「…僕は…僕は…?」
どこでまた気を失ったのか分からない。
確か廊下でスピカの姿を見て、助けてもらおうとスピカを追って、部屋の中で倒れて…そこから何があった?
必死で記憶を辿るが、無駄な試みであった。そこから先は、何もない。何ひとつとして残っていない。
ひとまず、目の前を確認してみる。
目の前には…そこら中に痣をこしらえ、泡を噴いているスピカがいる。エプロンドレスは乱暴に開かれかられ、汗でじとりと湿った乳房が溢れている。
スカートが捲くられ、そこからスピカの淫裂と自分の肉棒が結合しているのが見えた。
…
「…え…は…はあぁ!?」
混乱したような叫び声を上げ、すぐさま引き抜いてスピカから離れた。さらに見渡すと、スピカの身体が包帯で雁字搦めに縛られている
「これ…僕が…僕が、やったの…?」
訳が分からず、放心してしまう。だが、このままにしておいて良い訳がない。まずは拘束を解かなければ。
急いでアキは腕を刃物に変形させようと試みる。が…
「あれ…変えられない…!?」
普段なら特に意識せずとも変形できた腕が、刀身に変わらない。普段やっていることである筈なのに、この状況に限って出来なくなっていた。
部屋中を見回してみる。包帯があるならば、それを切る鋏か何かはある筈だ。
ここで、急激にアキの目の前がボヤける。視界全体が霧に覆われ、意識が薄れていく。
「なんだ…これ…どうなっているんだ…」
身体の様子がおかしい。全身に力が無くなり、嘔吐感が込み上げてくる。四肢は鉛どころか鉄塊のように重い。
しかし、気絶している場合ではない。少なくとも、スピカは助けなければ。
ベッドから転がり落ちるように降りて、散乱していた救急箱のようなものを目指して身を捩らせる。たった一、ニ歩で済む距離の移動も、アキにとっては重労働だ。
それでも何とかたどり着き、箱を漁る。やはり、鋏はそこに入っていた。これで包帯を切ろう。使命感だけで自身を振るい立たせ、己の身体に鞭を入れる。
「…アキ…様…?」
掠れた声が、スピカの方から聞こえてきた。目を覚ましたのだろう。
「アキ様…?…アキ様…なのですか…?」
「あぁ…スピカさん。気が付いたんですね?今…包帯を…切ります…から…」
スピカは意識を取り戻したようだ。安堵の為か、さらに力が抜ける。それでもベッドに這い上がり、スピカを縛りつける包帯に鋏を入れていく。
石のように硬い包帯であったが、持てる全ての力を指に込めて、一箇所ずつなんとか切っていく。
「ゆっくりで…ごめんなさい…僕が…助けます…僕が…助けます…から…ね…」
「アキ様…ですか?貴方は…アキ様?本当に…アキ様…なのですか…?」
「変なこと…聞きますね…僕は…アキですよ。ぼく…は…ア…キ…」
なんとか縛られた場所を全て切り、解放できた。ホッと安心したところで、急激に力が抜けてくるのを感じた。一仕事終え、疲労のあまり眠りに落ちるような、そんな感覚だ。
あとは、スピカ一人でもなんとかなるだろう。自分よりはしっかりした
* * *
この夢も何度目だろうか。
今、自分は船が停まる港町を全力で走っている。
この後のことは、簡単に予想が付く。熊のような怪物に襲われ、海に落とされるのだろう。そこから、あの白い部屋に移動する。
しかし、今回は少し違う点があった。
両手が、とてもベタベタする。何かの液体が手に付いているのだろうか。指同士がくっついて、少し力を込めないと手が開かない。
アキは足を止め、自身の手を見る。
その手には赤黒いものがべったりと、両手全体に付着している。手だけではない。視野を広げれば、お気に入りの服にもそれは付き、シミを作っていた。
ー血だ。
手を見たアキはすぐさま理解する。
誰かを殴って怪我をさせたのか?それとも…誰か人を殺めてしまったのか?
すると…自分は何かから逃げている最中なのか?
そもそも、これは誰の血?
まさか…あの兄弟達の?
様々な憶測がアキの脳内を流星群のように流れては消えて行く。だがそれも、すぐに止まった。
腹の奥底から捻るように出された唸り声を聞いて、アキは思考を止めて見上げる。予想通り、あの"熊"だ。あいも変わらず生気を感じられない眼でこちらを遥か上空から見下ろしている。
すぐさま、防御の姿勢を取った。それでも尚、鈍く太い爪は腕を引き千切り、胴体を抉り取った。あの時と同じー路地裏で遭遇した時と全く同じ衝撃だ。違いといえば、アキの身体を受け止めてくれる壁がどこにもないことだ。
大型車両に轢かれたかのようにアキの華奢な身体が宙に舞い、血飛沫を咲かせながら水面に落ちた。
あぁ…これで次はあの部屋で目を覚ますのだろう。もう慣れたことだ。痛みも息苦しさも、特に気にすることもなかった。
* * *
夢から覚めた時、アキは自分の部屋にいた…筈であった。
瞼を開くと、紫色の空がまず映った。本来ならば薄暗いシャンデリアに照らされた部屋の天井が見えるのだが、本日はそうではなかった。
いいや、ゴミ袋はすぐそばに、それどころか自身の下敷きになっていた。住民が捨てたゴミ袋の山にもたれるような形で寝ていたようだ。
「あれ…ここ、どこ?」
何故、このような場所にいるのだろう。全く以て身に覚えがない。そもそも、あれからずっと眠っていたのだから、外出のしようがない。
一先ず戻らなくては。ゴミ溜めから身を起こし、体調を確認する。大分身体は軽くなった。しばらく走る分には問題ない。
とりあえず、街中を走りだした。普段は適当に走っていれば、自然とリオスの館に到着していたのだ。早く帰ってスピカに謝らなければ。
目的地こそは決めた上で走ってみたが、道はさっぱり分からない。そういえば、何時も帰る時はどのような道を通っても、ある程度の距離を進めば館に辿り着いていた。しかし、こんなに長いこと走っていたことはなかったと思う。
走り出してから少なくとも30分は経っただろうか、通ったことのない道や見慣れた道を巡るも、一向にそれらしき建物は見当たらない。
時間が経つ毎に、嫌な仮定が浮かんでくる。
──ひょっとして、もう二度とあの場所には帰れないんじゃあ…?
思い返すとスピカを縛る包帯を切る時、意識せずとも出来ていた腕の変形が出来なかった。もしや、もう夢魔ではなくなったのではないのだろうか?
いや、そうだとしたら、今の自分は何者になるのだろうか。少なくとも死体が揚げられた以上、人間に戻ったとは思えない。
考え事をしながら走っていく内に、胸を締める不安がどんどん大きくなっていく。辺りの光景に目もくれず走る中、気が付いたらあの教会の前─マグノリアが世話になっている孤児院の前で脚を止めていた。
(…そうだ、マグノリアに会ってみよう。彼女なら、僕が夢魔のままなのかどうかすぐ分かる筈だ。)
幸い、まだ門限ではないのか門は開いている。まだいつもの公園にいるのかもしれない。あまり疲れていない身体を、公園へと飛ぶように走らせる。
予想通り、マグノリアは普段と変わらず公園のベンチに座っていた。景色を楽しむ代わりに、全身で日の光や潮風、それに揺らされて擦れる木の葉の音を楽しんでいる。何も変わらない様子だ。
「マグノリア!」
「あれ、アキ君?こんな時間に珍しいね。」
名前を呼ばれ、こちらを振り向いて答える。何事でもない一言であったが、それだけでもアキを安心させるには十分過ぎた。
「マグノリア、僕のこと…見える?」
恐る恐る尋ねてみる
「…?ええ。とても急いでいるみたいだけど…どうかしたの?そんなに息を切らして…」
全盲であるマグノリアでも、アキの声だけでなく姿も見えるみたいだ。これだけは、何も変わっていない。
一つの不安が解けたためか、目頭が緩み、そこから大粒の涙が零れてきた。それを見て驚いたようにアキの元へ駆け寄る。
「ど、どうしたのアキ君!あたしと会っただけで泣きだしちゃって…」
「…ううん。何でもない…何でも…ないんだ…。ただ…何故だろう、すごく泣けてきちゃうんだ…!」
「もう…変なアキ君。ほら、泣き虫さん。これで涙を拭いて。」
差し出されたハンカチを受け取り、涙を拭いてから少しだけ時間を置く。落ち着いてから、今に至る経緯を説明した。
スピカに酷いことをしてしまったかもしれないこと
眼を覚ましたら外で寝ていたこと
暮らしていた館に帰ることができないこと
そして…もう夢魔ですらなくなったのかもしれないこと
常人には理解に苦しむような内容も、マグノリアは一言も聞き漏らすことなく聞いてくれた。
「もう…夢魔じゃあなくなったって…」
「うん…ごめんね、マグノリア。君を守るって誓ったのに…」
一度落ち着きを取り戻したアキだが、これからのことを考えると再び涙が零れそうになってくる。
そのせいでマグノリアと別れることになったらどうしよう。
もしも何かに巻き込まれて、命を落とすことになったらどうしよう。
ネガティブな思考が頭を支配する。
それでもマグノリアは顔色一つ変えることなく、むしろ柔らかな笑みでアキの手を添えるように触れた。夕日にたっぷり当たった柔肌が、とても温かく感じた。
「アキ君が何になろうと、あたしはアキ君から離れたりはしないわ。だって…アキ君は夢魔かもしれないけど、あたしにとっては、たった一人の天使様なんだもん。」
──あたしにとっては、たった一人の天使様なんだもん
この言葉を聞いたアキが、俯いたままとはいえ、ようやく微笑んだ。…ただし、純粋に安堵の表情ではなく、腹に一物を抱えたような、下卑た笑みだ。
そう、昨夜スピカに散々見せた、あの笑みだ。マグノリアには見えないが、確かに今アキはそのような顔をしていた。
「…ありがとう、マグノリア。今夜はもう遅いね。僕が送るよ。」
「ふふっ、元気になってくれた?それなら…エスコートして貰おうかな。」
違和感に気付かないのか、マグノリアが無邪気に差し伸べた手をそっと握り、アキは手を引いて歩きだした。
「…足元、気をつけてね?ちょっと近道するから。」
「近道?そんな道あったかしら?」
「最近僕が見つけたんだ。その道なら、すぐに教会まで帰れるからね。」