アキが男と出会った数日後、アキはあの部屋にいた。
手にしているのは諸刃の剣。1m前後と剣にしては小振りであるが、以前使っていたものよりは厚く、幅の広い刀身のそれは、あの剣よりも破壊力だけはありそうだ。
背後で、扉の開く音がして、振り向く。
部屋に入ってきたのはスピカだ。一つ結びで纏めた艶のある焦げ茶色の髪が、歩く度に優雅に揺れる。やはり、手には軍刀様の剣が握られていた。
「お待たせいたしました。お体の方は大丈夫でしょうか?」
「あぁ。問題ないよ。」
そう答えるアキだが、実は嘘をついている。
初稽古の後ほどではないものの、数えるのも億劫なほど夥しく残る痣は、安静にしていて尚、アキの痛覚を刺し続けている。
加えて、例の奇妙な夢。草原から始まり、いつもの町で吹き飛ばされ、何もない白い密室で、タールのようなものに侵食される夢を見たせいで、目覚めは最悪だ。
それでも、アキの眼は、何かを期待しているように光っていた。
スピカが剣を抜いて構えたところで、アキも構えた。男から教わった、あの下段様の構えだ。
その構えを前にしたスピカの眉が、ピクリと動いた。相対しているアキの構えを、彼女は教えた覚えはない。そもそも、構えに関して、何も教えていないのだ。
おまけに、刀身を隠すような構えを、今来より見たことがなかった。得物が分からないのはともかく、向こうからどのような太刀筋が飛ぶか、スピカには想像がつかない。
それから来る警戒心からか、先手を取るつもりだったスピカの足は、床に張りついたように動かなかった。幸い、アキの方も動き出す気配はないが、こちらの隙を伺っているのを感じられた。
お互いが様子見に徹して、動きがない。
いつまでもこれが続くと思いきや、不動は案外早く破られた。
先に動いたのは、アキの脚だ。大きく振り出した足を、床板を折る勢いで、足底から降ろした。
地を叩いた足に、ほぼ全ての体重を乗せて、回る。体幹に繋がれた四肢が、胴に釣られるように、肩を軸に振られた。
男に教わった下段様の構えからの逆袈裟。アキの接近を察知したスピカの体が下がった。攻撃を受け止めるより、回避した方が良いと、脊髄で判断したからだ。
事実、それは賢明な判断であった。アキが握っていた剣は、スピカと同じものではなく、それよりも厚く、重量のある剣だ。加えて、アキから繰り出された斬撃は、前回のときよりと比較するまでもなく速い。
スピカの細い剣で受け止めようものなら、アキの剣は容易くそれをへし折っていただろう。
スピカを斬る筈であった大剣が空を切り、分厚い刀身が、床板を叩いた。鈍い音が、部屋に響き渡る。スピカがそれを聞き逃す筈がなかった。
すぐさま一歩、アキの懐へと潜りこみ、がら空きとなった横っ腹に一撃を叩き込む。
肉とは大きく異なる。硬い手応えが、スピカの剣を止めた。
それにスピカが困惑するのは無理からぬ事。アキはスピカの剣を、手で止めたのだ。
もちろん、無手ではない。
アキの手、否、アキに埋め込まれた拳銃に、細い刀身が峰からめり込んでいる。
リリィから受け取った、初めて扱う銃で、彼女の攻撃を防いだのだ。
スピカが一歩下がった。アキの防御を納得できていないのか、眉の端に皺ができている。
「…如何なる手段で止めたのかは理解しかねますが、お見事です。いくつか気になる点はございますが、まずはその構え…どこで習いましたか?」
言わずもなもがな、彼女の言う構えとは、アキが男から教わった、脇構えのことだ。
「この構え、ですか?…なんと言えばいいのか…町で会った、剣の上手い男の人に…」
アキの説明を聞いて、疑問がさらに増えたようだ。町に住む剣の達人に心当たりはないのか。
スピカがあまり町へ繰り出すことがなければ、当たり前の話なのだが。
「…どなたから習った構えなのか、わたくしには分かりません。ただ、粗方の太刀筋は理解できました。…参ります。」
次はスピカの方から間合いを詰めてきた。
霞の構えから放たれた胴への一閃に、アキは刀身…というよりは、刀身へと化した前腕に加え、ひしゃげた拳銃で支持した上で、攻撃を止める。
他の物質に変化した部位に感覚がないのはよかった。もし刀身にも感覚が通じていたのなら、この一撃で前腕が折れたと錯覚するほどの痛みで、アキは悶えただろう。
攻撃を防がれたスピカが、また下がると同時に、アキの足が前へと動いた。もちろん、剣を床に擦り付けるような、脇構え風の格好で、だ。
アキの胴体が回るのと、スピカが斜め左へと飛びかかったのは同時であった。スピカの体が、アキの剣すぐ下を掻い潜り、迫る。
アキが剣を振り切ったころには、スピカの掌底がアキの腹横部を貫いた。ちょうど、骨により内臓が守られていない部位だ。
峰打ちとはまた違う、抉られたような痛みがアキの全身に襲いかかり、脚の力を奪う。
苦悶の表情を浮かべるアキに対して、スピカは涼しげな顔であった。
「攻撃の引き出しが少な過ぎます。アキ様がかのように斬ることは予測しておりました。化け物であれば通用するでしょうが、対人において初擊を見切られることは致命的です。」
いつもと変わらない様子で話すが、アキには気を抜けば聞き逃してしまいそうな声に聞こえていた。
剣を杖の代わりにして、内側から悲鳴を挙げる体躯に喝を入れながら、ゆっくりと立ち上がる。
新しい課題は、攻撃のレパートリーだ。それも、なるべく隙の少ない、外れてもすぐさま防御、あるいは二の太刀に繋げられるような攻撃を。
また、脇で構えたアキが走った。次は間合いに入る前から、剣を振り上げる。
スピカが再び左へ動こうとした時、アキは胸の辺りまで振り上げた剣を、手前へ引いた。そのまま手繰るように引いた剣を、ちょうどこちらへ一歩迫っていたスピカに向けて突き出す。
「っ!…甘い!」
予想外の攻撃に瞳孔を縮めたスピカだったが、刀身を沿わせるようにして、その突きをいなした。
そのまま距離を詰め、もう一度アキの腹に一撃を与えようとする。
ところが、何かを感じたスピカは攻撃を繰り出さず、前方へ飛び込むように転がった。
飛んでから少し遅れて、アキの剣が左反側を薙いだ。あのまま距離を詰めていたら、この一撃でスピカの体は横一文字に裂かれただろう。
攻撃は与えられなかった。しかし、アキがダメージを受ける前に、剣一本で仕切り直しに持ち込むことはできた。咄嗟に動いたとはいえ、スピカとの組み手で一撃を凌いだのは、大きな進歩だ。
「…この短時間で、攻撃の幅を広げますか。流石です、アキ様。ようやく夢魔らしくなりました。」
「あ…ありがとうございます。」
初めて、スピカから褒められた。
そういえば夢魔となってから、いや、一度死ぬ前より人から褒められた覚えはない。一度や二度はあるかもしれないが、思い出せないほど久しい気がする。
「喜んでいる場合ではありません。夢魔"らしくは"なりましたが、それに相応しいと呼ぶにはほど遠いです。我々の敵は…ん……っ!?」
構えながら叱責するスピカが、不意に構えを解いて眼を押さえた。
そのまま膝をついてうずくまり、悶える。
「…ぐがっ…ぁああっ…め…あぐっ…!!」
「す、スピカさん!どうかしましたか!?」
慌てて駆け寄るアキの返事にも答えず、眼を押さえたまま、痛みや苦しみに耐える呻きをスピカは挙げ続ける。
その呻き声が収まるのに、時間はかからなかった。スピカの反応とは逆に、そう大それた事象はおきていなかったようだ。苦痛が引いたのか、顔を上げたスピカが、こちらを案ずるアキを見るなり口を開いた。
「…あれ…目…見え……」
アキには聞き取れないほど小さな声で、スピカは呟いた。なぜか、今まで真横に接ぐんでいた唇が、少しだけ上を向いている。
その顔はすぐに驚きに打たれたような顔に変わるとすぐ、スピカはアキの鳩尾を突いた。掌底ではなく、拳で。
「な…んで…!」
訳も分からずに受けた突然の攻撃に、アキの意識は断たれた。腹部に手をやり、頭から床へ伏す。
「…お許しください。今のわたくしめには、アキ様を見ることは…」
普段の能面でズレた眼鏡を戻し、気を失ったアキを見下ろすと、顔に暗雲が立ち込めていく。アキへの不意討ちについて申し訳なく思ったのだろうか。
その場で正座して、その膝にアキの頭を乗せる。そして、頭をそっと撫でて、また一言だけ呟いた。
「…ねぇ、アルク。貴方…帰ってきたの?」
その口から出てきた、聞いたこともない名前。
その言い方からして近しかった者なのだろうが、それ以上のことはスピカ以外には知る由もない。
…ある人物を除けば。
「死者を甦らせる術なんて、夢魔にはないわ。」
背後からの声に、スピカが振り向く。
そこには扉に背を預け、こちらを愉快そうに眺めるセレネがいた。
「…存じております。夢魔は、ただ精を貪る存在であることは…重々に存じております。ですが、わたくしがその様な存在に成り果ててまで守りたかったものが帰ってきて、どうして心穏やかでいられましょうか…」
「その守りたかったものを殺したのは、貴女じゃなくて?」
憂いに沈んでいたスピカの顔が一変した。目を見開き、眉を吊り上げ、眉間に深い皺を寄せた、憤怒のものだ。
「うるさい!!!」
振り返るなり、煮えた腸を吐き出すような怒鳴り声を挙げた。普段より従順であったスピカが、主であるセレネに向かって、だ。
怒りに眼を開いたスピカだが、一つ瞬きして、あの顔に戻る。
「…取り乱してしまったことを、お詫びします。どうかお許しを。」
スピカは詫びるが、セレネはただ、こちらに笑いかけるだけだ。女中のささやかな無礼など、気にしていないようだ。
「呪縛は解けたようだけど…気をつけることね。成熟の期間は過ぎた。けど、貴女が邪魔をしたお陰で、まだ気の抜けない状態だわ。アキをあの子に重ねるのは勝手だけど、うっかり襲わないようにすることね。じゃないと、また大切な子を失うことになるわ。」
それだけ言い残すと、セレネは部屋を後にした。
開け放たれたままの扉の向こうへ、カツカツとヒールが床板を突く音が遠退いて行く。
やがて、それが消えていったのを確認してから、瞼を閉ざすアキにスピカは軽い口付けをする。
そのまま、名残惜しげに立ち上がった。眼鏡を外して、懐にしまうと、一降りの短剣を取り出す。
刃を寝かせるように持ち直して、震える手でそれを、己の目の前に突きつけた。切っ先を見つめる、澱んだ碧の端からは、一滴の涙が頬を伝っていた。
「…アキ様。戒めは解けてもまだ、わたくしには…アキ様のお顔を目にする資格などありません。」