だけど夢と断じるにはあまりにもリアルすぎる記憶、そして感情。時空という属性を保有している以上、筋は通るのだ。だからそれを考え、ここで本当にクレアを見送っていいのか、と考える。ここで彼女を見送って、放置していいのか。アレは夢だったかもしれない。だけど自分の安心の為に一緒に居れば、夢を夢だと断じられるのではないのだろうか?
「―――俺も行って、いいか?」
「鍛えあげたこの肉体が発揮する力を見せてやろう……!」
「わぁぁぁぁ―――」
足に乗せてから全力でムーンサルトを決める様に子供を空へと向かって押し上げた。全力で空へと向かって飛翔した子供は優に5階分の高度へと飛び上がり、数秒間の滞空を経てから落ちてくる。軽く体に魔力を込めて動けるようにし、跳躍して落ちてくる子供の姿を両手で掴み、そのまま大地に着地、肩から体勢を崩す様に倒れ、転がって衝撃を逃しながら両足で立つ。無論、転がる間に子供を大地に付ける事は一度たりともない。
辺境流高い高いである。
「うおっはああああヒャアアア! ウヒョオオオ、オッハァァァアア―――!」
「はっはっは、楽しんでいるようで何よりだ」
「高い高いというより頭が他界他界してる……」
「偶になるなる」
両足で子供を立たせるとそのまま両腕を掲げて吠えながら孤児院の前にあるグラウンドをそのまま全速力で走り回ってくる。その表情には達成感とカオスが明確に浮かび上がっていた。それを眺めてから、一連の流れを見ていた少年少女たちへと視線を向け、
「次、空を飛びたい子」
「はい! はい! はい! はい!」
ツッコミを入れていた子を含め、多くの子が手を必死に伸ばしてジャンプしながらアピールしていた。よし、任せろ、お前らを好きなだけ空へと射出してやる、とサムズアップを向けながら足を軽く振るって蹴りあげる準備をする―――どんな鍛錬をするにしても、下半身は全ての動きに通じる重要なパーツだ。しっかりと鍛えていればこの程度、誰にだって出来る事だろう。たぶんナバールの方がもっと蹴り上げられるし。そんな事を考えていると、クレアがややおろおろとした表情を見せながら、
「あの……大丈夫なんですか?」
「高い高い?」
「私の知っている高い高いと比べると非常にユニークですけど、……えぇ」
「まぁ、これは元々辺境用の教育だし」
「教育ですか?」
そうそう、と頷きながら説明する。姿を隠す為に木に登ったり、山の高所に上ったりする事が多い為、子供の頃に遊びに混ぜて高所からの視点、落下の感覚を体に覚えさせることで無意識下に耐性を形成してしまおう、という考えなのである。遊びとして覚えて行けば自然と忌避感は覚えないし、子供の間に覚えさせておくことで育ってから高所に対して恐怖を抱く事もなくなる。それに万が一間違えて木や崖から落ちたとしても、恐怖に支配されずに即座に行動が出来る様になる、という訓練にもなる。
「ただ数年に一回のペースで手が滑って子供が骨折するケースが―――」
「止めましょう」
クレアに怒られた。
一斉にえー、と大合唱する子供たちの声を聴きながら視線を孤児院へと向けた。木造の建築は予想に反してしっかりとした建築をされており、清潔な姿を保って、その周りには子供が遊べそうな遊具などが設置されていた。孤児院を見るのは初めてだが、個人的にそういうもののイメージはもっと古臭く、そしてボロボロなものだったと思ったが、そんなイメージを払拭する姿がこの孤児院にはあった。
子供たちの遊び時間が終わって一人一人、腰を抱いて孤児院の中に放り込めば勉強の時間になり、勉強を教えられる老人が教鞭を取る。流石にそこまでは邪魔出来ないので、大人しく孤児院の外にいる事にする。それに付き合ってくれるのか、クレアも外に出てくる。
「俺は孤児院ってのはもっとボロいもんだと思ってたが……」
「ふふ、それは少し物語の読み過ぎですよ。確かに後ろ盾のない孤児院は貧窮しているらしいですが、少なくとも帝国では国家の方である程度金銭を支給していますし、孤児院でのアルバイトも長期になればある程度単位が取れるのもあります。それに孤児院を出て行ったOBからも入金がありますからね。そう簡単に物語みたいなボロボロのは出てきませんよ……少なくともこの国では」
「帝国を出た事がないから良く解らないが……他の国は大分違うらしいな」
「そうですね……少し、説明しましょうか?」
頼む、とクレアに言う。自分もある程度は教わっているが、クレアが貴族である事を考えれば、より詳細な話が解るだろう。
「えーと……じゃあ基本的な話から始めますけど、帝国は物凄い特殊な国であると理解していますよね?」
「国教が存在せず、宗教と切り離した政治、そして多種多様の種族に対して人権を認めている、という事だよな?」
「はい、そうです。ですがこれは他の国々と比べると異端とも言えるものです」
―――帝国は他国からは異端だと言われているが、帝国に住む者は自分達を
「そんな帝国ですがその建国は一人の元奴隷によって成された事が有名です―――つまり、彼が初代皇帝陛下でした。奴隷だった彼は日々を神々へと祈りながら過酷な労働を強いられてきましたが、その時、一人の仲間に祈る暇があるならその両手を使って生き延びろ、と言われたそうです。その結果―――その両手で看守を殴り倒して逃亡した事が始まりだとか」
「実にロックな陛下」
「これ、文献が残っているので真実なんですよね……」
良くそんな文献消さなかったな、と思わざるを得ない。
「……ですがこの経験が元で初代皇帝陛下は祈るだけじゃどうにもならないですし、神に祈るだけで状況が好転する訳でもなく、環境や状況を変えるのは神々ではなく自分の両手で、という考えに行きついた結果、政治と宗教を切り離した形態を思いついたそうです。後は境遇の件もあって種族に対する忌避感というものを持っていなかったそうですね。それが今の帝国の礎となりました」
「そうやって聞いてみるとどれだけ奇跡を積み上げて建国したかが解ってくるな」
「そう、ですね。初代皇帝陛下は多くの賢人や異界からの賢者や漂流者を積極的に登用し、その知識を利用したなんて話も聞きます。ですがやはりそこまで特殊でいられるのは我が国ぐらいでしょう。他の国家は神あっての国家、という風になっています」
帝国と他国での最大の違いはそこに尽きる。宗教観念とも言える部分だ。
「根本的な部分で神を信じ、そしてそれが統治者である他国に対し、神を信じても統治者という領域から神を完全に追放している帝国では物の見方が違いすぎます。スタンスが違いすぎて理解できていないんです、帝国という国家のあり方を。
世界には監視を神に任せ、しかし政治には関わらせない国や、完全に神に統治を任せた国家、或いは神を抱くが政治に混ぜずオブザーバーとして配置する国家もいる。だが潔癖と言えるレベルまで宗教を政治から排除する事に成功した国家はこの帝国だけである。
そしてだからこそ、様々な国から恨まれている。
神々を排除しようなどとは不敬である。
何故その種族に肩入れする、それは穢れている。
様々な遺物を解析、使用する危険な国家である。
尋常ではない力を持ちながら神による監視を受け入れない邪悪である。
「気が付けば多方面に色んな理由を付けて睨まれていますね……ただ、宗教や思想だけが問題ではないんですけどね。結局の所、帝国のやり方は技術的な革新を生み出し、多くの恩恵を国家に与えました。そしてその多くは帝国内から漏れる事はほとんどありません。技術が漏れてもそれを再現できるような技術者は稀です。ですからその奪取や国を富ます為に戦争をするという意味合いも強いんですよね」
「どっちのが野蛮か言えたもんじゃないな」
「そうですね。ですからよほど信仰に狂いでもしなければ非常に住みやすい国ですよ、帝国は。逆に帝国で長年暮らしてから他国に行くと違和感が激しかったりするせいで中々帝国から離れられないって話は聞きます」
改めて話を聞くと自分が住んでいる国の凄まじさを理解出来る。だが……確かにそうだ、水道やシャワー、風呂、トイレ、店の商品、冷房、学園のシステム―――その多くは辺境にいる頃はまるで考えられない事であり、そして噂話でしか聞いた事のないものばかり。こうやって実際に経験すればどれだけ文明の利器によって生活が楽になっているのかを実感できる。そして今までの生活や、他国の話を聞いて考えると、帝国だけ異常に発達しているというのが解る。
「今の所、本当の意味で神を怒らせるような事はしていないのが救いか」
「神の化身が降臨すれば流石に一日で国土が滅びますからね。逆に言えば神々がこの国のあり方をそこまでして否定するものでもない、と語っているようなものでもありますが」
実際の所、政治に関わらないのであれば信仰の自由は存在するし、強引でなければ布教を行う事も許可されている。そして布教行為とは教育でもあるのだ。神の教えを理解する為には学が必要だし、それが記されたものを読むには文字を覚えなくてはならない。その為、教会や巡回の司祭は基本的に布教しながら信徒に対してある程度の教育も行う。寧ろ辺境や他国では学園ではなく教会を利用した教育の方がメインだ。
自分の場合は親父が教師変わりとなって教えてくれたが、同年代の知り合いとかは教養のある司祭やシスターから基本的な教養を付けていた。
別に禁忌に触れている訳ではないし、信仰の弾圧をしている訳ではない。ぶっちゃけた話、別に帝国は神々を否定している訳でも決別している訳でもない。ただ住み分けを行っているだけだ、綺麗に。それを不敬と取るのが人間の方であり、神々の方もそれぞれの思惑がある為、特に諌める事もなく、
ただ軍神や戦神の類いはかなり過激である為、同じカテゴリーには入らない。
この二つは邪悪に対して容赦がないというか、お前の両親もしかして皆殺しにされた? と思うレベルで全員が邪悪と戦っている。一度認定されたら最後の一人になるまで神命で戦い続けるだろう。しかも人気があり、各地に教会がある。無論、帝国内にも多く存在する。理性的なバーサーカー達だ。絶対に戦いたくない。
ただ、日常的に魔物をジェノサイドするバーサーク神官共であるが、驚く程に政治に興味を持たないのが面白い所だ。ある意味その点においては帝国とは一緒だ。その代り、神に対して凄まじく従順であり、神命は絶対としている。今の所帝国との関係は対等である―――なにせ、帝国に対して何も言わないのだから、つまり何もしなくていい、という事なのだから。
今日も世界各地で宗教バーサーカーが暴れている。連中に迷いという概念はない―――そこは純粋に羨ましいかもしれない。
……ん?
そこまで考えた所で、疑問に思う。
「……今回王国が帝国に仕掛けてきた理由ってなんだ?」
「それは勿論……ん? あれ? そう言えば詳しい理由は聞いてないですね」
普段が普段だけに、相手の方の理由はあまり深くは考えていなかったな、と気づかされる。宗教を理由にしているんだから何時もの様な理由なのだと思うが、その事実が少しだけ、頭に引っかかった。だが引っかかるだけだった。戦争にそこまでたいそうな理由はいらない―――民、土地、富。それを得る事が出来るのであれば、戦争をするだけの理由になる。そして、それ以上の理解も必要ないだろう。
「話がちょっと長くなってしまいましたね。ですけどこうやって比べてみると改めて帝国が凄い国だって解りますね」
「ある程度身分の違いなんて関係なくなるからな……」
相変わらず凄いもんだ、と帝国の事は思う。とはいえ、それ以上複雑な事は自分の管轄外である為、あまり考えるのも面倒だが。そうやってクレアと軽く談笑していると、やがて授業の終わりになってくる。そうなると張り切った子供たちが再び孤児院の前に出て遊びをせがんでくる。こうなってしまうと二人きりで話している雰囲気でもなくなってくる。子供たちを持ち上げて振り回しながら、気が済むまで子供たちの遊び相手を務める事にする。
―――逃げる様に。
そうやって孤児院で遊び尽くしていると、すっかり空は暗くなって夜の時間となってしまう。夕飯は孤児院で御馳走になり、それからしばらくすると子供たちが眠さに負け始める。その姿を持ち上げてベッドに運んだところでアルバイトが終わりだとクレアが言う。自分が便乗しただけなのでそこまで本格的に手伝っていなかったが、クレアの方は割と色々と手伝っている分、結構なハードワークだったのではないかと思う。
「今日はごめんなさい、付き合わせてしまったみたいで……」
「いや、気にしないでくれ。俺が好きで付き合った訳なんだし」
夜―――その闇は嫌な事を思い出させる。見た悪夢の内容と炎に燃える街の様子をはっきりと思い出させる。それが真実じゃないと否定する為に今、こうやってクレアと一緒に居る―――アレが悪夢だと証明されれば、それでいいのだ。
「まぁ、寮までは送るよ。女をこんな時間に一人で帰したくないしな」
「ふふふ、裏路地に不良さえいないこの街で面白い事を言いますね」
小さく笑いながらクレアが片手を差し出してくる。街灯が人通りの少なくなった彼女を仄かに照らす。差し出された片手に対して、此方もリードを取る様に片手を出す。手に触れ、紳士がやる様な礼を大仰に取ろうとした瞬間、
―――轟音が空気を揺らした。
「なっ―――」
「えっ」
素早く視線を音源へと向ければ、街中から炎と煙が夜空へと向かって立ち上っていた。それはこの街に対して破壊が発生している、という事の証だった。空には炎の塊が浮かび上がり、破壊する為に振り下ろされて来る。降り注ぐ破壊が混乱と悲鳴を市内に生み出し始める。その声と混乱が、燃え盛る風景が一気に心臓を締め付ける様に痛みを生みだす。呼吸が荒れ、胸が凄まじい痛みを訴える。脳裏に燃え盛る街と犯されるクレアの姿が浮かび上がる。
「レイさん、だいじょ―――」
言葉が終わる前に魔術の気配を感じる。上から炎が落ちてくるのが見える。素早く光の鎖を生みだしてからクレアを片手で腰を抱き、射出した鎖の先を範囲外へと逃れる様に家屋の屋根に突き刺し、収縮させつつ大地を蹴って、素早く体を空へと引っ張って飛ばす。途中で鎖を消しながら空中で軽く回転し、屋根の上を滑る様に着地する。
「……はぁ、はぁ……ちょっと手荒になってすまない」
「あ、いえ、助かりました……」
言い終わった瞬間に先ほどまで立っていた場所に爆発が発生し、一帯が炎に包まれた。少し離れた位置からでも炎の熱を感じる。悲鳴と怒号、そして血の匂いが風に乗ってやってくる。間違いなく悪夢の再現がここに始まっていた。このまま悪夢の通りに進めば―――きっと、クレアは殺され、そして犯されるのだろう。
……いや、そうはさせない。
俺がここにいて、クレアと一緒に居るという時点で悪夢の内容は変化している。もはや同じではない。アレが本当に悪夢なのか、或いは予知なのか、そんな事はこの際、どうでもいいのだ。重要なのはこの状況で確実にクレアを俺が守らなくてはいけないという事実だけだ。……こんな時に武器を一つも持ってこなかったのが辛い。ないよりはマシだ、とボトムスからベルトを抜き、それをバンテージの様に拳に巻いた。金具部分が武器になる他、金属を殴る時はこれで拳が守れる。
「とりあえず寮まで送ろうかと思ったけどこれじゃあ予定変更かな?」
「あ……うん、その……大丈夫ですか? レイさんは」
「俺の事は気にしなくても大丈夫だ。それよりも流石にこの状況でクレアを一人には出来ない。どこか人が集まっていそうな場所へと向かうか、或いは街の外へ逃げるかだけど―――」
クレアはそう言われ、ハっとした表情を浮かべた。
「いけない! 孤児院が!」
それを気にするだけの余裕はない、と断じたい所だった。だが流石に遊んだばかりの子供たちを見殺しにするのも気持ちが悪かったのも事実だ。クソ、と舌打ちしながらクレアを抱えて屋根から飛び降り、道路へと降りた。クレアが孤児院へと向かって走って行くのをすかさず追いかける。
悪夢が幕を開ける。どれだけ否定してもそれは当たり前の様に始まった。悪夢からは逃げられない―――逃げられないが、結末は変えられるのだろう。
「お、可愛い子みっ―――」
王国兵が路地から出てきた所を迷う事無く光の矢を生みだして
「クレア」
「わ、解っています……敵、ですものね」
「あぁ。だけど初めてなら我慢しなくてもいい。体力は有り余ってるし運ぶぞ」
「いえ……自分の足で走ります」
「良し」
返答しつつ新たに姿が見えたのを手投げ魔法矢で殺害する。移動を再開する前に素早く装備を確認するが、持ち歩いているのは小盾と剣ぐらいで、一番重要な弓と矢を持っていない。そう考えるとやはり弓持ちは密偵とかの一部特殊な連中のみだったのだろうか? そんな事を考えながら素早く剣を二本回収し、クレアと共に孤児院へと向かって走る。あまり場所は離れていない為、到着にはそう時間はかからず、それ以降は王国の兵士と遭遇する事もなかった。
孤児院はまだ無事だった。
「良かった……」
「安心するには早い。安否を確認してくれ。後出来たら弓があったら持って来てくれ。ないと辛い」
「あ、は、はい!」
急いで声を出しながら孤児院の中へと走って行くクレアから視線を外し、痛みを訴える心臓を無視し、二刀流で剣を握る。状況、手段を選ばずに戦えるように鍛えてくれた親父に素直に感謝だな、と心の中で呟きつつ、眼を閉ざす。森の中でやっていたように気配を感知する。生きている生物が放つ呼吸、命の気配、それを感じ取る。集中する為に嫌な程心臓の音が聞こえてくる。まだまだ心臓が締め付けられるように痛みを訴えてくる。
だけど……朝だ、朝までここを耐え抜けばそれで悪夢は終わるのだと自分に言い聞かせる。
朝を迎えて、明日になれば変わるのだ。
「……殺せ、レイ。敵は全て殺せ。そうすれば守り抜ける―――それ以外を考えるな、思い出すな」
両腕に握る二刀を逆手にして握る。ダガーやナイフを両手で扱う様に握る。そうするにはやや重く長いが、それでも素早く戦う事をメインにするスタイルである自分にはこの持ち方の方が効率的に戦える。左手をパリィ用に意識を集中させ、攻撃を右手で。相手がそれを読む様になったら呼吸を切り替える事もなく武器の役割をスイッチしろ、という言葉を思い出す。時に順手で握りなおして相手を混乱させるのも悪くはない。数少ない殺人戦のレクチャーだ。
「帝国人だ!」
「殺せ! 一人も生かすな!」
気配を察し、眼を開ける。迫ってくる二人以外にも後方から数人来るのを感じる。孤児院の周囲は建物に囲まれており、孤児院の前はやや開けてはいるが、そこへと通じる道は一本道だ。故に孤児院を繋ぐ道、その入り口に立つ。
「来るなら殺す。下がるなら―――あぁ、いや、やっぱ来てくれ。殺している間は気が紛れそうだ」
踏み込んでくる姿に合わせて姿勢を低くしながら素早く横へと抜ける様に刃を振るう。首を割きながら続けて向かってくる姿、その顔面に剣を投擲しながら死んで倒れて行く兵士の腕を蹴り上げ、失った剣を補充する。
「来い」
続けてくる姿に刃を振るって殺す。相手の動きは悪くない。一国の兵士な上に、聖戦の加護を受けているのだから悪い訳がない。兵士は鍛え、戦う事が基本なのだから弱い訳がない。だがそれ以上に教育、鍛錬、知識、環境の違いが強者を育てる。
視界が赤く染まる。死体を蹴り転がす。刃の血を倒れて行く死体で拭き取りながら迎撃の場所だけを確保する。
喉の奥がチリチリする。頭の奥がガンガンとする。心臓が鷲掴みにされたような痛みを覚える。世界が返り血のせいか赤く染まる―――或いは頭に血が上っているのか。真っ赤に染まる中でも敵の姿は見えていた。
*tick*
「受け取ってください!」
*tack*
後ろからクレアの声が聞こえた。バックステップを取りながら剣を一本投擲して突き刺しつつ、片手を差し出せば後ろからある物が飛んできた―――弓だ。作りは意外に頑丈ではあるが、学園で作って貰っている専用の機械弓と比べれば粗末とも取れる木製の弓だ。とはいえ、市販品である為、性能に文句はない。これがあればもっと効率的に戦える。
*tick*
剣を弓に番えて放って二匹まとめて頭を切り飛ばしながら光の矢を生みだす。素早く番えながら後ろへと向かって滑るように移動し、前方へと向かって射撃する。放たれる光の矢は鎧を貫通し、その背後の人間を殺し、内臓を貫通した穴から噴射する様にぶちまけ乍ら入口に惨事を生みだす。そこで動きを止めずに感知する気配―――屋根の上へと向けて射撃し、潜んで機を伺っている気配を射殺す。屋上に血の花が咲いた。
*tack*
「来るなら来い」
*tick*
吐き出しながら察する敵の気配を全て殺して行く。誇る訳でもなく、なんでもなく、作業の様に機械的に心を殺してひたすら弓を射る。あっさりと切れる弦の代わりに光の魔術を使って光の糸を生みだし、それを弦の代わりに使う。調整不足が原因で光の弦を引けば指が軽く切れ、弓を射る度に指から血が流れる。だがその痛みも頭に入ってこない。あるのはただ一つ、この悪夢を抜け出したいという思いだけだった。それ以外は全て捨て去る。事実を言えば恐怖すら感じている。そう、怖い。悪夢の中で見た経験が、感じた絶望が、それが何よりも怖かった。アレが真実であると認めたくはない、絶対に認めてはならない。その心が必死に自分を支えていた。
あんな絶望を味わいたくない。あんなもの経験したら頭がおかしくなる。いや、もう既におかしいのかもしれない。だが嫌だ、怖い、アレはもう嫌だ。心が苦しい。頭が痛い。警報を鳴らす様にガンガン頭の中で痛みが響いている。来るな、来るな、来るな、心の中でそう叫びながらひたすら見えた姿に弓を向けて矢を放つ。指が千切れそうになる痛みを無視して手と指を動かす―――日々の鍛練の成果はこんな精神状態でも問題なく体を動かし続ける。心がどれだけ折れそうになっていても、恐怖で心が張り裂けそうでも、それでも体は正確に敵を殺し続ける。
どれだけ時間が経過したのか。どれだけ時間が経過しているのか。それを気にするだけの余裕はなかった。背後にいるクレアは狂ったように死線を下がらせない俺に怯えているのかもしれない。だけど恐怖と絶望が心を突き動かしていた。ただそれだけがどうしようもなく、心を突き動かしていた。そしてそれがやがて、敵の気配に終わりを感じさせる。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ―――」
息が荒い。体が重い。視界が赤く染まっている。だが周辺からは敵の気配とも言えるものを感じない。怒号も減り、そして悲鳴も抑え気味になってきている。全体的に戦闘行為が下火になっているのだろうか? この悪夢を切り抜けられたのだろうか? 空を見上げればまだ夜空が広がっている―――だが遠くの空では夜明けが見えそうな気がしている。朝が来る。漸く、待ち望んでいた朝がやってくるのだ。
「レイさん! レイさん!」
クレアの声が聞こえる。同時に街に鐘の音が響くのが聞こえる。まるで祝福する様に響く鐘の音は響き渡りながら戦いの終わりを告げるようで、血で濡れて真っ赤に染まる千切れそうな指の付いた手を、だらり、と下ろす。悪夢はこれで終わりだ。はは、と笑いながらクレアの声に従って振り返ろうとし、
「レぇiさaん―――」
―――クレアが溶けていた。
「あっ……?」
悲鳴が聞こえる。絶叫が響く。助けて、という言葉が孤児院から響いてくる。窓の向こう側で人型のシルエットがドロドロに溶けて行く姿が見えた。それと同じようにクレアの姿が溶け始めていた。髪の毛が溶ける様に伸び始めると顔の形がズレ始めていた。目玉が首元まですべる様に落ちると、それが服や肌と混ざって色が混ぜ合わされて行く。
「あ、あああ、ぁぁあ……」
「Tあスけて―――」
そこまで喋った所で開いた口が地面に届きそうな程伸びて、体がドロドロに溶けて行く。髪の毛の色と体と服の色が溶けて混ざって行く。血を一切流さない、悪夢を上書きする更なる悪夢が目の前で繰り広げられていた。嘘だ、嘘だ、嘘だ、と叫ぼうとして手を前に伸ばそうとして―――指先が溶け始める。それはクレアの体に突き刺さる、混ざる様に溶け合い、自分の体も輪郭が薄れ、崩れて行く。
視界が一気にズレる様に広がる。体の感覚が薄れて行く。なのに思考だけはクリアで、自分が溶けて死んで行くという事が逃げられない程に強く実感させられていた。前のめりに溶ける体はそのまま一足先に溶けたクレアの体にぶつかる様に溶けて、
―――全てが混ざって黒く染まった。音を残して。
「ああああアアアアァァァ―――!!」
―――頭がおかしくなりそうだった。いや、既になっているかもしれない。一切の痛みはないのに体だけが溶けて行く絶望的な感覚がリアルにくっきりと体に残っている。自分の目の前で好きな子が溶けて形を失うという光景を何もできずに見せつけられた。悪夢は終わらない。助けた、助かったと思ってその姿形を変えただけだった。リアルな死の感覚がくっきりと体に色あせずに残っている。喉元からせり上がってくる吐き気を我慢する事もなく、そのままベッドの横の床にぶちまける。床が汚れるが、それを気にするだけの余裕がなかった。頭の中でも今でも最後の光景がこびりついていた。
『Tあスけて―――』
脳裏で崩れて泡を生み出しながら異形の声と姿で助けを求めていた。もはやどうしようもない領域にあった姿を何とかしたくて動かした体は溶けていた。それを思い出して苛立ちと恐怖と絶望が襲い掛かってくる。単純な殺し、殺されるという感覚ではなく、自分を失うというあまりにも未知の恐怖に心が殺されていた。
「あ、あ、ああああ―――」
恐怖が抜けない。感触が消えない。忘れらない、最後まで残っていた死の感覚がまるで忘れられないのだ。それが頭をかき乱してくる。頭がガンガンし、眼の奥がちかちかとして痛みと眩暈を訴える。何かをしなくてはならない。何かから逃げなきゃいけない。それが脳を支配するが、だがそれでも恐怖とあの感覚が心臓と感情を完全に掴みとっていた。
ガンガンガン、と扉を殴る様な音が聞こえてくる。だがそれを気にする事も出来ず、そんな余裕はなく、胃の中にあるものを全て吐き出す様に床の上に吐き、ベッドから転がり落ちる。破壊するような音と共に跳びこむ気配、音、素早く階段を上がってくる音と共に扉が吹っ飛んだ。
「レイ!」
「あ、あぁ、ぁっ……」
パンダだった―――
アレは夢なんかじゃない。
原因は解らない―――だが現実だ。
それを理解した瞬間、喉の奥から絶叫が響き渡る。あの光景を再び見せられるのならいっその事―――そう考え、部屋の中に矢筒へと飛びかかり、そこから矢を引き抜いた。鏃を首元へと向け、首へと突き刺す為に振り下ろす。
「馬鹿野郎!」
「邪魔するな……!」
死ぬしかない。これを忘れるには
「―――すまん!」
一瞬だけ見えたパンダの腕と共に意識が落ちた。
「……」
ゆっくりと、眼が覚めた。再びベッドの上に転がされるように寝かされていたらしい。上半身を持ち上げれば、ベッドサイドテーブルにパンダの置手紙が見えた。それを拾い上げて中身を確認すれば、此方を心配するような言葉が残されていた。それを読んでベッドの上に置き直したところで、ベッドから降りる。どうやら吐いたものまで掃除してくれたらしい。
「……」
窓の外を見ればまだ日は高く、今から外へと出れば丁度良いランチタイムになるのではないかと思える。そんな事を考えながらパンダには迷惑をかけてしまったな、と思い―――吐き気を感じた。どうあがいても頭から最後の光景が消えない。絶望と恐怖が心を一気に鷲掴みにする。嘔吐感を飲み込む様に我慢し、発狂しなかったのは一回パンダに気絶させられ、時間を作ったからだろうからか、どちらにしろ、少しだけ自我を取り戻す事が出来た。
「ふぅー……」
少し深呼吸をし、すまんパンダ、と自分に言い聞かせ、
―――迷う事無く矢に手を伸ばした。
そして喉に突き刺す。
「かはっ―――」
喉に一度突き刺す。灼ける様な痛みと呼吸を阻害された苦しみが一瞬で脳を支配する。だがそれだけでは死ねず、矢を引き抜いたまた新たに喉に突き刺し、溢れ出す血の量を増やす。真っ赤に足元を濡らしながら再び矢を引き抜く―――生命力が強いから、これだけではまだ死ねない。良く鍛えられているせいで簡単には死ねない為、震える手で矢を握りながらそれを胸に―――心臓に向かって突き刺す。
全身から力が抜ける。体が倒れる。喉と胸を焼く様な痛みが脳裏に残る絶望の恐怖を―――上書きしない。逃げられない。クレアの犯される姿と溶けて行く姿が脳裏から剥がれない。どうあがいても忘れる事が出来ない。涙が目の端から流れるも、痛みと苦痛では逃げる事が出来ない。
体にもはや力も光もない。
ふたたび世界が黒く染まる。
「……は、はは」
気づけばまたベッドの上に転がっていた。思わず乾いた笑いが口から飛び出す。駄目だった。自殺しても再びベッドの上で目覚めてしまった。また朝日が窓から差し込んでくるのが見える。時間がもうしばらく経過すれば一緒に学園に行くためにパンダがやってきて、そして絶望の夜がやってくるのだろう。訳の解らないが、しかしどうあがいても結末が絶望と死で彩られているこの状況に、もはや動く気さえなくなっていた。
この街からどこかへ逃げ出そう―――そう考えずにいるのは最後に残された戦士としてのプライドだったのかもしれない。いや、自殺した時点でそんなものはもうない。現実から安易な逃げ道を選ぼうとした臆病者の卑怯者だ―――戦士を名乗る資格すら今の自分には存在しない。心は完全に折れていた。もはやどうする気も何もなかった。眼の端から敗北感を証明する涙が流れ、体には力が一切入らず、そのままベッドの上に倒れていた。もはや何もやる気が起きなかった。
所詮は……所詮は弓しか扱えない男だった、という事なのだろう。自分の矜持も、20年かけて育て上げたこの腕や知識も、その程度だった。本当の理不尽や悪夢という事に対しては全くの無力だった。欠片も力にならない。どうなっているのかさえ理解出来ない。ただ解るのは、心が折れてしまった、という事実だけだった。悪夢と否定できればよかった。所詮は夢だと言えるのであればどれだけマシだったか。助けてという声が脳裏をよぎり、同時にそれを前にして完全に無力だった自分の死が見えた。
「は、はは……ははは……」
いっそ完全に狂って廃人になれれば楽なのに。そう思っても狂う事が出来なかった。その程度には強かった。だがその中途半端な強さが自身を苦しめている。ただただ、恐怖と絶望が心を支配し、死の実感というものが体を支配していた。
そう、死だ。
生まれたのであれば何時かは死ぬ。そう思い、行動し、そして行動してきた。常に危険はあるのだから死ぬ覚悟は抱いていた。そのつもりだった―――いや、死自体は恐れていなかった。だが今ではそれが怖い。三度も経験し、そして思い出す死因はどれも絶望的で、そしてあまりにも救いがなさすぎる。もうそんな死は嫌だった。戦士として戦って死にたかった。だがそんな資格さえも今はもうないだろう。
「なんだ……なんなんだこれは……」
震える体を恐怖から守る様に軽く抱きしめ、ベッドの中で丸くなる。あんな死に方も、あんな結末を見るのも嫌だ、と体の震えを抑え込もうとする。だがそれは意志に反して震え続ける。俺はおかしくなってしまったのだろうか? 本当はもう既に発狂しているのではないだろうか? そんな事を考えだす。だがそんな事を考えた所で答えは出ない。
「……」
言葉すら吐くのが億劫になる。
目の端からやはり、涙が流れる。どうしようもない無力感だけが体を支配する。こんこんこん、とドアを叩く音が聞こえるが、もはや動くつもりもどうこうするつもりもない。動かず、反応せず、対応する事もなく、ただベッドの上に転がっていた。
力が入らず、やる気も起きず、恐怖だけが胸に燻る。死ぬという事がここまで怖いとは思いもしなかった。安らかに死ねる事だけを願って目を閉じた。
ドアをノックする音が聞こえなくなった。放っておいてくれるのだろうか。そう思ったところで、
―――風が吹いた。
「……あぁ……やっぱり貴方だったのね」
聞き覚えがある、しかしここにある筈のない声がした。閉ざしていた目を開け、声の方へと視線を向ければ、開け放たれた窓に片足をかける様に立つくすんだ灰髪の女の姿が見えた。だらしなく伸びる長髪は窓から吹いてくる風に揺れながら見下ろす様に視線を向けていた。彼女の表情には複雑な感情が見て取れた。申し訳なさ、困惑、納得―――憐れみ。様々な感情が入り混じったような表情を浮かべながら窓枠に足をかけた状態で見下ろしていた。その姿を見て、目を閉じた。
「帰ってくれ……誰にも会いたくないんだ」
「悪いけどそれは出来ないわ。……だって、謝らなきゃいけないもの、貴方に」
そう言うと侵入者は―――システィナは部屋の中に入り込んできた。謝る、彼女はそう口にした。その言葉に少しだけ心が動かされる。謝る―――なにを彼女は謝るというのだろうか? 目をつむったまま、次の言葉に耳を傾けた。
「貴方、時間を巻き戻ってるでしょ」
その言葉を聞いた瞬間、頭の中が沸騰した。目を見開き、頭を支配する激情のままにお前、と叫びながらベッドから飛び降り、そのままシスティナへと近づいて両手でその首を掴んで壁に叩き付けた。そのまま、引きずるように自分よりも背の低いその姿を持ち上げ、首を締めながら押さえつけた。
「お前か、お前が、お前がアレを見せたのか! アレを続けたのか! あの地獄を俺に見せつけたのか! なぜ死なせてくれない! あんな地獄を何度も繰り返すのなら、普通に死にたい! 死なせろぉ!!」
叩き付け、押さえつけ、締められながらもシスティナは俯き、前髪で顔が隠れる様な状態で、視線を合わせる事なく、か細い声で呟いた。
「……ごめん」
その声の色だけで、システィナが望んでこの状況を引き起こした訳じゃないというのが伝わった。それで一気に頭が冷えた。両手をシスティナの首から放せばシスティナの体が床に落ちる。軽くせき込みながら座り込むシスティナの姿に、今前女の首をへし折ろうとしていた両腕を見て、何をやろうとしているんだ俺は、と自分が嫌になってくる。女の首をへし折ろうとしていたのだ、自分は。男で、少なくとも戦士としては認められた男が。
―――なんて、無様な事か。
その両手で顔を抑えながら数歩後ろへとよろめくように下がりながら、ベッドに腰掛ける。
「……すまない」
「ううん……いいよ……気持ちは解らなくもないから」
「あぁ……すまない……本当に、すまない……頭がおかしくなりそうなんだ……」
「うん、知ってる……」
システィナの答えが来て、そしてお互いに黙る。しばらく、沈黙が部屋を支配する。だけどお互いに今は話す必要があるのも解った。一回、完全に激情に任せて動いたせいか、頭が少しだけ働く。とりあえずは落ち着いて話す必要があるだろう。
「……下で待っててくれ。着替えてくる」
「解ったわ」
立ち上がり、下へと向かうシスティナの背中姿を眺め、そして片手で目元を覆った―――なんでこんな事をしているんだろうか。なんでこんな事になったのだろうか。自責の念が一気に襲い掛かる。開いた片手で壁を殴りつけながら、
「屑だな、俺は……」
呟きながら人前に出れる格好に着替える事にする。
最低限の準備を終わらせたところで一階へと降りれば、ダイニングにある椅子を借りてシスティナが大人しく座っていた。その姿を見てからキッチンの方へと向かう、軽い朝食の準備を作り始める事にする……内容は簡単に作れるフライパンで焼くバタートーストなのだが。
「朝飯は食ったか?」
「いや、そんな気分じゃないから」
「何か食っておかないと頭も体も動かないから喰っとけ」
「……じゃあ、貰おうかしら」
フライパンに油を敷いて、その中にパンを投入し、バターを用意しながら一緒に食べるサラダの類を用意しておく。食事は軽くしておくだけでも人に活力を与える。今の沈んだ雰囲気と空気の中で、それがどれだけ助けになるかは解らないが、ないよりはあった方が遥かに良いだろう。少なくとも考えるのに食事は必要だ。そんな難しいものではない為、時間もかからない。沈黙を保ちながらさっさと朝食を作って行く中で、沈黙をシスティナが破る。
「……私は、正確に言えば生まれた時から神格だった訳じゃないの」
ゆっくりと、システィナが語り出す。
「気が付いた時には神格を保有していたわ。最も新しき神だなんて呼ばれ方もして、周りは皆、私が特別であるかのように振る舞って来た。だけど違う。私は運が良かったとかそういう理由で神格を保有している訳じゃないの。私が神格を保有するのは生まれる前からの必然だったわ」
「必然?」
その言葉が引っかかり、そうね、とシスティナが言う。
「―――私は神の転生体よ」
「―――」
生まれた新たな神格ではなく、神の転生体。それは全く意味が異なる。古代、神々は人を使わぬ戦争を繰り広げていた。神と神が争い、衝突し、地形を変え、大陸を沈め、そして覇権を握る為の争いを起こしていたのだ。それによって敗北し、死亡し、駆逐された多くの神々が存在する。だが神はほぼ不滅の存在。その魂を消滅させない限りは殺しても輪廻を経て転生し、再び蘇り天へと昇る。そうやって神は再臨する。つまりシスティナの前世とは神であった事になる―――彼女は生まれる前から神である事を義務付けられていた。
「私は怖かった。私は神だった時の記憶なんて一切なかったわ。神として生まれた自覚なんてなかったわ。あったのは神格、そして明確な神としての力だけよ。神言を唱える事が出来るし、人間には持てない圧倒的な魔力を放つ事も出来るし、権能もあるわ。だけどそれ以上に自分が本当に自分なのか、その方が恐ろしかったわ」
だって、とシスティナは言う。
「―――神のない記憶が偽りの人格だったら、神が蘇った時に消えるんじゃないか、って」
システィナはそう言いきった。完成した朝食をテーブルに置いて、グラスに牛乳を注ぎ、システィナの反対側に座りながらシスティナの言葉の続きを待った。システィナもおかれた牛乳で軽く喉を潤してから、話の続きを始めた。
「子供の頃は本当に怖かった。皆が私じゃなくて、私の中の神様を見ているんじゃないかって。このまま育って私は本当に私のままでいられる? もしかして別人にとって代わられてしまうんじゃないの? って思ったわ―――だから自殺する事にしたの」
トーストを口に運び、ハムを口に運び、口の中でサラダと混ぜる様に食べる。
「だけどお前は死んでいない」
「えぇ。自殺する事には成功したの―――だけど目覚めればその日の朝。まるで何事もなかったかのように新しい一日に戻っていたわ。それから何度か死のうと試したわ。でも無理。無駄だった。何をやっても巻き戻る。そして神に救いを求めて祈ったわ」
「答えは?」
「来たわ。私が転生する前の神格は
そう、とシスティナは言った。
「
それで漸く理解した。システィナの死ぬ為、と入学で放った言葉の意味を。誰とも関わろうとしない彼女の真意を。彼女は自分の意志で死ぬ事が出来ない―――魂を燃やす業を持っても燃え散るのはシスティナのみ、本当にそこに神格の魂があるのかが解らないから除去する事も出来ない。そもそも神格の業だから人類がどうにかするのも不可能に等しい。自分が自分でなくなるかもしれない。その前に、自分である内に消えたい。その願いさえ叶わない。誰かと接していればそれが悲しみと苦しみへと繋がるから誰かと親しくなろうとしない癖に寂しさを感じて付き合いたくなる。
―――哀れな女だった。
そんな彼女を一瞬でも糾弾して殺そうとした自分には恥じ入るしかなかった。食っている朝食にまるで味がしなかった。食欲もなくなってゆく。だが口の中に押し込んでから牛乳で喉の中へと流し込み、無理やりにでも飲み込む。そうでもしないとどこかで倒れそうな気がするからだ。
「……それで、なんで俺が巻き込まれているんだ」
「解らない。だけど……時空属性なんでしょう?」
「俺に時の魔術は使えない。加速も減速も停滞も相性が悪かった」
「という事は相性が良かったのが遡行だったんでしょうね……或いは私の神格と相性が良かった、とか」
「そんな吐き気のする話は止めてくれ」
「……ごめん」
システィナにしては珍しすぎる殊勝で饒舌な態度だった。だが彼女を見れば解る―――その姿は罪悪感で溢れていた。きっと、彼女はそれが彼女だけが背負う業だと思っていたのだろう。だからこそ死にそうな表情を浮かべている。あの時、首を締められていてもまるで反応を見せなかったのだろう。彼女のその姿を見て、思い出す。
「……最初の夜、クレアが殺されてから犯される姿を見た」
「……」
「次の夜は目の前で溶けて行くのが見えた」
「……」
「頭が狂いそうだった。こんな現実が嫌だった。忘れようとしても脳裏にたすけて、の一言がこびりついて離れないんだ。今でも目を瞑れば直ぐに思い出せる。悲鳴が、悪夢が、あの思い出したくもない数々の出来事が―――お前がその原因なのか」
「そうよ……言い訳はしないわ」
耐える様に、システィナがそう言った。それを見て自分は理解でいる。この子も自分と同じ―――心がそこまで強くない。必死になっているだけだ。本当に、本当に哀れで不幸な女だった。湧き上がる怒りの向けどころは彼女ではない、というのは俺でさえ解る事で、無言のまま、食べ終わった食器を横へと押しのけて、両手でテーブルに肘を付く様に顔を覆った。
俺も、システィナも、とことん救いがなかった。事の原因に怒りを向ける事が出来ないからだ。
「……」
「……」
沈黙が家を包む。その中で、どうするべきかを考える。何をすべきなのかを考え、何をしたいのかを考える。怒りが湧き上がってくる余裕さえもない。ただあるのは虚しさと、そしてどうしようもなさだった。だけどそれでも思うのは、
「お前はこの地獄を何度も潜り抜けてきたのか」
「いえ……ここまで酷いのは初めてよ。だけど死んで巻き戻るって事ならそうよ。何度も味わっているわ」
それは―――それは、なんという孤独なのだろうかと思う。同じではないとはいえ、これには匹敵しないとはいえ、それでも彼女は常に苦しみの中にあった。その苦しみを理解出来る人間は―――いない。その環境の中で常に彼女は生き続けてきた。それを考えると、言葉が出てこなくなる。彼女も被害者であり、自分もまた被害者だった。お互いに、かけるべき言葉が見つからない。ただ無言のまま、俯く事しか出来ない。
「それで……私を殺す?」
「お前を殺して何か好転するのか?」
「いいえ……でも気分は晴れるでしょ?」
テーブルに拳を叩きつけた。
「そんな事で気分が晴れる訳がないだろう! ふざけてるのか!」
「……ごめん」
システィナが俯いた。本人だってそれで満足する訳がないし、どうにかなる訳でもないと理解しているのだろう。だがそれでも、残るものはある。
―――敵だ。
「死に続ける限りはこの日が続く」
「そうよ」
「そしてそれを乗り越えなければ明日は来ない」
「そうね」
「俺が死んでも、お前が死んでも一日は巻き戻る」
「えぇ、そうよ」
そこで一旦黙り、そして言葉を続ける。
「……お前は、これからどうするつもりなんだ?」
「―――明日を迎える」
それだけははっきりと言い切った。システィナは前を向いていた。この時、この発言、明日を迎えるという言葉だけははっきりと、暗さの全てを払拭させて断言した。彼女はおそらく、俺よりも遥かに多くの回数死んだのだろう。きっと、何度も心が折れたのだろう。死ぬ事が出来ず、それでも生き続けてきた。死にたいからここに来たと言った。そしてそれをまだ叶えるつもりであるとシスティナの瞳は訴えていた。
「私は戦うわ。私のまま死ねるその日まで。何が相手であろうと、何が立ちはだかろうとも。何度遡行しようと、最後の死へと辿り着くその時まで前進し続ける事を諦めないわ」
その強さが羨ましかった。死という絶対の終焉は覆されている。だけどそれをシスティナは恐れていなかった。それを望み、そして諦める事なく進み続ける意志を見せていた。それが羨ましかった。絶望的な状況を前にしても諦める事のないその意志が美しく見えた。自分の様に鍛え上げた力だけではなく、踏破して得た精神的な強さが羨ましかった。
「……システィナ」
「……」
「……俺は、お前が嫌いだ」
「……」
「何時もクラスの端っこで関わるなってオーラを出している癖に中途半端に関わってくるお前が嫌いなんだよ。明らかに混ざりたそうな気配しやがって。そんなに混ざりたいのなら跳びこんで来ればいいだろうって何度思った事か!」
「そんな事出来る訳がないでしょ! 仲良くなれば仲良くなる程離別の時が悲しくなるんだから……」
「だったら徹底しろよテメェ!」
「出来る訳ないでしょ!?」
だったら―――と、言葉を置く。だったら、と、言う。何を言おうとしているのだろうか、俺は。何を熱くなっているのだろうか? いや、だが、これは言わなきゃ駄目だろう。俺は自分が戦士の器ではない事を理解した。俺は弱い。それでいて臆病で卑怯で、そしてやはり、どうしようもない屑だったのだ。親父や母に対して顔向けする事が出来ない。胸を張って会う事も出来ない。だけど……矜持がある。誰を、どれを信仰するかは自分で決めたのだ。だからそれの恥じる事をここで選んではならない。
それだけが今の自分に残されたものだった。そしてそれは裏切れない。
―――いや、違う。理由はもっとシンプルなものだ。もっと動機は簡単なものだ。思えば、この気に入らない娘と顔を合わせるのも半年になった。そう、同じクラスになって一緒に授業を受けて半年。あの情けない仮面の裏はこうなっていた。それを知って、そして情けなくも男として自分がやるべき事は、同じ学友としてやるべき事は……。
「俺も、お前と同じになった。なら―――」
言葉を飾らず、率直に想いを言葉にするのであれば、それはとても簡単になる。
「―――俺を、頼れ」
それだけだった。辛い、苦しい、気持ち悪い。死と絶望の感覚はまだ体に張り付いている。死という最大のストレスが未だに心を汚染している。だがそれがあっても、そうであっても―――明日を望むという彼女の姿は立派で、尊く、自分よりも遥かに大きく見えた。
明日を迎える為に、再び立ち上がる為にも―――俺は、彼女を助けなくてはならない。
文庫本ここに来るまでに文庫本1冊分の文字数に匹敵しそう。
そんな訳でループの原因が発覚。発覚した所でどうにもならんが。という訳でこの二人で地獄を切り抜けようかって事で。
色々読んでて思うけど死という絶対的なストレスの原因に対して良く皆平然としていられるなぁ、と思うのでその考えをベースに書いてたらどうあがいても発狂するよな、と思いこうなる。やっぱ楽しいわ。
誤字報告機能オンにすると仕込んでる文字コードがバレてしまう訳だが、誤字報告じゃない勢はこっそり仕込んでいる白文字とか見つけたかな?