先輩への異常な執着/またはぼくはいかにして心の痛みを忘れて性愛を求めるようになったか――というより、3ヶ月、2週と1日でぼくにはなにをなしえたのか 作:果肉ぬき
高校時代の憧れの先輩「雛里やよい」と偶然の再会を果たし二度の快楽を享受した会社員「風見健一」。しかし、一緒にシャワーを浴びているとき、やよいから突然の告白を受ける。「わたし、もうあといくらも生きていられないの」。
「こんなこと、してていいんですか……?」
先輩の突然の言葉にようやくぼくが返せた気持ちはそんなぶっきらぼうで無責任で失礼な言葉だった。
出しっぱなしのシャワーの音がいやに響いている。
「うん、いいんだよ」
それでも先輩は、柔和な表情を浮かべていた。
ぼくには「わたし、もうあといくらも生きていられないの」という先輩の言葉を受け止める気概もないのに、先輩はそんなぼくを許してくれている。余計に情けなくなった。
「病気、ですか……?」
「そんなところ」
つねに半分勃起している状態のぼくのペニスがこんなときでもびくっと脈動した。性的な刺激を感じたのか、この現実の恐怖に慄いたのかを判別することはできなかった。
「ぼくになにかできること、ありますか?」
「こうしてくれてるだけで、いいよ」
セックスのことを言っているのか、一緒にお風呂に入っていることを言っているのか、こうして話をしていることを言っているのか――先輩の言葉は続かなかった。
カスタマーサポートの仕事は、ユーザーが言わんとしていることを汲み取る能力が重要になる。ユーザーがメールに書いていることではなく、それによって伝えようとしていることをつかむことができなければ、お互いに嫌な思いをするようなすれ違いや遠回りをしてしまう。
もっとも、これはコミュニケーション一般についても同じはずだ。けれど、ぼくはこの仕事に就くまでその大切さに気づかなかったし、そうしたことを気づきうるような機会からことごとく逃げてきたのだと思う。
だから頭ではわかっていても実践するのは難しかった。
あまつさえ再会したばかりで言葉よりも身体を重ねることに熱心なぼくらの間で、歩み寄るような優しいコミュニケーションを成立させることはとても困難なことに思えた。
そもそも、先輩の希求していることがわかったとしてもそれに応え続けることができそうな気がしなくて、ぼくはそれ以上掘り下げることもできなかった。
「また来てもいいですか?」
それなのにぼくはまだ先輩に会いたかった。
「うん、遠慮しないで来てね……」
ぼくの都合のいい言葉に、先輩の全承認の言葉。
これは夢なのかもしれないと感じながら、ぼくはいつもより力を込めて髪を洗った。
†
シャワーを終えたぼくらは適当にテレビを流しながら食べ残していたしょうが焼きを口に運んだ。
うまく言葉も紡げず、ぼくらは無言のまま箸を動かした。
高校時代、先輩はもう少し溌剌とした人だった。
先輩とふたり、夕暮れの射し込む放課後の生徒会室で残務を済ませているときも、場が和むように先輩は率先していろんなことを話してくれた。
だから、こんなにも静かな時間を共有することは新鮮だった。
ぼくが2つ上の先輩と一緒にいられたのは高校1年のときの1年間のみ。あれから10年、ぼくはろくなキャリアを歩んでこれなかったけれど、先輩は社会に出てさまざまな出会いを経験し、胃の痛くなるような試練を乗り越え、価値観や生き方に変化があったのかもしれない。
ぼくと違って先輩はいつだって向上心に満ちていたから、ぼくなどには想像もできないような密度の高い10年を過ごしてきたはずだ。
それとも、余命を知ったそのときに急に変わってしまったのだろうか。
「先輩はこの10年、どんなふうに過ごしていたんですか?」
「ははっ、そういえば、そんな話もしてなかったね。それなのにわたしたち……まあ、そのあたりはまた今度話そうか。ほら、もう終電なくなっちゃうよ?」
いまがチャンスのはずだった。ここで粘れば先輩のことをもっと知ることができる。「もうあといくらも生きていられない」理由もわかるかもしれない。
でも、ぼくを気遣うように聞こえた先輩の言葉は、ひょっとしたら帰ってほしいという意味なのかもしれないと想像してしまい、ぼくはその真意を確かめることもできずに先輩の部屋をあとにした。
翌日、ぼくは先輩と連絡先を交換していないことに気づいた。
†
次のアクションはどうするべきかと経験も知識も乏しいぼくは悶々としたまま週末まで過ごした。
先輩が何を求めているのかわからなかった。ろくに言葉を重ねていないのだから当たり前だろう。
もしぼくがただのセックスフレンドだとしたら?
何の問題もない。あのやよい先輩と限られているとはいえ同じ時間を共有し、快感を求めあうことは、雨上がりの虹のように儚いものだとしてもこの灰色の現実には神の啓示のようにきらめく宝物のように思えた。
もし先輩に何人もの相手がいて、ぼくがキープのひとりにすぎなかったとしても、その事実が浮上してこない以上ぼくはこの関係を続けたかった。
けれど、もし先輩が何も求めていないとしたら?
哀れな野良猫に餌を与えるつもりでぼくの欲望に応えてくれているだけだとしたら?
それはできれば想像したくない可能性だった。もしそうすることで先輩のなにかが満たされているのならばぼくは喜んで先輩の玩具になりたい。
けれど、もし機械的な事務処理にすぎないのだとしたら、そこに先輩の享楽がなにひとつないのだとしたら――いや、案外それでもぼくは先輩のもとへ通い続けるのかもしれない。
いまこうして冷静に考えていられるうちはいい。けれど、先輩の匂いや肌触りが憑き物のように頭から離れずいくらオナニーを繰り返したところで充足を得られなかったとき、ぼくは自分勝手に先輩に会いにいくのかもしれない。
その可能性を否定しきれない自分がいることに気づいてぼくは考えるのをやめた。怖かったのだ。先輩のことを慮ることができていないかもしれないことが。色欲のことしか大事にしていないかもしれないことが。
それでも、ぼくは鬱陶しいくらい晴れて蒸した6月の空の下、平日と違って座席に空きができるくらいには快適な電車に乗って、先輩へ会いにいくことにした。「こうしてくれてるだけで、いいよ」という先輩の言葉を通行手形のように抱えて。
†
「姉はきょうはいないですよ」
先日玄関で話したときと同じ装いで出迎えてくれたえなさんは、相変わらず不機嫌そうだった。
「そ、そうですか……」
えなさんからは柑橘系の芳香が漂ってきて、ボブヘアはしっとりとしていつもよりもボリュームが少なく見えた。思わずえなさんがお風呂に入っているところを想像してしまい、慌てて頭を振り払う。
「どうしたんですか」
ぼくの挙動不審な態度に対してか、ぼくが訪問してきたことに対してかはわからなかった。
「いえ、その……」
先輩がいなければここに用はなかった。けれど、先輩がいないことを受け入れたくなくて、立ち去ることは躊躇われた。ぼくが受け入れようが受け入れまいが、先輩がいないことには変わりないのに。
「じ、実は、やよいさんの命がもうあまり長くはないということをこの前お聞きして……」
ひょっとしたらえなさんにも言っていないことを勝手に明かしてしまったかもしれないと一瞬肝を冷やしたが、えなさんの座っている目がかすかに揺らいだのを見て好奇心を駆られたぼくは、ここぞとばかりに言葉を連ねた。
「それで、なにかぼくにできることはないかと思ってまして――」
「いいですよ」
「もしえなさんが――」
「もういいですって。ちょっとあがってください。なかで話しましょう。あと、なんで私を名前で呼んでるんですか。気持ち悪いのでやめてください」
ぼくはなにも返せず、えなさんはさっさと部屋へ戻っていって玄関のドアは閉まった。
先輩と再会する前のぼくならばいまごろ泣いて逃げ出していたと思う。けれど、先輩と2回の情事を重ねたことがぼくを踏みとどまらせていた。えなさんがなにか教えてくれるかもしれないこのチャンスを逃したくなかった。
ぼくは、姉がいるえなさんのことを雛里さんと呼ぶのは変な気がしたけれど、他に選択肢がないならばそうするしかないとぼんやり思いながら、雛里家のドアを開いた。