「し…死んだって、なに変なこと言ってるんですか?」
震えた声で、アキは返事をした。
死んだと告げられても、実感が全く湧いてこない。
手も足も付いている上、感覚も残っているのだ。
胸に手を当ててみても、心臓の拍動や呼吸の度に動く胸郭の様子はしかと伝わっている。むしろ、欠けている部位など一切ないように思える。
「私、難しいことなんて言ったかしら?あなたは死んだの。その体は夢魔として"作り替えられた"体。本当の体は、今頃は港の魚に喰いつくされてしまってると思うわ。」
「はぁ?意味の分からないこと言わないで下さいよ…だいたい、夢魔だか悪魔だか知りませんけど、そんなのいる訳がないじゃないですか!今は西暦ですよ?中世の時代じゃあないのですから、それらが架空の存在だってことぐらい、誰でも分かります!」
思わず、声色及び言葉使いが強くなった。顔も混乱が失せ、今や鋭い一瞥を女に向けている。
が、その睨む様子も女には刺ささっていないようだ。むしろ、その顔がより滑稽に見えたのか、吹き出す始末だ
「なにが可笑しいんですか!!」
「笑わずにはいられないわよ。落ち着いて、考えてみて?そもそも、なぜあなたが"ここにいられる"のかしら。」
一瞬、アキの瞼が大きく開かれる。
それもそうだ。原因はともかく、あの時は深い海の底へ沈んでいたのだ。
泳ぎも不得意ではないのに自力で水面に上がることもできず、感覚すらも失った。
その状況から水中を脱し、晴れて陸へ上がったとしても、果たして自分は助かったのだろうか。
納得したくない様子を、頭を振って露にするアキに構わず、女は続ける
「それに、あの時は言ったはずよ?『助けてあげる。その代わり、例え人間じゃあなくなっても、文句は言わないでね。』と。聞いていませんでした、なんて今さら通用しないわよ?『死にたくない。』って言うから、夢魔として生かしたのだから…」
「それがどうしても嫌なら…ここで殺してあげるけど、いいのかしら?」
からかうような、軽い声色や表情から一転、温かみを感じられない冷ややかな口調と共に、アキの胸を突き刺して20cmは飛び出すような一瞥をアキに投げた。
途端にアキの声も身体も震え始め、脚の力が一気に抜け、尻餅を着く。
冗談でもからかいでもない、「はいお願いします」と言えば本当に、すぐさま息の根を止めかねない様だ。
「い、いや…」「そんな…」「違うんです…」と、消えそうな声で、譫言のように繰り返すアキに、女はゆっくりと迫る。
終いに命乞いの言葉は次第に「これは夢だ。」という逃避に変わっていた。
女がアキの眼前へたどり着くと、パンッと乾いた音が豪華絢爛な部屋に響いた。
それと同時に、腰が抜けたアキの身体が軽く吹き飛び、彼を床へと這わせる。
右頬は赤く熱を持ち、ヒリヒリとした痛みが執拗にそこを責めたてる。
頬を抑えて悶えるアキの元へ再び歩み寄ると、屈みこんで彼の顔を見た。女の顔は、またいたずらっ子のものに戻り、先ほどのように口端を少し吊り上げてこちらを見ている
「おはよう。目は覚めたかしら?」
この行動、言葉に唖然としたのも束の間、女を突き飛ばしたアキは悲鳴にも似た声を挙げながら、乱暴に部屋を飛び出した。
逃げられた女であったが、追う気は更々なかった。
むしろ、余裕に満ちた態度で、開け放たれたままの扉を眺めていた。こうなることも、どのみちアキが帰ってくることも分かっているのではないかとも思える。
アキの姿が見えなくなったところで、女は一言だけ呟いた
「…いってらっしゃい。また、ここに戻りたくなるわ。」
* * *
どのような道を通ったのか覚えていない。
気がつけば、アキは自身がよく知る道を走っていた。越して来た町の端にある、小さな港。散歩の際に、決まって通っていた場所だ。
特に意識することなく、己の住処を目指す。
今頃、叔父も従兄弟も心配して待っており、帰ったら少しの叱責の後、温かい御飯を差し出してくれるに違いないのだ。そして、いつもと変わりのない生活に戻れるのだ。
そのような想いを馳せながら走るアキを、不気味なほどに青い満月が照らしている。
それが、あの女の笑みと似ている気がして、彼の走るペースは上がっていく。
途中、夢中で走っていたことが災いしたか、道行く男とぶつかった。
「ご、ごめんなさい!」
一言謝り、また走り出すが、男は辺りを見回すだけで、アキの声に反応はしなかった。
さっさと走り去ったアキが、それを気にすることはなかった。
しばらく走っていたアキの脚が、ようやく止まった。
そこにあったのは他の家とはさほど変わらない、一軒家だが、この家こそが住まいであることは間違いなかった。
「ただいま!遅くなってごめんなさい!」
息を弾ませながら、嬉しそうなアキの大声に対し、だれも返事をする者はいなかった。
皆、居間の向こう側を眺め、何やら神妙な様子で話をしている。2度、3度と声を投げかけるアキだったが、結果は同じだった。
アキが不満に思う前に、一つの疑問が浮かび上がった。
何を見ているのだろう。
家族だけでなく、数人もの客まで交えて、何に注目しているのだろう。
自分に注意を向けてくれない不満と、一斉に注目を集めている物が何か知りたいという興味が混ざり、アキを動かす。
客人や家族の邪魔にならないよう、そばに伸びる階段を数段上り、居間を見渡した。
人々の前にあった物が何かを理解するのに、アキには時間がかかった。
色褪せたボロボロの布がまとわり付いた、ぶよぶよの物体だ。
疲労のため気付かなかったが、部屋中に今まで嗅いだことのない異臭が立ち込めている。恐らく、あの物体が臭いの主だろう。
ところどころ空いた穴からは、赤黒い中身がこちらを覗いている。
全体の形は、何となく人に似ている。ただ、その物体が引き締まり、しっかりした四肢と頭、顔がないだけだ。
…人?
こみ上げてくる不快感をこらえて、より注意深く物体に注意する。
それには布の他にも、毛のようなものが付着していた。辛うじて纏まっており、色が判別できる部分から判断すると、銀色の毛であることが分かった。
この時、ハッとした顔でアキは自分の毛髪を、一本だけ引き抜く。ちょうど、あの物体に付いてる毛と同じ色だ。
「それにしても気の毒に…」
計らったようなタイミングで、声が聞こえた。野次馬の声だ。
「まだ若いのに、こんな姿で帰ってくるなんて…」
「15にもなっていないんでしょう?私の娘よりも年下じゃない…」
「ジャックの爺さんには同情するよ…余所から来た子とはいえ、まるで我が子のように可愛がっていたじゃあないか。」
年齢、余所の地区から来たこと、世話になっている人物の名前。その全てがアキに当てはまる。
「…可哀想なアキ。せめて安らかに眠れるよう、冥福を祈ろう。」
神父と思わしき人物がそう言い終わらぬうちに、こみ上げていた気持ち悪さに耐えられず、ついに胃の中の物を全て吐き出した。
吐く物が無くなると、声の限り泣きわめいた。
あれは自分の遺体だ。
魚に食われ、無残な姿のまま陸へと揚げられたのだ。
あの女のいう通り、確かに自分は死んだ。
理解も納得もしなくていい、いや、するべきではない事実を突きつけられ、壊れたように喚く。
家中、町中にも聞こえるほど大きな声で泣いても、気付く者は誰一人いない。怪訝そうな顔で、アキの亡骸を眺めるだけだ。
彼らの会話などどうでもよかったし、聞きたくもなくなった。聞いたところで、意味などないのだから
涙も枯れ、慟哭にも疲れ、独り天を仰ぐ。
死んでしまったことを理解した今、この先のことどころか、何も考えていない。
自暴自棄に陥る気力も湧かない中、アキの体を誰かが抱きしめた。
背に、胸に、頬に、久々の温もりが伝わる。仄かな甘い匂いが、鼻腔をくすぐっている。
そんなときに聞こえたのは、あの声、あの女の声だ
「可哀想に…ようやく死んでしまったことに気付いたそうね。でも、あなたは一人じゃない、夢魔となった今、私はあなたの味方よ。」
枯れた筈のアキの涙腺から、静かに涙が流れる。
女に対しての警戒心はなかった。
実の母に似た抱擁、自分を認識してくれる者がまだ存在しているということから生まれた安心感だけが、彼を支配していた。
「…私の元へいらっしゃい、私はセレネ。あなたは?」
「…僕、アキ…」
そう静かに名乗ったアキは、セレネに抱かれたまま、眠るように目を閉じた