「あーあ…面倒くさい。」
雰囲気を変えてからすぐに、アキが口を開いた。なるほど、口ぶりからして、全く違う。驚きで目を見開いたアッシュが、思わず聞いてしまう。
「…アキ坊?アンタ、アキ坊っスか?」
「当たり前じゃあないですか。他に誰だと思うんですか?」
確かにアキだろう。しかし、完全に別人だ。グレてしまったにしては、短時間であまりにも様変わりし過ぎている。多重人格すらも疑ってしまう程だ。
「こんな下らない話、何の意味があるんですか?せっかく男を連れこんだのに、ただ話すだけなんてつまらないでしょう。」
「…それ、どういう意味っスかね?」
「鈍いなぁ…頭悪そうなアッシュさんでも分かるでしょ。」
うんざりしたように話すアキに、少し厶っとしてしまう。自覚はしていることだが、こんな少年に馬鹿呼ばわりされるのは、何故か必要以上に腹が立ってしまう。そんなアッシュを前に、アキは面白そうに笑って続ける。
「ヤりましょうよ、セックス。どうせ慣れてるんでしょう?なんかユルそうだから気持ちよくはなさそうですが、まぁ我慢しますよ。」
そう言うと、有無を言わさずに飛びついた。アッシュの手首を掴み、ソファーに押し付ける。小さな外見からは想像もつかない、強い力だ。大した抵抗なく、大柄の身体が少年に制圧されてしまう。
「アハっ。図体の割に、大した力じゃあないですね。やっぱり夢魔の力って凄いや。こんなの相手でも何とかしちゃうんだもん。」
「あー…まぁそりゃあ、おれ本気出してないっスから。何とかなるでしょうね。」
スピカやマグノリアの時とは違い、アッシュは特に慄いている様子はない。大胆な行動に多少は驚いているものの、だからどうしたといった、余裕に満ちた表情だ。
その言葉を聞いてすぐ、嫌な笑顔が一気に失せていくのが、アキ自身にも分かった。いつの間にか抑えている筈の腕が、ゆっくりとだがソファーから離れている。仮にも夢魔の力である。全力で抑えているのに、巨体がどんどん起き上がってくる。
完全に腕が浮いた。羽交い締めにせんと必死に足掻くアキを、不敵な笑みで見下ろしている。そこには小児と戯れているような印象すらあった。
「まだまだっスね、アキ坊。おれを襲うには馬力が全然足りてないっスよ。」
アキの手を払い、丸太のような腕が首に回った。その頭を小脇に抱えるような姿勢でガッチリと固め、お返しと言わんばかりにホールドしてしまった。
逃れようと暴れるが、何の意味も成さなかった。万力のような力で、頸椎が折れてしまいそうな勢いで絞め続けられる。
「ちょ…ちょっ…と…アッシュ…さん…離し…ギブ…」
声色が変わった。どうやらいつの間にか普段のアキに戻ったようだ。気がつかないうちに落ちたのだろうか。
一度腕を解き、様子を見る。また気弱な雰囲気に戻り、喉に手を当ててケホケホと咳込んでいる。やはり、元に戻ったのだ。安心したように、声をかけた。
「大丈夫っスか?ちょっとは手加減したつもりっスけど。」
「…全然…というか、なんで…突然こんなことを…」
「今、アキ坊はおれを襲ったっス。生意気なこと言ってたから、ちょっとばかし
「よく…無事でいられましたね…」
「バーカ。場数が違うんスよ、場数が。」
自慢するかのように腕に力瘤を作り、それをピシャピシャとアピールして笑った。なるほど、こんな力で絞めあげられたら、こんな大女に襲いかかろうとは思わないだろう。
充分美人の部類に入るのに、もう少し女らしく。具体的には、その快活さはそのままで、言動をスピカみたいにすればモテたんじゃあないか。性格で損してる。とさえアキは思ってしまった。
じゃれ合いが済んだところで、インターホンが室内に響く。夕飯が届いたようだ。代金を支払い、配達員を見送る。
「んじゃ、飯にしまスかね。」
テーブルにたっぷりのチーズとサラミを乗せた、シンプルで大きなピザと、コーラが置かれた。食欲を唆る香りだ。そういえば、こんな近くで料理を見るのは久しぶりだ。あの日から、どれだけの時間だ経ったのだろうか。
まず、飲み物から口にする。絞められてひどく痛む喉も、これで少しはマシになるだろう。
──甘い。
予想以上の甘さだ。これは本当にコーラなのかと疑ってしまう。しかし、美味い。思わず一口で半分近く飲んでしまった。
次に、ピザだ。生地を持ち上げると、熱々のチーズが糸を引く。まだ湯気のたつそれに、息を吹きかけてから一口食べた。
──塩辛い
見た目通りのジャンクフードだ。多分、夢魔になった後どころか、それ以前にも食べたことのない味だ。美味い。が、たくさん食べたいとは思えない。
2切れほど食べたところで、アキは食事を終えた。元々腹は減っていなかったが、膨れた訳でもない。不思議と食に対して関心がなくなっていたようだ。次々と平らげて行くアッシュとは大違いだ。逆に、アキの方が心配になってしまう。
酒を流しこみながら残った分を食べ終わったところで、アッシュが口を開いた。しこたま飲んだアルコールのせいか、日に焼けた顔がやや赤くなっている。
「で、今回、豹変したアキ坊を見て、おれなりに思ったことがあるんスけどね…」
思わず、身を乗り出した。意識がなくなってる間の自分が気になるようだ。アッシュの言葉を一言も聞き漏らさないよう、耳に集中する。
「アキ坊、アンタには、もう一人のアキ坊がいる。んで、そのアキ坊は、今までやれなかった事…大体エッチな事をヤりたくて仕方がないみたいっスね。」
アキの中の、もう一人のアキ。まるで漫画の設定を説明しているかのような答えだ。だが、実際に対面したアッシュの意見なのだ。彼女はあれを『完全な別人』と感じたのだろう。
もう一人のアキとやらには、本人にも心当たりがあった。あの黒い塊だ。つまりは、自分の意識がない内は、
突拍子も現実身もない事柄であるが、何故か合点が行く。今回だけでなくスピカ然りマグノリア然り、性的暴行を加えるべく襲いかかったのだから。
「それ…それを抑え込めば、この夢も覚めるんですかね?」
「さぁ?」
肩を竦めながら答えた。考察で少々疲れたのか、投げやりな返答だ。
「つっても…なんだ、ヤりたいって欲求は誰にでも持ってるんじゃないっスか?あの、ほら、人間の…えっと…」
「三大欲求?」
「そう、それだそれ。食欲、性欲、睡眠欲だっけ?食欲と睡眠欲は確かにないと死ぬっスけど、性欲は無くても多分死ぬことはないっス。それでも人間の大事な部位を占めているんスから、無理して抑え込むことはないとは思うっスけどね。」
自分でも難しい事を言った。そんな顔でアッシュは一つあくびをした。アルコールと満腹感、疲労により、眠気が出てきたようだ。
「まぁ、しばらくは家で寝泊まりするといいっス。おれがいれば、アキ坊が誰か襲うことは無いだろうっスから。シャワー浴びたら、ベッドで寝てもいいっスよ。おれはソファで寝るんで…」
「大丈夫ですよ。ベッド、アッシュさんが使ってください。」
気遣いの言葉をかけているうちに、ソファーに巨体を預けたアッシュが寝息を立てた。寝付くのが早い。いつもこんな感じだろうか。せめてと思ったアキは、ベッドから掛け布団を持ち出し、かけてやる。
ふと、アッシュの顔に視線が行った。女性の寝顔というより、遊び疲れた少女の寝顔というべきか。上品さこそないが、その代わりに起床時の荒々しさも抜け、活発で可愛らしいといった印象のみが残る。
とりあえず、明日からどう過ごすべきか。まずはマグノリアに謝りに行ったほうがいいだろう。そんなことを考えながら、アキも寝床に就いた。
* * *
「…君は、いつからそこにいるんだろう。」
ある意味では、ここに来ることを心待ちにしていたかもしれない。この夢に着くなり、アキは塊に向かって言う。
もう一人のアキ。そう言われると、確かにそうなのかもしれない。その塊の成す輪郭や体格、背丈、どれも瓜二つだ。何か物を言ったのを聞いたことがないが、きっと声も同じなのだろう。
「あの時…僕が言いつけを無視してスピカさんとあんな事シた時。あの時から、君ができたのかな。あの忠告も、こんな事にならない為だったのかな。」
やはり返事はない。まるで石像と会話しているように思えてくる。それでも、話をやめることはない。
「けど…君は僕じゃあない。僕は僕だ。僕の体は、絶対に渡さないから。」
目があるであろう部位をじっと見つめた。口らしき亀裂は相変わらず三日月形に裂けている。こちらを嘲笑っているのは間違いないだろう。
今までならば、ここで目を反らしてしまっていただろう。 今回は恐怖を堪えて、目覚めるまでは目を離ずにいた。目を反らせば、この先永遠に身体を乗っ取られる気がしたから。
「君には、渡さない。アキは、僕だ。」
自分にも言い聞かせるよう、力を込めて呟き続けた。