@
午後七時――
五月に入ってから母さんの帰宅が遅い日が増えた。輸入雑貨を扱う勤め先が、新しくK国との取引も始めたとかで忙しいらしい。さすがに大変だろうと思って夕飯を当番しようかと言ったのだが、「ご飯が遅いと困る?」と暗に自分がやるのだと断られてしまう。
僕はなんとなく落ち着かない。
帰りが遅いこともそうだけど、母さんの体調も心配だった。無理をしているのではないかと気を揉んでしまう。芯の強いしっかりした人だけれど、やっぱり女の人だ。
そうだ、母さんも女性なのだ。このところ、いやにそれを思い出す。
今朝のことである。母さんはいつものように僕の弁当を作ってくれていた。そのテキパキとした様子は、一種の職人のようだ。こちらの心配などよそに、むしろいつもより元気そうでさえあった。
僕が朝食を食べる間に完成させたそれを、ぽんとテーブルの上に置いた。その一瞬に、朝から忙しく家事をしていた母さんの汗のにおいが鼻をくすぐった。ざわ、と鳥肌の立つような女の人のにおい。
「それじゃあ、お母さん、先に出るわね。洗い物だけよろしく」
「うん、行ってらっしゃい」
玄関で靴を履く母さんのお尻に、うっすらと色気のない下着のラインが浮かんでいるのを、僕はなんとなく目が離せずにいた。ほんの小学生の頃、授業参観にやってきた母さんに友達がいたずらでお尻を叩いたことを、ふと思い出す。母さんは彼を「ダメでしょ!」と叱っていた。その光景に僕は胸の奥がざわついた。僕以外に母の顔をする母さんに、言いがたい不安を覚えたのだ。
そわそわと予習復習をしていると、玄関の鍵の回る音が聞こえた。部屋の時計は午後八時をさしていた。勉強を切りあげてリビングへ向かう。急いで帰って来たのだろう、うっすらと汗のにじんだ額を手でぬぐう母さんがいた。
「おかえり。今日はずいぶん忙しかったんだね」
「ただいま。ごめんね、健司。お腹減ったでしょ。すぐ用意するからね」
「大変だろうし手伝うよ」
母さんはちょっと驚いたように目を大きく見開いてから、ふわりと微笑んだ。
「ありがとう。助かる」
「そうだ、和彦。中間試験の結果、どうだった?」
二人で作った夕飯を食べ終えると、母さんは机を拭きながら訊ねてきた。
「結構よかったよ」
自信はあった。学年順位でも一桁だった。各教科の点数とクラス、学年の順位が書かれたプリントを部屋から持ってきて渡す。母さんはそれをじっくりと読んでから、嬉しそうに肯いた。
「偉いえらい。ちゃんと勉強してるわね」
と、僕の頭をなでる。僕はその手から身をかわすように頭を振る。
「やめてよ。もう子供じゃないんだから」
「そう? じゃ、ご褒美」
そう言うと母さんは、頭を撫でていた手を僕の肩において、顔を近づける。
女の人のにおい。汗のにおいが、甘い。
母さんの唇が僕のものに重なる。
そのやわらかさと温かさが、直接脳を刺激する。
永遠のような一秒のあとで、僕は一歩あとずさる。
「な、なにを……」
「ごめんごめん。チューで喜ぶような子供じゃないか」
僕をからかうように笑って、「じゃあ母さんお風呂に入るわ」と、部屋に着替えを取りに行く。勉強をすると言って、僕も自室に引っ込んだ。
心臓がずっとバクバクといっている。鼻の奥が熱い。
シャワーの流れる音がして、股間がぴくりと反応する。勃起していることに気がついた。
母さんの裸体を、知らず知らずのうちに想像する。ほとんど無意識のままペニスを露出させて握る。自然と意識が耳にあつまる。シャワーの音が、母さんの動きに合わせて波をうつ。動き出した手が止まらない。
母さんは母さんで、でも女の人で……。
唇のやわらかさがよみがえる。
母親で興奮している。そのことを意識した瞬間に、感度が跳ね上がるように快感が走る。ぬるぬると我慢汁が溢れたと思う間に、精通を迎えた日のような我慢をしきれない尿意を感じ、水を撒くように射精した。
荒い呼吸の中でまだおさまらないペニスを握りしめ、罪悪感と自己嫌悪の沼にずぶずぶと沈んでいく。
@
私は降り注ぐシャワーに顔を向けたまま、そっと唇を指先でなぞる。キスの感覚がまだここに残っている。風邪をひいたときのように、肌が敏感になっていた。水滴のはじける感覚に吐息が震えてしまう。
ジン……と、膣が存在を主張する。おそるおそる割れ目に触れると、水ではない液体を感じた。
体から力が抜けてしまって、私はへなへなとその場に膝をつく。
息子とのキスでは何も感じなかったのに……。偶然触れたテウン君の唇の余韻だけで、私の体は昂っていた。
ゴールデンウィークに毎日夕飯を作りに行ったことがきっかけで、平日にもテウン君の家へ行くようになった。和彦には「残業」だと伝えているけれど、その言い訳を口にするたびに、ちくりと心が痛む。
けれどもまるきり嘘だというわけでも、ない。N国語を流暢に話せて読み書きもできるK国出身の人材というのは、そう落ちてはいない。K国の商品にも目をつけていた社長の静江にしてみれば、知り合いの紹介でアルバイトとはいえテウン君を雇えたことは幸運といえる。だからだろう。「慣れないこともあるだろうし面倒をみてあげて」と頼まれていた。和彦をひきあいに褒めて母親ぶりをおだてられて、なんとなく断りづらかったというのも、あるけれど。
仕事終わりに彼の家に行き、一緒に夕飯をつくる。隣で手伝ってくれるテウン君の気配に、私は年甲斐もなく気持ちが上擦る感じがした。まるで通い妻みたい。ちらりと横目で見る彼の、不器用そうに包丁を扱う手にどきどきとしてしまう。それは指を切ってしまわないかという心配なのか、それとも男性らしく血管の浮いた様になのかと自問する。
「和美さん?」
「な、なに?」
突然名前を呼ばれて声が裏返る。
「今日も、食べて行かないんですか?」
「え、ええ……家で子供が待ってるから」
「そう、ですか」
眉を目いっぱい下げて残念そうにする。テウン君は私が料理だけをして帰ることを申し訳ないと思っているようで、何度か食べて行かないかと誘われていた。料理は好きだし迷惑ではないと言ってはいるのだけど、断り続けるのも段々と悪いような気がしてくる。それに大きな子供みたいにしょぼんとする顔がどうにも愛おしい。
息子に手がかからなくなって、母性を持て余しているのかしら。いきなり二人目の子供ができたよう。舌足らずなK国訛りや、飾り気のない笑顔は、一仕事を終えた母親には突き刺さったわけだ。テウン君との距離は日ごとに近くなっていた。
最初はすこし遠慮がちだった「テウン君」という呼び方も、すっかり馴染んでしまった。
冗談なんかを言い合ったり、大学の話を聞いたりして、夕飯の支度を終えるてテーブルに並べ、私のためにテウン君が買ってくれたエプロンを外した。
「それじゃ私、帰るわね」
「あ、送ります」
と、立ちあがったテウン君が、私の畳んだエプロンを踏んだ。バランスを崩して私のほうへと寄ってきて、二人してベッドに倒れこんだ。
ぼふんと埃を舞い散ららせ、彼の顔が目の前にあった。口は大きいのに薄い唇が私のものを覆っていた。
キス。
その言葉が頭に浮かんだ瞬間に、私の体は硬直してしまう。全身から送られてくる情報にフリーズする。
私を守るように背に回された腕。のしかかる重みは心地良い圧迫感。私の太ももに触れた硬い物。ズボン越しの、男性器。
男の人。
この鼓動はどっちの音?
太ももの物を求めるように、私の女が反応する。
喉の渇き。
「やっ……!」
その事実をはねのけるように、私はテウン君を押しのけるように立ち上がり、服と髪を整える。
「ご、ごめんなさい」
「いえ……大丈夫だから」
ぱたぱたと逃げるように飛び出し、夜の街をゆっくりと、火照りを冷ましながら家へ帰った。
あわてて夕食を終えて、ふと思い立って和彦に、何年かぶりにキスをした。なんともない。自分がおかしくなったんじゃないかしらと怖かったのが、そのとたんに解放されたような気がした。
いきなりで驚いただけだわ。
そう思いながら脱衣所で服を脱いでいると、下着に小さな染みができていた。お前はいやしい女なのだと主張するように。
血が上るのがわかる。いま唇を離したばかりのように、彼の感触を思い出した。
くちゅ――と、自分の蜜壺をまさぐっていることを、耳で知った。テウン君の鍛え上げられた肉体が脳裏に浮かぶ。。太ももに当たった剛直な感触。
和彦の優しい笑顔が頭によぎった。息子を裏切るような罪悪感に、私は身を震わせた。