「目ぇ…覚ましたようッスね。」
再び目を開いた先にいたのは、巨大な女であった。
豊かに実った乳房で膨らんでいるタンクトップからは、幹のような太い腕、割れた腹がはみ出ている。
加えて、紋章にも見える刺青が、日に焼けた肌も相まって目立つ女だった。
女の顔を見た。
赤と黒、2色に分かれた髪の下で、快活に輝く緑の瞳が、アキを眺めている。
「…あの…あなたは…?」
「あれ、教会とかで会ったような気もするんスけど…覚えてないッスか?」
まだ銅鑼が響くように痛む頭で、思い返してみる。
そう言われると、リリィと会ったあの日、道すがらこの女とも挨拶を交わしたような気もした。
…いや、初めて会ったのは、さらに前。怒りに任せて暴れていた自分を止めてくれたのは、この女だ。
「そういや、自己紹介がまだだったッスね。おれのことはアッシュと呼んで欲しいッス。…ああ、君の名前がアキってのはリオスさんから聞いたんで、大丈夫ッスよ。」
アッシュと名乗った女の口から出た名前に、ハッとした様子で周囲に視線をやる。今いるのは、見慣れた自分の部屋だ。
夢魔であるセレネやリオス、スピカ以外の者が、館に来ているのも初めて見る。彼女も夢魔なのだろうか。この館に足を踏み入れ、見えない筈のリオスとの対話ができるのを考えると、少なくとも普通の人間とは違うのかもしれない。
「あ…アッシュさん…僕…いつからここに…?」
「二週間前ッスかね。それまでは、死んだようにぐぅーっすり寝てたッス。」
あの"熊"に殺されかけてから、それだけ経ったのか。思った以上に早く経過した時間に、アキは驚きを隠せない。何より、それだけの日が経っているのにも関わらず、この部屋に着く前から全く痛みが引いていないことが大きかった。
「スピカさんには、感謝することッスね。二週間の間、ずっと看病していたのは、あの子なんスから。顔見せに来たら、労いの言葉でもかけるべきッス。」
自分の体を見回す。
確かに、あちらこちらに包帯が、丁寧に巻かれている。
花畑に足を踏み入れかけるほどの傷を負ったはずだが、止血も包帯の交換も、全てスピカが一人でやってくれたのだ。それも、目が見えない状態で。
彼女にはこの上ない借りができてしまったようだ。
んじゃあ、と部屋の後にしたアッシュを見届けるアキに、一つの疑問が生まれた。
そういえば、スピカの姿が見えない。いつもなら、アキが眠っているときはスピカが起こしてくれるのだが。
おそらく、他の家事で手一杯なのだろう。女中はスピカしかいない上、今の彼女は目が見えない分、作業にも時間がかかるはずだ。手伝おうにも、身動ぎするだけでも身体が悲鳴を上げてしまう。
まずは、体を休ませることが先決だ。今の状態で助けに行っても、逆に足を引っ張るだけだろう。
アキの体が、また雲のようなシーツに預けられた。そのまま寝息を立てるまで、全く時間をかけなかった。
* * *
相変わらず、気持ちの悪い夢だ。
ドロドロのしたタールが、アキの首筋にまで登ってきている。
痛むはずの腹から叫んでも、何も聴こえてこない。ただ、自分ではない"アキ"の嘲笑が、豆腐の中身を思わせる部屋に響くだけだ。
怪物の気配には慣れても、より数多く経験している筈の夢には、未だに慣れずにいた。そんなアキでも、この先のことはさすがに読めていた。
そろそろ、このタールに飲み込まれる。その寸前に、目が覚める。普段なら、決まってそのような展開になる。
だが、アキの思惑に反して、タールはあっさりと引いていった。
剥がれるように、体から離れ、床へと収束していく。
明らかに、いつもの夢とは異なっていた。
普段とは違う展開に、困惑の色を隠せない。軽い混乱の様子を見せるアキの前で、部屋を満たしていたタールが一点に集中する。
ついには、あの黒い液体は一つのシミとなった。床と壁とな境目も分からないほど白い部屋の中の出来事だ。意識せずとも、それが目についてしまう。
不快感から解放され、ようやく安堵の表情が浮かぶ。ところが、アキにはホッと一息つくだけの時間しか安寧を与えなかった。
シミが僅かに盛り上がったと思えば、驚くべき早さで隆起し始めた。
始めは、バスケットボールほどの。人の顔程の球体を成した。
その球体の真下に一本の短い支柱が生え、少し伸びたところで、柱は肥大した。
球体を顔と見立れば、腕も脚もない真っ黒のマネキンのように見えた。
アキの胸囲までに膨らんだそこから、さらに棒状の物が4本、左右対象にはえる。
ー未完成のマネキン?違う。これは、人体だ。それも、僕と同じ背丈の、体格の。
ー僕を、あのタールみたいなもので形成されている?
その通りであった。
四肢のように伸びた4本の棒が、ちょうどアキの腕、脚と同じ長さになったところで、ピタりと止まったのだ。
膨張すら止めてしまったそれは、頭部、首、胸、腰、四肢を、寸分違わぬ精度でアキの形を成している。
ー気味が悪い。
青ざめた顔で、"早く醒めてくれ"と、今まで以上に念じる。そんなアキを嘲るかのように、のっぺらぼうの顔に半月状の亀裂が入った。
* * *
ようやく、
頭が痛い。眠りに落ちる前よりも悪化している気がする。
気持ちが悪い。胃の中の物だけでなく、内臓すら吐き出してしまいそう。
寒気がする。冷凍庫に放り込まれたみたい。
朦朧とした意識の中で、自身の体調を確認する。とにかく、最悪だ。不快感が痛みを遥かに上回って、アキを支配している。一応、壁を伝えば立てるほどには、回復はしている。
壁に体重の半分以上を預けたまま、ヨタヨタと歩き出した。
ーあれ?どこへ歩いているんだろう?
とにかく、今は眠っていたい気分ではなかった。あのような不気味な夢は、二度と見たくないのだ。
ーまぁ、スピカさんに会いに行こう。多分、今の気分を楽にしてくれる薬か何かあるはず。…夢魔に効く薬なんて、あるのか知らないけど。
慌てて探したような理由で、今更ながら目的地を決めた。それだけ、不安定な意識であった。
壁を這い、幾度か躓き、意識を失いかけ、嘔吐感や頭痛に耐えながら、先が見えづらい廊下を進んでいく。
そうしていくうちに、向こうで誰かが一室に入っていく姿が見えた。
ーあ…スピカさん。
この屋敷を歩き回る人物は、彼女しかいない。セレネやリオスは、基本的に自室に籠っている筈だ。バタンと音を立てて閉まったドアを目指して、全身に力を込める。数十歩だけの距離が、地平線の先にまで感じられた。
目的地はすぐそこだ。そう言い聞かせて、躯を引きずっていく。
普段なら5秒もかからない廊下を渡るのに、十数分もかかった。ドアノブに残り少ない力を込めて、ひねる。そのせいで、ドアを開ける拍子に床へと倒れ伏してしまった。
「どな…アキ様!?」
スピカが振り向いたと同時に叫んで、アキの元へと駆け寄った。目は見えない筈にも関わらず、それを感じさせない足取りだ。
臥したまま、アキは何も言わない。彼のものと同じ広さの部屋には、ただ名前を呼びかけるスピカの声が、虚しく響くだけだ。
「…スピカ…さん…」
呻くような声で、ようやく返事をした。
「アキ様、そのままで!無駄な力を込めてはいけません!すぐに手当て致しますから、そのまま寝ていてください!」
珍しく、スピカが慌てるように戸棚へ走ったが、アキには聞こえていなかった。忠告とは逆に、力なく立ち始めていたのだ。
「…ピカ…さ…ん…」
膝をゆっくりと伝って、支えもなく完全に立ち上がった。二重、三重にもぼやけながらも、忙しなく戸棚を漁るスピカの姿を捉える。
気がつけば、背後まで歩いていた。最早一歩先を進むことが精一杯であった容態が嘘であったように、足に力がこめられた歩みであった。
「や……てよ…」
「アキ様!いかがなさいました?動いてはダメです!ベッドで安静に…きゃあ!!」
声に反応して振り向いたスピカの体に、アキがのしかかった。あのフラフラの状態から、無理をしてここまで歩いたのだから、当たり前のことだ。
…いや、そうではなかった。
力が抜けたように倒れた割には、両手はしっかりとスピカの手首を、それぞれ潰してしまいそうなほどの力で握り絞めている。
なにより気味が悪いのは、アキは笑っているのだ。それも、悪意を剥き出したような、邪悪な笑みだ。
消え入りそうな声から一転して、次はハッキリとアキの声が聞こえた。次の瞬間、下敷きになったスピカの背に、ひどく凍てついた感覚がへばり付いた。
その内容も、声色も、普段のアキからは考えられぬものだったからだ。
「ヤらせてよ…スピカさん…」