先輩への異常な執着/またはぼくはいかにして心の痛みを忘れて性愛を求めるようになったか――というより、3ヶ月、2週と1日でぼくにはなにをなしえたのか 作:果肉ぬき
高校時代の憧れの先輩「雛里やよい」と偶然の再会を果たした会社員「風見健一」は、やよいと肉体関係を結ぶも、やよいが約3ヶ月後の9月27日に健一たちの前からいなくなるかもしれないという話を知って戸惑う。
自分にできることはないかと思い悩んだり、自暴自棄になったりしていくなかで、ずっと健一のことを好きだったやよいの妹「えな」とのセックスに耽溺していき、やよいから自然と逃げていた健一だったが、あるときやよいたちの家で生徒会のアルバムを見つけ、自分が本当に大事にしたかったものを思い出す。
そして、アルバムに残されていたメモに従い高校の中庭に10年ぶりに戻ってきた健一は、やよいと3ヶ月ぶりに会う。だが、自分の想いを健一に告げたやよいは、再び健一の前から姿を消してしまい、健一はやよいに会えないまま9月27日を迎えようとしていた。
9月26日、火曜日。先輩がいなくなるまで、あと1日。
ぼくはいつもどおりに会社に出勤した。パーティションで区切られただけの大量のデスクの一席に座り、パソコンを立ち上げた。
出勤前には先輩たちの家に寄ったけれど、先輩もえなさんも出てきてくれなかった。いるのかどうかもわからなかった。
「風見さん、きょうも結構メール多いですよ」
別段変わったところもないいつもの同僚の言葉がやけに耳障りに響いた。
給料日後で課金者が増えたのだろう。いつものことじゃないか。昨日もそうだった。わざわざ言うようなこと……?
ぼくは適当に相槌を打ち、先輩の幻影を追い求めながら淡々とキーボードを打ち続けた。
お昼休みには、翌日は仕事を休みたいと上司に伝え、承認をもらった。
1時間の残業を終え、ネオンと人々の喧騒を煩わしく思いながら先輩に会いに行く。
きっときょうもいない。
けれど、ここ10日間の習慣となっていて、もはや引き返そうかどうかなんてことで悩むことはなかった。
「お兄さんっ、ロバート・キャバいかがですか! ロバート・キャバっ!」
いつもなら無心で無視できるキャバクラの客引きの声も、きょうは異様に腹が立った。
ぼくは目を閉じて深呼吸をし、くだらないネタにされてしまった偉大な写真家に哀れみの念を抱きながらその場を通り過ぎた。
すっかり見慣れたマンションの4階に上がり、「雛里」と書かれた表札のあるドアの前に立つ。
右手の人差し指でインターホンを押した。
僕自身は今朝から10時間分の年をとっただけで、つまりはなにも変わっていないに等しいはずだったけれど、インターホンを押す感触はいつもと違った。
終わりが見えてくると心もちが変わることがある。むしろ変わらないほうが珍しい気もする。ただ、今朝のぼくといまのぼくの、どこがどう違うのかはわからなかった。
いつものように30秒くらいを頭のなかで数えて待つ。
もう一度押す。
30秒待つ。
いつもならここで帰るところだが、もうなりふり構っていられず、もう一度押そうとしたときだった。
「いいですよ、入ってください」
薄手のワンピースを着ているえなさんが玄関から顔を覗かせた。
初めて会ったときのような、不機嫌そうな声音だった。
なにを言えばいい……?
会えないのが、返事がないのが当たり前の状態になっていたから、いざ顔を合わせたときにどこから話をするのが適切なのかわからなかった。
「とりあえずなかに入ってください」
ぼくはなんとか頷くことしかできなかった。
張りつめていた糸が切れてしまわないよう、ぼくは深呼吸をしてから玄関に足を踏み入れた。
なかに入り、ローテーブルの前に座ると、かつてここで食べたしょうが焼きの匂いが蘇ってきた。ぼくは思わずキッチンのほうに顔を向けるも、とくに料理をした形跡はなかった。匂いが記憶を呼び覚ましたのではなく、記憶が匂いを呼び覚ましたようだった。相当疲れているのだろうか……?
あのしょうが焼きはたしか、えなさんが作ってくれたものだった。それを先輩とふたりで食べたのだ。ぼくらの関係はあそこから大きく転がり始めた。あまりにも遠くまで来てしまった気がする。
これまでの道程を思い返すと、悲哀や劣情の念が蘇ってくると同時に、頭のなかがクリアになってくるのを感じた。ぼくが大切にしたいもの、先輩への想いを思い出して。
ぼくは再び深呼吸をし、向かいに座っているえなさんに向けて口を開いた。
「えなさん。ぼくは本当に勝手なことをした」
「いまもです」
えなさんの声音は厳しかった。そしてそれは八つ当たりでも乱暴な言いがかりでもなく、事実だった。
「す、すみません……。どう謝ればいいのか……それでも……すみません……」
えなさんはぼくの次の言葉を待っているようだった。
ぼくは鞄のなかから水色のアルバムを取り出す。
「ぼくは優柔不断で……えなさんと先輩に迷惑をかけた。でも、このアルバムに収められた先輩とぼくの写真を見たときにすべてが――」
「健一さん」
「え……?」
えなさんの毅然とした声音とこちらをじっと見つめる目つきに、背中からじわっと冷や汗が出てくる。なにか、嫌な予感だけがした。
「健一さん」
「は、はい……」
「あと少しだけ、時間もらえますか?」
「そ、それはどういう――」
「健一さんの言いたいことはだいたいわかってます。なので、みなまで言わずとも大丈夫です。でも、それを知ったうえでなお、私は健一さんに言わなければいけないことがあります」
先輩の死期に関する話をするときはいつもそうだったように、えなさんの言葉は要領を得なかった。
「健一さんはきょう、朝まで時間ありますか? 朝までというか、終電後までというか」
「う、うん……明日は休みを取ったから。先輩の、最後の――」
「わかりました。あと5時間くらい待ってください。そしたらお姉ちゃんのこと、話します」
ぼくは時計を確認する。そろそろ夜9時。
「えなさん、でも、それだと9月27日になっちゃうけど」
「安心してください。なんて言えばいいかな……健一さんが、私たちがここでなにかをすることでお姉ちゃんの運命が変わることはありません。だから、なにもしなくても一緒なんです。すべて、すべてあとで話しますから」
それっきり、えなさんは大学の講義で疲れてるからと言って、シャワーを浴びて髪の毛を乾かすとすぐにベッドに入って眠ってしまった。
浴室から漏れ出てくる湿気とえなさんの身体からはミントのトイレタリーの匂いが漂ってきて、ぼくはえなさんと狂ったように色欲に溺れていた日々を思い出し思わず勃起してしまった。
なんでこんなときにと自分のペニスと脳神経に怒りを覚えたぼくは、しかしその劣情にもう流されまいとアルバムを持って玄関から外に出た。
夜風に当たって頭と股間を冷やしながら、アルバムを開いて先輩との過去の日々を思い出す。
そして4階から下を見下ろし、先輩の姿を探した。えなさんはああ言ってたけど、詳細を教えてもらうまではどうにも納得できないところがある。ひょっとしたらまだ先輩と会えるかもしれない。
ぼくはそうして日付が変わっても先輩の姿を求め続けた。