スピカに剣の覚えがあったのは幸いであった。
更に館の中に稽古には丁度良い部屋があっのも都合がよかった。
自室はおろか広間に畳十数枚敷いても足りない広さだが、家具の類いが一切見られない部屋だ。
長年使われていないのか、体液や埃の混じった臭いが、部屋の中へ足を踏み入れた途端に、鼻腔へと広がった。
「これをお使いください。」
と、スピカから渡されたのは一振りの軍刀だ。
形こそはリオスのそれと変わらないが、こちらは装飾のない剣。見栄えよりも実用性を重要視した得物だ。
鞘から抜いて、刀身を眺める。
小傷が散っているものの、汚れのない刃が鏡のようにアキの顔を映している。
ぼんやりと等身を眺めているアキに、スピカは言葉を続けた。
「早速ですがアキ様、その剣でわたくしを斬ってみてくださいませ。」
「えっ!?」
突然の、耳を疑う発言。
刃の煌めき、重量から思うに、この剣は飾りではなく真剣だろう。
少し触れれば容易く物を斬り裂く代物。
万が一危うい部位を斬ってしまえば負傷、最悪死亡してしまうこともあり得る。
不安に満ちた目付きでスピカを見るが、彼女は先の発言を忘れたかのように、平然とした様子でアキを見据えている。
「構いません。太刀筋が見えずとも、貴方の剣擊ではわたくしを捉えることはできません。さぁ、どうぞ。戦い方を知りたいのでしょう?どうか殺す気でお願いします。」
挑発じみた言葉に、アキは眉をしかめながら構えた。そこまで言われたらやるしかないとでも思ったのだろう。
一呼吸置いてから、切っ先のスピカに向けた。
ずしりとした重量がアキの手に、腕にのし掛かる。
こうして構えてみると、剣とはこうも重たいものか。アキはそんなことを考えながら構えていた。
「スピカさん…ごめんなさい!」
謝罪の意を叫び、剣を掲げて大股で駆ける。
それを大きく振り下ろす際に、思わず眼を閉じた。自分の剣でスピカが斬られる様を見たくなかったからだ。
しかし、アキが斬ったのはスピカの体ではなく、それがあった空間だった。
当のスピカは少し身を反らすだけで苦もなくアキの攻撃を避け、剣に振り回されるようによろめくアキへ、一気に距離を詰めていた。
咄嗟にアキが振り向き様に剣を払うように振る。
アキの刃がこちらへ向かうより、スピカが剣を振り切る方が遥かに早かった。
鈍い音と共に、アキが脇腹をかかえて踞った。
攻撃を受けた部分が痛む。
骨の一本や二本は折れたのではないかと心配になるほどの痛みだが、そこが斬られた様子はない。
峰で殴られたか、とアキは呻きながら悟った。
「アキ様…正直、お話になりませんね。わたくしは殺す気でお願いしますと言ったはず。にも関わらず"ごめんなさい"など…」
酷く落胆した様子で、大きくため息をつくスピカ。
「お立ち下さい。わたくしがアキ様の敵であったなら、アキ様は今この瞬間にも、わたくしに殺され続けることでしょう。」
「こっ…かはっ!…殺すだなんて…」
話を遮るかのように、起き上がろうともがいていたアキの頬に、硬い物が触れた。
眼だけ動かしてそれを確認してみると、"それの"向こうに映る瞳と目が合う。
その物体から滲み出る殺気は、アキを氷の中に閉ざしたかのような冷たさを感じる。
剣だ。
顔のすぐ傍に剣を突かれたのだ。
「この一撃で、お前は死んだ」ということをアキに知らしめるために
「甘い…これが戦いです。相手は峰打ちで済ますこともしなければ、僅かな隙でも現れ次第、このように止めを刺してきます。仕留め損ねても、呼吸を整える暇を与えてくれません。さぁ、死にたくなければお立ち下さい。次は本当に頭を貫きますよ?」
ほぼ脅しだ。
このまま倒れたままであれば、スピカはこの言葉通りの行動を実行するに違いない。
それに、稽古を付けて欲しいと頼んだのは他でもない自分だ。
マグノリアを守れるようになるために、自分の意思で決めたのだ。
殺されたくない、倒れている場合ではない。
そう言い聞かせながら、アキがヨロヨロと立ち上がる。
それをスピカは構えを解いて見ていた。
「まず、基礎の基礎として肝に銘じて下さい。相手から目を離してはなりません。相手の姿が見えなくなった、次の瞬間には殺されていると思って頂いて差し支えありません。相手の全身を見渡すのです。そこから得られる情報は少なくありませんよ。」
「相手を…見る?」
「ええ。相手の一挙一動、些細な仕草を見落とさぬように見るのです。相手の視線、切っ先、肩、腕、脚…これらから相手の狙い、攻撃のタイミング、防ぐべき場所、疲労、時には急所を探るのです。」
「試しにアキ様、次はわたくしが斬りかかります。アキ様はわたくしの攻撃を防いでみてください。」
乱れた呼吸を、深い吸気で無理矢理にでも落ち着かせる。
少しは収まったが、先程の一撃によるダメージは大きく残っている。
再びゆっくりと重い切っ先をスピカに向けたところで、スピカが剣を構えた。
切っ先はやや寝かせたままアキへと向けいるが、体は正中に構えているアキとは異なり、左半身を一歩引いて斜めに傾けた構えだ。
なるべく人体の中央に集まる急所への攻撃を受け辛くする工夫がなされている構えだ。
「…参ります。」
と、一言だけ呟いたスピカが大股かつ軽やかに、滑るように一歩踏み込むと、剣を振り上げた。
右上段からの袈裟懸け。
やや大振りの攻撃。
振り上げられた剣から軌道を予測したアキは、これを防がんと顔の前で剣を寝かせた。
鉄と鉄がぶつかり合い、つんざくような甲高く不快な音が、部屋中に響き渡る。
スピカの剣撃に対する防御は成功したとは言えなかった。
剣を防げはしたが、少女の細腕から繰り出された重い一撃の勢いに負け、押し出されたかのように尻餅を付いたからだ。
アキが万全の体勢ではなかったとはいえ、仮にそうだとしてもスピカの攻撃を受けきれないだろう。
一方的な暴力を除けば、アキは得物を持っての戦闘は初めてであるから。
急いで体勢を立て直そうとしたその時、また一歩スピカが近寄ったかと思った頃には、首元へ剣を突き付けられていた。
「また、わたくしに殺されましたね、アキ様。体勢を崩さぬよう、しっかりと脚に力を入れて下さい。」
次はスピカに催促される前に、ゆっくりと動いた。
まだ膝が震え、膝に手をつかないと満足に立ち上がれない。
やっとのことで床から尻を離したところで、またスピカが迫った。
今度も右上段から剣を振り上げたが、微かに手首が動いた所を、アキは見ることができなかった。
またも袈裟懸けに切るかと剣を顔の前に寝かせるアキだが、彼の予想通りに剣は振り下ろされなかった。
刃はスピカの頭上から、ちょうど弧を画くような軌道で振るわれ、アキの胴を狙う。
予想外の攻撃を急いで防ごうとするが、間に合わなかった。
剣同士が触れる前にアキの腰を捉えたスピカは、そのまま剣を振り抜く。
そして、絶叫を挙げながらアキはまた、力なく倒れ伏した。
切られはされなかったものの、そこそこ重量のある鉄棒によるフルスイングをマトモに喰らったのだ。
たとえ鍛えた男であっても、これを受けては平然とはいられないのではないか。
「わたくしの動きを、よく見るのです。構えだけではなく、些細な動きから攻撃を予測して下さい。」
以降も、倒れては立ってまた倒されての繰り返しであった。
次第に視界もぼやけだし、意識も明確でなくなってゆく。
救いなのは、それでも尚、アキの心が折れず、自ら立ち上がろうとしたことだ。
しかし、気概だけはあれど、体は着いてこない。
終いには立ち上がることも叶わず、気を失ってしまった。
「…今日はこれくらいにいたしましょう。お疲れ様でした、アキ様。」
アキには聞こえていないことを承知で、スピカが稽古の終わりを告げた。
この部屋に入ってからどれだけの時間が経ったのかは分からない。
アキが感じた通りに永遠とも思える時間が過ぎたのかもしれないし、スピカが感じた通り少しの時間しか経っていなかったのかもしれない。
常に暗い空の中に月が浮かんでいるだけの窓は、時間を察するのにはあてにならないのは確かだ。
ミミズ腫れを体中にこしらえたアキを抱え、部屋を後にする。
その先に、一人の人物と出会した。
スピカよりも丈のある体躯を壁に預け、腕を組ながら部屋の前にいたのはセレネだ。
何やら傷だらけのアキを、物珍しげに見ている。
「あら、随分と手荒くしたのね。あれだけ激しく愛しあってたのが嘘みたい。」
「申し訳ありません。教えることは不慣れでございますので、このような方法しか分からないのです。」
主であるセレネに対しても、鉄仮面に似た顔でスピカは話す。
「とはいえ、これはアキ様が望んだ故のこと。言葉で説明したところで知識は得られても技術は身につけられません。」
「ふぅん…せいぜい壊さないことね。"あの子"と重ね合わせてしまうのなら、それはそれで都合がいいけど。」
この言葉を聞いたスピカの表情に、ようやく変化が見られた。
それはあまり目上の者に向けるべき感情ではない、「怒」の表情なのだが。
顎を少し引き、眉は吊り上げられて皴が寄り、上目でセレネを鋭く睨む。明らかにセレネに対して敵意を向けた顔だ。
が、その顔も一瞬で元通りになり、また硝子のような声で失礼しますと言い残すと、アキの部屋へ歩いて行った。
先のスピカの顔に気づかなかったのか、または気づいても大して興味がないのか、澄ました様子でセレネはそれを見送るだけだった