逃げるように走ってから、どれだけ時間がかかったのだろうか。気がつくと、アキは人気のない小さな公園にいた。
遊具が置いていない点から、広場と書いたほうが正しいだろう。
ただ海を見渡せるだけで、あまり子供が楽しめる所でもなさそうだ。
そこで足をとられ、転倒する。
倒れた先の視線に、真っ赤に燃え盛る太陽が水平線に沈み、その先端だけ顔を覗かせているのが見えた。
直に日が暮れる。
早く帰らねば、自分はまた死んでしまう。
しかし、夢魔となれば、訳の分からない怪物と戦う日々を送らなくてはならない。
あの家の日々も、夢魔としての日々も、アキにとって地獄が待っている
どうすればよいのか自分では分からず、アキは倒れたまま泣いていた。
あの従兄弟に囲まれ、犯される日々と、夜な夜な怪物相手に死に物狂いで戦わされる日々とで、どちらが救いがあるのか、検討もつかない。
なにより、これから考えるのに時間が足りないことも手伝い、アキには考えることもできずに泣くしかなかった。
「…大丈夫?」
そんなとき、どこからか幼い少女の声がした。
アキの知る、彼に話しかけうる者には該当しない声だった。しかし、夢魔は人には見えないはずだ
「…僕が…見えるの…?」
「うん。すごく変なの。何故か、あなただけ見えるの。」
恐る恐る聞いてみて、返答が得られる。
少女はアキの姿を確認することができる上に、声も聞こえるようだ。
ゆっくりと、声の方を向いてみる。
くるくると癖のついた長い金髪に、笑顔が可愛らしい幼い少女だ。
小さな手には細く、長く、白い杖が一本握られている。体重をのせるには頼りなさそうな杖だ。
見かけだけで判断すれば、アキよりも年はとっていないだろう。
「…すごく不思議。あたし、目が見えないのに、あなただけ見える。なんでだろう?」
「きっと…僕は人間じゃあないから…かな?」
「人間じゃ…ない?」
理解できないかもしれないことは分かっていたが、アキは今までのことを少女に話した。
自分はすでに死んでいること。
今は違う存在になったが、もうすぐ人間に戻ること。
そして、どちらにしても孤独には変わらないことを。
少女はその間、ずっとアキの顔を見ていた。
初めて、もしくは久しぶりに見た人の顔だから珍しいのだろう。
かといって、話は聞いているようで、適切なタイミングで相槌をうってくれる。
「そっかぁ…あなたも、寂しい人なんだね。あたしと一緒ね。」
「君も…?」
「うん。さっきも言ったけど、あたし、目が見えないんだ。だから、施設にはお父さんもお母さんも来ないし、友達と遊べないから、ずっと一人。」
「じゃあ、ここまではどうやって…?」
「以前散歩に連れてってもらってから、自然と覚えちゃったの。ほとんど一本道だったし、これくらいなら杖があれば行けるようになっちゃった。」
と、少女が伸びをしながら言った。
小波と潮風だけが辺りを包み、町や部屋よりも落ち着くのだろう。
ここが、彼女の唯一の居場所なのだと、アキは察した。
ふぅ、と少女はしばらく一息ついていたが、唐突に立ち上がり、アキを見た
「ねぇ、せっかくこうして会ったのだから、踊りましょう?」
「お…踊り?でも…僕は…」
「踊り方、分からない?大丈夫。あたしがリードするから、君は支えながら合わせて欲しいな。ほらっ!」
そう言うや否や、少女はほぼ無理矢理アキを立たせて、アキの腰に手を回した。
彼の姿が見えているため、片方の手でアキの右手をすぐにとり、そのまま手を握る
「…そういえばあなた、名前は?」
「僕はアキ。君は…」
「マグノリアよ。それじゃあアキ君、よろしくね。」
よろしくというのは、これから踊るから合わせてくれという意味も兼ねていたのだろう。
その言葉のあとすぐに、マグノリアは鼻歌と共に回りだした。
慌てて彼女の足取りを真似て、アキも辿々しく回る。
簡単なステップに、誰しもが聞き覚えのある童謡に合わせた、子供らしい円舞曲だったが、動きに慣れてからは、二人とも楽しそうに踊っていた。
海の向こうへ沈んだ陽光が、まるでスポットライトのようにアキとマグノリアを薄暗く照らしている。
この間だけは、アキは今までのことや件の幻覚、そしてこれからの不安も忘れることができた。
これほど心地よい時間を過ごしているのは、夢魔となってからは初めてだろう。
しばらく回っていたとき、二人の足が縺れて、芝生の上に転んだ。
幸いにもちょうどアキが庇うように倒れたので、二人、とくにマグノリアが怪我をすることはなかった。
芝生の上で寝転び、二人一緒に笑う。
「ごめん、足が絡まっちゃったみたい。怪我はない?」
「あたしは大丈夫よ。急に転んだからびっくりしちゃっただけ。」
こうしてまた笑いあったが、突然二人の笑い声が呻き声に似た音によって遮られ、止んだ。
マグノリアの笑顔が、一気に不安げな表情に変わった
「な、なに…?」
アキはマグノリアを背に、辺りを見回す。
というのも、彼には呻き声に聞き覚えがあったのだ。
さながら死体が這い出たような、あの怪物が、まさにそれと合致していた。
都合良く近くに落ちてた木の棒を手にとり、構える。
杭か何かが折れたものだろうか、前腕ほどの太さ、長さは武器としては心許ないが、ないよりはマシだろう。
突如2時の方向から手が芝生より生え、案の定あの怪物が続々と現れた。
相手が自由に動けないところを見計らって、震える足でアキは踏み込み、出てきた頭に棒を思い切り振り下ろす。
怖いことには変わりないが、マグノリアという、ようやく出会えた心休まる相手を守るという使命感が、ある程度の恐怖を緩和してくれた。
しかし、それで怪物を倒すことができるほど、現実は甘くなかった。
怪物は特に怯みもせず、引き続き埋まっている体を引き抜くように、地へ這い出る。
そもそも痛覚がないのか、ダメージを受けた様子はない。
それでもアキはマグノリアを守るために、一心不乱に棒を振り回した。
怪物の胴に棒が直撃したとき、ボキッという音とともに棒が宙に舞って、アキの側に落ちた。
衝撃に耐えられず、根元から折れたのだ。
戦う手段を失ったアキは恐怖に震えるマグノリアを抱える。
武器を無くしても彼女だけは守りたいという意思が、不恰好ではあるが行動に出ていたのだ。
そのアキの努力に酬いるかのように、一発の銃声と共に複数体の怪物が粉々に吹き飛んだ。
見覚えのある光景に、アキは空を見上げる。
そこには相変わらず大きく武骨なライフルを構えたセレネが、羽をはためかせながらこちらを見下ろしていた。
「あらぁ、誰かと思えば…可愛らしいお嬢さんなんか捕まえちゃって、邪魔したかしらね?」
「セレネさん!助けに来たんですか?」
「まさか。カップルにちょっかいを出すほど、私は暇じゃあないわ。けど…」
そこまで言ったセレネは地上へ急降下し、銃座を凪ぎ払うように振った。
厚く鈍い刃が怪物の肉や骨をまとめて千切り、両断していく
「可愛いカップルを見殺しにする趣味もないわ!」
一薙ぎ、二薙ぎと、戦斧と化したライフルを振り回し、怪物の群れを圧倒していく。
そんなセレネを尻目に、アキはマグノリアを抱いて走りだした。今は見とれている場合ではない。
施設というキーワードを頼りに、目的地を選択する。
(確か、身寄りのない子供が集まる場所といえば、この町には教会と併設されている孤児院しかなかったはず…目が見えないマグノリアが通えるなら、ここから遠くはない!)
マグノリアを守るため、アキは走った。
今日はずいぶんと走っていた気もするが、一つだけ違う点がある。
それは、彼の目は過去の憂いを完全に振り切り、一つの決意を宿していることだ。
-彼女を守るため、守れるようになるため、夢魔になろう。-
迷うのを止めたアキは、マグノリアを抱えてなお軽い足取りで走り続けた