「…なんとなく、分かってきたんだ。」
あの白い部屋の中で、黒い物体と対峙したアキが、言い聞かせるように口を開いた。
「君は…僕になり変わろうとしているのかな。」
塊は何も言わない。ただこちらに対し、三日月のような亀裂を見せるだけだ。そもそも、こちらの意思が伝わっているのかも分からなかった。それでも、アキは目を逸らすことなく続ける。
「あの時も、だ。スピカさんを縛って酷い事をしたのも、君の仕業なんだろう?」
「…君が何なのか、僕には分からない。けど、君は僕になろうとしている。そんな気がしてるよ。」
──ぉう…
「…君は一体、何なんだ?どうして僕に姿形まで執着するの?どうして僕の大切な人に酷いことをするの?」
──ぼう…
「君の正体が分かれば、こんな夢も終わるのかな…そうすれば、あんなことはもう…」
「アキ坊!!!」
雷に撃たれたかのような衝撃で、アキは我に返った。頭が酷く痛む。どうやら今しがた脳天を殴られたそうだ。
いつの間にか見知らぬ場所にいること、辺りに肉塊が散らばっていること、何故かアッシュがこの場にいることに気付き、また混乱する。さらに理解できないのは、何故か彼女がこちらに怒りを向けていることだ。
「やーっと気付いたな?このマセガキ!」
アッシュの太い腕がアキの胸ぐらをわしづかみにし、軽々と持ち上げて顔に近付けた。獣か人外といったような形容では足りない。まさに重機を思わせる力だ。そんな馬鹿力で捕まえられては、まず逃げることはできないだろう。
「…え?な、なんで?なんでアッシュさん、こんな所に?というか、なんで怒って、え?まさか僕、また何かやって…」
「なに訳の分からんこと言ってんだ!ウチが面倒見ている子、よくも傷物にしてくれたな!」
「面倒…?まさか…マグノリア?僕が、マグノリアを…?一体、僕がマグノリアに…何…を…」
白々しいことを。アキの態度にむかっ腹が立っていたが、次第に怒りよりも懐疑心が湧いて出てきた。
どこか変だ。白々しいというより、混乱しているように見える。
身を守る為のフリ?いや、アキと対面した回数こそは少ないものの、これ程の名演技ができるような人物には見えない。
いや、人は見かけに寄らないと言うが、いや待て…
何故かアキと同じように考えが纏まらなくなる。見かけ通り、考える事が苦手なアッシュにとって、この状況は最も苦手とするシチュエーションだ。
「…マジで、覚えていないんスか?」
一旦アキを下ろし、視線をアキの目に合わせる。
「アンタ、ここでマグノリアを襲って、服まで脱がして、しかもこんな外でヤってたんスよ?『初めてだから、キツ過ぎ!最高!』って、おれ、聞こえてたんスけど。」
嘘だ。実際は挿入には至っていない。
そもそも、アッシュがここに来たのはコブシとの一悶着が終わってすぐ後だ。事の真っ最中の言葉など聞こえている筈がないのだ。
これは、彼女なりにカマをかけているのだろう。
自分がどんな顔をしているのかは分からないが、今は勘繰られぬよう、彼女なりに、必死に殺意や敵意をひた隠しする。万が一掛かったとき、それまでの我慢だ。
さて、アキの反応は…
「…嘘だ…そんな…僕…マグノリアを…」
絶望の至りといった顔だ。眉をハの字にさせ、口もへの字にして、涙が滲み出ている。想定と違う反応に、アッシュのほうが困惑してしまう。
怒りよりも次は罪悪感が勝ち、アキの肩を掴んで慌てて取り繕った。
「ま、待て!今のは嘘っス!確かに服を脱がしてはいたッスけど、実際はあんな事言ってないっスから!そもそもキス止まりでヤってはいないっスから!…見てないから多分っスけど…」
「…え?」
「今のはちょっとした罠っスよ!もし『そんな事までしてない!』とか言ったら、この場で半殺しにはするつもりだったッスけど…」
「…酷い…酷い嘘ですよ、それ…」
「こんなところに連れこんで、無理矢理キスするよりかはマシっスけどね。」
どうやら、ここまでの経緯を本当に覚えていないようだ。しかし、何故だろうか。推察してみるが、今の思考回路では何も思いつかない。
しかし、彼女には一つだけ優先すべきことはあった。
「まぁとりあえず…歯ァ食いしばるっス。」
「え?」
間髪入れず、幼い顔に己の拳を叩き込んだ。
多少は手心を加えたのにも関わらず、鼻血らしき血を撒き散らしながら、後方に吹き飛ぶ。
顔を抑え、
今のアッシュは意外にも冷静であった。
「アンタは本当にマグノリアをヤってないかもしれないっスけど、あの子が嘘付いてないとしたら、ここで身ぐるみはいでブン殴ったことは間違いないんスよ。今のはマグノリアの分。代わりにおれが殴ってやったっス。」
さらに言い訳を重ねるつもりなら、次は全力で殴るつもりであった。
しかし、アキは俯いたまま何も言わない。自責の念に囚われているのだろう、先ほどついた嘘を聞いた時よりも暗い顔をしていた。
フンっ。と、鼻を鳴らす。やるべきことはやったという達成感が見て取れる。
手に付いた血を拭ってから、
「話変えるっスけど…アキ坊、なんでこんな所にいたんスか?特に用がないのに、えらく珍しいじゃあないっスか。」
ナイフのような鋭い口調ではなく、彼女なりに最上級の優しさを内包した声で尋ね、アキの回復を待つ。
少々時間はかかったものの、思っていたよりも早く、説明してくれた。内容はマグノリアに話した事とほぼ一緒だが、そこに『マグノリアと一緒にいて、突然意識が無くなった』、『気がついたらここにいた』という事が加わっていた。
一通り聞いて、頭を掻く。ある程度は理解できたが、納得行かない所もある。もう少し詳しく聞く必要がありそうだ。
「もうちょっと話を聞きたいっスね…もう遅いし、おれの家に来るっスか?」
* * *
古い大型バイクで10分ほど走れば、港から離れて閑散とした地区へと入る。アッシュが住む家は、そのすぐ側にひっそりと佇む小さな一軒家であった。家というよりは小型の倉庫に、家にありそうな物を取り付けただけの、簡単な造りだ。
重い扉を、力を込めて開ける。すぐに目に飛び込んできたのは、硬そうなソファーと広いテーブル。あとは最低限の家電とベッドがあるだけであった。そこの部屋の隅にバイクを乗り入れる。
我が家に入るや否や、アッシュはグラスに氷を一つ入れ、そこに安そうなバーボンを注いだ。木を焦がしたような匂いが、アキの鼻にも届く。
「アキ坊も
美味そうに一杯空けると、こちらにグラスを差し出す。
「いや、大丈夫です。僕、まだそんな歳じゃ…」
「夢魔になって、歳がどうこう言ってんじゃないっスよ。どうせもう人間じゃあないんだし、ちょっとぐらいはいいじゃないっスか。」
あまり好意を無下にするのも失礼と思ったのだろうか。じゃあ、と、グラスを受け取り、注いでもらう。
綺麗な琥珀色だ。匂いを気にしなければ、美味しそうに見えなくもない。
恐る恐る、口に含んだ。
…不味い。
思わず顔をしかめてしまう。銅の硬貨を舐めているようだ。おまけに、飲み込むと喉が焼かれるように痛む。
「あの…やっぱりいいです。」
「あらま、アキ坊にはまだ早いっスか。」
アキの代わりに一口で飲み干す。砂漠で遭難した人物が、やっと手に入れた水を飲むように、有難そうに飲んでいる。どうしてこんな物を有り難そうに飲めるのか、全く理解できなかった。そんなアキを尻目に、冷蔵庫へと歩いて行った。
「スコッチの方がいいっスか?」
「お酒はもう…」
冷蔵庫を開ける。中身は飲料の入った缶と、簡単な料理らしき物が作り置きされている。野菜の類いは見受けられない。
「あー、あとビールしかないっスわ。」
「…なんでお酒しかないんですか!」
「しょうがないっスよ。基本おれしかいないし、客なんて初めて入れるんスから。」
仕方がないので、今日のところはファーストフードの配達を頼み、そのついでにアキ用の飲み物も購入することになった。
電話を済ませ、アキの隣にどかりと座る。ソファーが大きく軋み、壊れないか心配になった。
「さて…それで、アキ坊。今日みたいなのは、初めてじゃあないって言ってたっスよね?」
ようやく本題といったところか。酒を片手に、アキの方を向いて質問してきた。
「ええ。その時はすごく気分が悪くて、それでスピカさんに助けてもらおうと歩いていったんですけど、急に眠くなって…」
「そこからは覚えていないんスね。」
基本的な流れは同じのようだ。それは理解できた。今回も突然眠くなり、気がつけばあんな場所にいた。そんなところだろう。
「んで、今日は?」
「今日は…気分は、あまり悪くはなかったですけど、あの時も急に意識が薄れて、それで…」
アキからすれば、意識がなくなることがトリガーになるようだ。そこまでは分かった。原因は何だろうか。口を手で覆って考える。
そこでアキが「あっ」と声を挙げた。
「そういえば、最近、変な夢を見るんですよ。」
「夢?」
「はい…夢です。」
「夢っスか…」
夢というと、誰かの言葉を思い出す。夢というのは記憶の整理である、と。何かの手掛かりになるかもしれない。ひとまず聞いておいて損はないだろう。
どのような内容なのか、説明してもらうことにした。曰く、始めは女性がこちらに呼びかける夢、その次は港で熊に襲われる夢、最後はタールのような物が襲ってくる夢とのことだ。もちろん、最後に至っては黒い塊が人の形をしているという事も話した。
ふむ、と、自分なりに解釈してみる。港の下りに出て来た熊は、自分も見覚えがある。恐らく、アキの最期の瞬間を見たのだろう。では、他の2つは?
二人して考えるが、答えはなかなか出てこない。沈黙が続く中、足元を見て考えていたアキが顔を上げた。
「お、何か思い付いたっスか?」
アキに聞いてみるも、返事はない。何故か、無言で笑っている。
アッシュは先ほどアキが話していた事を思い出した。突然意識がなくなると、何か酷い事をしてしまう。そして、事が終わると正気に戻る、と。
今がその時なのか、ニタリと笑っているアキを見て、思わず身構えてしまった。