アッシュの世話になってから、1ヶ月ぐらいは経っただろうか。残念ながら、マグノリアとは未だに会えていない。いつもの公園には来なくなったのだ。向こうから避けられてしまったのだろう。
無理もない。信頼していた者にあのようなことをされたら、聖人でも愛想を尽かすに決まっている。分かってはいるものの、彼女に詫びることもできないもどかしさで、公園に来る度に傷心してしまう。
そんなアキを気遣ったのか、明日は非番とのことなので、昼過ぎ頃からアッシュと外出していた。行き先は知らされていない。聞きはしたものの
「ちょっといい所っス」「お楽しみってやつっス」
とはぐらかされてしまった。
何時もの田舎町の外にある場所から、さらに人通りの少ない場所へ、バイクは走っている。港からは反対方向。渋滞はおろか、すれ違う車も見当たらない。左右を見渡しても、木々がこちらを見下ろしているだけであった。
曲がりくねった道をしばらく走る。坂道こそはキツいものの、700ccはあろう大型バイクは、やかましい唸り声を上げながらスイスイと登っている。何十年前のバイクなのかは分からないが、彼女なりのこだわりを以てよく整備されているのだろう。
そのバイクと違い、あまり整備されていないアスファルトをしばらく走っていたが、ようやく止まった。辺りを確認する。路肩のような場所のそばに、山肌を削っただけの、簡素な階段が伸びている。その先は暗がりで見えないものの、なにやらせせらぎのような音が聞こえる。川でも流れているのだろうか。
「ここ、降りるっスよ。」
分厚いバックパックを背負い直したアッシュが告げた。時刻は夕方だろうか。清らかな水の音を静かに奏でながら、闇黒を指差している。まるで死体でも埋めに行く気分になってしまった。
足を踏み外さないように慎重に階段を降りていく。その前を自宅のそれを下っていくかのような足取りで、アッシュが先導する。地獄か煉獄にでも降りているかのようだ。
幸い、その粗末な階段の先に広がっていたのは、そのどちらでもなかった。むしろ、楽園のようだとも思えた。
「わぁ…」
視界の先には、白糸を吹流しているかのような滝が流れており、そのすぐ側で水面が
「どうっスか?ここ。」
自分の秘密基地を自慢するかのように、アッシュが笑いかけた。アキが顔を綻ばせているのを見て、もう満足しているようだ。
「すごい…こんな所があったんですね…」
彼女にとっては理想的な、そして予想通りの回答。それを聞いて、さらに鼻が膨らむ様子が見られた。
「おれ、こう見えてアウトドア派でね。よくここでのんびりしながら、暇を潰すんスよ。仲間やリリィさんも知らない、おれだけの場所っス。」
おもむろにバックパックを放り、剥ぎ取るように袖なしのシャツを脱ぎ捨てた。
褐色で大ぶりの乳房が一度シャツで持ち上げられ、大きく弾む。スピカほどではないにしろ、張りのある弾力に富んだ乳だ。身体中に傷や彫り物がついていなければ、ポルノスターとして世間を圧巻していたに違いない。
突然のことに思わずアキは目を瞑ってしまう。ここまで大胆な異性は初めてなのだ。それを見たアッシュは腹を抱えて笑った。
「アッハッハ!おれの胸に目が眩んじまったっスか?目ェ潰れてないっスよね?」
「い、いや…こんな所で急に脱がないで下さいよ!」
「えー、服来てたら泳げないじゃあないっスか。見ても構わないっスよ。減るもんじゃあないし、襲われた所でまた〆てやるっスから。」
どうやらここで泳ぐ気で来たらしい。まさか…と思い、恐る恐る目を開けてみる。案の定ズボン、パンツも脱ぎ、一糸纏わぬ姿になったアッシュがいた。無毛とまではいかないものの、肝心な場所の毛は少ない。ムダ毛の処理は怠っていないようだ。大雑把に見えて、どうやら身だしなみには気遣っているらしい。
「ほら、アキ坊も!」
アッシュの方から、アキの服を脱がしていく。衣類を破かれると思った。女に身包みを剥がされるのも奇妙な話だ。
裸にされてしまったアキの手を取り、引き摺り込むように水面へ飛び込んだ。ばしゃん、といった音の後、澄んだ、まだ冷たい液体が二人の身体を包む。
巨大な図体がうねるように水面を掻いた。競争でもするつもりか。誘われた訳でもないのだが、アキもそれに続く。特別得意という訳でもないが、人並みに泳ぎができることが、ここに来て役に立った。
流れもとても緩く、足を付けば臍よりは低い川を、アキなりに頑張って泳いでいく。激しく動くことは久しくない。しかし、遊びでこれ程動くのは久しぶりだ。始めは無数の針で刺されたかのように感じられた水温が、水を蹴る度に心地よく思えてくる。水泳とは、こんなに楽しいものなのだな。と、思い出す。
泳ぎ、水をかけあい、笑い合っているうちに、休憩を取ることになった。二人並んで水面に浮かび、空を仰ぐ。
「…すごい。」
空を見上げたアキが、今日一番の感動を見せた。
雲一つない夜空では、無数の星が宝石のように瞬いている。星が見えること自体は大した問題ではない。この澄んだ空間だからこそ、普段は見えそうにない星屑すらも余さず映していたことが最も感動的であった。
果てしなく遠い場所にあるものが、手を伸ばせば届く距離にあるとまで錯覚してしまう。浮力で浮いてしまっていることも相まって、まさに宇宙の中を漂っている気にもなった。
「すごいでしょ、これ。水に浮かんで、星空を見上げる。昔から嫌なことや悩みがあると、こうして星を見るんス。」
アッシュの気持ちも分かるかもしれない。何も着ずに力を抜いて、この広大な光景を一望すれば、どのような事もすぐに忘れてしまうだろう。
陳腐な言い方をすると「自然の前では、ちっぽけな事」というのも、あながち間違ってはいないのを、ひしひしと感じる。
「おれはね、アキ坊と同じくらいの歳からここに通っていたっス。ここで泳いで、釣りでもやって、この空を見て、寝る。バカやってた頃も、今も、それは変わってないっス。」
とても穏やかな声が、煌々と光る星空の中で、木々の囁きと共に、アキの耳に溶けていく。
「おれは、この町が好きっス。この場所をくれた街が、大好きっス。だから、おれは命張って町を守っているんス。」
とても単純な理由だった。しかし、それだけでもあの怪物と戦うには十分すぎるだろう。と思った。この人は、誰かの為ではなく、自分の居場所の為に戦っているんだ。この場所だけでなく、あの町も守る為に。
独白が終わってからも、しばらく夜空を眺めていた。
* * *
冷えて来たので、川から上がった。それからは火を焚き、身体を温めてから、持参したテントで寝ることになった。
アッシュは寝袋にくるまって寝息を立てているが、アキは大きな岩の上に寝転び、改めて空を見上げている。何度見ても素晴らしい光景だ。いつまでも見ていられると思ってしまう。
この光景があるから、彼女はあの戦いに身を捧げていると言っていた。
そういえば、自分はなぜ夢魔になったんだっけ。ふと思い返してみる。あの人はこの町を守る為に戦っている。なら、自分は?
…そうだ、自分もマグノリアを守る為に夢魔になったんだ。でも、そんな彼女に乱暴なことをしてしまった上に、謝ることが未だにできていない。こっそり教会に侵入してでも、謝るべきだろうな。許してもらえなくても、まず謝ることが大切なんだ。
「…痛っ…!」
考えごとをしていく内に、脳を針で刺されたかのような痛みが走った。同時に、星空にノイズがかかるように視界がフェードアウトしていく。
痛みこそは大したことはない。が、突然の違和感に堪らず頭を抱える。
視界が明瞭になった時、アキの目の前には、あの兄弟がいた。辺りも大自然の中ではなく、見覚えのある家屋──アキが世話になっていた叔父の家へと変わっている。
最初は訳が分からず混乱したが、すぐに理解できた。これは、自分が人間であった頃の記憶だ、と。
今、自分は大柄な長男に、テーブルの上に押さえつけられている。確か、その時は食事の片付けをしていた時だった筈だ。叔父が外出している最中に襲われたのだろう。
後は、このまま服を引き剥がされて、無理矢理義兄の一物を捩じ込まれる。事が終わった後、傷心のままフラフラと外に出る。いつもの出来事だった。
抵抗せず、早く終わってくれと願うばかりであったが、身体が勝手に動いた。義兄の手が緩んだ隙に、アキを抑えていた手を払ったのだ。
そのまま、アキはフォークを握っていた。油汚れのベタつきが、制御の効かない身体を通して伝わってくる。その残渣に塗れた尖端を、腕と同じような太さの首に突き刺していた。
──待って。自分の記憶と違う。なんなんだこれは。
義兄の悲鳴の中、大きく食い違う回想で思考が止まる。が、それに構わず身体はまたも勝手に動いた。フォークを捻るように動かし、激痛で怯ませた後、仰け反った義兄の横をすり抜けて走り出したのだ。
──ちょっと、本当に待ってくれ。
この言葉を何度も何度も繰り返す。こんな事をした覚えはない。そもそも、自分にこんなことが出来る筈がない。こんな事をしていたら義兄は死んでいる筈じゃないか。
そのまま玄関に向かったところで、回想らしき映像は終わった。身体が冷たい。どうやらいつの間にか川に落ち、それで我に帰ったようだ。
川から這いずるように上がり、火の側で寝そべる。非常に気持ちが悪い。あれは、何だったのだ。過去の記憶にしては、色々と食い違っている。しかし、あれはただの妄想ではないのは間違いない。
「…行かなきゃ。あの場所に。」
冷え切った身体を温めながら呟く。あれだけアキを魅了していた星々も、彼にとってただ光を放つ物体にまで成り下がっていた。