慌てて帰ったわりには、正確にイム君の家を覚えていた。会社の近くだということもあるのだろうけれど。
二階建てアパートの一室。帰るときには見ていなかったけど、表札には「林」とあって、記憶違いなのだろうかと不安になった。インターホンを鳴らす。反応はない。もう一度鳴らす。やっぱり反応はない。
出かけたのだろうか。それとも本当に、林さんのお宅なんじゃないかしら……。
なんとなく縋るような気持ちでもう一度押したのと同時にドアが開いて、私はびっくりしてしまう。ドキドキしながら出てきた人を見る。よかったイム君だ……と、安心したのもつかの間、彼は腰にバスタオルを巻いた半裸姿だった。
「ああ、和美さん。どうも」
「どうもじゃないわ!」
私はイム君を家の中に押し込んで、外に人はいなかったかを確かめてからドアを閉めた。
今朝は気づかなかったけれどイム君は大きい。身長も私より二十ほど上だろうし、なによりさっき触れた彼の胸板は鋼のようだった。がっしりとした肉体はスポーツマンの美しさだ。うっすら浮いた鎖骨から、胸板の隙間を通り、割れた腹筋、バスタオルに目がいって、私はまた驚いた。
その……股間のモノの凹凸を作っていたのである。
「イム君、そんな恰好でドアを開けちゃダメでしょ」
「和美さんが何度も鳴らすから……。あ、服着るんで、あがっててください」
不器用そうにお辞儀をすると、短い廊下のわきにある脱衣所に入った。私はすこし戸惑いながら上がらせてもらう。1DKの部屋らしい。適当な椅子に座って、ようやく一呼吸つく。
まだ心臓がバクバクしていた。
まったく、非常識というか……K国では普通なのかしら。
引き締まったイム君の上半身と、バスタオルのふくらみが頭によぎる。やだ、何を考えているのかしら。別のことを考えようとすると、以前にテレビで女性の欲求は三十代から高まり、ピークは四十代だと言っていたことを思い出す。
二十代で夫を亡くして以来、そんなことは頭をよぎったこともなかった。息子の成長を見守ることが何よりの幸せだったから。
知らず知らずのうちに、たまっている……ということなのだろうか。
落ち着ききらぬ間に、イム君が着替えを終えて現れた。ジーンズにロングTシャツ。
とりあえず私は、ほっとする。
「さっそくですか?」
「早速?」
言葉を間違えているのだろうかと考えていると、イム君はしゅんとしたように力なく笑みを浮かべた。
「昨日、和美さん言ってくれました。料理を作りに行ったげる、って」
「私が? イム君に?」
「イム……」
「あれ、間違えていたかしら」
「いえその、テウンって呼ぶって……」
「それも私が?」
イム君はこくりと肯いた。
「ごめんなさい。私、昨日のことほとんど覚えてないのよ」
「あー、たくさん飲んでましたね」
「どういう経緯だったのか、教えてくれる?」
「ええと……」
イム君が話してくれたところによると、どうやら静江が私のことを料理上手だと自慢して、慣れない一人暮らしとはいえカップ麺ばかりの食事は良くないから作ってあげればと言って、気分良く酔っていた私はおだてられるまま請け負ったらしい。
まったく身に覚えはなかったけれど、期待だけさせて断るというのも、すこし申し訳ない気がする。
「そういえば、イム君って今年から大学なのよね?」
「はい」
「お酒飲んじゃいけないんじゃないの」
「わたし……オレは二年間、軍隊にいたんです。えっと、N国語で……そう、チョーヘイです」
「ニュースで聞いたことあるわ。そう、大変ねえ」
それであんなに逞しいのね、と納得する。
「その間に彼女にフられて……前から気になってたN国に留学、したんです」
「それにしては上手ね、こっちの言葉」
「うちは母がいなくて、ウィア……えっと、お手伝いさんがN国の人で、言葉を教えてもらってたから」
「そう……」
霞がかった記憶の中で同じ会話をしたような気がする。それで同情してしまい、食事を作ってあげるなんて言ってしまったのだろう。頭痛がぶり返す思いがした。
「本当に何も覚えてないんですか?」
「ええ、そうみたい」
「そうですか……」
残念そうにする様子はまるで迷子の子供のよう。体は立派だけど、まだ二十いくつかの子供なのだ。不慣れな異国の地に一人。もしも自分の子供が高校を出て海外に行ったと考えると、やはり不安に思うだろう。優しい人に出会って欲しいと思う。
「じゃあ……お休みの日ならいいわよ。作りに来てあげる」
「ホントですか!」
ぱあっと表情が明るくなる。やはりまだ子供だ。
「あ、それなら和美さん、どうして?」
「忘れてた。ねえ私、携帯電話を忘れてない?」
「電話?」
相槌のように繰り返してイム君はベッドの部屋へ入り辺りを探した。それからベッドのわきにかがみこんだ。
「これですか?」
戻ってきたイム君の手には、確かに私の携帯電話。メールを受信していた。息子から『わかりました。おやすみ』と素っ気ないメール。もうすこし心配してくれたってバチは当たらないのに。
「ありがとう。助かったわ」
「いえいえ」
「それじゃあ帰るわ。お騒がせしました」
「びっくりしましたよ」
玄関に向かう私を見送るように、イム君も立ち上がる。
「私のほうこそ。いくら慌てていたって、ズボンくらいは穿きなさい。それじゃあ」
玄関扉を開けようとドアノブをひねると、ふと私の上に影が落ちる。イム君が私に覆いかぶさるようにして、ドアを押し開けてくれた。
「あ、ありがとう」
「どういたしまして。それと……」
「ん?」
「テウン、でいいです。そっちのほうが慣れてます」
「そう? それじゃあ、テウン君。また今度」
「はい。また今度」