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「んっ……」
自分のもらした声で目を覚ました。床の硬さを感じる。
床? どうして床なんかで寝ているのだろうか。ふしぎに思いながら、私は重いまぶたを持ち上げた。朝陽が目を刺す。眩しさと痛みに一度閉じて、慎重に開いていくと、見覚えのない部屋に私はいた。
和彦は――息子はどうしたのだろうと、私は最初にそんなことを考えた。違う違う。それよりもここはどこだろう。
すこしガンガンとする頭をゆっくりと持ち上げて室内を見渡す。
テーブルの上にはビールやマッコリの空き缶が転がっていて、焼酎かなにかの瓶もあった。あまり物がない部屋だ。テーブルの他には、本棚とベッド。そのベッドにもたれかかるようにして、静江がすやすやと眠っている。
「しーちゃん。ねえ、しーちゃん」
静江はむにゃっと寝言をいいながら、寝ぼけまなこを開いた。
「……んー? 和美ぃ……? なによ、朝っぱらから……」
くあ、とあくびをしてまた眠りに落ちた。そののんきな様子に、私は少しだけ安心した。とりあえず大変な事態ではないはずだ。
「あれ? 起きたんですか、和美さん」
背後から降ってきた男の声に、私はおどろいて振り返る。
素朴な顔をしたスウェット姿の青年が、マグカップを二つ持って立っていた。
「えっと……」
「あれ、まだ覚えてもらってないですか。イム・テウンですよ。和美さん、コーヒー飲みますか?」
青年は困ったように、切れ長の目を細くして笑った。
「え、ええ、いただくわ」
カップから伝わる熱で、指先がじんわりと温まる。春とはいえ布団もなしに寝ていたのだから体も冷えるか……。ふっと汗のにおいがした。恥じらうようにコーヒーに口をつけると、脳がちょっとずつ目を覚ます。そうだお酒を飲んだんだ……。正体をなくすほどアルコールをとってそのまま寝た、ということだろう。寝汗がひどいのも肯ける。
低く穏やかなK国訛りのN国語は耳が覚えている。イム・テウンという名前……昨夜は彼の歓迎会だった。
イム君がベッドに腰かけた反動で、静江が眠りから覚める。しかしまだほとんど、目も開いていない。
「あ、静江さんもコーヒー、飲みますか?」
「んー……お水ちょうだい」
「わかりました」
彼が部屋を出ていくのを見届けてから静江に向き直る。
「ねえしーちゃん、ここってイム君の家?」
「そうよー? 当たり前でしょうが。昨日、一緒に来たじゃない。なに? もしかして覚えてないの?」
「……全然覚えてない」
「あなた、いっぱい飲んだもんねえ……」
静江が眠たげな目を三日月の形にゆがめる。
どれほど飲んだかさえ覚えていない。けれども飛んだ記憶と、わずかな頭痛がその酒量を想像させた。
状況が整理できると家に一人きりの和彦の心配がよみがえる。今でこそしっかりしているけれど、夫を亡くしてしばらくは私がそばにいないと泣きじゃくってしょうがなかった。コーヒーを一気に飲み干して、床に転がっていた自分の荷物を拾い上げた。
「和美さん、もう帰りますか?」
イム君がキッチンから戻ってきた。上手なN国語を話すけれど、言葉選びがちょっとおかしくて、私はくすりと笑う。
「ええ、ごめんなさい。お邪魔しました。しーちゃん、またね」
「んー、またね」
見送ってくれたイム君にあらためてお礼を言って、早足で家を目指す。
まずここはどこなのだろう? 風景から考えて、そう遠くはないはずだ。大通りに出ればおおよその位置はわかるだろう。
「ただいま!」
ほとんど駆け込むように玄関にはいって、なかなか脱げない靴と格闘していると、突き当りのリビングから和彦が「おかえり」と顔を出した。土曜日だからだろうか、寝癖がついている。きょとんとした顔が、夫にも私にも似ている。
ただ息子の無事な顔を見たというそれだけのことで、私は心の底から安堵した。ほうっと全身から力が抜ける。慌ててきたせいで速い鼓動を感じる。優しい気だるさが私をつつんだ。
日常に帰ってきた、という気がする。
さりげなく服や髪の乱れを整えながら家にあがる。和彦はリビングでテレビを見ていたようだ。意味もなく抱きしめたい衝動にかられたけれど、さすがに嫌がられるだろうと思って我慢する。それに今はちょっと汗臭い。
「昨日、何食べたの?」
「冷凍のハンバーグが残ってたからそれと、ポテトサラダ」
「そう。ごめんね」
「料理好きだし」
洗い物もちゃんとしている。えらい。でもそのことを言ってしまうと、当たり前だと怒られてしまう。難しい年頃だ。
「お母さん、お風呂入るわね」
「あ、じゃあ洗濯するよ」
「ありがとう」
さらっと頭を撫でてから浴室へ向かった。
熱いシャワーを頭から浴びると、私の表皮がぺりぺりとめくれるように、疲労がじんわりと滲み出してきた。フローリングで寝たせいで腰回りが凝ったように重かった。汗を流しながら肌の上をお湯が流れていくのを感じる。まだ肌の張りは衰えてはいない。胸は若いころに比べると、いささか垂れ始めたようにも思うのだけれど……見せる相手のいないことが救いだ。
まるで立ったまた眠ったように、しばらくシャワーをかけ流し続けて、はっと気づいて、簡単に体を洗ってお風呂を出る。
服を着てキッチンへ行き、冷蔵庫を開けた。冷気が濡れた肌をなでるのが寒い。整理整頓は行き届いている。冷蔵庫に何があるのかひっくり返すのが面倒で、一目でどこに何があるのかわかるほどに綺麗に使っている。仕事帰りに足りない物を買いにいくには、そうしてわかりやすくして、きちんと覚えておくのが一番早い。
たとえば野菜室に半分残していたキュウリがない。ハムもなくなっていたから、ポテトサラダの具にしたな、とわかるくらいだ。
牛乳をコップに注いでリビングを振り返って、ソファに座って本を読む和彦に声をかける。
「何も言わないで泊まってきてごめんね」
息子は不思議そうな顔をしてこちらを見る。
「昨日、メールきたよ? 帰れないって」
「本当?」
「覚えてないの?」
「みたいね。まったく、どれだけ飲んだんだろう……」
首をかしげながらバッグの携帯電話を探す。けれどもどこにも見当たらない。
どこに落として来たのかしら。きっとしたたかに酔って家に連絡をいれたときだろうけど……。おぼろげな記憶をたどる。居酒屋を出て・……静江がイム君と仕事の話がどうとか言っていて……たぶん、携帯電話を使ったのは彼の家だ。
私は時計を見る。午前十時。まだ家にいるだろうか。
二日もよく知らない男の子の家に自分の携帯電話が置かれているのは、どうにも落ち着かない。
「お母さん、ちょっと忘れ物したみたい。取ってくるわ」
読書にもどった息子は生返事をよこした。