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二人と抜け駆け禁止の誓いをした後、自分は気配遮断を駆使してとある部屋の前まで来ていた。
(まずは情報の収集から)
流石に当人に訊く訳にはいくまい。よってマスターに訊くのはまず論外だ。簡単に答えてくれるなら今持ってこんな状況にはなっていない。
殺生院もまずありえないだろう。あの性格からして有益な情報が得られるなどとは思えないし、そもそも諸悪の根源はあの女だ。
マスターの逃走を手助けしたであろうロビンフッドも候補から外れるだろう。恐らくは事情を少なからず知っているだろうが、あのクソチョロランカーがそう簡単に口を割るとも思えないし、そもそも事情を知っているのならば私達を注視しているはず。無闇に刺激して自分限定デフォ特攻のイー・バウを受けるわけにもいかない。となると、訊くべき相手はこの部屋の主……
(レオナルド・ダ・ヴィンチ)
消去法だがこれ以上の相手はいないだろう。先程追い回されたとは言え、清姫さんが
現状これしか打てる手がないが、何も得られないよりはマシだろう。少しでも情報を集めて殺生院の自爆を後押しすると共に、その後の展開に備えなくては。
(収集というより整理に近くなりそうですが)
ここは気長に行くしかあるまい。なに、時間は私達の味方だ。
一旦逸る気持ちを抑え、謙虚な自分をイメージしてからチャイムを押すが、返答はなかった。少し待ってからドアを開くと空間が生まれる。
(不用心な)
しかし好都合だ。空き巣でしか手に入らない情報もある。部屋の主が戻る前に一通り漁ってみるとしよう。寝ている可能性も考え、足音を立てずに素早く部屋に侵入する。
ざっと見たところ、以前忍び込んだ時と比べ目立った差異はない。何に使うのかよくわからない機構や電子機器、怪文書と見紛う図面やメモなどがそこらじゅうに散見される。部屋の主からすれば一応片付けてあるつもりなのだろうが、部屋を占めている物量のおかげでどうにも散らかっている印象が強いのは相変わらずだ。
ちら、と眺めた進捗を確かめるに丁度いいデスクの上もそれは変わらない。見たところ今回の件に関係するものはなさそうに思えたが。
「?」
枕元に四角い銀色が。気になって近づくと小型の端末だとわかる。イヤホンが付いている当たり、何かの音声を聞くためのものだろう。それはわかるのだが、何故それが枕元などに置いてあるのか。
「……」
好奇心に負けてイヤホンを耳に差し込む。部屋の主がわざわざ枕元などにおいてまで聞くものとは何なのだろう。スリープ状態から復帰すると目の前の画面には音声ファイルが一つだけ。いっそ清々しいな、と堂々とした画面上のファイルを突くと音声が流れ始める。
「ッ!」
流れ始めた音声はイントロの存在しない、聞くものの準備を無視したかのような音声。
何かがきしむような音。何かがぶつかる音。粘着質な重い水音。男女の上ずった声と、荒い息遣い。
(男女のまぐわい……)
それはわかるし、それはいい。この音声が枕元においてあるのもいい。あの天才をこじらせた、ルネサンスがドン引くTS芸術家がこの音声ファイルを枕元で何に使っているかもどうでもいい。問題は、このまぐわっている男女が――
「殺生院と、マスター?」
平時の声とトーンが違うせいなのか、それとも認めたくなかっただけなのか。理解に少し時間がかかったが、これはマスターと殺生院キアラの音声だ。
何故とは言うまい。事前にわかっていたことだ。こういう事をしているというのはわかりきっていたことだ。それを踏まえて行動を起こすためにこの部屋に来たのだ。
だが、酷く気分が悪い。
マスターの名前を呼ぶ声、求める声のトーン、悦びに満ちた喘ぎ。それらがマスターの声に重なっているのが酷く気分が悪い。女の名前を呼び求める、マスターの上ずった声を塗りつぶすかのような、この女の嬌声が酷く癇に障る。
「……」
下腹部に伸びそうになった右手を押しとどめる。それは色々と後でいい。
それよりも、思わぬ成果が上がったことと、その成果を持ち帰る手段がないことを考えなくては。
直接持って帰りたいが、枕元に置いてあるものが消えたとなれば確実に事は発覚するだろう。ロックをしていなかったという不用心を考慮しても、いの一番に疑われるのは間違いなくアサシンである自分だ。何せ前科もある。知らぬ存ぜぬが通用するほど事は小さくも甘くもない。
データのみを抜き出すのが得策だが、空いた端末など自分は所持していないし、何よりこの小型端末にはどういうわけか端子が存在しない。恐らくは万が一に備えてわざわざ用意したものだろう。そこまでしてあるのだ。恐らくはネットを介することも無駄だろう。
となると、分解して抜き出したハードに直接繋いでデータを移すしかなさそうだ。しかも分解したことを悟られずに。だが、今すぐに行える手段ではない。用意とチャンスが必要だ。
……いや、そもそもデータを抜き出したところでどうすればいいのか。
無闇に誰かに公表できるものではないし、仮にしたところで疑いを向けられるのは間違いない。持ち帰ってあの二人に聞かせても火にガソリンを振りかけるだけだ。
ならば、ここは用意せずとも証拠は存在するということだけが唯一の成果、というのが落としどころか。そうとなればもうこの部屋に用はない。さっさと退出しなくては――
「ダ・ヴィンチ、ちゃん? いないんですか……?」
膝を少し曲げて作ったバネで跳び、天井に張り付く。
まさか気配を察せないとは。少し夢中になりすぎていたか。コツコツと室内に入り込んできた足音と交差するように、天井に張り付いたまま出口に向かう。
(マシュさん?)
相談事だろうか。随分と思い詰めた表情をしている。
少し気にかかるが、今はいい。まずはこの部屋からの脱出が先決だ。
「今日の夕食なんだろうね?」
「ああ、カレーと肉じゃがと豚汁だそうだ」
「担当はマルタさんかぁ」
あまりにわかりやすい献立に即答してしまう。だが、この予想は外れてないだろう。
まぁ、今日はいつにもまして空腹だ。起きて1時間も経っていないが腹の虫が響いて仕方ない。マルタさんのことだから量にも余裕があるだろう。今日は肉を多めに入れてもらってガッツリ食べることにしよう。
「で、どうだったマスター」
「あ、うん……」
フェルグスのどう、というのが何かはわかる。わかるのだが、ここで言えというのは少し困る。
相談に乗ってもらったフェルグスには語る義理があるし、本当は聞いてもらいたいくらいだけど、ただ、まだ恥ずかしい。まして昨夜はおろか数時間前にもセックスしてたなんて、言えるわけがない。返答を濁していると背中をバンバン叩かれる。
「はっはっは。まぁ、そんなもんだろうさ」
「ああ、まぁ、うん」
「なあに、ならいいさ。また何かあったら相談にのるぞ」
ありがと、と。フェルグスに返して廊下を歩く。
彼には世話になりっぱなしだ。何時か借りを返せるといいんだけど。
あともう少しで食堂に着くのに腹の虫は落ち着きがない。
と、左から黒い影が。
「マスターか」
「あ、セイバー……とジャンヌ」
「おまけみたいに言ってんじゃないわよ」
「んなつもりないって」
そのつもりはなかったけど、後からぬっと現れたんだから仕方ない。
しかし、この二人はホントに仲がいい。自分が見かける限りいつも一緒にいる気がする。
「今日はカレーと肉じゃがと豚汁だってさ」
「コックは誰だ?」
「多分マルタさん」
「あの凄女か」
献立について話ながら進むと、とうとうカレーの匂いが漂ってきた。それとほぼ同じくして、繁華街の喧騒とも思われるような音が響いてくる。鑑みるに、今日も食堂に飢えた野獣が跳梁しているのは明白だった。かくいう自分も腹の虫が暴れて仕方ない。夕食は逃げはしないだろうが、胃袋を人質に取られているにも等しい現状で、逸るなというのが無理だ。
「よし、行こうぜフェルグス!」
「応とも!」
「子供か」
ジャンヌにガキ扱いされたが気にしない。いくら夕食の量に余裕があるとは言え限りはあるのだ。加えて時が経てば熱も冷める。ここは拙速こそが求められるのだ。せいぜい余裕ぶったツケとして冷めた余り物を涙目で食べるがいい!
「担当はあの聖女なんでしょ? だったら、朝食にも出るくらい作ってあるに決まってるじゃない」
がっついちゃってはしたない、と嘆息をつくジャンヌ・オルタ。
確かにその通りだ。遅れたとしてもせいぜい献立の肉が若干少なくなる程度だろう。
だが、そんなことよりもこの違和感はなんだ。先程のマスターはいつもと何かが違った。
「アンタも急いだほうがいいんじゃないの?」
「構わん」
「あれ? アンタわかりやすい味が好みじゃなかったっけ?」
何を見落としたのか。こういう時にこそ直感は働くものだろうに。
顎に指を当て考える。さて、いつもと何が違っていたのか。
「ちょっと、さっきからなんなのよ」
「何がだ」
「何がじゃないわよ。アンタさっきから何考えこんでんの?」
それがわかるなら思考の邪魔をするなと言いたかったが、言ってもこの突撃女には通じまい。
そもそも何故この女はそれを感じないのか。時折この考え無しが羨ましく感じる。やはりあの俗説は――
「それだ」
「は?」
「胸だ」
「……ムネ?」
これだ、とジャンヌ・オルタの胸を人差し指で弾く。
「ひっ、ちょっと何すんのよ!」
「何故おまえは気づかない。それとも気づいてそうしているのか?」
「わけわかんないこと言ってんじゃないわよ! それよりっ!」
「先程マスターは、おまえの胸を一顧だにせず顔を見た」
「え……?」
この分だと気づいていなかったか。
それとも今までまず視線が胸にいっていることにすら気づいていなかったのか。
「……そういえば、そう、だったかしら。えっ、でもなんで?」
「知らん。だが、偶然だったとは思えん」
「……」
「今言うことでもなかったか。夕食だ」
「ちょっ……! そういう空気じゃないでしょ!?」
気になりはしたが、ここで話す内容でもない。今は夕食を平らげなくては。
あの凄女の料理は肉より野菜の方がでかいという点が気に入らないが、味はそこまで悪くない。少なくとも、何を伝えたいのかわかりにくいあの気障な料理よりは食いでがある。
後ろでぎゃあぎゃあ騒ぎながらついてくるジャンヌ・オルタに振り返らずにカレーを取りに向かった。
涙は枯れることなく、今もなお流れ続けている。
枕は既に冷たく湿っていて、ぐじゃり、という音と感触がとても気持ち悪い。
心が乾いていくのがわかる。ひび割れていくのがわかる。
この辛く悲しい気持ちを吐き出したいから、涙は今もなお止まらないんだろう。いつになったら止まるのか。いつになったらこの気持ちは消えるのか。いつになったら――
(止まるわけない)
聞かなければよかった。知らなければよかった。
もしいつか解ることだとしても、逃れられない現実だとしても。
今でなくてよかったのに。こんな形で知りたくなかったのに。
ダ・ヴィンチちゃんの部屋にあった小型端末の中の音声ファイル。それは先輩とキアラさんのセックスの様子を録音したものだった。音声自体は短い時間ながらも、自分の心が乾いていくには十分すぎるほど濃密で長い時間だった。
嘘であってほしかった。何かの間違いで欲しかった。だけど、流れる声のトーンは間違いなく本気で、真実で。
「うぅっ、ああっ」
嗚咽が漏れる。
あれほど自室に戻って声をあげて泣いたのに。喉が痛くなるくらい泣いたのに。それでもまだ飽き足りないのか声は漏れる。きっと涙を流すだけではこの気持ちは消えないんだろう。声も上げないとだめなんだろう。それこそ、心から、この感情と一緒に絞り出すように。
「せん、ぱいっ……なんでっ……」
いつも隣りにいたのに。一番長くいたのに。
他の誰よりも、キアラさんよりも。
私が最初に先輩の隣りにいたのに。
先輩が離れていく。彩りが霞んでいく。
「マシュー? いるー?」
ハッと冷たく湿った枕から顔を上げる。この声は。
「おーい?」
「せん、ぱい?」
「あ、いたいた」
ベッドから床に足を下ろして、ドアに向かう。
この先に先輩が、離れていってしまう先輩が。
「っ……」
会いたい。顔を見たい。声を聞きたい。
でも、できない。こんな泣きはらした顔じゃ、こんな気持ちじゃ――
「どうしたんですか、先輩」
「いや、食堂で見なかったからさ。なんか声かすれてない? 調子悪いとか?」
「……ええ、少し。でも大丈夫です。休めば、明日には」
明日にはどうなるというのか。
あれから数時間以上泣き続けていたのに。今もなお涙が止まらないのに。
「え、ナイチンゲールさん呼ぼうか?」
「いえ……これくらいなら平気です。ご心配をかけてすみません」
「本当に大丈夫?」
「はい」
んー、と先輩の唸る声。
「わかった。でも、絶対無理はしないでね」
「はい。先輩も身体に気をつけてください」
「ん。じゃあ行くね」
(どこに?)
そういう意味で言ったわけではないはずのに、引っかかる。
もしかしてこの後、先輩は。
先輩の気配が消えていく。ドアから離れていくのが解る。
私から、離れていくのがわかる。
涙は止まっていた。でも、ひび割れた心からは、何かが――
「マシュさんがですか?」
「うん。体調崩しちゃったみたい」
昼間に見た時は元気だったはずなのだが。
「ナイチンゲールさんを呼ぼうとしてもいいって言われちゃってさ。なんか隠されてる感じがして少し不安だよ」
「気になりますわね。無理にでも診てもらったほうが良かったのかもしれません」
「キアラさんもやっぱり心配?」
「ええ」
マシュ・キリエライト。可愛らしくも可憐な少女。
彼女は見ていて本当に飽きない。彼の隣を歩く姿を見ているとどうにも心が暖かくなる。それを少しからかうだけで顔を真っ赤にして慌てる姿はなんとも微笑ましかった。召喚直後は彼と彼女を医務室に招いて手ほどきしてみたいと常々思っていたくらいだ。それもフローレンス・ナイチンゲールというトンデモ看護師のおかげで諦めざるを得なくなったのだが。
「立香さん程ではありませんけども」
「まぁ、可愛い後輩だし」
「それだけですか?」
「んー……」
この質問は少し露骨過ぎただろうか。
「自惚れじゃなければ、好意を向けられてるかなーとは思うんだけどさ。でも、マシュは外を知らないし、それを承知で応えるってのは、何か違うと思うんだ」
少し意外だ。
まったく気づいていないわけではなく、単純に奥手なだけだと思っていたのだが。まさか、彼にこんな考えがあったとは。
「それに、今は、ほら。キアラさんが俺の、こ、恋人なんだから」
上がる口角を全力で押しとどめる。
こういうのはやめないで欲しいけどやめて欲しい。せめて何か予兆がないと心臓とショーツに悪い。今日はもう眠るだけだ。当然自戒を込めているわけがない。これ以上はショーツを交換しなくてはいけなくなってしまう。
……しかし、自惚れというにはまた少しズレているような。あえて言うのならば、好意の有無ではなくその判断ではないだろうか。彼女の背景がどうであれ、彼女から好意を向けられているのであれば、是非はともかくまずは答えてあげるべきだったろうに。彼女は彼以上に心中穏やかではなかっただろう。
(これでは彼女があまりにも気の毒)
思っておきながら心の中で苦笑する。彼女からすれば既にあった土壌を、横から自分にさらわれたようなものだ。そして何より、そういった男女の縺れと破滅を眺めるのは自分の好むところであったというのに。彼の隣りにいる余裕のせいか、彼女が自分の好みのせいか。まさか気遣うなどと以前の自分からは考えられない。我が事ながらここ最近の心境の変化は予想がつかない。それもこれも全て――
「え、いや、その、黙られちゃうと……あ、あれ……ちが、った?」
「まさか。わたくしをあんなにしておいて今更何を言うのです」
「あ、うん!」
捨てられた仔犬のような顔から一転して笑顔になる彼が微笑ましい。
「では、恋人の立香さんに質問です」
「えっ、はい」
「わたくしの、何処に惹かれたのですか?」
少し意地悪な気もするけど、もう少しいじめても罰は当たるまい。何せ今の笑顔で愛液はショーツを完全に貫通している。もはや交換を避けるどころか、眠る前に耽らなくてはならなさそうだ。昼間余裕ぶって彼に釘を差した手前、ここで誘う訳にはいかない。
「うーん……」
「なっ、何故言い淀むのです?」
予想外な反応にアマゾン川が瞬時に砂漠と化してしまった。ここは慌てふためいたり、照れながらも『一目惚れ』『笑顔』などという言葉が出てきたりするものではないのだろうか。最悪、躰に誘われたからでもいいのだけれど。
「いやその、複雑というか、整理がついていないというか」
「聞きましょう」
「……言っても怒らないでくれる?」
「誓いましょう」
だから早く潤いを。
「惹かれた……と言うか、あえて発端を挙げるなら、笑顔になるのかな」
「まあ」
満足できる回答に安堵する。
だが、しかし。あえて、とは?
「ほら、キアラさん清姫と口げんかみたいなのしてた時あったでしょ」
「清姫さんとですか?」
「うん。オレは途中から来たから険悪な空気しかわからなかったけどさ。キアラさんの頬を触った時って言えばわかるかな」
「ああ、あの菩薩掌ですか」
「菩薩掌って」
確かあれは、召喚されて少し経ってからのことだ。
少なくともあの頃に、思い出せる範囲内で彼が惹かれる笑顔など……まして他人との口論で。
しかもあの菩薩掌の件となれば、自分が不快感を隠せなかった時のことだ。
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「マスターが貴女のような毒婦に靡くことなどありえません。それもわからずに滑稽な」
「貴女が言うと重みがありますわね。清姫さん?」
「私は貴女とは違います。年増は自室に篭って乾いた躰でも慰さめていなさい」
「そのままお返しいたしましょう。所詮は虚構の地に咲く徒花。不徳の蜜を湛えたところで一体何の意味がありましょうや」
「ちょっとちょっと! 何してんの二人共!」
「マスターからも何か言ってやってくださいまし!」
「あらマスター。今日も多忙そうわぷっ」
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両頬を挟まれぐにぐに顔をいじられたのだ。
当時、彼から触れてくるなどなかったものだからかなり驚いた記憶がある。
だがそれ以上に、彼のなんとも言えない表情で自分を覗き込む瞳に、強い不快感を感じたのを覚えている。その不快感に自分は苛立ちを隠せず、彼の手を解き、適当にあしらってしまった。
「どっちに向けていたかわからなかったけど、キアラさん笑ってたでしょ」
「ええと、その、あまり覚えが……」
バッチリ覚えている。
あれは笑みというより嘲笑のそれだ。笑顔ではなく人をバカにした顔だ。
あれを見て惹かれたとは、彼の好みとは一体……
「あれ見て凄い悲しくなったんだよ。なんでこんなに綺麗なのにあんな顔するのかって」
「え」
「だからつい手が伸びちゃってさ、やめさせようとしたんだよ。……キアラさんは凄い怒ってたけど」
「――――」
「発端はそれかな。それからキアラさんが気になって、知りたくなって、今に至る、かな?」
恥ずかしいということだけはわかる。とても複雑だけど今とても恥ずかしいということだけはわかる。
この感情はどうすればいいのか。またもこの顔に集い始めた熱はどうすればいいのか。
どうしてこう、彼はいつも――
「あの、キアラさん? やっぱその、怒った?」
「いえ。少しムードに欠けていたかとは思いましたが」
「ご、ごめん。気が利かなくて、ごめん」
嬉しくないわけではないが、少し複雑すぎる。
「……いえ、ありがとうございます。立香さんは変わっていますのね」
「ホントごめん。今でもなんか整理がついてなくて。す、好きなのは確かだよ!?」
「存じています。……存じていますとも。まったく、他の皆様も大変ですわね」
「他の……」
途端、彼が固まってしまった。
あれ、ショックを受けた?
「あの、立香さん?」
他、と言われると、どうなのだろう?
比べるというのもおかしい話だけど、キアラさんは皆と同じなのだろうか?
同じならば、何故ここまで彼女に心惹かれているのか?
先程の言葉に嘘はない。
整理はついていないが、嘘を言ったつもりはない。でも何か見逃しているような。
あのキアラさんの笑顔を見た時に悲しく感じたのは事実。
だけど女性の頬にいきなり触れるなんて、そんなのは失礼極まりなく。
いや、そんなことはわかっている。だけどこんな綺麗な人があんな顔をするのは……
……そもそもいつ綺麗だと思い始めたんだっけ?
それは勿論――
「違うや。撤回する」
「えっ」
「一目惚れだ。始めて見た時から綺麗だって一目惚れしたんだ。だからあんな表情をするキアラさんを見て悲しいと感じたんだ。あの時のオレはうまくそれを伝えられなくて、両頬に触れて無理やりやめさせようとしたんだ。それでキアラさんを怒らせてしまったから、謝りたくて、本当に伝えたいことをきちんと伝えたくて、それで、もっとキアラさんを――」
と、またペラペラと整理せずに自分は。これは心の中でまとめて口にすることなのに。
ふと、キアラさんの方を見ると、顔どころか背までむけられていた。
(やばっ)
まるで成長していない!
今まさに言った通り、思ったことをそのままやってしまったから怒らせてしまったと言うのに!
せっかく恋人になれたのに冗談じゃない! こんなバカな自爆で終わってしまうなんて……!
「ごめん! ホントごめん! またオレは同じことを……!」
こっちを振り向いてもらおうにも顔を手で隠されて首を振られるだけ。
まずい、これはかなり怒っている……!
「お詫びになんでもする! だからキアラさん……」
「なんでも、と仰いましたか」
「え?」
キアラさんが振り向いてくれた。謝罪が通じてくれたのかと安堵したが、微妙に涙目になっているのを見るに一つの油断も許されない。
「では、許します。貸しについては、後ほど」
「ほ、本当?」
「ええ。……わたくしも少々大人気ありませんでした」
心の底から安堵する。今後は特に気をつけなくては。
今自分が渡っているものが蜘蛛の糸だということを忘れてはいけない。
「……あら、もうこんな時間ですか」
「え、ああ」
キアラさんと一緒にいると時間が経つのが早く感じる。時刻は既に0時近くだ。
残念に感じるが、それ以上に時間制限を助け舟に感じてしまう自分がどうも情けない。
「では明日、同じ時間に。今日はおやすみなさいませ」
「う、うん。おやすみキアラさん」
今日はおやすみだ。明日は、違う。
動揺を悟られないように部屋から退出する。
毛布を胸までかけてシーツの上をもぞもぞ動く。
この眠る前に枕の丁度いい位置を手探りするのは面倒だが、もう眠れるという約束された安心感が心地よい。やはりベッドの上で眠れるというのは至福だ。レイシフト先の野宿とは比べ物にならない。
丁度いい位置を見つけ、一息つく。
(明日はマシュの様子を見ないとな)
ドア越しで聞き取りづらかったが、声がかすれていたのは間違いなかった。
喉をやってしまったのならば風邪は既に進行している。一晩寝た程度ではそう簡単に治らないだろう。
場合によってはキアラさんの言う通り、無理やりにでもナイチンゲールさんに診せないと……
……意識が沈んでいく。
暗く、優しい感覚に包まれていく――
「――ぱい、先輩」
微かな声が自分を闇から引き戻す。
せっかく気持ちよく眠れると思ったのに何だというのか。
もう0時を過ぎているのに、先輩って――
「え、マシュ?」
「はい、私です。夜分遅くにすみません」
意識が一気に覚醒する。眠気は驚きと焦燥の前に立ち消えた。
マシュがこんな時間に訪れるなんて普通じゃない。確実に何かがあった。
サイドランプだけつけて足元を確認した後、足早にドアまで移動し、彼女を迎え入れる。
「どうした? 何かあった?」
「ええ、体調が」
「っ、わかった。一緒に医務室に行こう!」
「いえ、ここがいいです」
え、と疑問を上げるよりも早く胴体に衝撃が走る。
「ぐっ!? っと、ととっ、ちょ、ちょっと!?」
不意をつかれた。
何かが胴体を突き上げるように押している。完全に体勢は崩れ、地面にうまく足をつくことが出来ず、たたらを踏むばかり。状況をなんとか確認してみると、マシュが自分の胴体を抱き、タックルのように押しているのがわかった。踏ん張ろうにも未だに足は地面をすべるばかりで、どんどん後ろに押されてしまう。
どすん、と尻もちをつく。衝撃に違和感があると思ったら、着地点はベッドの上だった。
(え? なに? なんでマシュが? 敵? 戦闘?)
混乱が治まらない。
だが、体勢を立て直さないと。まずは自分に馬乗りになっている彼女をどかそうと手を伸ばそうとすると、それよりも早く彼女の指が自分の両肩を強く押す。がしゃん、と音が鳴るほどの衝撃。そのままのしかかるように両肩に重心をかけられ、上半身は完全にベッドに固定されてしまった。
「っ! マシュ、な――」
何を、と続けたかったが、近づけられた顔の前に打ち消されてしまった。
今、彼女の顔がすぐ目の前にある。それこそ、お互いの鼻と鼻があと少しでくっつきそうな距離に。
眼と眼があう。彼女のやや赤くなった眼が自分を見ている。
「――――」
それは、見つめるというよりも、睨んでいるような、責めているような瞳だった。
何かを伝えようとしている、何かを訴えようとしている、そんな瞳だった。
「――――」
「――――」
彼女の瞳に返さなくてはいけない。だが、返す言葉が見つからない。
そんな自分の沈黙を咎めるように、彼女の視線はますます強くなるばかり。
ついに耐えきれず視線を逸らすと、彼女の顔がさらに近づいてきた。
「んむっ!?」
唇を重ねられる。いや、重ねられるというよりも押し付けられた。
首を振って引き剥がそうとするも、上から押し付けるような力の前に首を振ることが出来ない。
呼吸も忘れてなんとか抵抗しようと暴れていると唇が離れた。瞬間、息を吸って問いただそうとすると、またも唇が重なる。
「んんぅっ!?」
重ねられるだけでなく、侵入された。舌を口内に差し込まれた。
ぐいぐいと自分の舌が彼女の舌に押される。その舌を追い返そうと力を入れると、それを上回る力で押さえつけられる。
彼女の舌は口内のあらゆるところに触れ始めた。舌の上下、上顎、歯を、なぞるというより擦るように動きはじめた。
抵抗が無意味と悟り、ついに力を抜くと、彼女の指は両肩から顔に移った。自分の顔を包み込むように抑えると、自分の舌を吸い上げるように口内に招き、舌をねぶり始めた。
くちゅくちゅ、という水音が他人事のように聞こえる。
何故こんなことになっているのか。何故彼女がこんなことをするのか。
彼女の指が離れても意識は呆としたままだった。見上げると、先程の鼻と鼻がぶつかりそうな距離ではなく、馬乗りになってあの瞳のまま自分を見下ろしている。
彼女の腕が動く。羽織った上着を脱ぎ、ネクタイを解いていく。タイツに指を伸ばし、腰を上げてずり下げ始めて――
「待て! それはっ」
止めようと上半身を起こそうとすると、またも両肩を抑えられる。
だが、二の舞いは踏めない。これだけは止めないといけない。
「それはダメだマシュ。それ以上はダメだ」
「――――」
視線がさらに強くなった。もはや怒気すら孕んだ瞳はこちらを射抜くように睨んでいる。
だが、引けない。いくら睨まれようと、いくら押さえつけられようと。
慕ってくれる後輩を、死線を共にした戦友を、自分が台無しにする訳にはいかない。
何より、キアラさんを――
「落ち着こうマシュ。まず話し合おう」
「先輩が好きです」
言葉には似合わない怒りを込めた響きと、通告じみた一方的な会話の打ち切り。これ以上話すことなど無いと言わんばかりに、自分を片手で抑えながらまたも服を脱ぎ始めていく。止める間もなく上下ともに残るは下着だけになってしまった。
「わかった。わかったからまずはどいてくれ。それから、順番を追って」
「先輩は嫌なんですか」
「嫌とかそういう問題じゃなくて、まずは話し合お――」
彼女の指が伸びる。今度は両肩ではなく、自分の顔に。ぐっと彼女の顔が近づく。
「キアラさんとはしたじゃないですか」
「――――」
(――なんで)
「マシュ……」
「今日のお昼、この部屋で、したんですよね?」
「……」
「キアラさんとはっ、よくて、私、とはっ……」
彼女の瞳から涙が流れる。それは、頬を伝って、自分の顔に。
涙を流しつつも、瞳は自分を見据えたまま。それはまるで弾劾するように。
――ようやくわかった。彼女は今まで泣いていたのだ。他ならぬ自分のせいで。
姿を見なかった夕食の時も、キアラさんと話している間も、ここに来るまでも。
「好き、好きなんです。どうしようもないくらいに、好きなんです……ずっと前から、今でも。先輩が好きなんです……キアラさんとしていても……だから」
彼女の顔が悲痛に歪む。つられるように涙は先よりも多く。
彼女の頬を伝って自分に落ちる涙が痛い。ぽたぽた、と自分に落ちる涙は、今を責め続けているようで。
「行かないでください、離れないでください。私をっ、おいて、いかないでっ……」
「――――」
言葉に詰まると、彼女は瞳を閉じて、指を自分の顔から離し、身を起こした。
(傷つけた)
生まれたのは、どうしようもない後悔。
こんなはずではなかった。こんな表情をさせたくなかった。いつも隣りにいて笑ってほしかった。そうあるように今までしてきたのに、何故こんなことに。今更どうにもならない事を考えていると、彼女は自分の腹の上でクルッと回って背向けになり、自分の胸元に腰を落とした。目の前には下着をはいた彼女の――
「ちょっ」
彼女はその体勢のままぺたりと上半身を寝かすと、自分の陰茎を布越しに弄り始めた。
身を起こそうにも上半身は彼女の下半身で抑えられている。身をよじるも彼女の手は止まらない。それどころか自分の寝間着を腰から腿に押し出すかのように脱がし始めた。自分の陰茎が外気に晒された感覚の後、何か粘性を帯びた温かいものに包まれるのを感じる。
「待って! なに!? なにやってんの!?」
予想はつくが、当たってほしくなかった。この現実を認めなくなかった。彼女にこんなことをさせたくなかった。
亀頭に何かが絡みついているのがわかる。熱いものが自分の亀頭を這いずり回っているのがわかる。まるでこそげ落とすかのように何かが往復しているのがわかる。自分のものが官能に支配されていくのがわかる。
「マシュ、やめ」
じゅるじゅる、と音が聞こえ始めた。
熱と刺激は亀頭だけなく陰茎全体に。動きは舐めるだけから吸い付き引っ張り上げるような動きに。
自分のものがどんどん膨張していくのがわかる。こんなことあってはいけないのに、彼女にそれをさせてはいけないのに。しかしそれは、止まるどころか更に激しさを増していく。これ以上の陰茎への刺激から逃れようと腰を引くも、引ける余裕はベッドにほとんど阻まれている。僅かに引いても彼女の口はそれを追うどころか、先程より更に深く咥え込んだ。
「マシュストップ! 出る! 出ちゃうって!」
ぴたり、と動きが止まる。
胸の上をのそのそと彼女の尻が動く。それは腹まで移動するとすっと自分から離れた。
その動きに合わせて腹筋を使い起き上がろうとするも、読まれていたかのように中腰で振り向いた彼女の両手に押し戻される。自分の肩を抑えていた両手の内、片手が自分の肩から離れ、自分の陰茎に添えられる。その先端は彼女の――
「待っ」
彼女は亀頭を膣口に合わせ、勢い良く腰を下ろした。
ぶつっ、と私の裡に響くのがわかった。何かが破れたような、弾けたような、そんな音。
「づっ……! う、くぅ……!」
痛いものだとは聞いていたけれど、ここまで痛いなんて。
戦闘で負う傷のそれとは違う。自分の手では届かない、意識すればするほど増すこの痛み。
でも、耐えなくてはいけない。ここで止める訳にはいかない。
これは、今夜だけ。今夜だけしかない。この先はもうないんだから――
歪む視界に映る先輩は悲しそうな表情のまま。
ペニスに刺激を与えれば何かが変わるかもしれないという淡い期待は当然のように打ち砕かれた。
自分のとても大切だったものが壊れていくのが手に取るようにわかる。何せ、自分で壊しているのだから。今この一瞬を味わうために、全てを承知で自分で壊しているのだから。
壊したくなかった。ずっと守っていたかった。だけど、できなかった。
そう、もう全て終わってしまった。何もかもが、全て。
瞳を閉じる。元より涙で前は殆ど見えていない。
もう何も見たくない。
この痛みだけがあればいい。
この感覚にだけ酔っていればいい。
ぐら、と体勢が崩れる。先輩を押さえようと両手を伸ばす。でも、両手が伸びることはなかった。手首を先輩に掴まれている。
さらに崩れる体勢。先輩が起き上がろうとしている。起き上がろうとしている先輩を押さえればいいのか、後ろに倒れそうな自分を支えればいいのか。考えたけれど、どちらも無理。両手は先輩に掴まれている。振りほどいてもその瞬間に後ろに倒れる。
後ろに倒れる衝撃と、逃れるであろう先輩を押さえつける備えをしようとしたけれど、衝撃はいつまで経ってもこなかった。
支えられている。
熱くて力強い何かに抱きしめられている。
瞳を開くと、目の前には先輩の顔。
「せん、ぱい?」
ぐい、と抱き寄せられる。顔はちょうど、先輩の肩に。
「ごめん」
「――――」
違う。
先輩が悪いんじゃない。
全て私が悪いのに。
先輩に甘えようとした私が悪いのに。
全て承知で壊そうとした私が悪いのに。
「あぁ、う、う」
「ごめん」
「ちが、う」
違う。
謝るのは先輩じゃない。
謝るのは――
「ごめんなさい、ごめんなさい」
声が漏れる。心が漏れる。
「ごめんなさい、先輩。ごめんなさい……」
両腕の力が強まる。
それはまるで折れそうな抱擁。それが何よりも嬉しくて、悲しくて――
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
シーツが背中に当たる。
先輩の手が顔に触れる。先輩の唇が重なる。
先輩の両腕が身体から離れて寂しかったから、今度は私が先輩を抱きしめる。
「ごめん」
「違います……私が、私がっ」
ぐちゅ、と。重い水音が聞こえる。
私の躰が揺さぶられる。先輩が動き始める。私の中を先輩が動いている。
破瓜の痛みなんてどうでもよかった。先輩を感じられる方が余程嬉しかった。
そう、今はただ、この熱があれば――
私たちは繋がりながら謝り続けた。
いつまで続くのかわからないくらいに、そうし続けた。