先輩への異常な執着/またはぼくはいかにして心の痛みを忘れて性愛を求めるようになったか――というより、3ヶ月、2週と1日でぼくにはなにをなしえたのか 作:果肉ぬき
高校時代の憧れの先輩「雛里やよい」と偶然の再会を果たし肉体関係を結ぶも、「わたし、もうあといくらも生きていられないの」というやよいの言葉をどう受け止めるべきか思い悩んでしまった会社員「風見健一」。
それどころか、自分にできることを模索していくなかでやよいの妹「えな」と情事を重ねてしまう。9月27日にいなくなるとされているやよいにどんな顔で会えばいいかわからず自暴自棄になって閉じこもっていたが、押しかけてきたえなからの告白に応じ、再びえなとのセックス三昧の日々に溺れていく。
しかし、あるとき雛里家で「生徒会」とラベリングされたアルバムを見つけた健一は、そこに収められていたやよいと自分の写真に心を動かされ、一緒に添付されていたメモ書きが指し示す場所へと向かった。そして、辿り着いた高校の中庭で、やよいとの邂逅を果たしたのだった。
雨が降っていないとはいえ、雲は決して少なくない。もともとそこそこの郊外であるこの地には、田舎ほど無数の星がきらめくこともない。かといって、この場をぱっと照らせるほどではないにせよ、外灯の明かりがちらほらと遠くに見える。そんな中途半端な暗さのなかで10メートルは離れているのに、それでも先輩の黒髪のウェットショートは美しかった。
そして、先輩はあのころと同じ服装をしていた。
「先輩、どうしてここに……? それに、その恰好……」
「風の便りが届いた気がしたの」
先輩はこちらに向かってゆっくりと歩いてきた。
夏が終わったばかりのこの季節の夜にはちょうどよい暖かさをもたらしてくれそうなクリーム色のカーディガン、それに包まれている純白のブラウス、胸元でチャーミングに映える大きなリボン、青と白を基調としたタータンチェックの膝上丈のプリーツスカート、スタイルのよさを象徴する脚をより細く見せている黒のニーソックスに、周りと一緒なのになぜか先輩を少し大人びているように見せていたローファー、すべてがあのころのままだった。
けれど、手に持っているのものだけが違う。スクールバッグではなく、小さなスコップを持っていた。
「びっくりした? 6月のあの夜、せっかく再会できたのに、風見くん途中から来てくれなくなっちゃったから、久々だよね」
えなさんから連絡があったのだろうか。それとも、家に帰ってアルバムがないことに気づき、追ってきてくれたのだろうか。とてもじゃないけど偶然とは考えがたいし、風の便りというのにはずいぶんと無理がある、ぼくがここに来るのを見計らったかのような運命的なタイミングでの登場だった。
「たった3ヶ月なのに、本当にすごく久しぶりな気がする……わたしはちょっと寂しかったよ」
「そ、それはっ――」
棒立ちのまま身動きがとれないでいるぼくのとこまで来ると、先輩の誠実そうな目がぼくの目線と同じ高さでよく見えた。先輩は女性にしては身長が高く、ぼくは男性にしては身長が低かった。
先輩は髪をささっとかき撫でながら花壇のレンガに腰を下ろすと、スコップを地面に置き、内股になっている脚の上で頬杖をついた。
せっかくの綺麗な洋服が汚れちゃいますよと忠言しようか迷っていると、ぼくのほうを見上げた先輩が自分の腰の横のあたりのレンガをぽんぽんと叩き、目を細めて笑った。
朝から誰とも話さないまま放課後の生徒会室の扉を開いたぼくに、一人で先に作業をしている先輩が「おはよう」と出迎えてくれたかつての日々がフラッシュバックする。うまく声が出せずに声がかすれてしまうぼくのことを馬鹿にせず、無視もしないで「眠そうだね」と言葉を続けてくれる先輩の声音を思い出す。
「し、失礼します……」
ぼくは提案どおり先輩の隣に座った。いい香りがした。仕事帰りにそのまま雛里家にお邪魔していたため、ぼくはスーツ姿だったけれど、自分の服に土が付くことは気にならなかった。
2回だけとはいえあれだけ濃密なセックスをしたのに、いまは初めてあったときのように気後れしている自分がおかしかった。先輩が制服姿でいるせいかもしれない。それに高校のなかで話しているということもある。あのころに戻ったような感覚だった。
「ほんとに、寂しかったんだから……でもね、安心もしたよ」
先輩の考えていることを今度こそ探り当てたくて、先輩のほうに目を向ける。
後ろに無造作に流れているサイドの髪が、白く小さな耳にかすかにかかりそうな浮遊感に、胸がどくんと一度だけ跳ねた。
「これで、そこのあたり掘ってみて。その、オレンジのガーベラのつぼみがまとまっているあたりの、手前のほう」
密集しているつぼみをかき分け、ぼくは先輩が渡してくれたスコップで言われた場所を掘っていく。
なにか隠されているのだろうか。先輩が埋めたもの……?
郊外の夜の暗さに目はずいぶんと慣れてきていて、ただ掘るだけならばとくに不便はなかった。
ひたすら掘り進めて、穴が50cmほどの深さになったころだろうか。コツという乾いた音が聞こえた。周辺をさらに掘っていき、姿を現した小さな木箱を取り出す。
「タイムカプセル、ですか……?」
「開けてみて」
先輩が笑顔のままささやく。
木箱は開かなかった。箱の正面に埋め込まれる形で鍵穴がある。
ぼくはその穴が何を求めているか瞬時に理解した。水色のアルバムの最後のページを開き、簡素な鍵に貼られている、時間が経って少しベタつくセロテープを剥がした。
箱の鍵穴部分が地面に向くように傾け軽く何度か振り、それから土が目に入らないように瞼を閉じて鍵穴にフーッと息を吹きかける。
錠は、待ちわびていたかのようにすんなりと外れた。
なにかへんてこな虫や微生物が繁殖していたら嫌だなと不安になってくる気持ちを抑え、ぼくは木箱の蓋を一息に開けた。
風見くんがちゃんと生きていけますように
そこには、ノートの切れ端に万年筆で書かれた先輩の文字があった。
木箱のなかには、それしかなかった。それだけがあった。
眼孔の奥にじわっと水がにじんでくる。
「風見くんがね、いつも厭世的な顔して、なのに生徒会の仕事は一生懸命やってて」
それは先輩がいたからだ。
「こんな調子でこの先ちゃんとやってけるのかなぁって、お姉さんちょっと心配してたのですよ」
珍しく照れているのか、先輩の言葉が敬語になった。ぼくも嬉しかったけれど、うまく口元を緩めることはできなかった。
「風見くん、覚えてるかな。私たちが最後に生徒会室で話したこと」
もちろん覚えていますと胸を張って言いたくて、ぼくは必死になって脳内の引き出しを片っ端から開けていく。けれど、どこにも見当たらない。最初からなかったのか、なくしてしまったのか、見つけているのにそれが答えだと気づいていないのか。真相はわからなかったけれど、先輩の質問に答えることができないことには変わりなかった。
黙っているぼくを見て、先輩がくすっと笑う。
「ごめんごめん、ちょっといじわるだったかも。実はね、私も覚えてないんだ。高校のとき、風見くんと最後に会ったのがそこだったってことは覚えてるんだけどね」
ぼくは先輩の卒業式の日に自分から先輩に会いに行くことができなかった。
先輩は生徒会の副会長をやるような人だったから、もともと人望があって友人も多かったし、男女問わずぼくのように慕う下級生も少なくなかった。
きっと先輩はいろんな人に囲まれて忙しいだろうから、ぼくなんかがそこに混ざっては空気が悪くなると思って会いに行けなかったのだ。そしてぼくはひとり、もう先輩もいなくなるからという理由で辞めることになっていた生徒会室の片づけをしていた。
そうだ、そこに、先輩がひとりで来てくれたのだ。
そしてそのときに撮った写真が――。
「先輩、これ……」
水色のアルバムの一番最初のページを開く。
「うん、そう。そのときの写真がこれだね」
ページの上段、一番最初に収められた写真には、ぎこちない顔のぼくと、そんなぼくの髪をくしゃくしゃと雑にかき回したのか、乱れたぼくの頭に手を置き満足そうな笑みでピースをしている先輩が写っている。
「ほんとに、全然思い出せないね……ははっ」
「はい……こんなにも忘れてしまうものなんですね……」
「たぶんね、いつもしてたような他愛のない与太話でもしてたんだよ、きっと」
きっとそうなのだろう。
そのときのぼくには自分の気持ちを素直に先輩に伝える気概なんてもちあわせていなかったし、たとえば「ねぇ、一緒にどっか行こうよ」なんて言われて先輩とこの凡庸な日常から飛び出すなんて漫画みたいなことも起こらなかった。
きっと、なにもかもがいつもどおりに、あまりにも穏やかに過ぎていったのだと思う。
「この写真撮ったあとにさ、埋めたんだ。このメモ」
先輩がぼくが持っていたノートの切れ端の端をつかみ、そのまま続ける。
「でね、あの晩、10年ぶりに会った風見くんの顔がやっぱりまだちょっとどっかこの世じゃないとこ見てるな~と思ってね」
「そ、それでぼくと?」
「うん、ごめんね、失礼だよね」
「いえ、別にぼくは……」
「風見くんと一緒に生きていくことはできないけれど、一緒にえっちするくらいのことならわたしにもできたから」
「そんな……」
「でもね、そのあとちゃんとえなと関係を結んで、わたしを切り捨てる決意をしたことを知ってね、これならもう大丈夫かなって思ったの。なにも決められずに立ち止まっているときって、生きづらくなりがちだから。でもね、風見くんはちゃんとなにかを選択して生きていけるって、そう思えたの。もう思い残すことはないやって」
理解が追い付かなかった。まるでどこかでずっと見守っていたかのような口ぶりだった。まるでぼくの心のなかを覗いてきたかのような声調だった。
「ははっ……すごい、風見くんでもそんなに驚くことあるんだね」
「いや、これは……先輩、でも、ぼくは別に切り捨ててなんて……」
「ううん、いいんだよ。もちろん、風見くんがわたしに抱いてくれていた想いは知ってるよ。すごく嬉しかったよ。いまでも、嬉しい」
「でも、それじゃあ――!」
「ううん、風見くんはやっぱりわたしを見てないよ」
「そんなことないです……ぼくは……ぼくはたしかに過ちを犯してしまったかもしれないです。けれど、いまは――」
「なんとなく感じるんだよね。きっと風見くんはあのころの思い出に、感傷に浸ってるだけなんじゃないかなって。だから、わたしもこの服で行こうって思ったんだ。今度こそ、本当に最後かもしれないから。あのころの、いまよりもう少し無邪気だったころのわたしたちをもう一度だけ見つめなおして、それから向こうに行こうかなって」
ぼくはまだなにも言っていなかった。まだなにも言えていない。
先輩のこれからのこと。9月27日のこと。ぼくの気持ちのこと。
けれど、もうどの話をしても、どのように話しても先輩には届かない気がした。いや、すでにきっと、届いてしまっているのだ。ぼく自身も気づいていないぼく自身の気持ちが、先輩には見えているんだ。
先輩にはもう行くべき「向こう」も見えていて、これはきっと別れの始まりで。
「やよい先輩っ!」
なにもまとまっていない気持ちをそれでも先輩に伝えたかった。
ぼくは途中から溢れる涙が邪魔でしょうがなくてずっと閉じていた目を開き、初めて先輩のファーストネームを口にして顔を上げ、先輩のほうを――。
先輩はそこにはいなかった。
ノートの切れ端からいつ手を放したのかもわからない。音も立てずにどこかへ行ってしまった。
ベルガモットの香りだけがかすかに漂っていた。