アキは草が風に揺らされてざわめく平原で、一人の女を眺めていた。
ツバの広い、白い帽子に阻まれ、人相は確認できない。長い黒髪が、質素な純白のワンピースと共に、風にたなびいている様は、あのセレネを思わせた。しかし、彼女のような妖艶さは微塵も感じられない。「純潔」という、あれとは真逆の雰囲気のほうが遥かに強い女だった。
「…おいで、アキ。」
小鳥のように澄んだ、可愛らしい声で、アキに呼び掛ける。見知らぬ者の筈だが、何故だかアキの名を知っているようだ。どこかで会っただろうか。いや、あんな女を見かけたことはない。
その声に誘われ、アキは走る。一歩踏み出す度に、剃刀の上を歩いているような草の感触が、足裏から伝わる。
女の元へたどり着くころには、柔らかく鋭い感触から一転、ゴツゴツとした固いものへと変わっていた。
女をまた見る前に、その感触を不思議に思ったアキは足元を見下ろす。一面に広がっていた草の絨毯は蒸発したかのように失せ、変わりに粗いアスファルトの地が、一帯に敷かれていた。
突然の変貌に驚き、辺りを見回す。女の姿は見えず、右手に停船所が、左手に住宅街の群れがあるだけだ。
この景色を、アキは覚えていた。以前、アキが住んでいた街。滞在していた期間は短いが、アキはこの地で死に、同じくこの地で生まれ代わった。
あれから、どれ程の日時が経ったのだろうか。港の向こう、水平線を眺めながら思い出して見るが、まるで答えは見えてこない。色々なことがありすぎて、遥か昔のようにも思える。
不意にアキは何かの気配を感じ、振り返った。
誰かが近付いて来る。
のしのしと大きな足音を立てながら、確実にこちらに迫っている。
振り返ったところで、その姿は見られなかった。
気のせいだったか。いや、まだ気配も消えていないし、足音も次第に大きくなっている。
正面を見返す。ここで、やっと気配の正体と出くわした。
熊だ。
熊と言うには大きすぎる生物だ。
丈は何mはあるのだろう。少なくとも2tトラックと丈比べでも力比べでも、この生物が余裕の勝利を掴むことは予想できた。
それが鋭く光る爪を振り上げ、こちらを睨んでいなければ、ただの無害な大物だけで済んだ。
ところがそれは、さながら獲物を前にした、飢えた獣の目で、両手を挙げて襲いかかってきた。
慌ててそれを避けようとするアキだが、体が動かない。
腰から下が鉛のように重くなり、脚の自由を奪っていたからだ。
必死で逃れようと足掻くアキに、鋭く太い爪が振るわれる。
ざくり、
と音を立てながら、その爪はアキの腕を、胴を、腸を、易々と抉った。
同時に、アキは悲鳴を挙げる暇もなく港の外へと跳ばされ、側の水面に紅い雨を降らせながら海の底へ落ちていった。
「…っ!!」
暗い水の底へ落ちたと思いきや、アキは部屋の中にいた。
いつもの寝床ではない。
白い床
白い壁
何もかもが白に満たされた部屋だ。
床と壁の境も分からぬそこは、どれだけ広いのかも想像できなかった。
ハッとした様子で、アキは自分の体をまさぐる。
血もなければ、皮膚や肉が裂けてもいない。先ほど、獣からの攻撃によるダメージは全くというほど残っていなかった。
混乱するアキを笑う誰かの声が、部屋に響き渡った。
高い声だ。しかし、女のものではない。年端のいかぬ少年の声だ。
その声を聞いたアキの顔に、困惑の色が濃くなる。この声は、自分の声だ。アキは今ここで笑った覚えはない。
豆腐の中身のように白い部屋の中で、アキの足下から一筋の影が伸びた。
影が床を急速に覆い、一面を黒く染める。
嫌な空気を振り撒きながら、唐突に影はアキの脚に絡みついてきた。
脚を振り回し、それを除けようとするが、離れない。離れるどころか、脛についたそれが下腿、膝、大腿と、徐々にアキを黒く染めながら登ってくる。
不快さ、不気味さに、アキは耐えられずに叫んだが、何故か声が出なかった。引き続き、自分ではない"アキ"の笑い声だけが、部屋に響いている。
部屋と共に黒に埋め尽くされていく中で、次第に笑い声も遠くなり、視界すらも黒く染まっていった。
* * *
再三度目を覚ましたとき、アキはベッドの中にいた。
辺りは相変わらず豪華絢爛な家具が部屋に置かれ、シャンデリアが暗く灯されている。部屋の中にはアキ以外の者はいない。
嫌な夢を見ていたようだ。多数の痣が残る体に、ぐっしょりと汗をかいていた。
それにしても、あの夢はなんだったのだろうか。
あの女は誰か。
あの獣は何か。
なぜ自分を襲ったのか。
あの笑い声は何か。
あの影は何の暗示か。
目覚めたばかりの頭を捻ったところで、答えは見つかることはなった。
このまま答えのない考察を続けるのも、無駄なことだろう。結局、その考えに至ったアキはベッドから降りると、側に畳まれていた衣類に着替え、外へ出た。
あの喧騒から2日ほど経つが、街は怪物の出現をすっかり忘れてしまったかのような穏やかさだった。
頭上で煌々と燃え盛る太陽が、遥か彼方を行き交う通行人らの頭を焦がしている。
些か日差しの強い快晴であったが、ひっきりなしに吹き付ける潮風のお陰で、過剰な暑さはなかった。
アキが一人で街に来る目的は決まっている。
孤児院へ、マグノリアに会いに行くのだ。
そして、二人であの公園まで歩き、他愛のない雑談を交わす。
夢魔となったアキの、数少ない楽しみであった。
孤児院へ向かうついでに、アキは件の公園へと足を運んでいた。
相変わらず遊具のない、もの寂しい空間が、潮風に曝されている。
だが、普段と違う点が一つだけある。ほとんどアキとマグノリアの特等席と化していたベンチに、男が座っていたのだ。
奇妙な男であった。
季節外れのインバネスコートを着こんでいた。
黒い外套に、黒い靴、黒い帽子、黒く太い丸縁のアンダーリムの眼鏡と、身に付けている物は全て黒で統一されていた。
これまた黒く、変わった形の杖に、左手を預けていた。
杖と呼ぶには太く、長い。
片方には反りがついており、杖のやや中心には、小さな円盤が嵌め込まれていた。
左手は杖を握っているが、右手が見当たらない。
右手があるはずの袖は、風が吹く度に、ひしゃげながらヒラヒラと踊っている。
肩口から指先にかけて、右腕が欠損していた。
男はベンチに深く腰掛け、背もたれに体重をかけて座っていた。
暑そうにしている様子は見られない。
むしろ火照りの見えない体一杯に風を受け止め、気持ち良さそうに空を眺めている。
突然、男がアキを見た。
灰色の瞳だけとギョロリと動かして、アキと目を合わせた。
「…ずいぶん、手荒にやられたみたいだけど、イジメられたかい?」
男が口を開き。若さ溢れる声で尋ねる。
「あ…いえ、イジメとかではなく、稽古で…というか、僕が見えるのですか?」
「変なこと聞くなぁ、君が見えてるから君に聞いたんだがね。ぼかぁ独り言を呟く趣味はないんだよ。」
灰色の癖毛を掻きながら、男が言う。その後、左手を顎に当てながらアキを眺めた。
「こりゃあ…峰で強く打たれたか。それも、何発も。見事に急所を捉えられている。少年、君は剣でも習っているのかね?」
アキは驚いた。
昨日、スピカにつけられた傷は、衣類で見えない場所にある。
それを、男は衣類越しに眺めただけで、その部位、程度を当ててみせたからだ。
「はい…習いたてですけど…どうして分かるんですか?」
「なんとなく、分かるんだよ。一応、僕も剣には自信がある身でね。どこにどんな傷があるのか、君の動きを見ただけで分かる。」
「剣、ですか。」
「ああ。厳密には、わりと違うけどね。」
そう言った男は、棒を手に取って、立ち上がる。
端を握り、反対側よりやや中央寄りの部分を噛みしめながら、棒を引いた。
刹那、棒から光が放たれた。
棒の中から、薄い鉄板が引き抜かれ、反射した日光が、そのように錯覚させたのだ。
棒から鉄板が完全に引き抜かれた。
男が持っていたのは、杖ではなくて、外装ぐらいに変わった刀剣であった。
柄が、異様に長い。
ざっと見て刀身と同じ長さだ。
昨日握った剣と同じく片刃で、少し反りがついていた。
日本刀よりも長く、薙刀よりも短い。長巻に似た武器であった。
「まぁ、剣の親戚だね。これになら覚えはある。」
一度、剣を土に刺し、咥えていた鞘を腰に差し直した。
その時、一枚の落ち葉が風で舞い上がり、男とアキとの間に踊り出た。
ー男の腕が動いた。
と、アキが認識するよりも速く、1枚だった落ち葉が縦に分断され、2枚に別れた。
剣を振るった男から逃げるように、2枚の細い葉は海の向こうへと飛んでいく。男の視線だけが、その葉の行方を追いかけていた。
(…早い。全く、切るところが見えなかった。)
身のこなしの早さであれば、リオスと肩を並べるレベルではないかと、アキは思った。
リオスが夢魔であることを考慮すれば、化け物じみた身体能力、並びに重量のある刀剣を、片手だけで小枝のように振れる腕力を、この男は持っていることになる。
目を丸くしているアキを見た男は、剣を鞘に戻しながら、また口を開いた。
「…ちょうど暇だったんだ。剣を習っているなら、少しだけ教えようか。」
「ほ、本当ですか!?」
「嘘は言わない。剣は今…いや、持ってる訳が…おや?」
男が言い終わる前には、アキの姿は霧のように消えていた。日を改めておいでとでも続けたかったが、なんと気の早い少年だ。
呆れと同時に、向上心の高さに関心した男は、またベンチに腰かける。
「…覗きとは、趣味が悪いじゃないか。」
腰掛け、空を眺めてすぐ、男が呟いた。
独り言ではなかった。背後の雑木林に隠れている気配に対しての呼び掛けだ。
「お前、あのガキが何なのか知ってるのか?」
気配の主からの返答。
姿こそは見せないが、鈍くて暗い声色から、それが若い男のもの、あまり良い感情を向けていないことが察せられる。
「いや、知らないね。今時珍しい、剣士志望の少年だろう。何かしらのメディアに感化されて、こういった類いのものに憧れを抱くのは不思議ではないだろうかね?」
「よく言うぜホント…分かってんだろ?あのガキ、人間じゃねえってこと。」
図星を突かれたようで、男は困った顔をして頭を掻く。
「なんで殺さなかった。敵だぞ?」
「生憎、ぼかぁ子供を斬る剣は持ち合わせていないんだよ。君らと同じように考えてもらっては困るなぁ。それに…人間でないのは、僕らが言えたことじゃないだろう。」
溜め息が、風に揺られる木々に掻き消された。
それが聞こえなかった男は、また立ち上がり、公園から続く道を見た。
別の気配がする。よく耳を澄ませば、雑踏に混じって、小走りでこちらに向かう足音が、遠くより聞こえてくる。
「本当に持って来るのか…やる気があるのは結構。」
また呟くように言った男が、雑木林へ目をやる。
先ほどまであった気配は、すっかりなくなっていた。