「…あれで、よかったのでしょうか?」
館の中では、モップを握るスピカがセレネに尋ねていた。普段と変わらない氷のような声色で、盲目を感じさせない動きで家事をこなしている。
「ここから出て行く他に、何かいい案があるのかしら?」
と、窓枠に腰掛けるセレネは答える。
「ここに居れば、また貴女を襲うかもしれないわ。そうなれば、あの子はもうアキではなくなるでしょうね。時が来るまで大人しくしていれば、或いは助かるかもしれないわ。」
「しかし、ある程度とはいえ、夢魔としての力を没収してしまうのは、少々やり過ぎでは…」
「あら、スピカ。私に対して口応えする気?」
咎めるような口振りに対して、怒りや呆れのような感情は出ていない。少しばかりスピカを困らせようと
「そもそも、こんな事になったのは貴女が原因だって事、忘れてないかしら?あの子…アークツルスに重ねるのはいいけど、貴女の浅薄な行動のせいで、大事な人を失うことになるって思わなかった?」
モップを握る手に力が入る。明らかに今の言葉で動揺していた。
「まぁ…アキのままここに帰って来ることができるよう、せいぜい祈る事ね。貴女にはそれしかできないのだから。」
そう言い残すとセレネの小さな尻が窓枠から離れ、夜の闇の向こうへ消えていった。
燭台の光が、時より瞬きながら室内をぼんやりと照らしている。セレネが退出した今、この場にいるのはスピカだけだ。水音を静かに鳴らしながら、変わらぬペースで床を磨いていく。
しかし、僅かだが気付いていた。この部屋のどこかまでは分からないが、この場にいるのは自分だけではない、と。
「…セレネ様、リオス様から招待を受けていない者の来客は受け入れかねます。お引取りを。」
気が付けばその気配の方を向いて、警告をしていた。
* * *
5分。アキが怪物の殲滅にかかった時間だ。本来はもっと短縮できた筈なのだが、彼が"悪い癖"と称して丁寧にも微塵切りにしてしまったせいで、それだけ時間がかかってしまったのだ。
ふぅ。と一息つきながら、額で汗を拭う仕草をする。液体から漂う臭いが、二人の鼻を突いた。片方は充実感で、もう片方は恐怖のため、大して気にならなかった。
「ゴミ掃除を終えた後の酒はたとえ安酒でも美味いって、叔父さんが言ってたよ。お酒なんて飲めやしないけど、なんだか分かる気がする。」
「…今、マグノリアとヤったら、きっとすごく気持ちいいんだろうな。昨日なんかとは比べ物にならないくらい。」
横目でそこを見る。先ほどまでの強気な態度はどこへやら、異形とも呼べる成りのアキを前に、完全に腰が砕け、へたり込んでいる。今ならアキの思うがままに弄ぶことができるのは間違いない。
濁った眼でどこを見ているのか分からない状態のマグノリアにゆっくりと、それこそ一歩につき一分はかけて歩み寄る。一歩ずつ足を踏み出す度に、肩が跳ねる様が面白かった。
「さて…お待たせ。続き、シようか。」
返事はない。ただガクガクと身体を震わせ、こちらを見つめるだけだ。
「安心して、痛いのは最初だけ。あとは頭がふわふわして、そのあと身体もふわふわして、何も考えられなくなるほど気持ち良くなれるから…大人しくしてくれれば、優しくするからさ…」
無言、無抵抗なのをいいことに、両肩をしっかり持って、まずは綺麗に色付いた乳首に唇を寄せる。が、その手前でアキの動きは止まった。
──人の気配。
今しがた片付けた怪物とはまた違う。通りすがりの一般人だろうか。アキは見えないから良いが、マグノリアはそうはいかない。破かれた服一枚着た少女がこのような場所でへたり込んでいたら、まず保護されるだろう。
首だけを曲げてそちらを見る。そこにいたのは怪物ではなく、一人の人間であった。右の袖をはためかせながら、周囲をまじまじと見渡している。
「酷いね、これは…これだけ酷いやられ様は初めてだよ。」
隻腕の男、コブシが左手で頭を掻きながら、呆れたように呟く。次にアキを見つけたように視線を向けて
「久しいな、少年。これ、君がやったのかい?」
と質問を投げかけた。
「あーあ…三度目だ。なんでいつも、こう…邪魔ばかりされるんだろうな…」
「邪魔だったかね?」
「うん、邪魔。だから、さっさと消えてくれないかな?」
コブシはレンズに息を吹きかけてから、また眼鏡をかけ直して、もう一度アキを見た。埃を取ったところで、彼の邪悪な雰囲気は変わらない。
はて。と、指で顎を支えながら不思議そうに首をかしげる。
「雰囲気変わったなぁ。初めて見た時は純朴少年そのものだったというのに、気がつけば女の子一人捕まえて強姦の真似事か。随分とませているじゃあないか。」
苛立ちと殺気を滲ませるアキとは反対に、長年会えずにいた息子か甥とでも再会したかの如く、呑気な感想を述べた。
まるで脅威と感じていない。こちらを可愛らしいとすら思っているようだ。この反応にはアキの不満もみるみる肥大していく。
「さっさと消えろって、聞こえなかった?僕の邪魔をしないでくれるかな?二人っきりにしてよ。」
「そんな邪険にすることはないじゃないか、知らない仲でもあるまい。そんな事より、これは君の仕業かい?僕の知らない間に、随分と腕を上げたじゃあないか。鍛錬の賜物だね。感心、感心。」
それ以上、何も言わなかった。アキは警告なく鞭を振るい、躊躇なく首筋を狙う。
鞭の尖端はコブシを捉えた。しかし、首ではなく、外套の襟を僅かに掠めただけだ。
「…抜くまでもないか」
ポツリと呟いた。続いてアキが舌打ちする。こちらの方が音量は大きいが、確かに聞こえていたようだ。
それならと言わんばかりに、アキの手が鞭を撫でるようになぞった。するとどうだろう、一本だった鞭の先が二股、三股と分かれていくではないか。一本鞭というよりは、バラ鞭を太くしたような形状だ。その様子を、好奇の視線と畏怖の視線が釘付けになっていた。
「消えろって…言ってるだろぉ!!」
その鞭が乱雑に振るわれた。得物の尖端は目視できない。音速を優に超えると知られているそれを見極めることなど、無茶な話だろう。
バチン、バチンと大気を、壁を抉る音が周囲に響き渡る。少しでも掠れば、今度こそバラバラの肉塊の一つに仲間入りすることになるだろう。それでもコブシは眉一つ動かすこともなかった。寧ろ、どこか落胆したかのような雰囲気も見せてくれる。
コブシの足が動いた。そして、分厚い刃が乱れる空間に飛び込む。刀は鞘に収まったままだ。
すぐに、鈍い手応えが鞭を介してアキの腕に伝わった。やったか?否、それはコブシが持つ剣の柄で弾かれたものだ。綻んだ顔がまたも一転。フラストレーションを隠さぬ表情に戻る。
躍起になって四方に鞭打つが、そのどれもが標的には至らなかった。全て涼しい顔をしたコブシに弾かれ、避けられ、あらぬ方角を叩く。
訳が分からなかった。目を瞑っても当てられる筈の攻撃が、全て外れる。あの澄ました無言の顔が自分を煽っているようで、ますます腹が立つ。
滅茶苦茶に鞭を振い続け、ようやっと相手を捉えた。鞭の一本が、コブシの唯一残っている腕に絡みついている。これなら見動きも制限でき、尚且防御もままならない。
───勝った。
ここ一番の笑顔で、痛いほど唇が釣り上がるのを感じた。
「アハっ…捕まえた!」
「あぁ、捕まえたよ。」
危機感もなく返される。次の瞬間、アキの身体が宙に浮いた。飛んだのではなく、何か強烈な力で引っ張られ、空中へと投げ出されたのだ。息つく暇もなく、お次は地面に側面から叩き付けられた。半身に鈍い衝撃が走る。
何をされたのか、皆目検討が付かなかった。星が散っている頭で状況を把握しようとするが、混乱のあまり考えが全く纏まらない。
「強くなったとは思ったが…訂正するよ。弱いな。前の君のほうが、まだ強かった。」
鞭が絡んでいる手をブラブラと左右に振りながら、コブシはまた呟いた。察するに鞭を引っ張ることでアキを引き寄せ、そのままアキの横面に鉄拳をお見舞いした、といったところだろう。
身体中、とりわけ右頬と左半身がズキズキと痛む。膝を揺らして立ち上がるアキに対して、向こうは呼吸一つ乱れていなかった。
鞭をまた振おうと、腕に力を込める。その前にアキの図体をコブシの右脚が貫いた。大して腰の入っていない前蹴り。それでもダメージを与えるには十分であった
「こんな近くにいるのに、そんな物騒な物を振り回させると思うかい?」
足早に近付いてきた。たった2発しか貰っていないのに、目の前が霞む。必死に立ち上がろうとしている内に、とうとうコブシが目の前に立った。口で鞘を咥え、刃を引き抜く。
「少年、君には失望したよ。相手の力量差も分からないなら、今ここで死にたまえ。」
判決文を読み上げるかのような、起伏のない淡々とした声だ。今の彼はさしずめ裁判官兼死刑執行人といったところか。
ゆっくりと
そのギロチンが、アキの首に落下する。思わず目を閉じた。
「止めてぇぇぇぇぇぇ!!!」
耳を
──いや、首は落ちていない。それどころか、どこも斬られていない。死刑は中断されたようだ。
不思議に思ったアキが目を開く。真っ先に視界に映ったのは、癖のある金の長い髪であった。
「アキ君…あ、アキ君を…殺さないで…!」
その台詞を聞いて、今の状況をすぐに理解した。先ほどまで袋小路の隅で震えていたマグノリアが、両腕を目一杯広げて、コブシの前で仁王立ちしている。彼女は自身を庇い、守ろうとしているようだ。悪魔だ獣だと罵ったアキを。力に任せて弄ぼうとしたアキを。
「君とて、この少年に襲われていたんだろう?庇う必要があるのかい?…どいてくれ。」
「どかないわよ…どうしてもアキ君を殺したいなら…先に、あたしを殺してからにして!!」
涙こそ流れていたが、脚は震えていなかった。虚勢でないことは明らかであった。
興が削がれた。とでも言いたさげに、コブシが肩でため息をついて、剣を納める。
「…君にそんなこと言われて、斬れる訳ないじゃあないか。」
一言だけ残すと、踵を返した。軽い足取りのまま、大通りへと歩いて行く。そのまま立ち去る前に、もう一度アキを見た。
「その子の勇気に免じて、今日は見逃してあげよう。その子に感謝するんだね。あぁ、次会った時その程度なら、二人纏めて切り捨てるから。」
その言葉を最後に、コブシは右袖をはためかせて日暮れの闇へと消えた。その姿が見えなくなると、電池が切れたかのようにマグノリアがへたりこむ。
「…クソ…クソっ…クソがああああああああ!!!」
やり切れない怒りが。藍色の空を揺るがした。