みずみずしいサラダに母さんお手製のドレッシングをかけて食べる。たぶんそれが、僕の幸福の象徴だ。
はやくに父を亡くして、僕と母さんは二人暮らしをしている。三駅も離れないところにある会社で働き、だからといって母という仕事をないがしろにはせず、朝食も弁当も、仕事終わりに夕食も、毎食ちゃんと作ってくれる。
僕の健康を気遣った食事は栄養バランスが良く、薄味でもしっかりと美味しい料理の数々。母さんは「隠し味は愛情よ」と冗談めかして言うけれど、まさしく愛のつまった食事で僕は十六の今日まで育てられた。
「美味しい?」
と、もりもり食べる僕を微笑みながら見つめる母さんは、身内びいきではなく美人だろう。なめらかな白い肌と、形の良い眉、きりっと大きい瞳が見事に調和している。
美人であることは息子である僕も認めるが、しかしそれでも友人に羨ましがられるほど、欠点のない母親でもない。
十代半ばという微妙な年ごろに対してはいくらか世話焼きが過ぎるところとか、あんまり母さんが頑張るので僕もサボってはいられないと思わされるところとか。
そういうわけで、小学校のころからお使いをすることを任せてもらっていた。中学のころからは洗濯も僕の仕事である。大変だろうからと食事も分担しようと言ったのだけれど、母さんは頑として譲らなかった。「掃除と炊事、家の中と家族の体は、お母さんの仕事です」というのが、母さんの主張だった。言葉通り家の中はいつでも掃き清められている。
「あなたが立派に育ってくれることが、何よりの励みなんだから」
勉強しなさいとは言わないで、そういう言い方をするのがずるい。
ほとんど乗せられるように、僕は精一杯勉強をして、運動も欠かすことはない。
すこし情けない話だけれど、僕らはそうして二人、支え合って生きていた。父の代わりに母さんを支えなくちゃ、と幼いころから考えていたが、さて、どれほど母さんを助けられているのかはわかったものではない。
少なくとも今の調子で勉強すれば、大学は国立を狙えそうだというところだけは、母さんの助けになっているだろうけれど。
味噌汁を飲む手を止めて、母さんが言った。
「あっ、そうだ。今週の金曜日、夕飯つくれないかも」
「うん、わかった。また作っておけばいい?」
一年くらい前にも同僚の人が入院したとかで、めずらしく母さんが残業続きになったことがあった。さすがに夕食が作れないということで、かわりに僕が作ったのだが、母さんに「美味しい」と褒められるのが嬉しかったのを覚えている。
「あー……どうだろう。お母さん、外で食べて来るからなあ……」
「どうして? 何かあるの?」
「職場の歓迎会」
母さんはそう言って、窓の外へと目をむけた。おだやかな春の夜が漂っている。そういう時期かと、学年が一つあがっただけの僕は納得した。
「新卒の人?」
「ううん、そういうんじゃなくて、大学生のアルバイトの子。K国から来た留学生って、社長言ってたな」
K国――
大きな鳥が太陽を横切る一瞬の影が、僕の脳裏によぎった。捕食者の姿に怯える小鳥が周囲を警戒するような気持ちになる。僕はそれを振りはらう笑顔をつくった。たしかにスポーツの国際試合とかで揉めたという話は聞くけど、みんなが過激なわけじゃないのだから。
「そっか。じゃあ適当に食べとくよ」
「ごめんね」
母さんは本当に申し訳なさそうに両手を合わせて謝る。ちょっと小首をかしげるようにするのが、四十手前という年齢を考えてと言いたくなるけれど、二十代でも通用しそうなほどに母さんは若々しい。
本人にそのことを言うと「お母さんをおだてたって、何にもならないわよ」と笑うのだけれど、ちょっと照れたように顔をそらすのだ。
歓迎会か……と、僕は考える。
あと何年かしてお酒が飲めるようになったら、アルバイトをして稼いだ僕のお金で、母さんとお酒でも飲みに行こう。ここまで育ててくれてありがとうと、あらためて感謝の気持ちを伝える。気丈な分だけ情にももろい母さんは、きっと照れに照れ、泣いてしまうだろう。ありありと想像できる未来に、僕はこっそりとほくそ笑んだ。
「ん? どうしたの? お母さんが帰って来ないのがそんなに嬉しい? 何する気なのよ」
こっそり笑ったはずなのに、母さんにはお見通しらしい。僕は慌ててとりつくろう。
「ただの思い出し笑いだよ」
「本当? お母さん、さみしいなあ!」
自習を終えて時計を見ると、午後の十時を過ぎている。背筋を伸ばすと気持ちよかった。
母さんはまだ帰っていなかった。残業はほとんどないと言っていたから、もう四時間くらいだろうか。飲み会などしたことのない僕には、それが長いのか短いのかがわからなかった。しかしまあ、歓迎会が終わっても話すことはあるのだろう。
社長さんは母さんとは中学高校と同級生だったというし、子供も僕と同じくらいの年齢だ。酒の勢いで愚痴や相談に花が咲いていてもおかしくはない。
携帯と家の電話に着信がないことを確認して、僕はジョギングに出かけた。
春先の夜気はひんやりと心地良い。運動不足にならないためと、家でたった一人の男なのだから、少しでも身体を強くしようと、中学に上がった時からジョギングと筋トレは日課になっている。
川沿いの公園には提燈が灯っている。桜並木が満開で、酔客たちが陽気な声をあげている。見つからないことを望みながら、僕はその中に母さんがいないか、何とはなしに探していた。やはり外で出くわすのは恥ずかしいものだから。
いつも通りのコースを走って家に戻る。玄関の鍵を開けて入った家は、当然というべきか暗かった。
そういえば僕はあまり暗い家に戻るということがない。寄り道をすることは少ないし、夜に出歩くことと言えばジョギングくらい。その時間にはたいてい母さんが家にいる。
玄関から廊下をまっすぐに進んだ場所にリビングがある。出しなにテーブルの上へ置いていた携帯電話が、メール受信を告げるランプをつけていた。
差出人は母さんだった。
『連絡遅くなってごめんなさい。ちょっと抜けられないかも。戸締りして、先に寝ていてください』、
やはり社長さんと話が盛り上がっているのだろうか。僕は『わかりました。おやすみ』と返事を送る。
おぼろ月が暗いリビングの窓辺に光をこぼしている。一人きりの家で僕は、ふいに胸が圧迫されたような気がした。母さんが帰って来ないというのは、そういえば初めてのことだった。
なれない夜に不安を感じているらしい。心細いようだった。
「風呂、入らないと」
汗をかいたせいだろう。春先の夜は寒かった。