真紅の布団の中で目を覚ますと、アキはあの豪華な部屋にいた。
昨晩、いや、それ以上前にも目を覚まし、セレネという女と揉めた寝室だ。
ベッドから降りて、窓から外を見てみる。
辺りは暗く、厚い黒雲の向こうで小振りの月が薄らと瞬いている。夜になるまで眠っていたのだろうか。
ふと、自身の胸に手を置いてみた。
トクン、トクンと普段と変わらない早さで拍動を続けている。こうしていると、自分は既に死んでいることを忘れそうになり、少しだけ落ち着く。
しかし、アキの"人としての"生はとうに終えており、今は夢魔として生きている。それだけは忘れられなかった。
胸に当てていた手で、頭を撫でてみる。
少しごわごわとした手触りが続き、何かに引っ掛かる様子はない。
「まだ、完全な夢魔になった訳ではありません。角は付いておりませんよ。」
背後からの声に振り向くと、そこには女が立っていた。
背丈は13歳のアキと変わらない。
うなじまで伸びているブルネットの髪を束ね、丸縁の眼鏡の奥で淀んだ暗い目付きを覗かせている。
背丈や幼い見かけに合わぬ、豊満な体に纏った長いエプロンドレスという格好を見ると、ここに仕える家令だろうか。
その女は両手に抱える籠を足元に置くと、表情を変えぬままアキに告げた
「失礼しました。わたくし、この館の主たるリオス様、並びにセレネ様に仕えております、名をスピカと申します。よしなに。」
スピカと名乗る女中に、会釈と共に返すアキ。
スピカの自己紹介の中に、気になる名前があったことに気付いたのは、その少し後だ。
「えっと…そのリオスっていう人は?」
「私の主人様です。リオス様には会われていないのですか?」
「は、はい。助けてくれたのもセレネさんでしたので。」
「左様でございますか。でしたら、ちょうどリオス様がお呼びしていたところですので、ご案内します。その前に…」
こちらへ歩こうとしたアキを静止したスピカは、ふぅと溜め息に似た息を吐いた。
無表情の彼女が、初めて見せたリアクションのようにアキには見えた
「こちらのお召し物にお着替え下さい。アキ様もこの館の一員とはいえ、その格好でリオス様に会うという粗相は、あのお方もわたくしも許しません。」
気付いたように、アキは自身の姿を確認した。
文字通り一糸纏わぬ姿だ。
以前ここで目が覚めた時は、生前と同じ服を着ていたのに、何故か下着すら身に付けていない。
慌てて一物を隠す姿を尻目に、スピカは嫌味な笑みと共に一言呟くと、部屋を後にした
「年のわりには、立派な"物"をお持ちしているのですね。」
* * *
用意された服を着たアキは、スピカの後に続く。
膝まで丈のある黒いズボンに、半袖にのカッターシャツという自然な格好だったが、彼の顔は赤いままだ。
裸を見られたという羞恥心に加え、差し出された衣類の中に下着がなかったため、直接ズボンを履いていることも恥ずかしく思ったからだ。
「あの…パンツとか、なかったのですか?」
「下着の類など、夢魔には不要ゆえ、準備することができなかったことはお詫びします。お望みであれば、後日用意いたしますので、どうかしばらくはそのままでご容赦ください。」
と、スピカが視線だけをこちらに向けて答える。
謝罪を受けた気にならなかったが、女中に文句を言っても仕方がないだろう。
風が衣類の中を通る度に声をこらえながら、少々内股で歩いていく。
緊張と羞恥で、さほど歩いていないはずなのに、途方のない距離を歩いた気分だった。
「こちらがリオス様のお部屋でございます。」
大きなドアの前で立ち止まったスピカが、また顔のみアキの方へ向けて言った。
二人の前には、金の取っ手の付いた重々しいドアが、こちらを見下ろしている。
威圧に尻込みするアキに対し、慣れている様子でスピカはドアを3回ノックする。
「スピカでございます。アキ様をお連れいたしました。」
扉の向こうにいるであろうリオスの返事が出る前に、アキはスピカに入室するよう促した
* * *
ドアの先には、リオスと思われる男が椅子に腰かけていた。
腰まで伸びた白髪に色気のある顔立ちの、細めで高い体躯をした男だ。
こめかみにはセレネと同じく、牡羊のような立派な角が生えている。
角が生えている点と妖艶な雰囲気を醸し出している点は、同じ主であるセレネと似ている。だが、おおよそ服とは言えない格好をしている彼女とは異なり、こちらは礼服を思わせる衣類を、程よく肉の付いた身体に、張り付けるように纏っている。
「来たか…私がリオスだ。セレネが勝手な真似をしたことについては、私から詫びよう。すまなかった。」
と、アキが部屋に入るや否やリオスは立ち上がり、アキの前に膝を着く。
慌てて立ち上がるようアキは言うが、その膝が床から離れるのに少しの時間を要した。
再びゆっくりと立ったリオスが、アキを見る。
先ほど雰囲気はセレネに似ていると表したが、感情の現れに関してはスピカに近かった。
喜怒哀楽を読み取れない顔で、また男が口を開く。
「こうなった以上、君の面倒は私達が見よう。君が寝ていた部屋は、自由に使うといい。」
夢魔となったアキの顔に、初めて笑みが零れた。
自宅という居場所が無くなり、途方に暮れたばかりである事を考えると、大袈裟とも言えないだろう
「ただ、一つ、夢魔として手伝ってもらうことがある。」
ようやく見られた笑顔が、たちまち不安に変わる。それを気に留めるとこなく、リオスは続けた
「アキよ、例えば君の家が何かしらの害虫による被害を被ったとしよう。君はどうするか?」
「どうする…って、そりゃあ業者に頼んで駆除してもらいますけど…」
「そうだろうな。我々夢魔は、君の言うところの業者にあたる。人間に害を為す存在を駆逐することが、現在における我々の役割だ。説明すると長くなる故、理由は省かせて頂く。」
「僕に、その手伝いをしろ、と?」
リオスの唇端が上へ引き上げられた。話が早くて助かるとでも言いたさげな顔だ。
能面のような顔がようやく変化したものの、こちらも先のアキ同様すぐに元へと戻った
「無理強いはしない。ただ、これからやる仕事だけは、どうか見ていて欲しい。」
やおら立ち上がったリオスが、扉の方へと歩いて行った。部屋を出る前にスピカのほうを一瞥し、ただ一言
「スピカ、留守番を頼む。」
とだけ残すと、スカートを軽く上げて一礼するスピカには目もくれずに、部屋を後にした。