「……っ」
カーテンの隙間から差し込む朝日に少し顔をしかめた後に、ゆっくりと目を開ける。京士郎は眠そうな雰囲気を隠すこともなく布団から身を起こし、頭をかいた。
とりあえず、洗面所へと向かい、歯を磨き、顔を洗う。顔を洗ったところでようやく眠気が8割方消えたため、自室に戻り、五車学園の制服へと着替える。
「……おはよう、母さん」
「おはよう、京士郎」
リビングへと向かうと、朝食の準備をしている不知火が笑顔で京士郎を迎えた。
当たり前の日常。それが何物にも代えがたいものであることを、京士郎は理解している。
「ふぁ……おはよ、お母さん、京兄」
「……おはよう」
「おはよう、ゆきかぜ」
京士郎より少し遅れて、五車学園の制服を着たゆきかぜがあくびをしながらリビングにやってきた。
早いもので季節は流れ、京士郎が五車町に帰ってきてから3年の月日が経過していた。
記憶を失ってしまった京士郎もいい加減に五車町での生活に慣れ、言語能力もまだまだ寡黙ではあるもののかなり流暢に喋れるようになっていた。
成長期が訪れたこともあってか、身長は一気に伸びて歳の割にはかなり高い方と言える180近くまでになり、相変わらずの中性的な童顔ではあるものの、少しは大人びた顔つきとなった。
結局、白い髪と白い肌が変わることはなく、その目つきは普段は柔らかいものの、戦闘時や寝起きは鋭い癖も変わることはなかった。
「京兄、今日の放課後は……」
「ごめん、仕事……」
「あ……い、いいのよ! 私だけでも頑張れば何とかなるから!」
京士郎は、まだ五車学園の生徒ではあるものの、そのあまりの実力から、時折正式な対魔忍として活動していた。彼よりも五車学園の中では先輩で、学園内でも相当な実力者のはずの凜子がまだ見習いの対魔忍であることを考えれば異常な速度であると言えるが、彼の活躍を鑑みれば仕方のないことなのかもしれない。
母親である不知火が目を光らせていることもあり、明らかに死ににいくような任務や過酷すぎる任務こそないものの、その日々は多忙を極めている。
「明日は、大丈夫……」
「本当!? じゃあ、私と模擬戦を」
「ちょっとゆきかぜ、京士郎にも休ませてあげないと」
「大丈夫」
「……はあ」
京士郎はどこまでも利他的に行動するのが目立つ。彼の無尽蔵なのではないかと言うほどの体力があるからこそその考えが貫けているものの、いつか過労で倒れてしまわないかと不知火は心配で仕方がなかった。
―・―・―・―
「京士郎くん……京士郎くん」
「んっ……ごめん」
「ううん、大丈夫だよ」
次の日、五車学園のとある教室にて、京士郎の身体を長い間彼の隣の席である桃子が揺さぶって起こした。この教室ではもはや日常になっている光景だ。
京士郎は少しだけ身じろぎした後、その鋭すぎる目つきを隠そうともせずに桃子の方をみて礼を言う。流石に何年も起こしていれば慣れてしまったのか、他の生徒達は未だに少し怯えているにも関わらず、なんでもないことのように首を横に振った。
京士郎の多忙さは、五車学園の中でもかなり有名であるため、教師陣もそこまでとやかく言うことはない。京士郎自身が教師陣よりも遥かに強いというのも理由の一つではあるが。
「明日は他学年と合同で山中での訓練を行う。それぞれ装備の持参を忘れないように」
教師がそんな一言でホームルームを締めくくり、教室から出ていくと、生徒達は堰を切ったかのように雑談をし始めた。
だが、そんな教室の中で、一箇所だけ静かな場所があった。
言うまでもなく、京士郎と桃子の席だった。
「…………」
帰り支度をしている京士郎に、話しかける者は居なかった。桃子もチラチラと京士郎を見ながらではあるものの、帰り支度を始めていた。
今や、校内で京士郎を知らない者は居なかった。
京士郎自身が吸血鬼になってしまっているという情報こそゆきかぜや凜子や達郎などの京士郎と親しい人しか知らないものの、それらを抜きにしても、彼はあまりにも周囲とは隔絶した実力を持っていた。
彼の能力、一応『忍法・血染花』と呼ばれる能力はこれまでの対魔忍達の能力の中でも群を抜いて強力なものであり、もはや現状で京士郎に対抗出来るのは最強の対魔忍である井河アサギくらいなのではないかとすら言われる始末だ。
「…………」
そんなあまりにも強すぎる能力により、周りからは完全に腫れ物扱いをされている京士郎だが、当の本人は特にそれほど気にしているわけではなかった。これがもしまっとうな学園生活ならば、京士郎ももう少し気にしたのかもしれないが、あいにくと授業以外では任務に行っているかゆきかぜや凜子達の鍛錬に付き合っている京士郎にとっては割とどうでもいい話なのだった。
「京兄! 道場行こ!」
「……わかった」
そんな感じで丁度帰り支度を整えた京士郎の元にやってきたのは、昨日一緒に鍛錬するという約束を取り付けたゆきかぜだった。その活発な性格と優秀な成績から、クラスの中でも大きな存在となっている。
ゆきかぜに引っ張られる形で京士郎が教室を出ていってから、初めてクラス全体の雰囲気が弛緩した。
――――――――――――――
「それでは、本日は2人組での訓練を行う。本来ならば能力や特性などの相性を鑑みて2人組を決める所だが、今回はそういった事よりも連携を重視した訓練だ。各自事前に提出した2人組で固まって行動するように」
「「「「はい!」」」」
次の日、その学年とそれより一つ上の学年による合同訓練の内容は、五車町を離れ、とある山奥にて行われるものだった。それぞれが自分の対魔忍スーツを纏っており、その顔には若干ではあるものの緊張している様子が伺えた。
「それぞれが保有している巻物を他のペアから奪い、最終的に巻物の保有数が多かった組から評価をつけていく。山中には監視の教員が徘徊しているから、不正をした場合は罰則を課する」
教員である八津紫が生徒達に注意事項を確認していくが、生徒達の視線は時折ある場所に移っていた。それも一部ではなく、殆どの生徒が、だ。
「…………」
「……はあ」
生徒達の中でもかなり前の方で教師たちの話を聞いている2人組。秋山凜子と水城京士郎。現在の五車学園の中でも実力的な意味でのトップ2ならば誰もが迷うこと無くこの2人を選ぶであろう2人がタッグを組んでいたのだ。五車学園の中でもかなりの人気を誇り、それに見合う実力を持っている凜子だけでも殆ど勝ち目がないのに、それに加えてその凜子との手合わせで無敗の京士郎がタッグを組んだとあっては他のタッグからしてみればたまったものではないだろう。
「なお、秋山と水城のペアを倒したペアには本来の評価とは別に評価を与える。無理に倒せとは言わないが、留意しておくように」
紫からそんな特別ルールが宣言されても、生徒達が沸くことはなかった。元から倒せると思っていない故に、加点されたところでどうしようもないからである。紫はそんな生徒達をみてため息をつくが、そんな紫でも納得できてしまうほどに凜子と京士郎の強さは突出していた。
「では、20分後に開始する。各自思い思いのスタート地点につくように」
「よし、行くぞ京士郎」
「……了解」
紫がそう言い終わると同時に、生徒達は大急ぎで走り出した。そんな生徒達に反して、京士郎と凜子のペアは比較的ゆっくりと歩き始めた。京士郎も凜子も既に実戦を経験しているため、その顔に緊張の色は見られない。
―・―・―・―
「京士郎、どうだ?」
「……今の所は、大丈夫」
とはいえ、流石に凜子も京士郎も望んでこのコンビを組んだわけではない。そんな事をしたら勝負にならないことは客観的な事実であるし、それでは凜子も京士郎も成長しない。
今回凜子と京士郎がコンビを組んだのは、教員からの指示によるものだった。
「それにしても、私達まで監視に使うとは、教員側も人手不足なのだな」
「……仕方ない」
周囲を警戒しながら、彼女にしては珍しく愚痴をこぼした。そんな凜子に対して、京士郎は相変わらず何を考えているのかよく分からない平坦な口調で答えた。
今回、凜子と京士郎は訓練以外にも、生徒達の監視を命じられている。とはいっても、不正を見つけろとかそういったものではなく、単純に不測の事態に備えてのものだ。
現在、五車町から少しとはいえ離れた山にて訓練を行っている。事前に一般人が立ち入ることは禁止することが出来るものの、敵対勢力の襲撃となると流石に防ぎようがない。生徒の中でもかなりの実力を誇る凜子と京士郎に命じられたのは訓練をこなしつつ、敵対勢力を探すことだった。
今の所、敵対勢力は見つかっていない。まぁ、あくまで万が一の事を考えてのことであるため、必ずいるというわけではないのだが。
「京士郎、いつごろになったら集め始める?」
「……まだ大丈夫」
二人とも下手に真面目なため、規定時間の半分が経過しても未だに索敵に専念していると、
「……いる」
「京士郎? ちょっ、京士郎!?」
京士郎がその無表情を少しだけ歪ませたと思ったら、弾かれたかのように走り出した。既に彼の足裏から杭が生成されており、歩幅を大幅に広げた京士郎が走り出した。突然走り出した京士郎の後を、凜子が慌てて追いかけた。
「待て京士郎! いるって何がだ!」
「……多分、魔族」
「何だと!?」
「……先生に報告しに行って」
「あっ、京士郎!!」
京士郎はそれだけを言い残して、足裏に生やした杭を更に伸ばし、全力の凜子でも追いつけないレベルのスピードで標的との間合いを詰めた。
―・―・―・―
「にしても、本当に捕らえるだけで良いのか?」
「ああ、何でも今回の本命は別なんだと」
生徒達が訓練している範囲から少し離れた山中で、銃器を持ったオーク数人が退屈そうにしていた。彼らの近くには、拘束具で身動きが取れなくなっている五車学園の生徒が数人おり、その誰もが意識を失っていた。拘束された生徒の中には桃子もいた。
「はぁ~、どうして目の前に女がいるのに犯すことも出来ねえんだろうな……」
「しょうがねえだろ。逆らったらマダムに何されるか、考えたくもねえ」
オーク達がそんな愚痴をもらしながら周囲を超がつくほど適当に警戒していると。
「ふっ」
誰かが軽く息を吐く音と同時に、数人いたオークの内2人のオークの頭を弾丸の如きスピードで飛んできた血の杭が貫いた。貫かれた2人のオークは、何が起こったのかも分からない内に即死した。
「は?」
それを目撃した残りのオークは、何が起こったのかまるで理解できていない呆けた声を上げた。
その一瞬の間に、京士郎はオークに突き刺さった杭を掴み、掴むと同時に血肉と魂を全て吸収した。
「こっ、こいつ!」
ここでようやく我に返ったオーク達がその手に持っていたサブマシンガンを京士郎に向けて乱射するが、今の京士郎にとって銃弾など食らった所でどうもならない上、止まって見えるため全弾躱すことも容易だ。
「遅え」
故に、京士郎がそれらを喰らうことはあり得ない。凄まじい音を立てて地面を蹴り飛ばし、一瞬でオーク達の背後にまわった京士郎は彼ら全員の頭を同じく杭でぶち抜いた。当然、オーク達は即死し、最初にオークが頭を打ち抜かれてから10秒と経たない内にオーク達は全滅していた。
この程度、この3年間で数えるのがアホらしくなるほどオークを狩ってきた京士郎からしてみれば造作もないことである。
「……まだ」
だが、京士郎はまだ杭を消すことはなかった。まだ魔族がいる。そんな確信とともに、杭を生成し、周囲を警戒する。
―・―・―・―
「……京士郎」
そんな風に、一瞬でオーク達を虐殺してのけた京士郎が、教師を連れてくるために走りだしていた凜子の視界の隅に入った。あまりの早業だったため、凜子が教師を呼びに行く前に京士郎が事態を終息させてしまったのだ。
凜子は何故か隠れて悲しそうな表情で見ていた。
別に何か後ろめたいことがあるわけではない。
ただ、あまりにも変わらなさすぎる無表情でオーク達を殺している京士郎に、本能的に恐れを感じ、競い合う仲であるはずの京士郎に恐れを抱いた自分に嫌悪感を抱いたのだろう。例え既に見習いではあっても対魔忍として任務をこなしている凜子であっても、命を奪うことにはまだ抵抗がある。
「け、京士郎……」
「あら、ちょうどいい人質発見っ」
「え……ごっふ!?」
そんな京士郎をただ見ていたが為に、凜子は気付かなかった。背後に敵が迫っていることに。京士郎のその様に呆然としていたのが隙となったのか。それとも敵はもう既に京士郎がすべて倒したと思ってしまったのが隙となったのか。何にせよ、凜子が敵の前で致命的な隙をさらしてしまったことは事実だ。
「あいつがいないのは残念だけど、面白いことになりそうだわぁ」
紫紅色の姫カットの髪と、赤いレオタードのようなボディースーツが特徴の女。朧は、その顔に歪んだ笑みを浮かべながら、凜子の腹に拳を叩き込んで意識をなくさせた凜子に近寄ると、
「さぁ、私の手駒になってもらうわよ」
「ぁ……が……」
その手に持った特殊な呪術を施したアクセサリーを凜子の首元に添えた。すると、そのアクセサリーは凜子の首元に溶けるように消えていってしまい、凜子の首元には朧の忍法、催眠刻印によるものである入れ墨のような黒いハートマークが浮かび上がった。
催眠刻印。対象者を催眠状態にすることで朧の思うがままに動かすことのできる操り人形にする強力な忍法。本来ならばこの発動にはかなりの時間が必要になるはずだが、規模をできる限り小さくし、アサギのような実力者には効かないような実用性の薄いものであるならば、このように即効性のある能力としての応用が可能である。
「----------」
「……はい」
時間にしてほんの数分しかもたない極短い催眠状態の中で、朧は凜子に耳打ちをして凜子の背中を押した。凜子はその虚ろな瞳を揺らしながら、京士郎の元へと一目散に駆けて行った。
「死んだら死んだでそこまでって言ってたし、別にいいでしょ」
朧は気楽にそんな事を言いながら凜子とは別のルートで移動を始めた。
―・-・-・-
「…………?」
「京士郎。終わったのだな」
「……うん」
京士郎が周囲を警戒していると、教師を呼びに行ったはずの凜子が戻ってきた。凜子は何故か顔を俯かせながら京士郎に話しかけていた。京士郎は顔を俯かせている凜子を不思議そうに見つめているが、今の自分が返り血やら吸い損ねた血肉やらで凄まじく汚れているのを思い出し、きっとそれが理由だろうと自己完結した。
「……無事で、よかった」
「んっ……」
すると、俯いていた凜子が耐えきれないとでも言いたげに京士郎に抱きついた。既に年相応に、いやそれ以上に成長している凜子のさまざま部分が京士郎の体にあたっており、表面上では無表情を貫いている京士郎の内心が荒れ狂っているが、そんなこと知ったことではないとでも言わんばかりに凜子は京士郎を抱きしめる力を強くし、
一瞬で彼女の得物である日本刀「石切兼光」による居合斬りを放った。
「……え?」
完全な無意識で京士郎はとっさに体を捻ったものの、流石の京士郎といえども、あそこまで完全に密着した状態から完全に回避することは難しく、致命傷こそ回避したものの、右腕を凜子によって斬り飛ばされた。
何が起こっているのか分からない。京士郎の無表情の中に明らかに動揺の色が混じる中、凜子は虚ろな瞳で京士郎を見据えたまま距離をとった。
「あーはっはははは!! 最高! 最高よあなた!」
「……誰?」
すると、凜子の背後に高笑いをしながら朧が現れた。凜子はそんな朧の方を見向きもせずに、ただ京士郎の方をじっと見つめていた。京士郎はいつもと変わらない無表情で、否、若干キレている事がわかる雰囲気を漂わせながら凜子と朧を見据え、右腕の切り口から血が吹き出すのも構わずに左手から杭を生成させた。
「糞どもに名乗る名前なんて持ち合わせてないわねえ。そんなことよりもいいのかしら? 大事なお仲間はこちらのものよ?」
「ぅあ……」
「っ………」
朧が凜子の髪を掴んで自分の方へと引き寄せた。凜子は少しだけ苦しそうな声を上げたものの、抵抗しようとはせずにされるがままになっていた。
京士郎が少しでも行動をおこしたらどうなるか。朧の持つ鍔のない忍刀が鈍く輝き、凜子の首に添えられていることが何が起こるかを示している。
現在、京士郎は創造を発動させていない。
今から何かを発動させる素振りを見せれば、おそらく京士郎の創造が発動するよりも早く朧の忍刀が凜子の喉元を引き裂くだろう。
少なくとも、朧の遺伝子より作られた彼女はそう思っている。
「自分がどういう立場にいるのかは理解できたよう、ねっ!」
「っ……」
特に抵抗する様子も見せない凜子の首を掴みながら朧は京士郎に歩み寄り、京士郎の顔を忍刀で思いっきり引き裂いた。構えも何もあったものではない力任せの一撃だったが、凜子が朧の手の中にいる以上京士郎は抵抗することが出来ない。
京士郎の顔に深く傷が刻まれるが、京士郎は動じるどころか後ずさることすらせずにただ朧に掴まれている凜子を見つめていた。
「やせ我慢した所で! なんにもならないわよ!」
「…………」
いくら忍刀で切り刻まれても何の反応も見せなかった。まるで、いくら自分の事を傷つけようが朧のことなどどうでもいいと言わんばかりに。
既に京士郎の身体は至る所から血が流れており、本来ならば失血死してもおかしくない量の血が流れているにも関わらず、京士郎は平然とそこに立っている。
「……チッ!」
そうなってくると、面白くないのは朧だ。本当ならば一息で殺せる所を自分が大嫌いな対魔忍が悶え苦しむ所を見たいがために甚振っているのだ。それをこんな反応で返されれば機嫌が悪くなるのはある種当然といえる。
「っん……っ!? 京士郎!?」
「っ……ったく、急拵えとはいえ、もうちょっと保ちなさいっての」
さらに、タイミングが悪いことに凜子にかけられた催眠刻印がここで解けてしまった。意識が戻った凜子の視界に真っ先に入ってきたのは全身傷だらけで血を流しながら立っている京士郎の姿だった。これで動揺するなと言うほうが無理な話だろう。
そして、想定外の事態が発生すれば当然朧の機嫌は悪くなっていく。
となると、次に求めるのはストレスの捌け口だろう。
「京士郎!? っ誰だ貴様はっがっ……!」
「はぁ、もういいわ。ブラック様はお前以外には興味ないみたいだし、あんただけでも殺さないと気がすま―――――」
首を掴まれているにも関わらず凜子は毅然と朧を睨みつける。そんな凜子を豚を見るような目で見据えた朧が首を持ったまま持ち上げる。当然、凜子は顔を苦痛に歪ませながらあがくがそんな些細な抵抗が朧に通じるはずもなく、朧の忍刀が凜子の首元へと勢い良く向かっていく。
確かに、彼女は京士郎について詳しくは知らなかった。せいぜいエドウィンが興味を引いている人物の1人としか捕らえていなかった。
だが、結果としてその選択が、気晴らしとして凜子を殺そうとしたその選択が間違いだった。
彼にとっての大切なものを壊そうとする何かが現れたのならば、勝てるという確信を持っていなかったとしても、彼はそれを排除する。
「……あ?」
「っ!? こいつ……!」
朧も、そして凜子ですらも、その場の空気が凍りついたのを感じた。それが京士郎から発せられていることを察することなど、誰の目から見ても明らかだった。
咄嗟に凜子の首元に忍刀を添えつつ京士郎から一気に距離を取った。
次の瞬間、世界が暗転した。夜空を照らすのは、鮮血で染め上げたかのような赤い月だった。
「ぐっ!?」
朧を凄まじい脱力感が襲う。気を抜けばそのまま命を落としてしまいそうなほどの脱力感。
このままではマズい。理性ではなく本能で理解した朧は凜子と共に一旦退こうとするが、
「ひっ!?」
「…………」
気がついた時には退こうとしていた朧と凜子の背後に京士郎が現れた。まるで突然その場所に瞬間移動したかのようだった。
当然、朧は京士郎から一瞬たりとも意識を外してはいない。周りに他の脅威がいるかもしれないという可能性を排除して全ての意識を京士郎へ向けたのだ。
にも関わらず、朧は京士郎が背後を取ることを許した。
とは言え、これはある種仕方ないこととも言える。
本当に瞬間移動したのだから。
京士郎が展開する薔薇の夜は、当然ではあるがそこが彼の能力の範囲内であることを示している。言うなれば、その空間は京士郎の体内だ。
京士郎の体内なのだから、京士郎は能力の範囲内ならばどこのことだろうと近くできるし、どこからでも現れる事ができる。
「おおあ!!」
京士郎の全身に刻まれた無数の切り傷から、赤黒い髑髏がまるで笑うようにうごめいているのが垣間見えた。それが、朧の遺伝子から作られた彼女が見た最後の光景だった。
情に厚いのだから人質を取ればどうにかなると思った事自体が間違いだった。
いくら強くても一方的に攻撃し続ければ倒せると思った事自体間違いだった。
力量が違う。
魂の総量が違う。
次元が違う。
いくら激しく燃え盛る炎の絵を描こうが、現実を燃やすことなど出来はしないのだ。
―・―・―・―
「ふむ、出来の悪い劣化品だとは思ったが、偵察程度には役に立ったか……」
ヨミハラの最深部にて、エドウィンは虚空を見つめながらそう呟いた。
「見事だ、水城京士郎。あの日小さな可能性の種だったそれは、今まさに君の中で開花しようとしている」
その顔には、まるで子供のように純粋で、かつ残酷な微笑みが浮かんでおり、彼の側近であるイングリッドですら中々見ることは出来ないエドウィンの姿がそこにはあった。
「だが、まだだ。まだ私の命には届き得ない」
あまりにも長過ぎる、終わりのない生。既知に満ちている世界。その中において彼にとっての唯一の未知は己の絶命のみ。
「君が望もうが望まなかろうが、その日はいずれ訪れる。ならばその日を、私は待つとしよう」
その日。おそらくエドウィン以外は誰も望んでいないであろうその日はいつ来るのか。
まだ、誰もわからない。
―・―・―・―
京士郎が朧、正確には朧のクローンを退けた後、訓練は中止となった。原因となったその事件は、被害者と一部の者以外には秘匿され、他の生徒にはトラブルが発生したためとだけ伝えられ、五車学園の生徒達はその山を離れることとなった。
「…………」
その日の夜、凜子は自室の布団の中で今日の事を思い出していた。ただでさえ人間ではなくなってしまったかのような印象を受けていた京士郎の傷口から見えた無数の赤黒い髑髏達。それらについては、凜子は誰にも話していない。
凜子は、何の役にも立てなかった。
無力だった。
それどころか、ただの足手まといでしか無かった。
操られていたとは言え、京士郎に取り返しのつかない傷を負わせてしまった。
もう、京士郎はどうしようもない所まで、凜子の手など爪の先すらも届かない所まで行ってしまったのかもしれない。そんな思考が凜子を包む。
「っ…………」
まるでそれらから逃げ出すかのように、凜子は布団を頭までかぶった。嫌でも思考の片隅にこびりつく絶望と、身体の疼きから目を背けるために、凜子は眠りについた。
この投稿ペースでいくとどれだけ時間かかるかわかったものではないのでかっ飛ばしました。空白の時間の間の話は、忙しくなくなったら書くかもしれません。
本作とは関係ありませんが(厳密に言えば関係ありますが)活動報告の方にアンケートを設置したので回答してくださると幸いです。