少し高を括っていた部分がある。
どうせフロントあたりか、部屋に入るまでに止められるだろう。死んだほうがましだと思うくらいに最悪なことは起こらないだろう。明日もまたきょうと同じように、ありきたりで退屈で平和な日がやってくるだろう。そう思っていた。
「うわ、道具だけじゃなくて匂いまで体育倉庫っぽいー!」
「なんか臨場感ありすぎてこわくない?」
「でもそのほうが変態は興奮するんじゃない? ちょうどいいでしょ」
けれど、そんなのは自分の見たいものを見てしまうという人間の悪癖にすぎず、ホテルの人は高校生4人という団体客について、怪しむそぶりを微塵も見せず部屋へ通した。現実はいつだってぼくら凡人の先を行っている。だから小説家になりたい人は星の数ほどいるのに、歴史に刻まれる作品の名前は驚くほど少ない。
「それにしても、コート着てたから制服は見えなかったんだろうけど、この鞄持っててよく入れたよねー。さすがキク、経験者は違うね」
「でしょ――って、私も入るのは初めてだよっ! ルカのほうこそ、そんなこと言うくらいだからしょっちゅう来てるんじゃないの?」
「あたしも初めてだって。ほら、マツリいるじゃん? あの子よくこのホテル使ってるらしくてさ、話聞くんだよね。っていうか暑くね? コート脱ご脱ごっ」
じゃあその「小説よりも奇なり」とされる現実を物語にしたら、人は歴史に名を残せる作品を生み出すことができるのだろうか? いや、それもまたあまりにも夢見がちな発想だ。ぼくらが物語を書こうと思ったそのときにはすでに現実は次のステップに進んでいる。止まることがない。
「あ、あの、どうしてわたしはここに呼ばれたのでしょうか……?」
「うん? それはね、ヤエちゃんがかわいいからだよ」
「え、そ、そんなことないですよ~」
「あたしたちはそんなヤエちゃんにいまのうちに社会勉強をさせてあげたいと思ってね。ほら、セケンには悪い人いっぱいいるからさー」
もっとも、そもそも名作が生まれるかどうかは現実を超えているかどうかだけに依存する問題ではないはずだし、「超える」とはどういうことなのかもいまのぼくにはわからなかったから、この推論それ自体があまり有意義なものではない。ただの現実逃避だ。
「お前のことだよ、ナガヤマ」
「きゃはっ、ルカこわ~い」
「いやいや、ナガヤマが悪いんだって。でしょ? 変態でイカ臭いナ・ガ・ヤ・マ・くん。お前、どういう神経であたしたちのマツリでゲロキモいエロ小説書いてたの?」
マツリさんは、ぼくの天使だからだ。それにキモくない。周りから見放された男を救済する天使の物語だ。
「え、なに、シカト?」
「ナガヤマく~ん、ルカ、怖いからあんまり怒らせないほうがいいよ~」
そんなふうにじっとりした声音で言われなくてももうじゅうぶん体感している。
そのノートのこと、マツリやクラスのみんなにばらされたくなかったら、このあと××ホテルの前まで来て。
そう言われて逆らえなかったから、いまこんな状況になっているんだ。
お昼休み中にぼくが書き進めていた小説を覗き見たときのシシドさんの目は、ゴキブリを見つけてしまったかのような蔑みに満ちていたどころか、少し引きつってすらいた。ぼくは咄嗟にノートを閉じたけれど、遅かった。
シシドルカ。学園の問題児だ。なぜマツリさんのような芯のある誠実な人がこんな人と友だちなのか、そこに関しては心底理解できない。
ちょっと先生たちを困らせがちなとこにさえ目をつぶれば、茶髪のショートのマッシュボブとその砕けた口調は溌剌として気さくな印象を周囲の人間に与えるし、いかにも男子からモテてそうな感じだったし、小動物のようなそのかわいさは悔しいけれど否定できない。
けれど、本性はこうだ。学園の男子たちよ、目覚めるんだ。ちょっと怒ると溌剌を通り越してただのチンピラじゃないか。実はぼくもきょうのきょうまで、ひょっとしてじっくり話してみたらいい人なのかもと変な好意的想像をしてたりもしたけれど、普段の印象どおりというか、それ以上にきつい人だったというのが真実だ。どうしてこんなのがマツリさんと一緒にいるのか。まったくもって信じられない。
「逆らうの? まだわかってないのかなー。しょうがない、お前の書いた反吐みたいな文章、朗読するか」
「そ、それはっ――」
「キク、抑えといて」
「は~い」
ぼくはノートの入った鞄を抱えてその場にうずくまったけれど、キクさんという背の高い女性――クラスは違うけれど、たしかドウマエという名字だったはず――にあっけなく後ろから羽交い絞めにされてしまった。思わずむせてしまいそうなほど強烈な甘い香りが漂ってくる。ふわっとした金髪のツインテールから漂うシャンプーの香りなのか、何かの香水の匂いなのかは判別できなかった。
それにしても、この力の差はなんだ? 逃れようと思って四肢に力を込めても、エコノミークラスにすっぽりはまってしまったかのように動けなかった。身長差のせいもあるのだろう。ぼくは162cmしかなくて男子ではかなり小さいほうだけれど、この感じだとドウマエさんは170cmはありそうだ。本を読んだり小説を書いてばかりで、体育の授業も仮病でほとんど休んでいる自分の肉体的に不健康な生活を初めて呪わしく思った。
床に落ちた鞄をシシドさんが拾い上げ「触りたくないな~」とぼやきながらチャックを開ける。
「さてさて、読みますかな」
「お、お願いしますっ! それだけは……それだけは許してください……」
ぼくはどうなってもよかった。けれど、ぼくが書いた天使の物語だけはなにがあっても絶対に汚されたくなかった。
「じゃあなんでもする?」
「は、はい……小説と関係のないことならば……」
「ようやくわかった~? 手間とらせんなよ。ん? 待って、こいつ起ってない?」
「え、嘘っ」
「……ぃゃっ」
言われて気づいた。ペニスが8割くらいの膨張率でスラックスのファスナー周辺の布を押し出していた。部屋に入ってすぐ、コートの前ボタンだけ外していたせいで正面が丸見えになっている。
「ないわー、これは完全に引く。もしかしてキクに抱きつかれただけで? キモ~」
「あ、え、そういうこと? ってか抱きついてるわけじゃないしっ。でも、なんかいたずらしたくなってくるかもっ」
「あたし手伝いま~す! ほら、ヤエちゃんも!」
「わ、わたしは……」
「ん~……ま、いっか。入りたくなったらおいでよ。あ、そうだ! じゃああたしのスマホで全部録画しといてもらえる?」
「は、はい……」
ヤエさんと呼ばれている女性の表情には戸惑いと好奇の入り混じった色が浮かんでいた。
ぼくやシシドさんよりもさらに身長が低い。マツリさんと同じくらいだろうか。初めて見る顔だから、シシドさんたちへの言葉遣いからしてもおそらく下級生だろう。手入れが行き届いているのか、まったく傷んでいない黒のストレートロングにはキューティクルが綺麗に浮き上がっていた。
ヤエさんの抱えた戸惑いにぼくの未来を掛けたかったけれど、この状況が異様なことであると誰かに弾劾してくれるような気概は持ち合わせていないらしい。まあしょうがない。ぼくがヤエさんの立場でもきっとなにもできなかったと思う。人のことを言えるほどぼくは立派な人間ではなかった。
ヤエさんがシシドさんのスマホを操作し、小さなレンズをこちらへ向けた。世界は無慈悲であるとはこのようなときに使う言葉なのだと身をもって知った。できればこんなことは死ぬそのときまで知りたくはなかった。
「まずはコートとスラックス、あと上の、ブレザーも脱いでもらおうかな」
ぼくは鼻から空気を吸い、口からゆっくりと吐き出した。目を閉じて親指を包むように二つの拳を握りしめた。爆発しそうな心臓の鼓動は少しもおとなしくなってくれなかった。
「おい、早くしろって。ゲロ小説読むよ?」
「す、すみません……」
自分の行いはそんなにもいけないことだったのだろうか。
たしかに学校で書いていたのは失敗だったかもしれない。マツリさんがここにいたら、マツリさんはどんな顔をするだろう。なんと声をかけてくれるだろう。声なんてかけてくれないのかもしれない。ぼくの心のよりどころであるあの小説を一目見た瞬間、唾棄するような表情でこの場から走り去るのかもしれない。けれど、それはこのような公開処刑に処されるほどの悪事なの?
ぼくは涙をこらえながら言われたとおりに行動した。
「うわ……ほんとに起っちゃってんじゃん……」
「これかな~? これがいいのかな~?」
ドウマエさんが再び後ろから、今度は文字どおり抱きついてきた。ぼくのおなかのあたりに手を回し、思いっきり密着している。いつの間にかドウマエさんもブレザーまで脱いでいて、羽交い絞めにされたときなんかよりもより直接的に胸の形がイメージできてしまった。
「どう? キクの胸、ふわふわでしょ? Eカップだかんね~」
「ちょっ、ルカ、ばらさないでよ~」
「でもナガヤマのち×ぽ、さっきよりも大きくなってるよ?」
「しょうがないな~。挟んじゃう?」
脳がこの状況に慣れてきて、誰もが大なり小なり備えているはずの虚栄心や羞恥心が徐々に薄れていく代わりに、自分では蓋をしていたつもりの劣情のかまどがぐつぐつと音を立ててその存在を主張していた。
「いや、まずは自分でやらせてみない?」
「あ、それいいね~。私はこのままくっついてよ~っと」
この場をどう切り抜けたらいいかとか、明日からどんな顔して学校に行けばいいかとか、そういうことよりも、ドウマエさんの胸を触ってみたいと一瞬でも思ってしまった自分を釘バットで殴り飛ばしたかった。そうだ、いまこそ天使だ、天使の降臨が待ち望まれる……! 天使のおみ足に頬ずりをしてこの頭のイカれた状況を、いや、このイカれた頭をなんとか――。
「やれ」
「え……」
「え、じゃなくてさ、オナニーしろって言ってんの」
「……それは……」
「意味わかるよね? どうせ自分の書いたゴミ小説で毎朝毎晩シコってんでしょ? あ、もしかして昼休みも? あたしがきょう見ちゃったとき、あれ、実はシコる直前だったとか?」
「やだ~、私までぞくぞくしてくる~」
「ねえ、早くその汚らわしい手で腐ったち×ぽ握ってよ」
冷や汗なんて出なかった。
ドウマエさんの体温と、血液が集中して具合でも悪くなったようなペニスの温度で、ぼくは完全にのぼせていた。
天使のおみ足はいくら祈っても現れなかった。ぼくの脳内イメージと目に映る世界はやっぱり違っていた。目に映る世界は溜息も出ないくらいひたすらできの悪い茶番を演じ続けている。天使はどこに? 楽園はどこに? ぼくはいまなぜここにいる?
「わかってるよね? もしここで従わなかったら、みんなにばらすからね。もちろん先生や親にも言うから。もちろんマツリには真っ先にね」
「ナガヤマくんの必死な姿、見たいな~」
猫なで声が耳元で響き、暖かい吐息が吹きかけられる。
ドウマエさんは焦らすように艶めかしく動きながら、ぼくのワイシャツのボタンを外していった。
理性の扉は徐々に閉じられていった。
ぼくのワイシャツは完全に脱がされ、しばしドウマエさんの体が離れたかと思うと、ほっくりとした小さな豆が当たったような感触と茹りきった巨大なお餅を塗りたくられたような感触がぼくの背中に連続して訪れた。
「や、キク、えろ~……」
「私のおっぱい、どう……? ナ・ガ・ヤ・マ・くん」
マツリさんの笑顔とドウマエさんの蕩けるような胸の感触が万華鏡のようにない混ぜになる。
あの強烈な甘い香りがより臨場感を伴ってぼくを包んでいた。
ドウマエさんの体臭かフェロモンか、さっきとはまた別の淫靡なフレバーや、体育倉庫を模したこの部屋に敷かれているマットの背徳的な匂いも乗法的にミックスされているだろう。
脳を犯されて無理やり欲情スイッチを連打されているような気分だった。
「マツリさん……ごめんなさい……」
ぼくはボクサーブリーフの上から痛くなるくらい膨れているペニスを握った。
「大丈夫だって、別にお前のことなんて眼中にないから。マツリ、大学生と付き合ってるし」
こめかみのあたりを細長い針が弓矢の飛んでく速度で貫通したような気がした。
マツリさんに……彼氏が、いる……?
「いや、だからさ……さっきの私たちの話聞いてなかったの? このホテル、マツリがよく使ってるんだって。彼氏、バイト先の先輩で大学生だから、うちらなんかよりお金持ってるわけよ」
シシドさんの声がどこか遠くで鳴っているサイレンのように響いた。
なにも、恋人になれるだなんて確信していたわけじゃない。
期待していなかったといえば嘘になるけれど、到底相手にされるような柄じゃないってことは痛いほどわかっている。
だけど――。
「あれ、こいつ泣いてるよ」
「私が慰めてあげる~。ほら、一緒に気持ちよくなろっ」
ペニスを握っていたぼくの右手にドウマエさんの右手が重なる。その手は裏筋がよく擦れるような角度でゆったりと動きはじめた。