先輩への異常な執着/またはぼくはいかにして心の痛みを忘れて性愛を求めるようになったか――というより、3ヶ月、2週と1日でぼくにはなにをなしえたのか 作:果肉ぬき
高校時代の憧れの先輩「雛里やよい」と偶然の再会を果たした会社員「風見健一」は、やよいと肉体関係を結ぶも、やよいが約3ヶ月後の9月27日に健一たちの前からいなくなるかもしれないという話を知って戸惑う。
自分にできることはないかと思い悩んだり、自暴自棄になったりしていくなかで、ずっと健一のことを好きだったやよいの妹「えな」とのセックスに耽溺していき、やよいから自然と逃げていた健一だったが、あるときやよいたちの家で生徒会のアルバムを見つけ、自分が本当に大事にしたかったものを思い出す。
そして、アルバムに残されていたメモに従い高校の中庭に10年ぶりに戻ってきた健一は、やよいと3ヶ月ぶりに会う。だが、自分の想いを健一に告げたやよいは、再び健一の前から姿を消してしまう。
それからやよいたちの家に通い続け、9月26日、ようやく健一はやよいと会えることになり最後のセックスを享受する。だが、大学帰りのえなも混ざって三人は淫宴の限りを尽くし眠りに就いたものの、健一が朝目覚めるとやよいはやっぱり消えてしまっていた。
「お姉ちゃんが自殺をしたのは、ちょうど1年前の9月27日でした」
目が覚めてシャワーを浴び、ぼくはホットミルクを飲みながらえなさんの話を聞いていた。ぼくらは昨夜の乱痴気騒ぎが嘘のような穏やかな雰囲気に包まれていた。
えなさんが用意してくれたホットミルクがからっぽの胃に浸透していくのがわかる。それでも、胴体よりも頭のほうが重く感じる朝の気だるさはなかなか消え去ってくれず、ただでさえリアリティのないえなさんの話が、最初は耳から脳にうまく流れていかなかった。
「ちょうど半年くらい前から、たまに現れるようになったんです」
ぼくには霊感なんてないと思っていた。心霊や超常現象の話は半信半疑で、非日常的な話がぼくをどこかに連れていってくれるんじゃないかと期待を寄せることもなければ、鬼の首を取ったかのように必死になって否定する気にもなれなかった。単純に、自分にはあまり縁のない話なんだなくらいにしか思っていなかった。
けれど、この3ヶ月でぼくが目にしていた、ぼくが触れていた先輩が霊と呼ばれるものだとしたら、もはやこの世のすべての人間が霊なのだと言われても信じてしまいそうだった。
「思い残したことがあるって言ってました。ひょっとしたらずっと前からふわふわとこの辺りを飛んでいたのかもしれないですね」
この3ヶ月、いつも生気のない目をしていた先輩、中庭で物音も立てずにいなくなった先輩、死期を目前にして思い悩むどころか、すべてを見通していたかのような口調の先輩――落ち着いて思い返してみるとむしろどうしていままで気づかなかったんだと自分を責めたくなってくる。
「お姉ちゃんには口止めされてました。健一さんにはなにも言わないでって。あ、でも私が隠してたのはそれくらいですよ。私の前にあまり姿を現さなかったのは本当です。ふたりで一緒に暮らして、ベッドまで一緒だったわりには、もともと仲がいいというわけでもなく、淡泊な関係でしたから。たぶん、お姉ちゃんもとくに私に言いたいことなんてなかったんだと思います」
先輩のことを聞いても要領を得ない言葉しか返してくれなかったこれまでのえなさんの表情が、「いつ現れるかも、わからない」と言っていたえなさんの言葉が蘇ってくる。
「でも、やっぱり、ごめんなさい。お姉ちゃんのことで精神不安定な健一さんを、身体の関係で振り向かせるようなことをしてしまいました」
「それは、別に……」
手段はどうであれ、ぼくはえなさんを魅力的だと思い身体を重ねていった。それは事実だ。なにより、精神不安定――というより精神がたいてい沈み込んでいるのはもともとだ。謝られるとぼくのほうこそばつが悪くなってくる。
「お姉ちゃん、やっぱり健一さんのことが気になってたんだと思います」
半年前といえば、ちょうどぼくがいまの会社に転職したころだ。
先輩にはぼくがこの街で働き始めたことが、見えていた……?
ぼくが声をかけたあの晩、先輩はぼくに声をかけられることを予感していたのだろうか。
いまとなっては確認する術などなかった。
ただ、あの花壇に埋められていた木箱のなかのメモ、もしあれが、そしてあの夜言ってくれた言葉が先輩の本心なのだとしたら、えなさんの言葉にはある程度の説得力があるように思われた。
「もう安心してくれましたかね、お姉ちゃん」
そうだ。先輩がなかなか姿を現してくれないことは、きょうになって始まったことじゃない。いまだってたまたまちょっとどこかに行っているだけで、忘れたころにまたケロッとした顔で出てきてくれるかもしれない。
それに、ぼくは結局先輩の誘惑に負け、えなさんも交えてケダモノのようなセックスをしてしまった。もし先輩の願いが先輩の言葉どおり、ぼくのなにかしらの成熟のようなものだったとしたら、昨晩のようなことをするぼくはまだ未熟なんじゃないか。
それに、もし中庭で会ったときの言葉どおり本当に未練がなくなっていたのだとしたら、昨日、ぼくらの前に出てきてくれたこと自体がおかしいじゃないか。
「実は、アルバムを見つけたあの日、先輩と話したんだ。あの高校の中庭で。そのときに、ぼくを見て安心したって言ってくれてた。このメモを見ながら」
ぼくは木箱からノートの切れ端を取り出し、えなさんに見せた。
えなさんは、いたずら好きな猫に困っているのに叱れないときのような笑みを浮かべていた。
「でもそのあと、昨日また出てきてくれたってことは、もしかしてまだ……」
「お姉ちゃん、言ってました。完全に成仏できるタイミングは自分の命日なんだって。もしかしたら、中庭で健一さんと話をした日からきょうまで、退職日まで有休を消化するサラリーマンのような気分だったのかもしれませんね。でも、それもこれも、なにもわかりません。お姉ちゃんが今後現れなければ成仏してくれたということですし、現れたそのときは、健一さん失格だったってことですね、ははっ」
「そ、そんなぁ」
えなさんの無邪気な笑顔がいまは心地よかった。この笑顔をもう一度崩さないようにしていきたいという決意のようなものがゆらゆらと胸の奥で燃えていた。
でも同時に、ぼくはこんなふうに浮ついてばっかだから、それを思うとやっぱり先輩は成仏していないんじゃないかという不安な気持ちも首をもたげてくる。
たとえば、先輩は昨日ぼくを誘ってきた。あれに断ることができなかったどころか、そのあとやってきたえなさんとの3Pも満喫してしまった。それは、中庭で先輩が言ってくれた「風見くんはちゃんとなにかを選択して生きていける」という言葉を裏切るような行為だったんじゃないか……?
……いや、違うぞ。
そうか。
「わかったよ、えなさん」
「ん? なにがですか」
「たぶん先輩は安心してくれてる」
「きゅ、急にどうしたんですか、そんな自信満々な顔して」
昔のぼくならきっとなにもできなかった。先輩との道からも、えなさんとの道からも、先輩とえなさんとの3Pからも、すべての可能性からぼくは逃げていただろう。なぜなら、リスクを背負いたくないからだ。失敗が怖いからだ。
生徒会も先輩が卒業するからという理由で続けなかった。先輩がいないとなにかあったときに不安で仕方がないからだ。
けれど、いまのぼくはリスクを負えるようになった。
それは逃げることと紙一重の行為かもしれない。
でも少なくとも、恐怖に身をすくませていろんなことから逃げるだけの行為と、リスクを負ったうえで飛び込む行為の違いを認識できるようにはなった。それがきっと、先輩のいう「選択」って行為のもっている力なんだと思う。
「そういえば……もし言えるならでいいんだけど、先輩はなんで自殺なんてことを……」
「ごめんなさい、それは最後まで……いまになってもわかりません。お姉ちゃん、なにも言わずに逝っちゃったんですよ。遺書もありませんでした。残っていたのは健一さんも見たあのアルバムの入った段ボール一つだけです。それだけなんですよ」
ぼくは鞄のなかから水色のクリアファイルを取り出す。
開かず、なにも描かれていない無地の表紙だけをしばらく眺めてみる。
「私その日も夜勤で、朝帰ってきたらもう警察もKEEP OUTのテープも残ってなくて。まああとで事情聴取しに何度か来ましたけど」
「KEEP OUT?」
「飛び降りだったんです、このマンションの最上階から。たぶん、終電くらいで帰ってきて、そのあとだと思います。私が出勤するときにはまだ帰ってきてなかったので。荷物とかも全部綺麗に捨てられてました。あ、でも、お姉ちゃんが働き始める前のものなら、実家に行けばまだ残ってるはずですよ」
カップを口につけてから、もう中身が入っていなかったことに気づいた。いつの間にか飲み干してしまっていたらしい。
「あ、おかわりいりますか?」
「いや、いいや、ありがとう」
「っていうか健一さん、仕事はいいんですか? 私は授業、午後からだからのんびりしてられますけど」
「うん、きょうは有休を取ってるから――それよりえなさん、上、行ってみてもいいかな?」
「いいですよ……お姉ちゃんも喜ぶと思います」
えなさんは気を悪くするふうでもなく、声音も穏やかだった。
ふたりで靴を履き、学校や仕事へ人々を送り出すため忙しなく動いているエレベーターに乗った。
最上階である11階のボタンを押す。
涼しくなってきたせいか、えなさんは出会ったころのロングTシャツではなく、薄手のワンピースを着ていた。花柄がかわいらしく、ミントの香りも爽やかで、エレベーターのガラスに照り付ける朝の陽射しとの相性がよかった。こういうとき、人は写真を撮りたくなるのかもしれない。
「ここです、この踊り場」
そこは、11階と屋上を接続する階段の踊り場だった。
屋上への扉には鍵がかかっていて、それ以上先に進むことはできない。
「お姉ちゃんもきっと、どうせなら屋上からって思ってたかもしれませんね」
屋上の扉を見つめたまま固まっていたぼくを見て、えなさんがそう言った。
「そんなにドラマチックにはいかないんだね」
「ですね」
「あ……」
「どうかしましたか?」
「いや、アルバムとあの切れ端、持ってくるの忘れちゃったと思って」
えなさんはなにも言わずに微笑んでこちらを見つめている。
ぼくは、えなさんの笑みの意味を考えながら、妙に清々しい気分になっていた。
ずっとぼくを磔にしていた過去の楔から解き放たれたような感覚だった。
「えなさん」
「なんですか、健一さん」
「ごめんなさい、ぼくは軽率だった」
「ふふっ、もういいですよ」
人と関係を持つということがどういうことなのか。
自分がなにを大切にすべきなのか。
いまさらながら先輩との、そしてえなさんとの関係から自分がなにを受け取っていたのか、気づいた。
人はなんでもすぐに忘れてしまうけれど、それを思い出すチャンスはつねにある。
ぼくは踊り場の手すりから、その模様もわからないくらい遠くにある地面のほうを見下ろしてみた。
「高いね」
「高いですよ」
えなさんの軽やかな返事に、こちらまで口元が緩んでくる。
ぼくは目を閉じ、手を合わせた。
先輩と再会した6月の夜からきょうまでの時間を数えてみる。
3ヶ月、2週と1日。
先輩の言うとおり、ぼくはなにもかもが遅かった。
出会ったときにはもう手遅れだった。
でも、まだこうして生きている限り、できることはいくらか残っているはずだ。
目を開き、えなさんのほうを向く。もう決して見失わないように。
「えなさん」
「なんですか、健一さん」
「1日だけ、時間がほしい」
「はいっ」
「なにをするわけでもないんだけど、少しだけ、これまでのことを整理しておきたいんだ」
「私なら大丈夫です」
「そしたらもういなくならないから。きょう1日だけだから」
「はいっ、いいですよ」
「ありがとう。明日また、必ず迎えに来るから」
「はいっ、待ってますっ」
ぼくらは手をつないで階段で4階の部屋まで下りていった。
ここは、先輩の終わりの場所。
えなさんとぼくの、始まりの場所。