「アキ君!」
教会の前庭にいたのはリリィ一人だけだった。
アキが門を潜るのを見かけると向こうからアキの元へ駆け寄り、視線を合わせるように屈んで声をかけてきた。
大丈夫?怪我はない?
と、気遣いの言葉を投げ掛けながらアキの顔を見ていたリリィの目が、一度アキの腕を向く。
すると彼女の眉が傾き、胸が痛む様を隠すことなく顔に出した。
出血は収まり、張りたての薄皮に覆われてはいるものの、腕には負傷の痕が明確に残っている。
誰が見てもアキが怪我をしていることは理解できるだろう。
「その怪我…ごめんなさい。無茶なことをさせてしまったようで…」
「僕は大丈夫です。それより、マグノリアを中へ…」
アキにそう言われて、初めてリリィがアキの腕の中に抱かれているマグノリアを見た。
孤児院で暮らす子供達のことは全員知っている訳ではないのか、物珍しそうに顔を見つめている。
「ここには慈善活動として度々来るけど、初めて見る子ね…この子がマグノリア?」
「だ、誰?」
先程までの騒乱からか、完全に怯えきっている様子のマグノリア。
教会に着いたことが分かっていないのか、アキの服を破く勢いで握ったまま離さない。
安心させようとリリィは手をマグノリアの頭に伸ばすが、逆効果であった。
突然頭を撫でられてビクりと驚き、リリィの手を除ける。
「あ、ごめんなさい!」
「いえ、この子…目が見えないんです。」
「アキ君…さっきから誰と話してるの?」
「この人はリリィさん。この町を守ってくれる人だよ。」
マグノリアを縛る畏怖の鎖から解放させようと、今度はアキが彼女の頭に触れた。
唯一姿を見ることができる人物──もっとも、アキはとうに人間でなくなっているのだが──の掌にそっと撫でられ、ようやくマグノリアの手から僅かに力が抜ける。
とはいえ、まだまだ鎖はキツく、蜘蛛の巣のように絡んでいる。
これを断つには時間がかかりそうだ。それまで、あの怪物がここまで来ないことを願うだけだった。
盲目の少女を二人がかりで慰めている様子を、少し離れた民間の屋根から眺めていた者がいた。
先ほど脅すようにアキの捜索及び殺害を命じられ、どこかへと飛んで行ったミシェリアだ。
ある程度の距離はあれど、彼女にとっては目と鼻の先との違いはなかった。外見はもちろん、リリィの表情が変わっていく様子もハッキリと確認できた。
「…ふぅン。あのちっこいの、逃げきれたようだね。」
自身の身のこなしの軽さと移動の速さを以てすれば、アキを見つけるのには苦労を要さなかった。後は少年の首を刎ねてフィーゴに持っていけばご褒美が貰える。
夢魔とはいえ"ゴミ"とは大差ない子供一人を殺すことなど造作もないことであり、己に痛む心もないのは自覚していた。
しかし、ミシェリアは耳元で聖書の朗読でも長々と聞かされているように不愉快な顔で眺めるだけで、動こうとしない。
「ちっこいの一人だけならオレ様ちゃん、指一本だけでバラバラにできる自信あンだけどなぁ…」
興が削がれた、楽しみが無くなった。
そのような様子で、ミシェリアは舌打ちと共に自身の得物の一つであるククリナイフを、たまたま側にあった煉瓦の煙突に向かって八つ当たりのように振り下ろす。
それは豆腐でも切るかのように手応えなく断ち切り、煉瓦の一部を落とした。
ついでに大振りな破片と化した煉瓦を一蹴だけで粉微塵にすると、踵を返す。
この場での襲撃は諦め、引き返すようだ。
「じゃあね、ちっこいの。次見かけた時、邪魔が入る前に殺したげる。」
呟くように言い残し、その場から離れたのは、ちょうどリオスが教会に姿を現した時だった。
一人で戦うには多い数の怪物を殲滅して、さほど時間は経っていない。
それでもリオスからは疲労は見られず、マントを羽のようにはためかせながら、優美な足取りでリリィへと歩み寄る。
目の前に立つと、本日出会ったときと同じく深々と跪いた。
「只今戻った。」
「もう、いちいちそんな挨拶しなくても…他の部隊はどうでしたか?」
「幸い、助太刀が必要なほど大した物は出てきてはいない。負傷者もさほどいなかったので、今頃は片付けでもしてこちらへ向かっていることだろう。」
リオスの報告を聞いたリリィは胸を撫で下ろす。
近頃は数も多く、強力な化物も現れたことでリリィ達の部隊だけでは対処しきれなくなったとのことだ。
おそらく、今回のように少ない損害で化物を一掃できたことは珍しいのだろう。
戦いに慣れていないアキが参戦したことに気をきかせてくれたのなら、化物達にも粋な計らいが出来るほどの気遣いや知能があるのかと感心できるが、それはまずあり得ないのは言うまでもない。
「では、我々はこれで失礼する。」
そう言い残して立ち上がると、リリィに背を向けた。
それを見たアキは慌ててマグノリアを下ろし、リリィに託してリオスに続いた。
少し足がフラついたが、逃走の疲れが残っているのだろうと、特に気に留めなかった。
事実、数歩も足を進めればフラつきも収まり、自然に歩くことができた。
リオスの後に続いて歩いている間、アキはあることを考えていた。
まずは広場で見かけた女。
あの女が去ってすぐに、あの怪物が現れた。それも、ちょうどあの女がいた所に、だ。
あの女が怪物を生み出していたのか。
いや、今あの女が元凶であると断定するのは早計だろう。
幾度もあの女が現れ、決まってそこに怪物がいたならまだしも、彼女は初めて見るし、あの時も見かけた覚えはない。
「あの、リオスさん。」
「どうかしたか?」
「リオスさんは、あの化物と戦う前に、女の人を見かけませんでしたか?黒い髪で、黒いドレスを着た女の人…」
「…いや、見かけたことはない。」
リオスにも心当たりがないのなら、杞憂でしかなかったようだ。彼のことだから、他のことに興味がないだけかもしれないが。
数分もかからぬうちに、いつもの館、つまり今の住まいへと到着していた。
随分と前から待ち構えていたかのように、スピカが深く腰を曲げて迎える。
普段と変わらないように見えたが、服の汚れに気付いてどこかしらへと案内してくれたスピカが、腕を怪我しているアキに対して何も言わないのは寂しく思った。
「アキ様、本日が初めての仕事のようでしたね。お疲れ様です。風呂場の準備ができておりますので、汗を流してからお休み下さいませ。」
さっさと自室に戻ったリオスを見届けたスピカが言うと、アキの頬が赤らむ。
風呂場と聞くと、決まってあの光景、感覚が蘇らされる。
またスピカが浴室へ入ってきて、激しく交わることになるのだろうか。
そのようなことをしてる場合ではないし、してはいけないとセレネから釘を刺されているのだが。
浴室へ通され、今日もぬるいシャワーを浴びる。
痕こそは残っているものの、腕の傷はほとんど癒えていた。
生身の人間であれば、一ヶ月もの月日を経なければここまで回復しない。夢魔となって、治癒力も向上したのか。
傷痕を眺めながら、アキは思い出す。
己の右手が武器と変貌した様を、強力な武器を持っていたのにも関わらず、あの怪物をたった一体しか倒せなかったことを。
「…このままじゃ、ダメだ。」
一言呟き、シャワーを止めた。
浴室を出てすぐ傍にある篭には、アキが着ていた服の変わりにタオルとバスローブが綺麗に畳まれている。
その柔らかいタオルで体を拭いた後にバスローブに着替え、風呂場から出ると、やはり待ち構えていたかの如くスピカと出会った。
「寝室へとご案内いたします。」
「その前にスピカさん、一つ聞いきたいんですけど…この館に、使っていない武器がしまってあるところはありますか?」
突然の奇妙な質問に、スピカは首を傾げた。
ここに来て武器の有無をアキが聞くとは、何があったのだろうかとでも言いたさげだ。
「はい。刀剣の類いでしたら、いくつかございますが…」
返事を聞いて、アキの顔が神妙なものへと変わる。
スピカはそれを見て、さらに疑問符を浮かべるだけだった。
しばらく沈黙が続いたが、話を切り上げて部屋へ案内されることもなかった。
アキが何を考えているのか、武器について訪ねた意味を、スピカも知りたいのだろうか。
アキが再びスピカを見た。
そして、鉛でも埋め込まれたかのように重くなった唇をゆっくり開き、頭の中で何度も復唱していた言葉を口にした。
「スピカさん…戦い方を、僕に教えて下さい!」