いつもの夢から、聞き覚えのある声によってアキは目を覚ました。
あの不意討ちに近い一撃を受けてから、どれだけの時間が経ったのだろう。無駄だと分かっていても、窓の向こうへと目をやる。
やはり、気を失う前と変わらず、青が少しばかり混ざった夜の戸張しか見えない。このような時ほど、時計が欲しいと思うことはなかった。
まだ霞みが深くかかる頭で、目を擦りながら辺りを見回す。こういう時、起こしてくれるのはスピカだけだ。自分の傍らで立っているのだろう。
案の定、スピカが枕元に立っていた。何のことはない。夢魔となってからは普段とさほど変わらない光景だ。ただ、普段と異なったのは、彼女の顔を見るなり、アキの顔が驚愕で歪んだことだ。
スピカの顔に、あの変化に乏しい澱んだ瞳はなかった。
代わりに、眼窩にあたる部分に血と膿が染み込んだ包帯を巻いている。
寝起きで浅い思考のアキでも、その布切れの下がどのようになっているのか、容易に理解できた。
「す、スピカさん!?その眼、どうしたんですか!」
「お気になさらずに。わたくしは夢魔でございます。これしきの傷、数週間で癒えるでしょう。目も見えずとも、わたくしの仕事に大きな支障はございません。」
慌てるアキとは対称的に、感情が読み取れない声でスピカは返す。この目の傷を"普段と違う"と自覚していないようにも思える。
「そうじゃないですよ!目が見えないけどどうこうの話じゃあなくて…何故スピカさんが、そんな大怪我をしているんですか!?」
「…アキ様に関係のあることではございません、どうかお気になさらぬよう。」
「そんなの、できる訳がないじゃないですか!スピカさんがそう言ったって、"はいそうですか、分かりました"って納得できると思いますか!?」
にべもない対応に苛立ちが涌き出たか、声が荒くなる。ベッドに預けていた体を起き上がらせて、今にも殴り飛ばさんとするような剣幕で詰め寄る。
「落ち着いてください、アキ様。アキ様のせいでこうなった訳ではありません。」
「そんな事言われても!」
「これは…わたくしの、わたくしへの戒めなのです。」
「戒…め?」
遮るように告げられた言葉を復唱する。その意味することに、アキには心当たりがあった。
あの夜、スピカに勧められてシャワーを浴びた夜だ。セレネから性交を禁じられていたのにも関わらず、誘惑されるままに何度も、枯れるまで乱れた、あの夜だ。
彼女の言う戒めとは、あのことか。そうなると、己の眼を抉ることになったのは、他でもなく自分のせいということになる。
「…ごめんなさい。」
無意識に点いた怒りの火が吹き消されたように、悔恨に満ちた声でスピカに謝った。あの時の軽率さに、自責の念が分厚い鉄板となり、心を押し潰してくる。
それでも、彼女は責めることも嘆くこともせず、変わらない様子でアキの腰に手をやった。
「アキ様、どうか謝らないで下さいませ。アキ様にお詫びをされては、戒めの意味がありません。」
そう慰められても、アキの心は重みを増すばかりだ。そんな彼の心境を察したのか、腰に置かれたスピカの手がするりと頬まで登る。
そのまま軽く顔を押さえると、静かにスピカは唇を重ねた。
「…!!!」
意外にも、唇はすぐに離れた。ただ重ねるだけのキスだ。
心臓が爆ぜたような顔でアキは自分の口元に指を当てる。スピカとのキスは何度もしたことがあるのに、まるで初めてしたかのような、
「このようなったこと…わたくしは後悔していなければ、アキ様を恨んでもおりません。ただ、差し出がましいようですが、時間を下さいませ。そうすれば、わたくしはアキさまのお顔を、また見ることができると思うのです。」
スピカは巻かれた包帯の向こうで、優しげな微笑みをこちらに向けていた。ぷくりと膨らんだ唇で作られた笑顔は、この言葉に偽りがないことを強調していた。このような表情は、久方ぶりに見たような気がする。
彼女につられるように、アキもゆっくりと微笑んだ。こんな自分を許してくれた喜びと、まだ残る良心の呵責の混じった、少し重い笑みだった。
「…スピカさんは、どうして僕に優しいんですか?無愛想で冷たい人だと思っていたのに、どうして僕にそんな笑顔を見せてくれるのですか?」
「…その質問には、答えかねます。何故だか、わたくしにも分からないのです。」
と、困った様子で返したかと思うと、ただ…と続ける。
「…アキ様といると、何故か笑顔になれるのです。不思議ですよね、わたくしが最後に笑ったのも百も二百も前だといいますのに、まるで笑い方を…"嬉しい"、"楽しい"ということを思い出すことができたかのように、笑うことができるのです。」
また、笑ってくれた。思い出してみせたのは、影のない笑顔だ。それは、漏れようとしていた"ごめんなさい"という言葉を、喉で止めてくれた。
「…ありがとう、スピカさん。」
また少しだけ、アキの心が軽くなった。
* * *
「…積み荷を下ろしていたと思われる作業員の男性三人の遺体が、港で見つかりました。遺体の胸には巨大な切創が見受けられた他、獣毛が検出たことから、熊による被害として調査を進めています。」
"仕事"のない日は、あの公園を目指して歩くことが日課となっている。目的の一つは今さら書くこともないが、もう一つは、あの男に剣を教えてもらうことだ。
物騒なニュースが誰かの家か店から流れてきたが、周りはさほど用心している様子はなかった。身近に起きた事件とはいえ、所詮は他人事なのだろう。
アキ自身も、あまり気にしなかった。マグノリアに会ったら、用心するように伝えておこう。仮に熊と出会っても、自分なら撃退ぐらいはできるだろう。それ程のことしか考えていなかった。
身の上を弁えてか、途中から極力人の少ない路地を選んで進んだ。腕に剣を納めて持ち歩くことも考えたが、納めた剣を体から切り離せるかどうかが分からないので、やめておいた。
それに、人気の少ない道であれば、何かが迫ってきてもすぐに気付くことができるはず。そう考えての移動だった。
やはりというべきか、路地裏に入ってすぐに何かの気配を感じた。
人のものではないことは分かっていた。
"奴ら"が現れる時の空気ー泥のように湿った、極めて居心地の悪い空気には、流石に慣れた。アキにとって、もう4回目の経験なのだ。
右腕を刃に変え、周囲を確認する。
気配の元は近い。
もしかしたら怪物だけではなく、あの魔女のような風貌の女とも会えるかもしれない。
しかし、女はいなかった。ただ高い壁が影を落とし、静寂を讃えているだけだ。
何かを目視する前に、アキは走りだした。
前方の曲がり角の先から、あの怪物は来る。
そのような予感が背を押していた。
それは見事に的中していた。
角を曲がった先にあったのは、幾度も対面した件の生物が、いままさに這い出ようとしていたところだ。
直面するや否や、引き擦っていた剣を、思い切り振り上げる。
恐怖はなかった。少ない回数とはいえ、剣での稽古を付けたことで芽生えた自信が、それを拭い去ってくれた。それに、形状こそは人とのものはいえ、外見は似ても似つかない"モノ"なのだ。
だから、躊躇いもなかった。
濡れた手拭いで机を叩いたような軽い手応えの後にすぐ、厚い刃は怪物の胸から上を、真一文字に裂いた。一呼吸置かずに、アキの剣は袈裟懸けに怪物へと振り下ろされる。
(やった…!)
三等分に断たれた大振りの腐肉がアスファルトに潰れたのを確認して、柄でもなくアキは対の拳に力を込めた。まぐれ当たりでもない、初めての首級だ。目に見えて現れた成長に、歓喜を唸るように絞り出す。
寸でのところで不意討ちを避け、それを思い知る。
幸い、皮一枚を切られただけ。とはいえ、少しでも油断していた己を叱りたい気持ちになる。
「このっ!」
ムキになったように、アキは乱戦の洗練を与えた一頭との距離を詰めた。
迎え討つように向こうも腕を振り上げるものの、スピカとの攻防に慣れたアキにとって、怪物の動きなど止まって見えていた。
腕が降り下ろされるよりも遥かに早く、アキの体は肩口から怪物と強く衝突した。何の変哲もない体当たりだが、態勢を崩すのには十分な威力だ。
怪物が尻餅を付くと同時に、次はアキが剣を振り下ろす。
体勢を立て直す暇もなく、怪物の体は腐臭の強い雨を降らせながら、薪のように左右に別れて動かなくなった。
ーあと3体。
止めどなく涌き出るアドレナリンに任せて、アキは剣を振り続ける。
セレネやリオスとの戦いぶりとは比べるのも気の毒なほど不恰好ではあったが、初めての対面時に失禁するほど恐怖していた頃を思えば、大き過ぎる成長だ。
引っ掻き傷を3つほど貰ったが、程なくして最後の一体の首を跳ねた。周囲には活動している怪物はいない。
「やった…やった!僕がやったんだ…!僕が!僕が倒したんだ!」
初めて、怪物を一人で全滅させた。この上ない興奮が、アキの四肢に力を込める。周囲のことも気にせず、一人鬨の雄叫びを挙げた。声にならない叫びが、大気を震わせる。
それはすぐに止まった。まだ不快な気配は消えないのだ。
一体し損じたか。
興奮冷めやらぬまま、周囲を探す。
それは、すぐ後ろにいた。次は人のような形態とは違った。
熊…いや、丈だけなら4tトラックにも勝るかもしれない。
クマ科の動物をそれほど巨大にしただけという、単純明快な外見のものだ。
アキの表情が強張った。
あれこそ、繰り返し見る夢の中で、決まって彼を薙ぎ倒す化け物だ。
違いといえば、辺りの風景ぐらいだ。
つい先ほどの戦いの疲れも忘れ、アキの足が地を蹴った。驚きこそはしたものの、これを前にしても"恐い"とは思わなかった。
木偶を数体切り捨てたことで、確信を持ったのだ。
"今の自分なら、造作もない"
お得意の、振り上げるような逆袈裟を、"熊"に放った。
強烈な抵抗を二の腕を通して感じたかと思うと、それは柔い物体を突き抜けるようなものへと変わる。
ー仕留めた。
口元を僅かに歪ませる。
やはり自分は、間違いなく強くなった。
怪物が相手であれば、もう助けなどいらない。今の自分であれば、ようやくマグノリアを守ることができる。
悦に浸る中、アキは壁に向かって勢い良く飛んだ。
自らの意思ではない。何か強い衝撃が、アキを吹き飛ばしたのだ。
状況の変化に対応できず、横腹を壁へ叩きつけられた。
鉄にも似た味が口内を支配し、左半身に鈍い痛みが広がる。
左半身だけではなかった。全身…外側だけでなく、体の中からも強い痛みを感じた。
"熊"の体には、大きな傷を負わせることができたのは確かだ。現に、あの巨体の腹からは、突き刺すような異臭のする液体と、
自分の体に眼をやる。
攻撃を受けたであろう場所の筋組織は抉れたように消し飛び、あまつさえ骨が、千切れた臓物が覗いている。
こちらのほうがダメージが大きいのは、目に見えて明らかであった。
「く…そぉおおおおお!!!」
ふらつく脚に、まだ残る力を全て込めて、傷目掛けて剣を突き立てるべく、もう一度"熊"へと駆ける。
まぐれ、たまたまだ。今のは油断していただけ。次こそはヘマはしない。
そう言い聞かせて内臓痛を抑えながら、極限まで絞った瞳で"熊"を睨み、振りかぶった。
それよりも早く、"熊"は動いていた。
得物の振れない間合いまで詰めると、アキを抱くように捕まえた。そのまま、華奢な体を両の腕で締め上げる。
腹の底から絞りでた呻き声を垂れ流しながら、アキは拘束から逃れようと暴れた。
(な…なんで…?深手を与えたのに、なんでこんなに元気なんだ…!?)
焦燥。混乱。苦悶。恐怖。
締め付けられる苦痛の中で、様々な負の感情が脳を駆け巡る。
「…んな…ところでぇ…!!」
それでも一心不乱に剣を振り下ろし、分厚い肉を蹴り飛ばす。
そのような抵抗も意に返すことなく、万力の力は強くなっていた。アキによって腹を切られたぐらいのことでは、全く弱っていないようだ。
抵抗が終わったのは、アキの背後から、何かが砕けたような音が響いたのと同時であった。
「ごげっ…ぇ…」
潰れた蛙のような声が深紅の泡と共に漏れ、混ざり合った感情を「絶望」すらも残さず吹き飛ばす。
ようやく、拘束から解放されたアキの体が宙を舞った。
骨格のない人形のようにぐにゃりと歪に変形しながら、地へと落ちる。
常人ならば、とうに天に召されているだろうが、夢魔の頑丈すぎる体が、ここにきて仇となった。
腹を抉られ、背骨をへし折られて尚、アキはまだ"生きることを"余儀なくされるのだ。
(…ウソ…こんな…はず…じゃあ…)
あり得ない形に曲がった体で、アキは夢魔になる前のことを思い出していた。呼吸もできず、もがくこともできず、ただ苦痛の中で水底へと沈んでいた、あの時。
状況こそは違えど、まさに今、夢魔となった後でも同じ経験をしているのだ。
あの時は幸いにもセレネが助けてくれたとはいえ、今回ばかりは、誰も助けてはくれないだろう。
このまま止めを刺され、消えてしまうのだ。
(…マグノリア…スピカ…さ…ん…)
死を覚悟して、目を閉じた。
もう、呼吸するのも嫌になっていた。
手負いの"熊"は、もう目の前まで迫っていても、もはや逃亡する素振りも見せなかった。
不意にアキの体が持ち上げられた。
巨大な腕を巻き付けられたような具合ではない。何かに勢いよく引っ張られるような持ち上げられ方だ。
霞んだ視界の先は、路地の壁が凄まじい速さで流れている。
これが噂に聞く走馬灯なのか。
そう思えるほど、奇怪な景色であった。
「アキ坊、まだ死ぬんじゃないッスよ!!」
聞き慣れない声だ。
女の声に違いないが、それにしても野太い。とはいえ、心当たりがない訳ではなかった。
どこかで聞いたことがある。
初めて聞いたのは、あの館の中でも、公園でもない、別の場所だったような気がするが、思い出せない。
いや、もうどうせ助からないのなら、思い出しても無駄だ。
冷たく強い風に撫でられながら、アキは眼を閉じた。