アキの目を覚まさせたのは、焼け付くような痛みであった。この痛みを知っている。いつしかの儀式の時、セレネの中に自身のありったけをぶち撒けた時に感じた、あの痛みだ。
背を灼かれているのにも関わらず、不思議と力が湧き出てきた。先程まで瀕死であったのにも関わらず、自然と四肢に力が入る。朧気であった意識も聡明となり、視界も澄んだガラスのようにクリアだ。
立ち上がる頃には、痛みは収まった。代わりに、身体に違和感があった。
肩甲骨付近が、少し重い。動くことに支障はないが、気になる。
視界をそちらにやると、皮膜に覆われた羽が見えた。骨子に膜を張り合わせたような、蝙蝠の如き羽。セレネが持っているような羽。
アキはすぐさま察した。これは自分の羽である、と。
続いて額に手をやる。額の辺りに棒のような物に触れた。指でなぞるように形状を探ってみた。軽い婉曲を描くように反り、後方へピンと尖らせている。羊のようなものではなく、山羊やインパラを思わせる角だ。
蝙蝠の羽に山羊の角。どうやら、これが完全な夢魔としての姿のようだ。この状態であれば、あの蜘蛛とも渡り合える筈だ。
爪を握りしめ、アキは飛び上がった。もう一度、本体を攻撃する。それで決着だ。自身の身体を宙へ浮かせ、舞い上がる…筈であった。
足元が少し浮いたかと思えば、すぐさま体勢を崩して顔から落ちた。なんとも間抜けな展開だが、無理もない。そもそも、今まで羽なぞついていなかったのだ。どのように動かすのかも全く分からない。
鼻の下を拭ってみる。案の定、真っ赤な血が少量、筋を作っていた。
…無駄な血を流す余裕があるくらいには、回復しているようだ。
確認を終えたように頷くと、軽やかな足取りでアキは走りだした。もう一度、あの長い脚を伝って胴体へ走る。空を飛ぶことができない以上、それしか方法はないのだ。
が、少し走ったところで足を止めた。先ほどまではやや滑らかな皮膚が貼られていた脚に、夥しい数の棘が伸びている。なるほど、思考能力の有無はともかく、学習はするみたいだ。これでは胴体まで登ることはできない。
大事そうに握り締めていた爪をおもむろに捨てた。少し前までのアキなら、これで詰みだったであろう。しかし、今はどうだろうか。
──あの剣、あの剣だ。あれなら或いは
右腕の感覚が、ゆっくり失せていく。無意識ながら、自身の腕が変化していることを理解していた。辺りに意識を向けつつ、自分が望む"剣"をイメージする。
腕が化けたのは、いつも振るっていた剣ではなかった。
より長く、より細く、ゆるく反りを描いた、新月寸前の月を思わせる姿。
奇しくもそれは、己の師─剣の基礎の基礎を教えてくれた師の得物に似ていた。
明らかに前腕、それどころか普段の剣よりも長い刃であった。
この様を前に、アキは特に驚く様子も見せなかった。さも当然のように、以前からそのようであったかのように、眼前を逆袈裟に凪いだ。
僅かな手応え。その直後、地を鳴らしながら脚が落ちる。それを見届けることなく、別の脚へと駆けた。
あれほどの巨体の足元だ。脚と脚との距離は数十mほどか、やや長い道のりを、風のように猛進する。
アキの魂胆を理解したのか、あちらは多数の触手を新たに伸ばして対抗してきた。ほぼ反射的に左手を伸ばす。
無論、彼の手は普段の手ではなかった。その指先──ちょうど人差し指と中指を伸ばした部分が、銃身に変化している。その形はアッシュから貰い受けた拳銃のそれだ。
眼前に迫ったところで、銃口が火を噴いた。一発、二発と破裂音が鳴る度に、こちらに伸びてきた触手が弾ける。至近距離の射撃であれば、問題なく的に当てられた。
そのまま攻撃を無効化しつつ距離を詰め、引き摺るように携えていた刃を振るった。またも太い脚が薄紙の如く両断される。この調子でさらにもう1本、蜘蛛の脚を切り裂いた。そしてこの時、アキを覆う影が大きく動いた。
脚を三本ほど断ち切った。半分の支えを失った巨体が、みるみる傾いていく。偶然でなく、当に狙い通りの展開だ。登ることができないのなら、切り倒してしまえばいい。これこそがアキの狙いであった。
地に近付いていく胴体を見つめ、距離を詰める。それとほぼ同時に、本体からまた数本、槍のような触手を新たに生やし、こちらへ伸ばした。
爪がこちらの体に触れる前に、身体を反らしてこれを避ける。薄皮一枚を掠める程度の最小限の動きだ。一つ、また一つ。アキを狙う触手をコンパクトな動きで回避していく。その様は先程のような遊んでいるものではない。相手の攻撃を一つずつ冷静に見極め、対処している具合だ。
攻撃を捌きながらも、脚は止めない。瞬息の内に目的地点へ到達した。ようやく歩みを止め、息を整える。そして、空を仰ぐ。目に映るのは、だんだんと大きく見える熊の胴体だ。ふと、今までのことが頭を過る。
この熊によって、自分は殺された。夢魔になった後も、二度も殺されかけた。これに勝たなければ。今までの清算をここで果たさねば。
胴体が直ぐ側まで迫った。アキにとっては無防備のまま間合いに入ったようなものだ。
「これで…終わらせる。」
静かに呟くと剣の峰を蹴り、勢いよく振り上げた。
研ぎ澄まされた刃が皮を、骨を、肉を、薄紙のように裂いていく。途中何か硬い物に当たったものの、お構いなしに断っていった。
この戦いの中で、最も鈍く大きな咆哮が轟く。側で爆弾でも落ちたかのような轟音だ。これが、この化け物の断末魔なのだろうとアキは察した。
剣が軽くなり、地とぶつかった。身体中いたる所がベトベトしている。普段はこれが不快であったが、今は不思議と気にならなかった。
辺りを見回す。熊の胴体が縦に2つ、それぞれ左右に分かれて横たわっていた。凝視しても、動く気配は微塵もない。新たに触手を伸ばすこともさなそうだ。
どっと疲れが押し寄せ、アキは尻から落ちた。トドメを刺し続けた物が、自身の手で物言わぬ屍となったのだ。本懐を果たしたものの、実感が沸かない。それを確かなものにするかの如く、見つめる。
そうしている内に、妙な落とし物に気付いた。視線がそちらへと移る。
三角の錐を重ね合わせたような形の、何かしらの結晶のようだ。色は黄に近い。いや、時より赤にも青にも紫にも色を変える。見方によって変わるのだろうか。名前こそ忘れたが、そのような珍しい宝石があったような気がする。
ゆっくりと立ち上がり、それを拾う。無機質の物質にしては、嫌に生温い。手に取る寸前まで、何かに包まれていたのだろうか。指先に神経を集中させると、謎の鼓動が伝わるような、妙な感覚を覚える。
突如として、傍らに転がる肉塊が暴れ始めた。陸に揚げられた魚のように、手足を無茶苦茶に振り回している。同時に、アキの身体が跳ねる。驚きの余り全身が力み、結晶を砕いてしまった程にだ。
が、すぐに収まった。また肉塊に戻ったかと思えば、急速に萎んでいく。植物が枯れていく様子を早送りで見ているように、太く逞しい四肢が細くなっていく。終いには土塊にも似た粉末になり、そよ風に乗って飛び散った。
「…なんだったんだろう。」
その姿が完全に無くなったところで、警戒を解く。今その場に残っているのは、異臭を放つ液体と、粉々になった謎の結晶だけだ。その結晶の中で、一番大きな物を選ぶと、ズボンのポケットに入れて歩き出した。