夢魔は人間には見えない。
この性質は、凶器を手に走るアキにとって、とても都合が悪かった。
なるべく剣が目立たぬように持ち運ぼうとしても、回りからは剣自体が浮遊しているようにしか見えないことが、主な原因であるからだ。
なるべく一目につかないように、路地裏など人のいない場所を選んで、進んで行く。
男の待つ公園には、今日初めて来たときよりも倍の時間を要した。
「そこの林の中でやろうか。ここでは目立つ。察するに君は僕しか見られないのだろう?」
アキの発言から、上記の性質を理解していた男が、背後の雑木林を指差して言う。
アキは頷いて答えると、男と共に雑木林へと足を踏み入れた。
林と書くには、やや寂しい本数の木々を、二人はするりと抜けて歩いて行く。
ある程度進んだ先では、もはやどこを見ても樹木しかない空間となっていた。
ここまで来れば「剣がひとりでに動き回っている」と騒がれることはないだろう。この気遣いに、アキは男に感謝せざるを得なかった。
「さて、さっそくだけども、ちょっと構えてみてくれ。」
先頭を歩いていた男が、振り向き様に言う。
男に命じられるままに、アキは剣を抜いて、構えてみせた。
昨日と代わり映えのない構えだ。相手に対して正面を向き、柄を握る手は、臍の辺りにある。剣は切っ先を相手にむけたまま、少しだけ寝かされている。
五行の構えにおける中段の構えを、ぎこちなくした具合だ。
「うむ…そのまま、これを斬ってみようか。」
と、男が言いながら指差した先には、一本の樹木。幹はちょうどアキの手首ほどの太さだ。
その木に向かってアキは大股で駆け寄り、剣を横薙ぎに振るった。
ガツン、
と硬い衝撃が、刀身から腕全体に伝わってすぐ、剣は幹を通過せず、浅い切り込みを入れて止まる。両断せんと剣を押し込むように力を込めるが、刀身はびくともしなかった。
それを男は、やれやれと肩を竦めながらアキに寄る。
「腕の力だけじゃあ、物は切れないよ。」
と、手をアキの握ってる柄へ伸ばしながら言う。その動作は、変われという仕草であった。
刺さったままの剣を手放し、アキが一歩後方へ下がる。男はアキが立っていた場所まで移動すると、その柄を握り、剣を引き抜いた。
「大事なのは、腰。腕だけでは切れないからね。腰と腕の回転と、体重、遠心力が上手い具合に合わさって、初めて切ることができる。」
次は男が構える。
彼の構えは、アキともスピカとも異なっていた。
左足を前に出し、斜めに構えて半身を晒している点では、スピカと同じである。
ところが、男は切っ先を相手には向けず、寧ろ刀身を体で隠すような構えだ。
ただし、最も守るべき頭はがら空きという、アキには妙とも見える構えでもあった。
「ゆっくりやるよ?まず、一歩だけ間合いを詰め、先に腰を捻る。腕を振るのは、その後だ。」
男は説明している通りに一歩だけ踏み込み、少しばかり腰を左へ回旋させる。腕は尚、刀身を体で覆わせるように構えている。
「腰を捻り、ようやく腕を出す。ちょうど、バットで球を打ち返すように、体重を足、ひいては剣に乗せたまま、剣を振り上げる。」
そう言いながら、男の手は、木が刃に触れる寸前で止めた。そして、また構え直す。
再び構えてすぐ、男はフッと短く息を吐いた。それと同時に、先ほどと同じように踏み込む。
この一撃は、アキでもある程度は目で追える速さであった。左足に体重をかけたまま、腰、腕が流れるように回り、剣を逆袈裟に切り上げる
先ほどよりも遥かに遅い斬撃だったが、アキが斬ることができなかった樹木は、すんなりと刃を通して、ガサガサと葉を擦らせながら倒れた。
「この構えなら、君でも比較的簡単に切ることができるだろう。それに、自分で言うのもなんだが、この変わった構えは対人にて大いに役立つ。」
刀身に付着した樹液を軽く振り払いながら、男は説明を続ける。
この説明に、アキは疑問を覚えた。
この構えの、どこが役立つのだろうか。
確かに、攻撃は力強く出せることに越したことはないだろう。
とはいえ、対人戦でこの構えをとれば、間違いなくがら空きの顔面を狙われるのは明らかだ。
一番の急所を大きく晒すことに、何か利点はあるのだろうか。
そう頭を捻るアキの考えを汲み取ったか、男はアキの前に立つと、先ほどと同じ構えをとった。
「少年。僕が持っている剣は、どれだけ長いと思う?」
と、男が聞く。
分かりきったことだ。この剣はアキが持ってきたのだ。答えられない訳がない。
ところが、アキの口から、なかなか返事が帰ってこない。
得物の大体の長さは、目測である程度分かるものの、いざ肝心の得物を隠されると、それがどれだけの長さか、途端に分からなくなる。
得物の長さが分からないということは、相手の攻撃がどこまで届くのか分からない事と同じだ。
「こちらから相手に伝わる情報は、なるべく少ない方がいい。こちらの戦い方が分からなければ、それだけ相手は対処し辛くなるからね。」
解説が終わると、男は剣の刀身をつまむように持ち直すと、柄をアキに向けて差し出した。
次は、アキの番だ。
男がぴしゃぴしゃと叩いている、細めの樹木に向かって、アキが柄を握りしめ、先ほど男がとっていた構えを真似る。
側面を見せるように立ち、さらに胴を手前へ捻る。体幹で剣を隠すような構えだ。
踏み込んだ。
前足が地に着いたと同時に、そこへ体重を全て預け、腰を回す。
遅れて両腕を振り上げるように払い、剣に遠心力を乗せた。
硬い手応え、さっき試した時よりも大きい手応えが、腕にのし掛かる。
両断とまではいかなかったが、刃は幹の半ばを過ぎたところまで断っていた。
「悪くない。ただ、腰から腕の回転がぎこちなかったな。」
と、男は人差し指を立て、それを左右に小さく振りながら言った。
「難しく考える必要はない。要するに、野球のスイングだ。野球はやったことあるだろう?それを思い出すんだ。」
野球のスイング。そのイメージを体に染み付かせようと、アキは剣をバットに見立てて、またゆっくりと振ってみる。
「体を捻れば、勝手に腕はついてくるだろう?そこに腕の振りを足すのさ。」
アドバイスもそこそこに、アキは構え直しては剣を振る。ひたすらそれを繰り返した。
スピカとの稽古の時のように、痛めつけられている訳ではない。にも関わらず、脚が笑いだす。
柄を握る剣も、慣れない剣を振る腕や肩も痛くなってきたが、不思議と辛いとは思わなかった。
幾度振っても樹木は斬れないが、その度に、感覚を掴みだしてきたのだ。それがアキには面白かった。
的の樹木が傷だらけになったので、別のものに変えた。
あまり太さの変わらない、傷のついていない木に向かって、幾度かの脇構えをとる。
震える脚で、踏み込む。
そのまま腰に釣られて振りだされた腕に力を加え、剣を振りだした。
剣が幹に食い込む衝撃。今回は今までよりも小さく感じられた。
切っ先が弧を描き、アキの背後の地を叩く。
直後、支えを失った樹木が、葉を擦らせながら、アキの側に倒れた。
「やった…!」
沸き上がる達成感、歓喜。それらを抑えられず、強く拳を握りながら声を絞り出す。
静かだった雑木林に、アキの喜びが響いた。
「やりましたよ!やっと斬れ…」
嬉々として、男に語りかけるアキだったが、男は霧散したかのように消えていた。
不思議に思った顔で、アキは辺りを見回す。しかし、人の気はない。
帰ってしまったのだろうか。首を傾げ、残念そうにため息をつくと、ようやくアキは雑木林を出るべく歩きだした。
* * *
日もとっぷりと暮れ、薄い紫に染まる町を、男は歩いていた。
男は今、アキのことを考えている。
剣を教えたその日の内に、硬い樹を斬り倒すことができたほどの、飲み込みの早さに関心していた。
彼が、より成長したら、どのような者になるだろうか。
成長したアキと相対すれば、自分は敗れるだろうか。
アキに我が魂をかけた剣撃を容易く捌かれ、一刀の下に切り伏せられる。
その光景、痛みを想像すると、自然と目を細めて、不気味な笑みを浮かべていた。
「運のいいことに、彼は僕らの敵か…」
男は振り返る。
あれだけ忙しく歩いていた人盛りもなくなり、閑散とした道が続くだけ。人どころか犬、猫の気配も感じられなかった。
「なるべく、早く育ってくれよ。強くなった君と戦うのは、さぞかし楽しいだろうね。」
また行く先を向き、男は歩いていった。
日が水平線の彼方へ沈み、星と月が瞬き始めた頃には、男の姿は消えていた。