※この作品はR-18です。

とおいきおくの、そのかなた。   作: 池田 

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第1話

悲鳴。

 

 怒号。

 

 銃声。

 

 その真っ只中。

 

 私はベッドの上に、ただ座り込んでいる。仲間が死んでいく音を、ただ聞いている。ちらりと視線を横に向けると、さっきまで私の上で腰を振っていた男が慌ててズボンを履いていた。

 

 あぁ。

 

 私も、死ぬんだろうか。

 

 薄汚れたベッドの上で。薄暗いこの小さな部屋で。汚れた体のままで。

 

 そうぼんやりと考えていると、ズボンを履き終わる前に男がいきなりもんどり打って床に倒れた。同時に、数人の黒尽くめの男たちが部屋にドカドカと入り込んでくる。

 

 このあたりの人間じゃない。白い肌に青い目、どこか遠くの国の人達。彼らがなんでこの場所へやってきて、皆を殺しているのか私の頭ではまったく理解出来なかったけど。とりあえず私は両手をあげて、抵抗の意思が無いことをアピールしたのだった。

 

 

 

 

 

 

 「おはようございます、皆さん、朝ですよ……」

 

 窓の外から聞こえる、間延びした優しい声が私の意識を覚醒に導いた。

 

 「……あ」

 

 目を覚ますと、外は光に満ち溢れている。ここは、どこだっけ。

 

 「ここは……」

 

 部屋を見回して、私が今いる場所を再確認する。ベッドはとても清潔で、石鹸の香りがして。部屋は綺麗な壁紙で彩られていて。隣には、誰も居ないベッドが一つ。

 

 「あぁ……夢か」

 

 少なくとも、あの時のような危険は無い、と言うことはだいたい思い出した。けれども、結局記憶は曖昧なままで。夢と現実が混じり合ったようなこの感覚が、私を取り巻いている。

 

 「って、ヤバい……!」

 

 そんな靄のような感覚が、いきなり吹き飛んでいく。同時に私は、自分が置かれた今の状況をはっきりと把握した。さっきのは、授業開始前の放送じゃないか。今頃、私以外の生徒たちは整然と並んだ椅子に整然と座っている頃だろう。私はベッドから跳ね起きて、近くにあった着替えを引っ掴んだ。

 

 「おはようございます」

 

 「な……」

 

 スピーカーの物とはまた別の、やさしい声。見るといつの間に現れたのか、一人の少女がベッドに腰掛けて微笑んでいる。

 

 「……てっきり、もう教室へ行ったのかと」

 

 「まさか」

 

 彼女は、呉織あぎりと言った。私と一緒にこの部屋で暮らしている生徒の一人で、自称日本人。こんな穏やかに微笑んでいる彼女も、かつては将校相手に情婦をやっていたらしい。

 

 「お前も遅刻だぞ、いいのか」

 

 「別に。退屈なだけですから」

 

 そう言って、彼女はわざとらしくあくびをしてみせる。

 

 

 

 

 

 

 ここへやって来て、もう二ヶ月が経つ。

 

 天使たちのゆりかご。

 

 とにかく、私達が暮らしているこの施設はそんな名前だった。窓から見える正門には誇らしげにその文字が掲げられている。ここは私達みたいな戦災孤児相手に教育を施すために作られた、らしい。曰く「正しい教育が平和な世界を作る」んだそうだ。教室のスローガンにもそう書かれているし。だから私達は、毎朝九時から昼食を挟んで午後の二時くらいまで、彼らの言う「正しい教育」とやらを受けている。

 

 国語、算数、社会。

 

 あと道徳。

 

 正直言って、彼らの言う正しい教育なんてものが私にはこれっぽっちも理解ができなかったけど、三度の食事に寝床までついてくる快適さは手放し難く、なんだかんだで私はここに居着いていた。

 

 そして何より。

 

 「だから、今日は休んじゃいましょう」

 

 「もう何回目だよ、いい加減怪しまれるぞ」

 

 友達が出来たのが、少し嬉しかったのだ。

 

 「まぁまぁ、適当に具合が悪いって言えば大丈夫ですから」

 

 「悪いやつだな、お前って……」

 

 あぎりは少し不思議な奴だ。何処で教わったのか、いろんなことを知っていた。だから私は、そんな彼女の話を聞くのが好きだった。

 

 「よく言われますよ」

 

 そう言いながら、彼女は自分のベッドから立ち上がって私の隣に腰掛けた。青紫の髪が、ふわりと舞う。彼女の横顔が、とても近い。

 

 「それよりも、せっかくサボるんですから」

 

 細長い指が、私の体に回される。

 

 「楽しいこと、しましょう?」

 

 そして、彼女は私にキスをした。

 

 天使のゆりかご。

 

ある意味に限って言えば、確かにその名前は正確なのかもしれない。問題は、はたして私達が天使と呼ばれるに値するかどうかだが。

 

 「んー……」

 

 「……ん、う」

 

 きっとその資格は無いんだろうな。唇を重ねながら、そんなことを考えるけど。その後にやって来る快楽の前には、どうでもいいことだった。彼女の手が、私の服を捲り上げる。

 

 「ふぁっ、ん」

 

 その下の体を、細い指が這い回る。私のなだらかな体を。初潮も迎えていない、未熟な体を。彼女は無言で、丁寧に愛撫する。

 

 「や、ぁっ」

 

 私達は時々、授業をサボってこんな事をやっていた。友達同士としては、いささか踏み込みすぎた行為かもしれない。だけど私達は、これ以外に他人と心を通わせる術を知らなかったから。

 

 「はぅ、ん、あ」

 

 そこに言葉はいらなかった。彼女の所作一つ一つから伝わってくるあったかさ。無意識に反応する私の神経。汗や唾液のほのかな匂い。この瞬間、私は彼女と一つだった。

 

 ずっと続けばいいのに。

 

 終わらなければいいのに。

 

 いつもそう思っているけど、夢のような時間と言うのあっけないほど簡単に終わってしまうのが世の常だ。

 

 しかも特に今回は、最悪の形でそれを迎える羽目になるなんて。

 

 

 

 

 

 

 

 

あぎりと私は今、二人並んで職員室で説教を受けていた。目の前では、若い女教師が顔を真赤にして何やら捲し立てている。よく見ると少し涙目だ。

 

 いや、彼女だけじゃない。この部屋にいる全員が沈痛な面持ちで私達を見つめている。事の発端は、教室に来ない私達を心配した女教師が無遠慮に扉を開けた事だった。何しに来たと私は思わず叫びかけたけど、それよりも先に私達の行為を目撃した女教師の方が叫び声をあげたのだった。そして、現在へ至ると言うわけだ。

 

 私は一刻も早くこの場所から逃げ出してしまいたかった。一体なんなんだ、こいつらは。セックスの真似事一つに、なんでこんなに怯え、騒ぎ、狼狽えるのか。なんで私達に、憐憫の眼差しを向けるんだ。

 

 得体の知れない気持ち悪さが、私達を取り巻いている。私達は私達のやり方で、心を通わせ合っていただけなのに。それが、そんなにいけないことなのか。

 

 「もう、そんなことしなくてもいいのよ」

 

 わからない。

 

 「かわいそうに」

 

 わからない。

 

 「まだ、忘れることができないのね」

 

 うるさいな。

 

 私は思わず、彼女の涙が伝う頬を思い切り殴りつけたい衝動に駆られたけど。黙ってまっすぐ立ち尽くすあぎりを見ていると、そんな気分も消えていった。

 

 そして、その日の夜。私はここに来て初めて、一人で就寝時間を迎えることになった。要するに、私達は引き裂かれたというわけだ。いつものようにベッドに横になって、壁の方を向く。だけど、いつも背中に感じている彼女の気配が今日は消え失せている。寝息も、声も、体温も。何も、感じない。彼女の言葉の代わりに、私の頭の中では教師たちの言葉が跳ね回る。

 

 「もうここは平和になのよ。」

 

 「あんなことする必要はもうないの。」

 

 「戦争は、終わったのよ。」

 

 「まだ忘れられないのね」

 

 「かわいそうに。」

 

 「かわいそうに。」

 

 「かわいそうに。」

 

 黙れ、クソばばぁ。

 

 お前たちの勝手で憐れむな。

 

 私の人生を勝手に憐れむな。

 

 私の何がわかるって言うんだ。

 

 あぎりの何がわかるって言うんだ。

 

 反吐が出る。虫唾が走る。腸が煮えくり返る。

 

 お陰で体温が上がって、なかなか寝付けない。

 

 「……くそっ」

 

 一日三食、それに寝床があればなんでもいいと思っていたけれど。私は今日初めて、この施設に蔓延している異常性に気が付いた。

 

 この空気は、いったい何だ。私達を包み込む、真綿で首を締めるようなこの息苦しさは。そして、なぜ誰もそれに疑問を抱かないのか。あいつらの言葉は、どうしてこうも私を苛立たせるのか。

 

 それもわからない。

 

 わからないから、気持ちが悪い。

 

 「あぎり……」

 

 彼女は今、何をしているんだろう。

 

 何を思っているんだろう。

 

 いつもみたいに、やはり笑っているんだろうか。

 

 笑って、いられるんだろうか。

 

 「……あれ」

 

 そこまで考えた時、私はふとあることに気が付いた。あいつの他の表情を見たことがない。記憶の中の彼女の顔は、いつも笑顔で塗りつぶされている。

 

 私と話す時。

 

 朝起きた時。

 

 そして昼間の職員室でさえ。

 

 彼女の口角は、いつも僅かに上がっていた。なぜだろう。わからない。

 

 「わからない、ばかりだ……」

 

 押し寄せる「わからない」に、いい加減私の頭も疲れたらしい。瞼が重くなってきた。私は再び布団に入り直し、ベッドに深く身を沈める。明日になれば、あぎりに会えるだろうか。

 

 「……会い、たいな」

 

 今日は、わからないことばかりだ。だけど一つだけ。ひとつだけ、私にはわかる。

 

 きっと今も、彼女は笑っているってことだ。

 

 

 

 

 

 

 それからと言うもの。

 

 結論から言うと、私とあぎりが顔を合わせる事は叶わなかった。盗み聞きした話だと、どうやら私達は厳重に監視される事になったらしい。つまり、問題児ってわけだ。

 

 そして更に、私達は授業に加えてカウンセリングまで受ける羽目になった。

 

 私はこの時間が大嫌いだ。なよなよした白人の男が、私の話を聞こうとする。今日は何をしたか、何を感じたか、何を考えたかを教えてくれという。そんなのまっぴらごめんだったけど、黙っていると部屋に帰れない上に変な薬まで飲まされるので私は大人しく従っている。すると快方に向かってる、なんて事をほざくから面白い。最初から何も悪くなんか無いのに。

 

 「あぎりに会わせて」

 

 私がそう言うと、彼らはいつも困ったように笑った。

 

 曰く、適切な距離感がとれるまで。

 

 曰く、二人が落ち着いた心になるまで。

 

 曰く、私達がまともになるまで。

 

 それまでは、無理らしい。そしてそれがいつになるのかは、誰も教えてくれない。

 

 「……っはぁ」

 

カウンセリングを終えて、私はいつものようにベッドに寝転がる。最近はこうして横になって、夕暮れの日差しに包まれながら色々思索を巡らせるのが日課になっていた。

 

 授業のこと。

 

 周りの生徒達のこと。

 

 心に生まれた違和感のこと。

 

 そして、あぎりのこと。

 

 巡らせたところで、気の利いた答えなんて物は出ないけど。

 

 「……これから、どうなるのかな」

 

 それもやっぱり、わからない。

 

 そもそも、私の頭は難しいことを考えるのに向いていないらしい。

 

 そう言えば、自分で物を考える時間がこんなにも多い状況って言うのは生まれて初めてかもしれない。思い返してみれば、大抵私に命令を下す大人がどこかしらにいたような気がする。今はなんだかズレた連中が私達を管理してはいるが、その締め付けは以前と比べるまでもない。

 

 これから、どうすれば良いんだろう。

 

 このままこの場所で黙っていれば、生活はすべて保証されて時が経てば勤め先もここの連中が都合をつけてくれるだろう。今のところ、私の未来の保証は一応されているというわけだ。

 

 だけど、どういう訳か私の心はそれでも晴れない。

 

 言い表しようのない不安と疑問が、どこかに引っかかっている。教師たちの言うとおり、たしかに戦争は終わりこの国は平和になった。けれど、私の目に写る世界は相変わらず昔のままの色を保っている。

 

 少なくとも私の中では、上官の上で腰を振りAKを握りしめていた頃と状況は何も変わっていなかった。唯一、あぎりとの時間を除いては。

 

 「あぎり……」

 

 ベッドから体を起こし、窓の外を眺める。この部屋からは施設全体を見渡すことが出来た。私の視界のどこかに、あぎりがいる。彼女も今一人でベッドの上にいるのだろうか。そしてそこで、何を思っているのだろうか。

 

 状況は変わらず、ただ時間だけが過ぎていく。

 

 「……ん?」

 

 そして、太陽が沈んで数時間が経った頃。物音一つなかった部屋に、ドアの蝶番がキィと鳴く音が微かに響いたのだった。音のした方に視線を向けると、あぎりが立っている。

 

 「あ……あぎり……?」

 

 「ただいま」

 

 彼女がそう言い終わる前に、私はベッドから飛び出して彼女に抱きついた。ふふ、と彼女が笑う。

 

 あぎりの声だ。

 

 あぎりの体だ。

 

 あぎりの熱だ。

 

 私は彼女を全身で感じた。紛れもなくそこにいる彼女を、鼻で、肌で、耳で感じた。闇に満たされた部屋の中で、私は手探りで彼女を確かめる。顔をあげて彼女の顔を見ると、やはりいつもの笑顔が張り付いているのが見て取れた。

 

 なぜだろう。彼女に再び触れて、とてもうれしいはずなのに。

 

 その笑顔を見ていると、とても悲しくなってくる。

 

 なぜだろう。なぜ、なんだろう。言い表しようのない何かが、私の腹で頭で渦巻いて、その出口を探している。

 

 「ソーニャ?」

 

 体の内側から抑えつけられた私の顔を、彼女の手が優しく撫でていった。そして彼女がいつものように、私に口づけをしようとする。

 

 「……やめてくれっ」

 

 「……ソーニャ?どうしたんですか」

 

 「今は、なんだか……そう言う気分じゃ……」

 

 いつもならきっと、受け入れていたはずだ。だけど今の私には、どうしても耐えられなかった。

 

 「……本当にどうしたんです?」

 

 不思議そうに、彼女が私に問いかける。相変わらず、ニコニコ笑いながら。

 

 いつもと変わらない。全く同じだ。口角の上がり方も、優しい声も。

 

 そして、その奥にある、笑っていない目も。何もかも同じだ。

 

 「あぎり……」

 

 窓から部屋の中に流れ込んでくる闇の中で、彼女の顔がやけにはっきりと浮かび上がっている。私は恐ろしくなった。 

 

 今、自分が両腕で抱きしめているモノは、一体何だ?さっきまでしっかりとあったはずの彼女の体温や感触は、今やその形を失っていた。ただ冷たい、闇……いや、闇ですら無い。私が目の当たりにしているのは、底なしの虚無だ。私の中に、そしてあぎりの中に、際限なく広がり続け、いつでも私達を飲み込もうとしている、そんな虚無だった。

 

 そしてとうとう、私は自分の形すら見失いはじめた。ここにあるはずの私の体が輪郭を失って、世界へ溶け出していく。

 

 空虚が足元に忍び寄り、私の中にたくさんの言葉が流れ込んでくる。

 

 「殺せ。」

 

 「戦争は終わりました。」

 

 「奴らは悪魔だ。」

 

 「今日は平和について学びましょう。」

 

 「撃て。」

 

 「世界のために。」

 

 「殺せ。」

 

 「殺せ。」

 

 「殺せ。」

 

 無防備になった私の心を、たくさんの過去が、たくさんの大人が、たくさんの命が、貪ろうと殺到する。

 

 「ソーニャ?」

 

 「あ……あぁ……」

 

 「ソーニャ、ソーニャ」

 

 「やめ……」

 

 「ソーニャ!」

 

 虚無に飲まれかけた私を、彼女の声が引っ張り上げた。しかし私の顔を覗き込む彼女の顔は、相変わらず笑ったままだ。

 

 「……大丈夫、ですか?」

 

 「あ、うん……」

 

 少しだけ落ち着きを取り戻して、周囲を見回した。二つのベッド。木製の床。いつもの生活空間が私を取り囲んでいる。さっきまで私を飲み込もうとしていた虚無達の影は綺麗さっぱり、消え失せている。

 

 その変わり身の素早さが、逆に不気味だった。

 

 奴らはどこへ消えた?どこに潜んでいるんだ?

 

 いつ、また……現れるんだ。

 

 「……あぎり!来い!」

 

 「えっ、そ、ソーニャ」

 

 気がつくと、私は彼女の手をとって走り出していた。ぴかぴかに磨かれた廊下を、二人で駆け抜ける。一歩一歩踏み出すたびに、私達を逃すまいとこの建物に染み付いた言葉が溢れ、囁く。

 

 「戦争は終わりました。」

 

 「この国は平和になりました。」

 

 「まだ忘れられないんですか。」

 

 「忘れなさい。」

 

 「忘れろ。」

 

 「忘れろ。」

 

 「受け入れろ。」

 

 黙れ!

 

 黙れ、黙れ、黙れ!

 

 お前らなんかに、私の心やあぎりを渡してたまるものか!

 

 幸いにも言葉たちは、私の速度に追いつけずに闇へと霧散していくようだった。

 

 そのままの速度を保って、校庭に躍り出る。私達の姿を見つけた宿直の教師が何か叫びながら追いかけてくるが、これもまた振り切って、とうとう門の外に私とあぎりは飛び出した。後ろを振り返ると、『ゆりかご』がわざとらしい笑顔を湛えたまま夜の中へゆっくり沈んでいくように見える。私は体力の続く限り、走って、走って、走り続けた。

 

 そうして、いつしか私達は街全体が見下ろせるような場所へとたどり着いていた。夜の闇の中、街は小さな明かりによってその形を保っている。その中のどれか一つが、私達のいた場所だ。遠くから見ると、なんてちっぽけなんだろう。

 

 「ソーニャ……?」

 

 そんな街を睨みつける私に、彼女がおずおずと声をかけてくる。

 

 「……あぎり」

 

 「いきなり……どうしてこんなところまで」

 

 「……もう、あそこにはいられない。私は……もう、無理だ……!」

 

 とにかく私はあの場所から離れてしまいたかった。もう、耐えられなかったのだ。あそこにいると、きっといつか押しつぶされてしまう。きっといつか、大人たちの言葉が私達を食い尽くす。それが、今の私には恐ろしくてたまらない。

 

 そして何より、そんな呪われた言葉達にあぎりが奪われ、犯され、食い尽くされるのが我慢ならなかった。

 

 「これはただのわがままかも知れない。けど……」

 

 「……ごめんなさい、何を言っているのかさっぱり、あっ」

 

 私は、なおも笑顔を湛えたままの彼女を黙って抱きしめた。今度は、どこにも邪魔者はいない。私はもう一度、彼女の形を、そして私を確かめた。

 

 「……もういい、いいんだ。もう笑わなくたって……殴られたり、怒鳴られたり、しないんだ」

 

 自分が何を求めているのか、何を望んでいるのか、それが少しだけ見えた気がする。

 

 

 

 私が欲しかったのは、「わたし」だったんだ。 

 

 

 

 喜びや、悲しみや。

 

 「あぎり……」

 

 愛や、嫉妬や、苦痛や、孤独や、不安も。

 

 「だから、あぎり……」

 

 憎悪や、殺意や、絶望でさえ。

 

 「私に……」

 

 全てを、自分の言葉で伝えられる「わたし」が。

 

 「私に、泣き叫ぶお前を、怒り狂うお前を、見せてくれないか」

 

 そして、それを受け止めてくれる誰かが、欲しかった。

 

 私のそんな思いをのせた言葉を、彼女は一体どう受け取ったのか。少しの沈黙が、私達に優しく覆いかぶさる。そしてしばらくしてから、彼女の体が小さく震え始め、その体温が少しずつ上昇していった。

 

 「……不思議な気分です」

 

 その言葉と同時に、私の肩に温かい雫が落ちたのがわかった。

 

 「……いままでずっと、色んな人とこうしてきたはずなのに……たくさんの人の肌に触れてきたはずなのに……」

 

 嗚咽を挟みながら、彼女はゆっくりと言葉を繋いでいった。私はその言葉を一つ一つ噛み締めながら、ただ黙って彼女を抱き続ける。

 

 「それなのに、どうしてでしょうね……こんなに、人の体を暖かく感じるの、初めてなんです」

 

 「……私も、だ」

 

 「……ごめんなさい。少しだけ……少しだけでいいんです。ひとつ、わがままを……聞いてくれますか?」

 

 もちろん、と私が言うと彼女はその先を言い切る前に、大きな声で堰を切ったように泣きじゃくり始めた。

 

 大粒の涙が、私の肩にぼたぼたと落ち続ける。同時に、私の目の前には不思議な光景が広がり始めた。

 

 森は深い緑に。夜明けを待つ空は群青色に。私や彼女の肌の色、髪の色、瞳の色も。

 

 彼女の涙が一粒、また一粒と降り注ぐ度に、全てが灰色だった世界があぎりの泣き声に共鳴して、だんだんと色鮮やかに変化していく。これが世界の、この星の色なのか。

 

 「あぎり……」

 

 彼女の中で燃える命や、私の中で渦巻く思考を感じることが出来る。

 

 もう一度、あぎりの体を強く抱きしめる。

 

 あぁ、彼女を、世界を、今全身で感じている。感じる事ができる。私の体は、喜びで満たされていった。

 

 「……すみません、みっとも、ないところを」

 

 「いや……いいんだ」

 

 白み始めた東の空を眺めながら静かに答える。あれから十分ほど泣き続けた彼女は、先程やっと落ち着きを取り戻していつもの笑顔を私に向ける。

 

 「……これから、どうなるんだろうな」

 

 「さぁ……でも、二人なら大丈夫ですよ。きっと」

 

 「……そう、だな」

 

 まだ、私達はからっぽだ。これから何を自分に詰め込みながら生きていくのか、それはわからない。だけど、「わたし」……いや。

 

 

 

 「わたしたち」、ならば。

 

 

 「あ……ほら、ソーニャ」

 

 「ん……」

 

 彼女が何かに気づいて、遠くの空へ指をさす。

 

 その先に目を向けた瞬間、黄金色の朝日が私達を包み込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                                          おわり。 

 

 

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