熊の手を、アキは避けようとする素振りすら見せなかった。やはりと言うべきか、無抵抗のまま攻撃を受け、彼方へと吹き飛ぶ。
華奢な身体が壁に叩き付けられ、糸の切れたマリオネットの如くだらりと四肢を投げだして倒れる。息こそはあるが、ぐったりとして動かない。
のそのそと熊が近付いてきた。化け物なりに、まだ息があるのか確認するつもりだろうか。あるいは、確実に息の根を止める為に近寄るのか。恐らくは後者であろう。
アキの眼前に腐肉の山が立った。それでも、彼の四肢は指先一つ動く気配がない。それにも構わず、山は不気味に煌めく鉤爪が伸びる腕を振り上げた。その時だ。
「ったいなぁ…何するんだよ、急に。」
か細い声と共に細腕が伸びたかと思えば、皮膚を破り、肉を裂き、臓腑を掴んだ。返り血のような液体が、やや白い肌を汚す。
ブチブチと不快な音を立てながら、
「あーあ、一張羅が台無しになっちゃったよ。血でベトベトだ…うわ、臭…」
と、臓物を捨てて腕に付いた血糊を払う。その表情や物言いは、まさに"もう一人のアキ"そのものだ。つい先程熊の平手打ちを受けて気絶した際に入れ変わったのだろう。となれば、アキは攻撃を
今のアキにとって、それは最善手なのかもしれない。周りの被害はともかく、"彼"の攻撃性なら、あの熊とも渡り合える筈である。
「躾のなってない獣だなぁ…まぁいいや、僕が調教してあげるよ!」
ようやく、アキが駆けた。先程のダメージをまるで気にしていないような、軽やかな足取りだ。息を荒くした熊がそれに反応して掌を繰り出す。
毛むくじゃらの爪がアキの頭皮を掠めた。毛髪を数本切ったが、被害はそれだけだ。次はこちらの番と言わんばかりにアキが腕を振りかぶる。
その腕を、まだ開いたばかりの傷口に突き刺した。避けたばかりの筋組織を掻き分け突き破り、指先に触れた固い物を掴む。熊が痛みにもがく前に、それを無理矢理引き抜いた。
体内から取り出した物を見る。小さな手に収まるぐらいの、楕円形を成した小さな骨だ。所々に突起が付いている所もあれば、くり抜かれたような穴が空いている所もある。
──脊柱。上半身と下半身の骨を繋ぐ、生物の大黒柱。一つを丸々頂いたようだ。
「アッハ。骨、貰い。」
糸が切れたようにその場に倒れ込んだ熊を見下ろし、無邪気に笑った。事切れてはいない。脊髄は元より存在していないのか、全身を振り回しながらのたうち回っている。
とはいえ、その巨体を支える背骨を断ったのだ。立ち上がることは不可能であろう。この機会をアキが放っておく訳がなかった。
サッカーボールをゴール目掛けて蹴るように、熊の顔を蹴り飛ばした。細い四肢に蹴られた図体が宙を舞い、紅花を咲かせながら吹き飛ぶ。がむしゃらに腕を振り回すが、それはただ虚しく空を切るだけだ。
「熊さーん。急に元気がなくなってきたよ?さっきまでの威勢はどうしたのかな?んん?」
間髪を入れず、全体重を片脚に乗せて顔を踏み抜いた。骨を砕いてはまた脚を上げ、また踏み抜いた。
"まな板の上の鯉"という言葉があるが、まさに今の状況がそうだろう。アキの人生に引導を渡したあの化け物であっても、今や立つことも叶わず、彼の足元で転げるだけだ。あとは力尽きるまで骨という骨全て砕けば事は済むだろう。
紙屑のように踏み続けたアキであったが、突然後方へ飛んだ。いつもの笑みとは打って変わって、余裕を失ったような表情をしている。その頬には、たった今拵えたばかりの、爪で抉られたような傷が開いている。
「…はぁ?」
熊の様子を確認したアキが、思わず口にした驚愕の声。
甚振ることに夢中で気が付かなかったが、熊の腹──ちょうどアキが背骨を引き摺り出した場所から、太い触手が生えている。熊の腕ほど太いものが数本、尖端に銛の穂先を思わせる爪が一本付いたものだ。
それらが地に爪をしっかりと食い込ませ、身体を持ち上げた。熊の身体を持った蜘蛛。今の形態を例えるならこの表現が的確だろう。
「気持ち悪っ。そんなのアリ?」
予想だにしなかった変体。かといって、戦意を喪失した訳でもなかった。不意を付かれて驚いたものの、新たな玩具を手にしたかのような笑みをまた浮かべる。
「ひどい有様だな、これは。こんなの殺処分するしかないね!」
地を蹴ったアキの喉元に、触手が走った。身を翻してそれを躱す。
この時、こちらに伸ばされた触手を掴む。皮のような組織は見当たらない、筋繊維の塊のような物体であった。恐らく内部も肉だけが詰っているだけなのだろう。
それを強引に捻曲げた。爪をアキではなく触手の方に向けるような形だ。その爪を以て迷うことなく爪の根本から切り落とした。脚を一つ失った熊の体勢が崩れる。
ここぞとばかりに、アキは胴体に飛びかかった。彼の手にはたった今奪い取った爪──ピンと指を伸ばした掌ほどの大きさの爪が握られている。しかし、熊の胴を捉える前に触手で払われ、弾き飛ばされた。細い身体がアスファルトに叩きつけられ、二、三度ほど跳ねる。
「…っ!大人しくしろよ!」
苛立ちの言葉を吐きつつ、見上げる。
熊から生える触手は全部で7本。蜘蛛かタカアシガニの如く伸び、胴体を3mほどの高さで保持している。
──7本?一本切り落とした筈だけど?
否、正確には胴体から直接はえているのは6本。残る1本は切り落とされた触手の先から、枝毛のように分かれている。
──畜生、再生するのか。しかも早い。
胴体を睨んだ。その弱点はアキよりも一回り、二回りも高い場所にある。しかし、為す術もない訳ではない。呼吸と整え、三度攻撃を仕掛けた。
すかさず、向こうも触手を伸ばした。アキの首目掛け、横薙ぎに振るう。それでもアキは足を止めることなく、駆ける。
爪がアキの首まで数mmの位置にまで近付く。ここでようやく攻撃に反応した。こちらに飛んでくる触手を乱雑に掴むと、力を込めて地面に突き刺す。爪は割れることもなく、杭のように深々とアスファルトに突き刺さった。
間髪入れず、その触手に脚をかけ、肉の道を駆け上がり始めた。これを伝って行けば、胴体まで辿り着けるという寸法だ。もはや遊んでいる余裕はない。最短距離を一直線に、がむしゃらに突き進む。
雄叫びを上げながら、細い道を猛然と駆け上がった。アキを払い落とすべく道を阻む触手も、切って捨てた。ベタつく体液にも気にかけず、一撃を食らわせんとする一心で駆ける。
ゴール地点まで、大した時間もかからなかった。邪魔な触手も、ほぼ全て切り落とした。あれらが再生するまでに仕留めなければ。ありったけの力を脚に込めて、細身の身体を飛び上がらせる。
「いい加減…死ねよおぉぉぉぉお!!!」
全ての体重を手にした爪に乗せ、本体の額に突き刺した。分厚い骨が砕ける手応えが腕に伝わり、断末魔のような野太い絶叫が、辺りに響く。
──
得も言われぬ達成感がアキを包む。筈であった。
胴にぶさらさがっていた腕が、彼の身体を大きく抉った。急所に重大なダメージを与えた筈であるのに、それを感じさせない力で、だ。強大な腕力で撫でられた華奢な身体が、鮮血と肉片を巻きながら落ちていく。
自身の身長の数倍はあろう高さから、アスファルトに叩きつけられる。硬い物が砕けるような感覚が、アキを包んだ。急所を捉えた筈なのに、今や自分が窮地に陥っている。しかも、逃げる術もないというオマケ付きだ。
もはや、暗くなる景色の中で、怨嗟の言葉を吐くぐらいしか、できることがなかった。
「クソ…クソ…が…なんで…勝てないんだよ…」
* * *
「やっぱりだ。気を失えば、君に会えると思っていた。」
もはや見慣れた、純白の部屋。気絶をトリガーに辿り着ける場所。違うことと言えば、アキの方からそこへ訪れたことだけだ。
塊を見る。相変わらず、自分と同じ背格好を真似て、こちらをせせら笑うような亀裂を浮かべている。だが、嫌悪感は抱かなかった。寧ろ、愛おしさすらも感じる。
「やっと…やっと、気付いたよ。君が僕に成り代わろうとしている。そうとばかり思っていた。でも、違ったんだね。」
「君は、最初からここにいたんだ。
導き出した結論を語りかけるアキは微笑んでいた。あまつさえ涙を流し、懐かしの親友と再開したかのように喜んでいた。
塊の胸元に触れる。湿った、高い粘性のある触感を覚えたかと思った矢先に、アキの手に吸い込まれていく。初めてここに来た頃とは逆だ。あちらがアキを取り込んでいるのではない。アキが塊を取り込んでいるのだ。
小さくなっていくそれを見つめながら、初めて満面の笑みを見せた。
「ありがとう、アキ。そして、これからもお願い、アキ。」