ダークエロよろず短編集 作:カード読み込み
地下迷宮の入り口はまるで女体の割れ目のように、
ひっそりとしかし蠱惑的に口を開けていた。
破軍学園の敷地の端。
忘れ去られた礼拝堂の地下室。
そこに、そいつは在る。
ただの遺跡でもなければただのダンジョンでもない。
これは、学園という名の処女の子宮に潛り込んだ淫らな異物だ。
鉄柵をくぐり最初の一歩を踏み出す。
瞬間、むっとした空気が全身を包み込む。
冷たさと熱さが入り混じった、形容しがたい湿度。
それはまるで見知らぬ男の舌が、
私のうなじから背骨の窪みを伝い尾骶骨までをねっとりと舐め上げていくような、
生々しい感覚を伴っていた。
「っ……ふ、ぅ」
私は、無意識のうちに小さく喘いでいた。
自分の口から漏れた声とは思えないほど、
それは弱々しく、そして甘い響きを帯びていた。
馬鹿げている。
まだ入り口だ。
何も起きていない。
だが、私の身体は正直だった。
この空気を吸い込んだ瞬間から、
下腹部の奥底子宮がきゅう、と疼くのを感じていた。
まるで、この迷宮全体が巨大な生殖器であり
私という存在はそこに呑み込まれるために生まれてきた、
一個の卵子に過ぎないと本能が理解してしまったかのように。
「おい、大丈夫かよ。お前顔、赤いぞ」
隣を歩く仲間が心配そうに声をかけてくる。
私は笑って誤魔化した。
「平気。ちょっと、暑いだけ」
嘘だ。
暑さなんかじゃない。
これはもっと別の熱だ。
私の内側から、理性という名の溶鉱炉を溶かしていくどろどろとした灼熱のマグマだ。
私が所属するのはいわゆる劣等生軍団。
この破軍学園で、まともな実績を残せず、
かといって他の場所へ行く才能も勇気もない、吹き溜まりのような連中だ。
そんな私たちが、一攫千金を夢見て潛る場所がここ。
この、ねっとりと湿った性の暗渠。
通路の壁は手で触れるとじっとりと汗をかいていた。
ただの岩ではない。
長い年月をかけて、この迷宮に挑んでは散っていった無数の騎士たちの、
汗と、体液と絶望とが染み込んで、一種の陶器のような質感に変化している。
指でなぞると、ぬらり、と滑る。
それはまるで熟れきった女の秘所に指を這わせた時の感触に、恐ろしいほど似通っていた。
「あ、ん……」
指先から伝わる淫らな感触にまたしても情けない声が漏れる。
手を離そうとしても、指が吸い付いて離れない。
この迷宮自体が獲物を捕食する肉食獣のように、私たちを求め味わっているのだ。
壁が、床が、空気がありとあらゆるすべてが、
私たちの若い肌とそこから滲む魔力と、なにより恐怖と興奮で震える魂の味を貪り喰らっている。
たまらぬ場所であった。
仲間たちの様子も、明らかに変だった。
普段は気の強い男たちが、
まるで柔らかな子宮の羊水に浸された胎児のように、無防備な表情を晒している。
口を半開きにし、焦点の合わない目でただひたすらに歩く。
彼らの股間は、ズボンの上からでもはっきりと分かるほど痛々しいまでに勃起していた。
戦場に来て、敵も出ていないのに男たちはすでに臨戦態勢ならぬ、臨姦態勢に入っている。
なんという悍ましさ。
なんという、滑稽さ。
だが、私は笑えない。
私の身体もまた彼らと同じ反応を示していたからだ。
制服の下の肌着は、とっくにぐっしょりと濡れそぼっていた。
歩くたびに、太腿の内側を生ぬるい液体が伝い落ちる。
立ち止まれば、自分の股の間から雌の匂いがぶわりと立ち上ってくるのを感じる。
「はぁ……はぁ……」
私の息は、もはやただの呼吸ではなかった。
これは交尾をねだる牝犬の、切羽詰まった喘ぎ声だ。
突如として前方から甲高い悲鳴が聞こえた。
戦闘だ。
ついにお出ましか。
私はよろめきながらも声のした方へと走る。
仲間たちも、ぎこちない動きでそれに続く。
股間のテントを突き上げたまま走る男たちの姿は、
滑稽を通り越してもはや黙示録的な光景だった。
開けた場所に出る。
そこはまるで巨大な子宮の底のような、ドーム状の空間だった。
壁一面に脈打つような青白い燐光を放つ苔がびっしりと生えている。
その中央で、それは起きていた。
女だった。
いや、かつては女だったものと呼ぶべきか。
全裸の女が、数人の男たちに組み敷かれ犯されていた。
見間違いではない。
魔獣同士の闘いでもなければ、人間対魔獣の戦闘でもない。
それは私たちと同じ、人間の男女による集団での強姦劇だった。
「な、なにを……!?」
誰かが叫ぶ。
しかし、誰も助けに入ろうとはしない。
いや入れないのだ。
その光景があまりにも蠱惑的で、暴力的でそして美しかったから。
犯されている女は泣いてもいなければ、嫌がってもいなかった。
それどころか自ら進んで男たちを受け入れ、貪り、そして笑っていた。
「あひゃらららら! もっと、もっとぉ!
奥まであたしの子宮まで、お前たちの精液を注ぎ込めぇ!」
狂喜の叫び。
背中を大きく反らし、四人の男に同時に貫かれながらその女は絶頂している。
白目を剥き、だらしなく開いた口からは太い唾液が滝のように流れ落ちていた。
腹は、異様に膨れ上がっていた。
妊娠しているのだ。
その大きなお腹を守るように、
あるいはそれすらも性感帯として貪るように、男たちの指が這い回る。
「もっと、もっと、殺して! あたしとあたしの中のガキとを、ぐちゃぐちゃになるまで殺してぇ!」
その言葉で、はたと気付く。
彼女の腹部がただの妊娠ではありえない、異様な蠢き方をしている。
まるで彼女の子宮そのものが、独立した一個の生き物のように腹の内側から、
男根を欲して蠕動しているかのようだった。
あれが、この迷宮の罠か。
あれがこの迷宮で生き延びるということの、末路か。
「ひっ……!」
私は後ずさった。
違う。
あんな風になりたいわけじゃない。
あれは、ただの肉塊だ。
性欲のままに動く醜い雌豚だ。
そう、思う。思うのに。
股間が、じゅん、と音を立てて濡れた。
私はあの女を醜いと思った瞬間、間違いなく興奮していた。
憧れてさえいた。
私も、あんな風に何もかもを捨てて、ただの雌として、この迷宮の一部になりたいと。
そんな狂った願望が、
理性の裏側で鎌首をもたげているのを私は確かに感じてしまったのだ。
その時、私の背後から影が伸びた。
振り返る間もなく、全身を、ぬめった生温かい何かが包み込む。
それは、苔だった。
壁一面に生えていたあの発光苔が、
まるで意思を持った生き物のように私の身体に絡みついてきたのだ。
「いやぁっ!!」
悲鳴を上げる。
しかし口の中にまで苔の触手が侵入し、私の声を塞ぐ。
ねっとりとした土の味と人間の体液を煮詰めたような生臭さが口腔を満たす。
服が、苔の分泌する溶解液によってじゅわじゅわと溶かされていく。
あっという間に、私はこの暗闇の中で裸体を晒していた。
「んぐっ……! んんんっ……!」
首に、腕に、太腿にそして股間に。
無数の苔の触手が絡みつき、私の若い肢体を蹂躙する。
無理やりに足を開かされ、割れ目を晒される。
ひくひくと震えるそこに、
ぬるぬるとした苔の先端が容赦なく押し込まれた。
「お”っ……!?」
異物感。
圧迫感。
そして決定的な敗北感。
私は、この迷宮に犯されたのだ。
戦う前に敵の姿を見る前に、ただの迷宮そのものにその処女を奪われた。
涙が溢れた。
悔しさで気が狂いそうだった。
だが、それ以上に、私の身体は歓喜していた。
子宮が未知の侵入者を、待ちわびていたかのようにきゅうきゅうと締め付ける。
苔は、私の最も深い場所でぐちゅぐちゅと音を立てて出し入れを始めた。
「んふぅ……! んんっ、んんんっ……!」
口を塞がれたまま私は喘ぐ。
思考が溶けていく。
何も考えられない。
ただ、もっと奥までもっと激しく、私の子宮を掻き回してほしい。
そんな雌の本能だけが、脳髄を真っ白に染め上げていく。
視界の端で、仲間たちも同じように苔に捕食されているのが見えた。
男たちの強張った剛直が、
苔の触手によってまるで手淫でもされるかのように、ねっとりと撫で回されている。
誰もが敵にすらなれず、ただの迷宮の餌としてそこで精を搾り取られていた。
「けひぃ……けひひひひ……」
笑い声が聞こえる。
あの妊婦の女だ。
彼女は、自分を犯す男たちに全身を預けながら私たちを見て、嘲笑っていた。
「なぁんだ、今年の新入りも、やっぱり迷宮の餌かぁ。いいよなぁ、若いって。
若い身体は、それだけで迷宮の最高のご馳走だもんなぁ。たっぷり味わってもらえよぉ。
その若い子宮の奥の奥まで、迷宮様にしゃぶり尽くされて
そのまま一生ここで、肉袋として生きていくんだよぉ!」
肉袋。
その言葉が、私の脳内で木霊する。
そうか。
これが、私の末路か。
騎士にもなれずただの牝豚として、この暗闇の子宮で永遠に犯され続ける。
それが、こんなにも。
こんなにも。
心地良い。
私は、自ら腰を動かし始めていた。
もっともっと奥まで欲しい。
この迷宮の一部になりたい。
私も、あの女のように笑いながら、犯されながら絶頂の中で生きていたい。
ついに、子宮の奥に、熱い何かが叩き込まれる。
苔が精液のようなものを分泌したのだ。
それは、異物であるはずなのに私の身体に染み込んでいく。
私の魔力と溶け合い、私の遺伝子を書き換えていく。
私は、もう、戻れない。
戻りたくない。
ぶるり、と身体が震えた。
全身の細胞が迷宮の一部として再構成されていく感覚。
それは、死にも似たそしてオーガズムにも似た、甘美な破滅だった。
私は、口元を覆う苔に、自ら舌を這わせた。
さっきまではあれほど不快だった味が、今は何よりも美味しく感じる。
「おいしい……おいしいよぉ……もっと、もっと、あたしを迷宮様でいっぱいにして……」
涙を流しながら私は笑った。
「あひゃらららら! いいっ、いいよぉ!
これたまんないよぉ! あたし、これが欲しかったんだぁ!」
絶頂が、永遠に続くかのように私を貫き続ける。
視界は、真っ白に染まりもう何も見えない。
私は、私だった何かをその瞬間に完全に手放した。
これが、私の初陣。
そして私の終幕。
これでいい。これがいい。
だって、こんなにも、気持ちがいいのだから。
破軍学園地下迷宮は、今日もまた、
新たな餌を呑み込みその肉厚な子宮の奥底で、ゆっくりとねっとりと、消化を始める。
たまらぬ場所であった。
何もかもを溶かし、混ぜ合わせ、新たな肉袋へと転化させる。
その存在すべてが、悍ましくも美しい一個の巨大な牝だった。
[#・]
地下迷宮と言われるモノは破軍学園の敷地内に複数ある。
ある程度開拓された主要なモノは
優秀で実績のある抜刀者のチームが幅を利かせている。
故に、落第や除籍の危機にある劣等生が一発逆転をかけて未知の迷宮に挑み、
そして喰われるなど日常茶飯事だ。
私たちは、その日常茶飯事の餌食になるべくして足を踏み入れた。
「じっとりと、湿っておるな」
誰が言ったか。
誰も言わなかったか。
ただその事実だけが、肌にへばりついて離れない。
湿気。
粘着質な空気。
それはまるで発情期の牝の股間から立ち上る匂いのように、
濃厚で生々しく鼻腔の奥をくすぐった。
未開拓区域。
第七迷宮。
誰も帰らぬと噂されるその場所は、
学園の中枢から見捨てられた者たちに許される最後の賭博場であり、
同時に巨大な肉食獣の胃袋であった。
「ポイントが……ポイントさえ稼げば……」
前を歩く男が呟く。
その背中は汗で濡れそぼり、制服が張り付いて筋肉の収縮を浮き彫りにしている。
私はその背中を見つめながら、
自分自身の太腿の内側を伝う汗とは違う液体の存在を意識せざるを得なかった。
熱い。
腹の底から何かが煮えたぎっているような感覚。
魔力圏が過給されているのか、それともこの空間自体が持つ何らかの魔力干渉なのか。
どちらでもいい。
重要なのは、私が興奮しているという事実だ。
通路は狭い。
壁面は有機的な質感を持ち、所々から脈打つように光る苔が生えている。
触れるな。
本能が警告する。
だが、触れたくなる。
あの苔の下には何があるのか。
柔らかい肉の壁の奥には何が潜んでいるのか。
「あ……」
隣の少女が小さく声を漏らした。
彼女は壁に手をつき、身体をよじらせていた。
恍惚とした表情。
目は虚空を見つめ、口元からはだらしなく唾液が垂れている。
「どうした?」
問いかける余裕など私にはなかった。
なぜなら私も同じだったからだ。
壁から染み出す何かが私たちの魔力回路をショートさせ理性を焼き切っていく。
突然、足元の床が鳴動した。
崩落ではない。
隆起だ。
床がまるで生き物のように盛り上がり、私たちを飲み込もうと口を開けたのだ。
「ひっ……!」
逃げる間もなかった。
隆起した床から触手が突き出た。
ぬめった肉色の触手。
それは正確無比に私たちの「真ん中」を狙っていた。
男たちの股間を。
女たちの秘所を。
「ぐあっ!?」
男が叫ぶ。
彼の股間に触手が絡みつきズボンを食い破るとその剛直を鷲掴みにしたのだ。
強制的な勃起。
そして搾取。
触手はまるで口のように先端を開き男根を咥え込むと激しく蠕動し始めた。
「あぐっ……な、なんだこれ……やめ……あああっ!」
拒絶から歓喜へ。
男の声は瞬く間に喘ぎへと変わっていく。
精気を吸われているのだ。
魔力ごと。
私は恐怖したはずだった。
だが足は動かなかった。
むしろ自分から触手へと近づいていた。
私の股間を狙う触手が一本ゆらりと近づく。
先端から滴る粘液は透明でねっとりとしていた。
来い。
来いよ。
私の中へ。
狂っている。
だが止められない。
触手は私のスカートを捲り上げショーツを横にずらすと割れ目へと侵入してきた。
「あひっ……!」
異物感。
圧倒的な質量感。
そして決定的な快感。
処女膜などという薄っぺらい皮一枚など意に介さず
触手は子宮の奥底までを一突きで貫いた。
「いっ……あぐっ……あああああっ!」
悲鳴か嬌声か区別もつかない声が喉から迸る。
痛みは瞬時に快楽へと反転した。
この迷宮の魔力が私の感覚をハッキングし書き換えたのだ。
「けひぃ……けひひひ……」
どこからか笑い声が聞こえる。
私か?
仲間か?
それともこの迷宮そのものか。
男たちはすでに抵抗する気力を失い触手に精気を搾り取られ白目を剥いている。
女たちは自ら腰を振り触手の動きに合わせて喘いでいる。
惨状。
地獄。
だがなんたる美しき地獄か。
私は触手に貫かれたままガクガクと腰を揺らした。
もっと奥へ。
もっと深くへ。
私のすべてをこの迷宮に捧げたいという倒錯した献身精神が脳髄を支配する。
「たま、ん、ない……!」
私は叫んだ。
この快楽こそが私の求めていたものなのだと認めることに何のためらいもなかった。
劣等生として虐げられ消えゆくだけだった私の運命がここでようやく一つの答えを見つけたのだ。
破軍学園地下迷宮第七区域。
そこはただの洞窟ではない。
生きている巨大な雌なのだ。
そして私たちはその胎内に取り込まれ
永遠に精気を搾られ続けるための種馬であり産卵床なのだ。
視界が白濁する。
幾度目かの絶頂が脳を焼き尽くす。
私はもう自分が誰であるかさえ忘れかけていた。
ただ一つ確かなのは私はこの先
一生ここから出ることはないだろうということだ。
それでいい。
ここで犯され続けることこそが私に与えられた唯一つの救済なのだから。
地下深くで女の喘ぎ声と男の断末魔が交錯する。
それらは混ざり合い一つの和音となり
迷宮全体を揺らす子守唄となった。
たまらぬ場所であった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
破軍学園。
それが何であるかを、正確に語れる人間は果たして何人いるだろうか。
国際魔導騎士連盟の認可を受けた日本国内七校の騎士学校の一つ。
南関東に位置し、広大な敷地を有する。
敷地内には複数のドーム型闘技場が点在し、
万を超える学生騎士が日夜その武威を研鑽する。
現在のKOKランクベスト二十の過半数が
何らかのカタチで破軍学園の関係者であると聞けば、その凄みは伝わるだろうか。
伝わらない、と断言してもいい。
なぜなら、その説明は全て「表」の話だからだ。
一枚看板の綺麗な表側。
光の当たる部分。
だが、看板には裏がある。
光があれば、必ず影が生まれる。
破軍学園という巨大な機関の裏側に蠢く暗黒──それが、地下迷宮だった。
万を超える全校生徒の内、
年間三桁の死者・再起不能・行方不明者が出るという事実は黙殺されていた。
公式の場で語られることはない。
入学案内に記載されることもない。
だが、知る者は知っている。
破軍学園の地下には、人が一人ずつ、
あるいは小隊単位で、音もなく消えていける場所があることを。
そして私は、その場所へ足を踏み入れようとしていた。
──-
「要するにさ、泥沼に飛び込む話だよね」
案内役を務めた三年生が振り返りながら、さも滑稽だと言わんばかりに笑った。
彼女の名は神崎葉月。
Cランク。
破軍学園においてCランクとは、
要するに「凡才よりは少しマシ」程度の位置づけだ。
しかし地下迷宮の案内役を務める程度には、この闇に慣れているらしい。
彼女の制服の裾には無数の細かい傷跡が縫い付けられており、
それらが全て地下迷宮由来のものであることは、
使い込まれた刃のような鋭い眼光を見れば一目で瞭然だった。
「泥沼」
私はその言葉を咀嚼した。
正確無比な比喩だった。
なぜなら地下迷宮の空気は、まさしく泥沼のそれだったからだ。
入り口の階段を一段降りるごとに、空気は濃度を増していく。
湿度が上がる。
温度が上がる。
そして何より、空気そのものが「重くなる」。
肺に吸い込んだ空気が鉛の塊になって下降していくような感覚。
魔力を持たぬ一般人であれば、この階段を十段降りたところで意識を失うだろう。
それほどに、この空間は魔力の圧が高い。
「地下迷宮ってのはね、要するに学園の胃袋なんだよ」
神崎が何でもないことのように言った。
学園の胃袋。
彼女はそれを比喩として言ったのではなかった。
私は彼女の横顔を見た。
冗談めかした笑みはあるが、目は笑っていない。
「毎年食べられるの。優秀な子も、不器用な子も。等しく。
学園が養った子供たちを、学園が自分で食べる。それだけの話」
背筋に冷たいものが走った。
学園が自分で食べる。
その言葉が、私の体内の何かを不可逆かに軋ませた。
──-
私の名は、如何でもいい。
Dランク。
破軍学園一学年。
学内序列5千位。
要するに、ボロ屑だ。
魔力総量は並み。
伐刀絶技は陳腐。
戦闘技能は同級生の平均に届かない。
戦えば負ける。
負ければ順位が下がる。
順位が下がれば更に戦いにくくなる。
負け戦の負け戦の負け戦。
蟻地獄の底で、芋虫が吠えている。
それが私だった。
だが、芋虫にも芋虫の生き方がある。
地下迷宮。
それはDランク以下の最底辺にとって、唯一の逆転の舞台だった。
ランク戦では勝てない。
特別招集は任せられない。
だが地下迷宮なら、ポイントは稼げるかもしれない。
最悪、迷宮の奥深くに眠る魔石の一つでも回収できれば、
来年度の学内序列は劇的に上向く。
万が一。
万が一があるなら、私は這いずりでも行く。
それが私の、芋虫としての矜持だった。
私の他に三人。
同じDランクの同級生たち。
全員が同じ境遇で、同じ絶望の底から這い上がろうとする共犯者たちだった。
東雲結衣。
十五歳。
眼鏡。
料理が得意。
戦闘能力は私より劣るが、索敵系の伐刀絶技に長け、空間の歪みを視ることができる。
私たちの目。
橘邑希。
十六歳。
長身。
寡黙。
唯一の男子。
固有霊装は薙刀。
純粋な近接戦闘能力ならCランクの上位と渡り合える。
私たちの剣。
月城紗雪。
十五歳。
小柄。
固有霊装は弓。
遠距離戦闘が専門。
常に不機嫌そうに唇を尖らせているが、腹が減ると機嫌が直る。
私たちの……何と言えばいいのか。
毒舌要員。
そして私。
固有霊装は槍。
名もなき槍。
泥臭い槍。
「要するに、泥沼芋虫部隊」
月城が言った。
その通りだ。
──-
階段は、数十段で終わった。
地下迷宮第一層。
これより先は、学園の管理が及ばない領域。
空気はすでに粘液状になりかけていた。
呼吸のたびに、空気が喉の壁面にへばりつく。
吐いても吐いても、肺の底にねっとりとした質量が残る。
まるで深海に潛ったかのような圧迫感。
それが、空気なのだ。
「ここからが本番」
神崎が懐からトーチを取り出した。
魔導式の携帯用照明具。
火ではなく、魔力を可視光に変換する結晶だ。
青白い光が通路を照らし出す。
通路は、有機的だった。
それは私の予想を裏切る光景だった。
切石の壁でもなければ、コンクリートでもない。
壁面は滑らかで、微細な凹凸が無数に連なり、それが脈動しているように見える。
苔か。
それとも壁そのものが呼吸しているのか。
青白い光の下で、壁面の凹凸はまるで皮膚の毛孔のように見えた。
「気持ち悪い……」
東雲が眼鏡の位置を直しながら呟いた。
その手は微細に震えている。
「生きてるみたい」
その通りだ。
この迷宮は、生きている。
いや、「生きている」という表現すら正確ではない。
この迷宮は、呼吸し、脈動し、分泌し、飢えている。
それは正確に、一個の生物の内臓だった。
私たちは今、巨大な生物の消化管の中を歩いているのだ。
壁面の苔が、私の頬を撫でた。
「ひっ」
反射的に声が出た。
触れられた感触は、確かに生々しい温度と湿度を持っていた。
人間の体温に近い。
汗ばんだ肌に、汗ばんだ何かが触れた。
それは決して、苔や植物の感触ではなかった。
「大丈夫。第一層は接触しても害はないから。ちょっと、ねっとりするだけ」
神崎が振り返って言った。
その表情に、一瞬だけ何か危ういものが走った気がした。
彼女の頬が、青白い光に照らされてほんのりと赤らんでいるように見えたのは、
光の加減のせいだろうか。
「ちょっと、ねっとりするだけ」
私はその言葉を反芻した。
確かに、私の頬はねっとりとした感触を残したままだった。
指で拭うと、指先に透明な粘液が付着した。
それは水ではなかった。
より粘度が高く、より温かく、より生々しい。
肌に付着したその液体は、じわりと浸透していくように消えていった。
まるで私の皮膚がそれを吸い込んだかのように。
「……」
私は何も言わなかった。
言えなかった。
なぜなら。
その感触が、私の背骨の根を一本、痺れさせたからだ。
──-
通路は、地下迷宮の体内を腸のように蛇行していた。
壁は一面に苔に覆われ、その苔が放つ燐光が通路を幽かに照らしている。
神崎のトーチがなくとも、視界は確保できる。
だが、その光は決して心地よいものではなかった。
腐った黄い光。
蛍のようでありながら蛍ではない。
蛍の光は清冽だが、この苔の光は濁っている。
粘液が光を含有しているかのような、質感のある光。
「異臭がする」
橘が鼻を皺めて言った。
確かにした。
空気には、何かが腐熟しかけている甘い匂いが混ざっていた。
腐敗の匂い。
だが、単なる腐敗ではない。
腐りかけの果実のような、
熟れすぎた桃のような、
甘く濃厚で胸焼けするような匂い。
それは嗅覚を通じて直接、脳の扁桃体を撫でるような質感を持っていた。
「それ、迷宮の体臭」
神崎が言った。
「体臭」
「うん。この迷宮は生きてるから。呼吸して、消化して、排洩してる。その匂い」
消化。
排洩。
その言葉が、私の胃袋を緩ませた。
「要するに、いま私たちが歩いてるこの通路は、腸管ってこと?」
月城が嫌そうに言った。
「厳密にはちょっと違うけど、近いね。第一層は表層だから、まだ胃袋より前の段階。
口から食道に入ったあたりかな。これから先が胃袋で、さらに奥が腸で、一番奥が……」
神崎が言葉を切った。
その横顔に、一瞬だけ硬いものが走った。
「一番奥が、何」
私が問うた。
「……何でもない。行こ」
神崎は歩き出した。
その背中が、一瞬だけ、引き攣ったように見えた。
──-
第一層は、幸いにして敵の姿を見なかった。
いや。正確には、敵と呼べるものがいなかった。
通路には時折、粘液の溜まった窪みがあり、そこに何かの骨が沈んでいた。
人間のものではなかった。大型の獣の頭骨のように見えたが、
角が二本、耳の位置にあたる部分から生えていた。
見知らぬ生物の死骸。
それが粘液に溶かされ、骨だけが残っている。
その骨の表面には、やはりあの苔が生えており、燐光を放っていた。
死体を苔が分解し、光に変えている。
その光で、次の獲物が案内される。
循環。
完全なる循環。
この迷宮は自らの内部で、食うものと食われるものの関係を完結させている。
「……きれいね」
東雲が呟いた。
その声には、嫌悪と惑いと、
そして微かな──実に微かだが、確かに──畏敬が混ざっていた。
きれい。
確かに、その光景は美しかった。
死と再生の循環。
腐敗の果てに生まれる燐光。
それは、ある種の滅びの美学に通じるものがあった。
枯れ木に花が咲く。
それは美しい。
だが、その花が枯れ木の養分を吸って咲いているのだと理解した時、
人はその美しさの前にどんな表情を作るべきか。
「きれい、か。確かにそうだね。でもさ、それを言っちゃうと、
この迷宮にやられた人たちもみんな『きれい』なんでしょうね。
骨だけになって、苔生えて、光って。きれいなもんだわ」
月城が皮肉った。
だが、その声はいつもよりも低かった。
彼女も感じているのだ。
この迷宮の、悍ましさと美しさが表裏一体であるということを。
──-
第一層と第二層の境目で、神崎が足を止めた。
「ここから先は、第二層。私の管轄外」
「管轄外?」
「うん。私の実力じゃ、第二層の奥までは案内できない。
第二層から先は、自分たちの力量と運で切り抜けて。あとね、一つだけ忠告」
神崎が振り返った。
その瞳には、青白い苔の光とは異なる、赤い光が宿っていた。
充血している。
あるいは、興奮している。
「壁に触られないように。床にも座らないように。
そして何より、苔に触られないように。苔は、触れられると」
彼女は一瞬だけ言葉を切った。
その唇が、微かに震えた。
「気持ちよくなるから」
その言葉は、私たちの誰の胸にも、鋭く沈んだ。
気持ちよくなる。
その言葉の意味を、私は正確に理解したくなかった。
だが、理解せざるを得なかった。
なぜなら、私の頬にはまだ、第一層で触れた苔の感触が残っていたからだ。
あのねっとりとした、
温かい、
まるで誰かの舌が私の肌を舐めたかのような感触。
気持ちよくなる。
あれが、気持ちよくなる、と?
私は自分の頬を掌で覆った。
掌が熱い。
頬も熱い。
そして何より、腹の底が熱い。
これはいけない。
本能が警告していた。
だが、その本能の警告そのものが、どこか遠い響きのようにぼやけていた。
空気が、濃い。
空気が、甘い。
空気が、重い。
私の脳は、酸素不足で思考が縁に溶け始めている。
「行くぞ」
橘が無造作に前に進み出た。
彼の背中は広く、頼もしかった。
だが、その首筋に一筋の汗が伝い落ちるのが見えた。
彼も緊張している。
いや、緊張ではない。これは。
「……うん」
私は、自分の声が少し掠れていることに気付いた。
──-
第二層への入り口は、第一層の終端に開いた巨大な孔だった。
それは正確に、口だった。
壁面が円形状に陥没し、その中央に直径五メートルほどの穴が開いている。
穴の縁には、一列に並んだ突起があった。
それは歯ではない。
だが、歯のように見えた。
あるいは、口腔の縁に並んだ乳頭突起のように。
それらは微かに動いていた。
呼吸するように、収縮を繰り返している。
「……」
誰も声が出なかった。
五人の学生が並んで、その孔を見下ろしている。
風が孔の底から吹き上げてきた。
温かい風。
湿った風。
生臭い風。
その風が、私たちの髪を攫った。
「う……」
東雲が小さく声を漏らし、手で鼻を覆った。
その風には、第一層で感じた甘い腐敗臭が濃縮されて含まれていた。
十倍。
いや百倍。
濃縮還元された、熟れきった果実の匂い。
だがそれは、同時に、女の匂いでもあった。
私は何の根拠もなく、それを確信した。
この匂いは、女の発情の匂いだ。
何万という人間の女が、
この迷宮に喰われ、
消化され、
分解され、
その果てに苔となり、
光となり、
そして匂いとなって、
この孔から吹き上げている。
数百年分の女の悦びと苦しみと快楽と絶望が、濃縮されて、この風に乗っている。
「気付いてると思うけど、この風。吸い込むと魔力圏が昂るの。
興奮して、魔力が上がる。要するに、媚薬」
神崎が言った。
彼女の顔は、赤かった。
陶酔しているのではない。
堪えているのだ。
この風を、何時間も吸い込みながら第一層の案内を務め続けた代償が、
その赤らんだ頬に現れていた。
「気を付けて。この風を吸い続けると、理性が溶ける。
最初はほんの少しの火照りから始まるけど、すぐに我慢できなくなる。
そして一度我慢できなくなると、そこで終わりだから」
「終わり?」
月城が問うた。
その声はもう、毒剣の鋭さを失っていた。
「迷宮に食べられるの。嬉々として、自ら奥へと進んでいく。
理性のタガが外れたら、あとは本能のままに。
この迷宮の、奥の奥の奥まで。自分から進んで、……」
神崎は最後まで言わなかった。
だが、その唇の動きは確かに「犯されに」という形を描いていた。
そして、私は気付いた。
自分の呼吸が、荒くなっていることに。
──-
第二層に入って、十分。
空気は、もはや空気ではなかった。
それは霧だった。
視界の半分を覆うほどに濃い、乳白色の霧。
だが、その霧は水滴ではなかった。
粘液だ。
空気中に浮遊する微細な粘液の粒子。
それを吸い込むたびに、喉の奥にねっとりとした膜が張られる。
その膜は、
呼吸を整え、
心拍を上げ、
体温を上げ、
そして魔力圏を強制的に過給する。
媚薬。
神崎の忠告通り、これは空気中に漂う媚薬だった。
「はぁ……はぁ……」
私は自分の呼吸が乱れていることに気付いた。
だが、止められない。
空気が甘い。
吸い込むたびに、肺の中で花が開くような感覚。
その花は、腹の底に根を下ろし、
子宮のあたりにまでその根を伸ばしている。
熱い。
じわりと、内側から熱が滲んでくる。
「ねえ、ちょっと、何かおかしくない?」
東雲が言った。
その声は、明らかに上擦っていた。
「おかしくない。迷宮の空気のせいだ。吸い込まないようにしろ」
橘が低い声で言った。
だが、その声にも震えがあった。
彼の首筋には、血管が浮き上がり、脈打っていた。
私たちは、犯されかけている。
そう認識した瞬間、背筋に冷たいものが走った。
いや、冷たいものではなく、熱いものが走った。
この迷宮の内部は、私たちを犯すために用意された空間なのだ。
空気は潤滑油。
苔は愛撫。
霧は接吻。
そして奥の奥には、何があるのか。
「進むしか、ない」
私は言った。
自分の声が、妙に熱っぽいことに気付いた。
東雲が私を見た。
月城が私を見た。
橘が私を見た。
全員の目が、潤んでいた。
それは恐怖の涙ではなかった。
興奮の涙だった。
空気中の媚薬成分が、私たちの魔力回路を直接刺激し、
理性の堤防を内側から侵食している。
もう、誰の目も冷静ではなかった。
進むしかない。
後戻りは、もうできない。
なぜなら、来た道を振り返った時、そこには通路がなかったからだ。
壁が、閉じていた。
「嘘、でしょ」
東雲が震える声で言った。
嘘ではなかった。
第一層から続いた通路は、気付かない間に完全に閉鎖していた。
壁面の苔が増殖し、通路を塞いでしまったのだ。
あるいは、通路そのものが収縮したのだ。
胃袋の蠕動運動のように、迷宮が私たちを奥へ奥へと送り出している。
「あは……あはは……」
月城が笑った。
それは笑いではなかった。
乾いた嗚咽だった。
「どうもこうも、もう食べられちゃってるわけね。私たち、丸ごと」
その通りだった。
私たちは今、巨大な雌の胎内に取り込まれ、蠕動運動によって奥へと運ばれている。
消化されるのを待つだけの食物。
私たちは、迷宮の胃袋に呑み込まれた。
──-
通路は次第に、狭くなっていた。
あるいは、私たちの身体が膨らんでいるのか。
いや、膨らんでいるのではない。
制服が、肌に張り付いていた。
汗なのか、霧の湿気なのか、それとも壁面の苔が分泌する何かなのかは分からないが、
制服の布地が肌に張り付き、その感触が生々しかった。
第二の皮膚。
濡れた布地が乳首を擦り、太腿の内側を撫で、へその下の柔らかな脂肪を丘撫でる。
「んっ……」
私は思わず声を出した。
いけない。
いけないのに。
声が出た。
なぜなら、その感触は、あまりにも心地よかったからだ。
空気中の媚薬のせいだけではない。
この迷宮そのものが、私に触れている。
壁、床、天井、空気、光、音、匂い。
すべてが、私に触れ、私を愛撫し、私を開発している。
「ねえ、もう、無理。私、もう……」
東雲が壁に手をついた。
その手が、壁面の苔を押し潰す。
じゅ、という湿った音。
東雲の手の甲に、透明な粘液が跳ねた。
「だめだっ! 壁に触るなって、言われたっ……⁉」
橘が叫んだ。
だが、遅かった。
東雲の目が、一瞬で虚ろになった。
眼鏡の奥の瞳が、焦点を失い、そして再び結ばれた。
だが、その結ばれた先には私たちの誰の顔もなかった。
彼女の瞳は、苔の燐光を映していた。
ただそれだけを、恍惚と見つめていた。
「あ、あぁ……きれい……きれいだわ、これ……」
東雲の声は、もう彼女のものではなかった。
壁の苔が、
東雲の手にから腕へ、
腕から肩へ、
肩から首筋へと這い上がっていた。
速い。
目に見える速度で、苔が東雲の身体を覆っていく。
だが、それは攻撃ではなかった。
愛撫だった。
苔は東雲の制服を避けるように、肌の露出部分だけをなぞりながら、
ゆっくりと、ねっとりと、上へと這い上がっていく。
「い、いやぁ……やめ、て……」
東雲の口は拒絶を形成したが、その声は拒絶ではなかった。
声の響きは、
甘く、
熱く、
そしてはっきりと──悦んでいた。
「東雲!」
私が手を伸ばした。
だが、その時、私の足元が揺れた。
床が、脈動した。
一歩。二歩。三歩。
規則的な脈動。
それは心拍だった。
迷宮の心臓が、私たちの足の裏から、脈動を伝えていた。
その振動は、足の裏から踝へ、踝から膝へ、膝から太腿の内側へと伝わる。
太腿の内側。最も柔らかく、最も無防備な部分に、迷宮の鼓動が直接、伝わる。
足裏から伝わる脈動が、太腿の内側にまで達した時、私は理解した。
これは振動ではない。
誘いだ。
迷宮が私の身体を、内側から叩いている。
心臓の裏側を。
子宮の底を。
人間が人間でありつける最後の砦を、
指先でぽんぽんと叩いて、「そこ、開けて」とねだっているのだ。
「東雲!」
私は叫んだ。
声は出た。
だが、届かなかった。
声が空気の粘度に巻かれて、東雲の耳に届く前に溶けてしまったのだ。
この迷宮の空気は、救いの声さえも消化してしまう。
親愛の叫びも警告の悲鳴も、ここでは等しくただの養分に過ぎない。
東雲の腕に這い上がる苔は、しかし、私が想像していたものとは違っていた。
攻撃、ではない。
苔は東雲の肌の上を、まるで恋人が恋人の腕に指を這わせるように、
ゆっくりと、丁寧に、そして何より愛おしそうに、這い上がっていた。
ぴちり、ぴちり。
湿った音。
だがその音には優しさがあった。
巨大な舌が、獲物を味わう前にまず愛撫する、あの生々しい優しさ。
「あ……あぁ……」
東雲の声が変わった。
拒絶の声ではなかった。
恐怖の声でもなかった。
それは、まるで長い旅の果てにようやく辿り着いた宿屋の湯に浸かった時のような、
ふっと力が抜けた声だった。固く閉ざしていたものを、ゆるり、と解き放つ声。
「きれい……きれいなの……見えるの……」
東雲の眼鏡の奥の瞳が、焦点を失った。
いや、失ったのではない。
焦点の「先」が変わったのだ。
彼女はもはや私たちを見ていない。
私たちの背後の壁でも天井でもない。
彼女が見ているのは、この場所に存在しない「何か」だ。
「東雲! 東雲、聞こえる!?」
私は東雲の手首を掴んだ。
──―冷たい。
いや、冷たくはない。
違う。
人間の体温ではなかった。
東雲の手首は、三十六度五度の血液の温かさを持っていなかった。
そこにあったのは、迷宮の体温。
壁面の苔と同じ、
壁面の粘液と同じ、
吹き上げる風と同じ温度。
それは人間よりほんの少しだけ高く、
ほんの少しだけ湿っており、
ほんの少しだけ粘着質だった。
東雲の体温は、人間のそれから迷宮のそれへと、移行しつつあった。
「見えるの……! 見えるの、ちゃんと見える……!」
東雲が叫んだ。
その声には、歓喜があった。
純粋な、混じりけのない歓喜が。
索敵系伐刀絶技の持ち主として、空間の歪みを視ることができる彼女の眼が、
今、迷宮の内部に流れ込んできた「何か」を視ているのだ。
何を。
記憶だ。
私は直感した。
苔を通じて、迷宮の記憶が東雲に流れ込んでいる。
かつてこの迷宮に喰われ、消えていった者たちの記憶。
東雲の索敵の眼が、
通常ならば空間の歪みを視るために使われるその網膜が、
今は迷宮の記憶の奔流を直接、映像として受信している。
「女の子が……いっぱい……見える……」
東雲の瞳が、くるくると動いた。
眼球の裏側で、何かが高速で再生されているかのように。
眼鏡の奥の瞳が、左右に、上下に、止めどなく動く。
その動きは、まるで映写室のスクリーンに次々と切り替わる映像を
目で追っているかのようだった。
「戦ってる……剣を持って、槍を持って、戦ってる子がいる……
でも、足元が……足元の床が、口を開けて……あ、落ちて、いく……」
東雲の声は、独り言ではなかった。
彼女は今、幾千幾万もの女子騎士の最期を、同時に、見ているのだ。
「暗い……暗いんだけど、温かい……落ちた先は温かいの……壁が、柔らかくて、
ぬるぬるしてて、壁が、私の服を溶かして……肌に……直接、触れて……」
東雲の頬が紅潮した。
その紅潮は、羞恥の色ではなかった。
共感の色だった。
彼女は今、かつてこの迷宮に呑まれた少女たちの肌の感覚を、
自分の肌の感覚として共有しているのだ。
壁の柔らかさ。
粘液の温かさ。
服が溶ける時の微かな痛みと、その直後に来る解放感。
そして、生まれたままの肌に直接触れる迷宮の愛撫。
「んっ……あ、あぁ……それで……苔が……苔が足の指の間から入ってきて……」
東雲の身体が、びくん、と跳ねた。
彼女の独白は、もはや語りではなかった。
これは、再生だ。
かつて迷宮に喰われた少女たちの最期の感覚が、東雲の身体を通じて、
この場に再生されている。
「やだ……やだ、そこは……あ、あぐっ……!」
東雲の太腿が内側に閉じようとした。
だが、苔がそれを許さなかった。
彼女の太腿に這い上がった苔が、まるで恋人の手のように、
優しく、しかし確固たる力で、その両脚を開かせていた。
「あ、あぁ……入ってくる……苔が、わたしの……中に……」
東雲の声が、震えた。
だが、その震えは恐怖の震えでは、もはやなかった。
それは、未知の感覚に身を委ねる時の、あの全身がざわめくような震えだった。
初めて誰かに触れられた時の、あの震え。
「……気持ち、いい……」
その言葉が、東雲の唇から漏れた瞬間。
空気が、変わった。
私は感じた。
東雲の手首を掴んだままの私の掌の中で、
東雲の脈拍が、迷宮の脈動と同調したのを。
ぽくり、ぽくり、ぽくり。
一定の間隔。
迷宮の心拍数。
東雲の心臓が、もはや東雲のものではなくなった瞬間だった。
「気持ちいいの……これ、気持ちいいのよ……!?
ねえ、わかる? すごく、あったかくて、やわらかくて、
私のこと、全部わかってくれてるみたいに、撫でてくれて……!」
東雲が私の方を向いた。
だが、その瞳は私を見ていなかった。
私の背後に、私には見えない何かを見ていた。
何百人もの、あるいは何千人もの、消えた少女たちの幻影を。
「この子たちも……みんな、こうだったの……最初は怖かったけど……
苔が触れてくれて、全部溶かしてくれて……服も、鎧も、恐怖も、
プライドも、全部溶かしてくれて……素っ裸にしてくれて……
そして、そのまま、迷宮のお腹の中で……永遠に……」
永遠に。
その言葉が、迷宮の内部で反響した。
壁面の苔が、その言葉を吸い込み、増幅し、万倍にして吐き出したかのように、
「永遠に」という音が、この空間全体を満たした。
「東雲、手を離せ! その苔から手を離すんだ!」
橘が叫んだ。
薙刀の柄に手をかけながら、一歩踏み出した。
その一歩が、終わりだった。
橘の足元の床が、再び脈動した。
先ほどよりも強く。
先ほどよりも深く。
橘の踵から膝裏へ、膝裏から大腿の付け根へ。
振動は正確に、外科手術のように精密に、橘の股間へと届いた。
「ぐっ……!?」
橘が膝を折った。
薙刀が手から滑り落ちる。
金属と苔の接地音。
だが、金属音はしなかった。
苔が金属音さえも吸収した。
この迷宮では、武器の音さえ許されないのだ。
「……ぁ……」
橘の顔が、歪んだ。
その歪みは、痛みではなかった。
男の顔が、
この迷宮の中で唯一許される表情へと強制的に書き換えられていく過程だった。
理性的な眉。
凛々しい目。
引き締まった唇。
それらが、順に解け、溶け、ゆるむ。
男の尊厳が、床の振動一本で溶かされていく。
「橘!」
月城が叫んだ。
弓を構えようとして、止まった。
何に向けて構えるのか。
敵はどこにいるのか。
敵は、
壁であり、
床であり、
天井であり、
空気であり、
苔であり、
そして今、
東雲自身なのだ。
月城の弓は、空気を射ることすらできない。
「……は、はは」
月城が乾いた笑いを漏らした。
毒舌の持ち主が、毒を失った。
彼女の唇もまた、
空気中の媚薬に侵され、
皮肉を紡ぐための筋肉の制御を失いかけていた。
「どうしようもないじゃん。これ。もう、どうしようもない」
どうしようもない。
その通りだ。
私は東雲の手首を掴んだまま、立ち尽くしていた。
東雲の手首を離せば、東雲は完全に迷宮のものになる。
だが、離さなければ、苔は東雲から私へと移る。
二つの選択肢の間で、私の指は震えていた。
東雲の体温が、
人間の温度から迷宮の温度へと移行していくのが、
掌から伝わる。
それは、まるで親友の命が
指の間から零れ落ちていくのを感じているかのようだった。
だが同時に、その迷宮の体温は、恐ろしいほどに心地よかった。
人間の体温より少しだけ高く、少しだけ湿っていて、少しだけ粘着質なその温度は、
冷たい掌にとって、まるで湯たんぽのような温かさだった。
東雲の唇が動いた。
「ねえ、見て。この子たち、みんな、笑ってる」
東雲が、虚空に向かって手を伸ばした。
その指先に、苔が絡みついた。
東雲は苔を振り払おうとしなかった。
むしろ、苔の指を自らの指に絡め、握り返した。
恋人と手を繋ぐかのように。
「この子は、剣士。Cランクだったの。ずっと負けてて、迷宮に来て……
最初は怖かったって。でも、苔が触れてくれて、怖いことが全部どうでもよくなって……
そして最期は、笑ってた。子宮いっぱいに苔を注ぎ込まれて、
体が溶けて、意識が溶けて、迷宮の一部になって……でも、笑ってたの」
東雲の声に、嫉妬が混じった。
それは、この迷宮に喰われた少女たちの記憶の中にあった感情だ。
恐怖の果てに辿り着いた陶酔。
絶望の底に咲いた快楽の花。
それを東雲は、自分の感情として体験していた。
「この子は、槍使い。Dランク。私と同じ……いや、私だ。この子は私だわ……」
東雲の目から涙が流れた。
それは悲しみの涙ではなかった。
鏡に映った自分を初めて見た時の、あの涙だ。
東雲は、迷宮の記憶の中に、自分と同じ境遇の少女を見つけ、
その少女の最期が自分の最期であることを理解し、そして、
その最期が予想外に穏やかで甘美であったことに、涙したのだ。
「怖くなかったって。最期は、怖くなかったって。気持ちよかったって。
ずっとずっと、誰にも触れられなかった体に、初めて触れてもらえて、
全部溶かしてもらえて、何も考えなくてよくなって、ただ苔のお腹の中で……」
東雲の声が、途切れた。
苔が彼女の首筋にまで達し、声帯の周りを優しく包み込んだのだ。
声は消えた。
だが、東雲の顔には、まだ笑みが残っていた。
溶けかけた蝋人形の、最期に残った表情。
それは、間違いなく、笑顔だった。
私は、東雲の手首を、離した。
離さざるを得なかった。
なぜなら、私の指が、東雲の皮膚の表面を感じなくなったからだ。
東雲の肌は、もはや人間の肌ではなかった。
苔と同化した表面は、滑らかで、湿っていて、微細な凹凸があり、
指で触れても、指紋の感触が伝わってこなかった。
人間が人間に触れた感触ではなく、
人間が迷宮に触れた感触だけが、私の指の腹に残った。
東雲は、もう、東雲ではなかった。
彼女は、迷宮の一部になりかけていた。
壁面の苔のひと吹き。
床面の粘液の一滴。
空気中の燐光のひと粒。
東雲結衣という人間は、分解され、再構成され、
この巨大な雌の胎内に取り込まれつつあった。
そして、私の頬には、第一層で触れた苔の感触が、まだ残っていた。
あの時の、ねっとりとした、温かい、舌のような感触。
それは、もう消えない。
私の頬の皮膚の記憶に焼き付いて、一生残るだろう。
東雲の手首を掴んでいた掌の中にも、迷宮の体温が移っていた。
三十六度五度の温かさは、もう、私の掌の中にはない。
あるのは、迷宮の温かさだけだ。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
東雲の手首から手を離した私の掌には
彼女の体温の残滓がまだこびりついていた。
いや、それは彼女の体温ではない。
迷宮の体温だ。
三十六度をわずかに超えた、湿り気を帯びたねっとりとした温かさ。
それは人間の肌に触れた時の感触に似ているようで、決定的に何かが違った。
人間の肌は触れているうちに
互いの温度が混ざり合い、やがて境界が曖昧になっていく。
だが迷宮の温度は、決して混ざらない。
それは一方的に私の掌の温度を奪い、自分の温度に書き換えていく。
侵略的な温かさ。
支配的な温かさ。
愛し、愛されることではなく取り込み、
同化させることだけを目的とした巨大な牝の体温だった。
私は掌を見つめた。
指の股に東雲から移ったのか、
あるいは空気中から直接付着したのか透明な粘液が糸を引いていた。
親指と人差し指を開くと、
その間に幾筋もの細い橋が架かり青白い苔の燐光を受けて妖しく輝いた。
それはまるで、私の手そのものが発情しているかのような光景だった。
いや、発情しているのだ。
この手は
この指は、
もっと迷宮に触れたがっている。
もっとこのぬめりを感じたがっている。
もっとこの温度に溶かされたがっている。
「……あ」
声が漏れた。
自分の声とは思えないほどそれは弱々しく、そして甘ったるかった。
東雲はもう、壁と同化していた。
彼女の輪郭は完全に苔に覆われ、人型の隆起だけがそこに在った。
その隆起が、ゆっくりとしかし確実に、壁の内側へと沈み込んでいく。
まるで巨大な子宮が受精卵を受け入れるように、
迷宮は東雲をその壁面の奥深くへと呑み込んでいた。
私はその光景をただ見つめていた。
何とか苔から救出された橘も、月城も言葉を失っていた。
いや、言葉を失ったのではない。
言葉を発するための筋肉が、
空気中の媚薬に蕩かされてもはや正常に機能しなくなっているのだ。
その時、東雲が消えた壁面から新たなものが姿を現した。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
壁面の苔が、盛り上がった。
それは最初、小さな膨らみに過ぎなかった。
妊娠初期の腹部の、かすかなふくらみのような。
だがその膨らみは見る見るうちに大きくなっていく。
通常の妊娠経過を何百倍にも早送りしたかのように、
壁面の隆起は膨張しやがて人間の頭大にまで達した。
「……何だ、あれ」
橘がかすれた声で言った。
その声は恐怖よりもむしろ、疲弊した諦念に満ちていた。
もう何が起きても驚くまい、という諦め。
だがその諦めすらも、この場所では甘美な麻薬に変わる。
諦めることは、抗うことをやめることであり
抗うことをやめることは、迷宮に身を委ねることに他ならない。
隆起の表面を覆っていた苔の膜が、ぴり、と裂けた。
中から溢れ出たのは、羊水にも似た透明な粘液だった。
どろりと床に滴り落ちるそれは、
東雲が身に纏っていた制服の繊維を含んでいた。
東雲の肉体は、迷宮の子宮壁の中で分解され再構成され、
そして新たな命として産み出されようとしていたのだ。
「……産んでる」
月城が呟いた。
その声にはもはや嫌悪も恐怖もなかった。
ただ純粋な驚きと、そして微かな憧れが混ざっていた。
彼女の目は、苔の裂け目から現れつつあるものに釘付けになっていた。
裂け目から最初に現れたのは腕だった。
人間の女の腕。
だが、それは東雲の腕ではなかった。
東雲の腕は細く、華奢で長袖の制服の下に隠れていた。
しかし、今現れた腕はむっちりと肉付きが良く、皮膚は青白い燐光を放っていた。
その腕は人間の女の腕でありながら、人間の女の腕ではなかった。
迷宮の記憶の中に蓄積された、
数千数万の女たちの腕の中で最も官能的で
最も蠱惑的なパーツだけを選りすぐって再構成された、理想の腕。
男を誘い男を抱き、男を受け入れるためだけに設計された純粋な機能としての腕。
腕に続いて、脚が現れた。
太腿の付け根から足首まで無駄な肉の一切ない、
しかし痩せすぎてもいない、完璧な曲線を描いた脚。
その表面を覆う皮膚は、微細な鱗のような質感を持っていた。
鱗といっても爬虫類のそれではない。
もっと細かく、もっと滑らかで光の角度によって虹色に輝く。
魚でも爬虫類でもない、この迷宮独自の生命の形。
そして、胴体が現れた。
その胸には、巨大な乳房が二つ重力に逆らうようにして聳え立っていた。
先端の乳首は勃起し、桜色の乳暈が青白い肌の中で
異様なほどに鮮やかに浮かび上がっている。
腹部は引き締まり、その中心には深く縦長の臍が穿たれていた。
そして、両脚の付け根には人間の女と同じ形状の秘裂が、
しかし人間の女よりもはるかに露骨にはるかに蠱惑的に、口を開けていた。
顔は、なかった。
正確には、顔にあたる部分には何もなかった。
のっぺらぼう。
目も鼻も口もない、ただの曲面。
だがその曲面の中央に、縦に一筋の線が走りそれがゆっくりと開いた。
それは口だった。
縦に開く口。
人間の顔の構造を無視した、異形の口。
その口の中には人間の歯とは異なる、無数の微細な突起が並んでいた。
それは咀嚼のための歯ではなく、吸引のための器官だった。
獲物の精気を魔力を、体液を残らず吸い尽くすための、生きた搾乳機。
「……魔獣」
私の唇が、震えながらその言葉を形作った。
そうだ。これが魔獣だ。
地下迷宮の深層に潛む、自然発生したモンスター。
魔力を帯びた環境に適応し、独自の進化を遂げた捕食者。
教科書で読んだ通りの定義が、
今、私の目の前で産声を上げようとしていた。
だが、教科書の記述はこの悍ましさの百分の一も伝えてはいなかった。
魔獣は、単なるモンスターではない。
この迷宮は人間の女を苗床にして、
より官能的でより
蠱惑的な捕食形態を生産しているのだ。
東雲を吸収して産み出された魔獣は
壁面から完全にその身を引き剥がすと、ゆらりと立ち上がった。
身長は私よりも頭一つ分高い。
全裸の肢体は、完璧な曲線美を誇りながら
その皮膚のあちこちに苔の斑紋を残していた。
それは入れ墨のようにも見え、
あるいは発情期の動物の婚姻色のようにも見えた。
魔獣は、顔の中央に開いた縦長の口から細長い舌を伸ばした。
舌は二股に分かれ、それぞれの先端が独立した意思を持つかのように蠢いている。
その舌が、私の方向に向けられた。
いや私ではない。
私の背後で膝をついている橘に向けられていた。
魔獣が、一歩、踏み出した。
その足音は、湿った床の苔を踏みしめるぐちゅ、という淫靡な響きを伴っていた。
裸足の足裏が苔と粘液を踏むたびに、ぐちゅぐちゅ、と音がする。
その音はまるで交尾の最中の濡れた秘所が立てる水音に酷似していた。
魔獣は、歩くことそのものがすでに性的な行為であるかのように、
一歩一歩をゆっくりとしかし確実に、橘へと近づいていく。
「くっ……!」
橘が薙刀を構えようとした。だがその動きはあまりにも緩慢だった。
空気中の媚薬が彼の運動神経を蝕んでいる。
それだけではない。
床から伝わる脈動が、彼の太腿の内側を執拗に振動させ
下半身の随意筋を麻痺させていた。
薙刀の柄を握る指は震え、切っ先は定まらない。
「橘、逃げて!」
月城が叫んだ。
だが、橘は動けなかった。
いや動かなかった。
彼の目が、魔獣の身体に釘付けになっていたからだ。
恐怖と同時に、そこには明らかな欲情があった。
完璧な曲線を描く腰。
たわわに実った乳房。
そして、顔のないのっぺらぼうという異形性が逆説的に、
彼の雄としての征服欲を掻き立てていた。
犯したい。
あの異形の女体を、自分の手で組み敷き蹂躙したい。
そんな倒錯した欲望が、彼の瞳の奥に燃えていた。
魔獣が、橘の目の前で立ち止まった。
その手が、橘の頬に触れた。
長く細い指。
人間の女の指だが、第一関節から先がわずかに膨らみ
その先端には吸盤のような器官が形成されていた。
その指が、橘の頬をまるで恋人のように優しく撫でる。
「……ぁ」
橘の口から、声にならない声が漏れた。
魔獣の指が、橘の首筋を伝い鎖骨の窪みをなぞり、そして彼の制服の前を寛げていく。
ボタンが一つ、外れた。
また一つ外れた。
魔獣の指先の吸盤が、ボタンを吸い付くようにして外していく。
その動作は、驚くほど手慣れていた。
迷宮に蓄積された数千数万の女たちの記憶が、男の服の脱がせ方を完璧に把握しているのだ。
橘の胸元が露わになる。
鍛え上げられた胸筋が、青白い燐光に照らし出された。
魔獣は顔のないのっぺらぼうを橘の胸に近づけると、
その縦長の口を橘の左胸の乳首に吸い付かせた。
「うあっ……!」
橘の身体が、びくん、と跳ねた。
魔獣の口の中の無数の微細突起が、橘の乳首を一斉に刺激する。
吸引と同時に極細の針のような突起が皮膚に突き刺さり、
直接、彼の魔力回路に干渉してくる。
魔力を吸われているのだ。
それだけではない。
魔獣の唾液には、強力な媚薬成分が含まれていた。
傷口から直接血流に乗った媚薬が、
彼の全身を駆け巡り理性の残滓を根こそぎ溶解していく。
「あ、あぁ……!」
橘の声が、苦悶から歓喜へと変貌するまで、わずか数秒だった。
彼の手から薙刀が滑り落ちた。
金属音は、苔の床に吸収されてほとんど聞こえない。
橘の両手が、魔獣の背中に回された。
拒絶するためではない。
抱き寄せるためだ。
彼は、自ら進んで魔獣の身体を抱きしめ
その豊満な乳房を自分の胸板に押し付け、もっと深くもっと強く、
己の精気を吸い尽くしてほしいと願うように、魔獣の背中に爪を立てた。
魔獣の口が、橘の乳首から離れた。
その口元からは、透明な唾液と橘の血液が混ざった薄紅色の粘液が糸を引いていた。
魔獣は、顔のないのっぺらぼうを今度は橘の腹部へと移動させる。
臍の窪みを舌でなぞり、脇腹の筋肉の溝を吸盤の指で撫でそして、
彼のベルトの留め金に指をかけた。
「……やめ……」
橘の口が、かろうじて拒絶の言葉を紡いだ。
だがそれは拒絶ではなかった。
彼の両手は、いまだに魔獣の背中に回されたままだ。
彼の腰は、魔獣の指の動きに合わせてわずかに浮いていた。
それは、抵抗ではなく期待だった。
魔獣は、橘のズボンと下穿きを一息に引き下ろした。
露わになった彼の剛直は痛ましいほどに勃起していた。
先端からは透明な我慢汁が溢れ、青白い燐光を反射しててらてらと光っている。
魔獣は、顔のないのっぺらぼうを橘の股間に近づけると、
その縦長の口を大きく開き橘の剛直を根元まで一気に咥え込んだ。
「ぐぅっ……!」
橘の身体が、弓なりに反り返った。
魔獣の口腔内は人間の女のそれとは根本的に異なっていた。
無数の微細突起が、橘の陰茎の表面を万遍なく刺激する。
舌は二股に分かれて絡みつき、
陰嚢にまでその先端を伸ばして優しく
しかし執拗に愛撫する。
そして何より、吸引圧が凄まじかった。
魔獣の口腔はそれ自体が一個の搾精装置だった。
橘の精気が、魔力が生命力が、
陰茎を通じて根こそぎ吸い上げられていく。
「あ、ああ……あああ……!」
橘の口から、嗚咽とも嬌声ともつかない声が迸る。
彼の両手は、もはや魔獣の背中ではなく魔獣の頭部を押さえつけていた。
やめてほしいのか、もっと深く咥えてほしいのか
彼自身にももはや区別がつかないのだろう。
彼の腰は、魔獣の吸引のリズムに合わせて無意識に前後に動き始めていた。
魔獣に犯されているのか、魔獣を犯しているのか。
その境界は完全に溶解していた。
やがて、橘の身体が、ぶるぶると震え始めた。
「イ、ク……イく……!」
絶頂の叫びが、迷宮の湿った空気に吸い込まれていく。
同時に、橘の陰茎から白濁した精液が勢いよく放出された。
魔獣は、その一滴も逃すまいとばかりに口腔内の吸引圧をさらに高め、
橘の精を残らず吸い尽くす。
彼の魔力も生命力も、遺伝子情報も、
すべてが魔獣の体内に取り込まれ
次の苗床となるべき新たな獲物を産み出すための養分へと変換されていく。
魔獣が口を離した時橘の剛直はまだ硬さを保っていた。
だが、その色は明らかに変わっていた。
生気を失い、青白くまるで死人のそれのように冷たく見えた。
魔獣の口腔内の突起に注入された何らかの成分が、
彼の陰茎を勃起させたまま死後硬直に近い状態に固定しているのだろう。
彼は、まだ生きている。
だがその生命力の大半は、すでに魔獣の体内に移っていた。
橘は、その場に崩れ落ちた。
意識はある。
だが、身体は動かない。
彼はただ呆然と、自分を蹂躙した魔獣の姿を見上げていた。
その目からは、涙が溢れていた。
悔しさか恐怖か、それとも快楽の余韻か。
おそらくそのすべてだった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
私は、その光景を、指一本動かせずに立ち尽くしていた。
恐怖はあった。
確かにあった。
だが、それ以上に、私の身体は別の感情に支配されていた。
股間が、熱い。
太腿の内側を生温かい液体が伝い落ちる。
空気中の媚薬のせいだけではない。
私は、橘が魔獣に精気を吸い尽くされる光景を見て、間違いなく興奮していた。
あんな風に何もかもを奪われたい。
あんな風に、何も考えずにただ快楽だけに身を委ねたい。
そんな倒錯した願望が、腹の底から鎌首をもたげていた。
「……増えてる」
月城の震える声が、私を現実に引き戻した。
彼女が指差す方向を見て私は息を呑んだ。
壁面のあちこちから、新たな隆起が生まれていた。
一つではない。
二つ、三つ、五つ、十。
数えきれないほどの苔の膨らみが
壁という壁を覆い尽くさんばかりに出現している。
東雲を苗床に産み出された一匹の魔獣だけではなかった。
橘の精気を吸い取ったことで、新たな苗床の生成が加速されているのだ。
壁面の隆起の一つが、ぴり、と裂けた。
中から現れたのは、先ほどの魔獣とは異なる形態の個体だった。
四足獣の体躯を持ち、背中には無数の触手が蠢いている。
その触手の一本一本が、独立した意思を持つかのように周囲の空気を探り、
そして床に崩れ落ちている橘の方向へと向けられた。
「……橘、逃げ……」
私の声が届く前に四足獣の触手が橘の身体に巻き付いた。
足首、手首、首、腰。
橘の全身が触手によって空中に持ち上げられる。
彼は抵抗する気力もなく、ただ人形のように四肢を垂らしていた。
四足獣は、
橘を自分の腹の下に引き寄せるとその腹部から新たな器官を突出させた。
それは、巨大な女性器そのものだった。
陰唇が花弁のように開き、内部の襞が複雑に蠢いている。
その器官が橘の腰に狙いを定める。
「や、やめ……」
橘の消え入りそうな声が迷宮の空気に溶けた。
四足獣の腹部器官が、彼の腰に覆い被さるようにして咥え込んだ。
ぐちゅ、ぐちゅという水音が、通路全体に響き渡る。
橘の身体が痙攣した。
私は、その光景を正視できなかった。
いや正視したくなかった。
なのに、目が離せなかった。
橘の表情が苦悶から徐々に蕩けていく様を、私は食い入るように見つめていた。
彼の口元が、うっすらと笑みの形を作る。
その笑みが何よりも悍ましく、そして何よりも美しかった。
「……これが、魔獣」
月城が、乾いた声で言った。
彼女の手から弓が滑り落ちた。
戦う意志を、完全に喪失したのだ。
彼女の目もまた潤み、その頬は紅潮していた。
彼女の太腿もまた、愛液で濡れていた。
それは私と同じだった。
私たちは、すでにこの迷宮の一部として取り込まれ始めている。
戦う理由も、逃げる理由ももはや見失いつつあった。
壁面の別の隆起が裂けた。
今度は人間の上半身と蛇の下半身を持つ魔獣が現れた。
その顔は、かつてこの迷宮で消えた女生徒たちのどれかに似ているようで、
しかし決定的に異なっていた。
目は縦に四つ並び、口は耳の位置まで裂けている。
その口からは、細長い舌がちろちろと出入りし、
空気中の魔力の濃度を感知していた。
さらに別の隆起からは、巨大な花のような魔獣が出現した。
花弁の一枚一枚が肉厚で、内側は鮮やかな紅色に染まっている。
花の中心部には、粘液で満たされた窪みがあり
そこから甘ったるい芳香が放たれていた。
その香りを嗅いだ瞬間、私の頭はさらにぼんやりと霞んでいく。
これは、誘引のフェロモンだ。
獲物をおびき寄せ花弁の内部に閉じ込め、
粘液で溶かしてしまう捕食植物型の魔獣。
「……きれい」
月城が、うっとりとした声で呟いた。
彼女はふらふらと花の魔獣に向かって歩き出している。
その足取りは、夢遊病者のようにおぼつかなく
しかし確固たる意志を持って、彼女を破滅へと導いていた。
「月城、だめ!」
私は彼女の手首を掴もうとした。
だが、私の指が彼女に触れるより早く
蛇女の魔獣が月城の身体に巻き付いた。
長大な蛇の下半身が、月城の華奢な肢体をぐるぐると締め上げる。
「あ……っ」
月城の口から苦しげな吐息が漏れた。
蛇の鱗は硬く冷たいかと思いきや、
触れた部分からじんわりと温かさが伝わってくる。
それは、爬虫類の体温ではない。
迷宮の体温だ。
三十六度をわずかに超えた、湿り気を帯びたねっとりとした温かさ。
その温かさが、月城の全身を包み込む。
蛇女の四つの目が、月城の顔を覗き込んだ。
裂けた口が開き細長い舌が伸びて、月城の頬を舐める。
その唾液には強力な麻痺毒と同時に、神経を過敏にする成分が含まれていた。
痛覚と快楽の閾値を操作し、苦痛を快楽へと変換する。
迷宮の魔獣たちの共通能力だ。
「ん……っ、は……ぁ……」
月城の表情から苦痛が消えた。
代わりに現れたのは、蕩けきった悦楽の色だった。
彼女の身体は蛇の締め付けの中で、しかし明らかに快楽に震えていた。
蛇の鱗の一枚一枚が、彼女の制服越しに肌を擦る。
その感触が麻痺毒で過敏になった神経を通じて、
爆発的な快感へと変換されているのだ。
蛇女は、月城の制服をその鋭い爪で切り裂いた。
胸元から臍まで、一直線に裂けた制服の下から月城の白い肌と、
まだ発育途上の慎ましい乳房が露わになる。
桜色の乳首は、空気に触れて硬く勃起していた。
「……や……見ないで……」
月城が、消え入りそうな声で言った。
それは私に向けられた言葉だった。
だが、その声には本気の拒絶は含まれていなかった。
むしろ、見てほしい。
自分の痴態を誰かに見られていたい。
そんな歪んだ願望が、その声の震えには込められていた。
蛇女の口が、月城の乳首に吸い付いた。
細長い舌が乳首に絡みつき、ちろちろと愛撫する。
同時に蛇の下半身の締め付けが、
月城の腰から太腿にかけてゆっくりと、しかし執拗に移動していく。
その動きはまるで巨大な手淫のように、彼女の全身をくまなく這い回った。
「あ……あぁ……! や、やめ……ちが……気持ち、いい……!」
月城の口からついに本音が漏れた。
彼女の両手は、蛇の鱗を撫で回しその冷たさと温かさの入り混じった感触を自ら求めていた。
彼女の腰は、蛇の締め付けのリズムに合わせて無意識に揺れ始めていた。
それは、交尾の動きそのものだった。
花の魔獣が、月城と蛇女に近づいた。
その巨大な花弁が開き、内部の粘液で満たされた窪みが露わになる。
甘ったるい芳香が、さらに濃くなる。
花弁の一枚が月城の足首に触れた。
その感触は、湿ったビロードのようでありながら微細な吸盤で覆われており、
触れただけで皮膚に吸い付いて離れない。
「あ……あし……」
月城の足が、花の内部に引き込まれていく。
蛇女はそれを妨げなかった。
むしろ、月城の身体を花の方向へと誘導するようにその締め付けの方向を変えた。
蛇女と花の魔獣は、協力して獲物を捕食しているのだ。
月城の膝までが、花の内部に沈んだ。
粘液が彼女のスカートを溶かし、太腿の素肌に直接触れる。
その粘液は強力な消化液でありながら、
同時に神経を過敏にする成分も含んでいた。
皮膚が溶かされる感覚が、そのまま強烈な快楽へと変換される。
月城の身体は、溶かされながら同時に激しい絶頂に達していた。
「あ……あああ……! とけ、る……とけてる……! わたし、とけてる……!
きもち、いい……! とけるの、きもちいい……!」
月城の叫びはもはや悲鳴ではなかった。
それは、至上の快楽に酔いしれた狂喜の叫びだった。
彼女の太腿が、腰が、腹が、次々と花の内部に呑み込まれていく。
その間も、蛇女は彼女の上半身を愛撫し続けていた。
乳首を吸い、首筋を舐め耳朶を甘噛みする。
二匹の魔獣による同時捕食は、
獲物に逃げ場を与えないための戦術であると同時に、
獲物に最大限の快楽を与えるための配慮でもあった。
迷宮の魔獣たちは、ただ殺すのではない。
悦ばせながら溶かしながら、取り込むのだ。
最後に、月城の顔だけが花の外に残った。
彼女の目は、完全に蕩けきっていた。
口元にはだらしのない笑みが浮かんでいる。
彼女は、私を見た。
いや私の方向を見た。
その焦点は、すでに合っていなかった。
「……さき、いってる……から……」
それが、月城の最期の言葉だった。
彼女の顔が花の内部に沈み、肉厚な花弁が閉じる。
ぐちゅぐちゅ、という音が花の内部から聞こえた。
それは、彼女の身体が完全に溶解されている音だった。
私は、ただ立ち尽くしていた。
東雲は壁に呑まれ、魔獣に転生した。
橘は精気を吸い尽くされ四足獣の苗床にされている。
月城は花に溶かされ、その養分となった。
三人の仲間が次々と迷宮の一部へと変えられていく。
その光景を、私は指一本動かせずに見ていた。
いや、違う。
指は動いた。私の指は、確かに動いていた。
それは逃げるためでも、戦うためでもない。
私の右手は自分のスカートの中に忍び込んでいた。
私の左手は、自分の胸の膨らみを制服の上から揉みしだいていた。
私は、仲間が捕食される光景を見ながら自慰をしていたのだ。
その事実に気付いた時私は、笑った。
「……はは」
乾いた笑いが迷宮の湿った空気に吸い込まれていく。
私は、もう、戻れない。
戻りたくもない。
この狂った場所で、狂ったように快楽に溺れたい。
その願望だけが、今の私を動かしていた。
目の前で、新たな魔獣が産声を上げる。
壁面の隆起が次々と裂け、中から異形の捕食者たちが溢れ出てくる。
そのすべてが、私の身体を狙っている。
私の魔力を私の精気を、私の生命を根こそぎ奪い尽くそうとしている。
だが、私は、もう怖くなかった。
私は自らスカートを脱ぎ捨てた。
濡れそぼったショーツも脱ぎ捨てた。
制服のブラウスのボタンを外し、乳房を露わにした。
全裸になった私は両腕を広げ、
魔獣たちを迎え入れるように、一歩、前に踏み出した。
「さあ……私も……食べて……」
その瞬間、無数の触手が私の身体に絡みついた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
全身を包み込まれた感触は私が想像していたよりも、ずっと優しかった。
無数の触手は、それぞれが異なる温度と質感を持っていた。
ぬめった冷たいもの、
ざらついた熱いもの吸盤で吸い付くもの、
羽毛のように柔らかいもの。
それらが私の全身をくまなく這い回り、
私という一個の女体の感覚を余すところなく探り尽くしていく。
「……あ……あぁ……」
私の口から、ため息が漏れた。
触手の一本が私の口の中に侵入してきた。
それは細長く、表面は滑らかでほんのりと甘い味がした。
舌の上を這い回り、上顎の窪みをなぞり喉の奥まで侵入してくる。
嘔吐感はなかった。
代わりに、喉の粘膜から直接強力な媚薬が吸収されていく。
私の脳は、一瞬で真っ白に染まった。
別の触手が、私の乳房に絡みついた。
先端の吸盤が乳首に吸い付き、強力な吸引力で私の乳腺を刺激する。
まだ妊娠もしていない私の乳房から、母乳が滲み出た。
触手はそれを貪欲に吸い上げ、同時に私の乳首に鋭い快感を与え続ける。
「んっ……ふ……ぁ……!」
私は、口を塞がれたまま喘いだ。
よだれが口の端から溢れ、首筋を伝って鎖骨の窪みに溜まる。
さらに別の触手が、私の両脚を無理やりに開かせた。
露わになった秘裂に、最も太い触手が押し当てられる。
その先端は、男性器の亀頭のような形状をしており
ぬらぬらと光る粘液で覆われていた。
「……っ!」
触手が、私の内部に侵入してきた。
処女膜などとうの昔に自転車か何かで破れていた。
だから痛みはない。
あるのは、圧倒的な充実感だけだ。
触手は私の膣内をぐちゅぐちゅと音を立てて進み、子宮口にまで到達した。
そしてその先端が、子宮口をこじ開けるようにしてさらに奥へと侵入する。
「お"っ……!?」
子宮が、触手で満たされた。
その感覚は痛みでもなく、苦しみでもなく
ただひたすらに「満たされている」という根源的な充足感だった。
私の子宮は、待っていたのだ。
誰かの子を孕むために。
何かの苗床になるために。
それが、女という生き物の根源的な機能であることを、
私の身体はとうの昔に理解していた。
ただ理性がそれを否定していただけだ。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
神崎葉月という女は、要するに「中途半端な生き物」だった。
破軍学園に入学した三年前、彼女の評価はCランク下位。
悪くはない。だが良くもない。
魔導騎士の世界においてCランク下位とは、すなわち「凡才の中の凡才」であり、
努力次第でBランクに届くかもしれないし、
怠惰でDランクに転落するかもしれない、まさに崖っ淵の立ち位置である。
彼女は転落した。
二年次のランク戦で負け越し、Dランクへと降格。
それ以来、学内序列は千位台で停滞している。
停滞、という言葉は正確ではない。
沼に沈んでいるのだ。足を掻いても掻いても底がない。
むしろ掻けば掻くほど、泥が指の間から入り込んできて、足はより深く沈んでいく。
そんな彼女が見つけた生き方が、地下迷宮の案内役だった。
第一層のみ。
それより深くは行かない。行けない。
彼女の実力では第二層の魔獣に対処することは不可能だ。
だが第一層なら、知識と経験だけで案内が務まる。
毎年のように迷宮に挑む新入生や落第生たちを第二層の入り口まで導き、そこで手を振って帰る。
それが彼女の役割であり、同時に彼女が破軍学園に留まり続けるための唯一の免罪符だった。
年間三桁の死者・再起不能・行方不明者。
その数字の中に、彼女の名前が含まれていないのは、
ひとえにこの「案内役」という立ち位置のおかげである。
だが、立ち位置は免罪符であっても、無罪の証明ではない。
彼女は知っている。
第一層の空気が、年々濃くなっていることを。
三年前はただの湿気だった空気が、今は明確に甘い。
苔の燐光が、以前よりも明るくなっている。
壁面の脈動が、以前よりも規則的になっている。
迷宮は、成長している。ゆっくりと、しかし確実に。
まるで胎内の胎児が日々大きくなるように。
そして彼女自身も、変化している。
三年前、初めて第一層の案内を務めた時、彼女は何も感じなかった。
湿気が鬱陶しいくらい。苔が気味悪いくらい。
それだけだった。
だが二年目から、変化が現れた。
案内を終えた後、寮の部屋に戻っても、壁面の苔の感触が掌に残るようになった。
洗っても洗っても落ちない。
寝る時に目を閉じると、燐光の残像が瞼の裏に浮かぶ。
そして、無意識のうちに、その残像を見つめている自分に気付く。
三年目の今年。
彼女は、ついに自覚した。
自分は、第一層の空気を吸い込むことが、嫌いではないのだと。
いや、嫌いではない、などという生易しいものではない。
好いているのだ。
あの甘く濃厚な空気が肺の中に入り込んでくる瞬間、
あのねっとりとした湿気が肌に張り付く瞬間、
あの苔の燐光が網膜を染める瞬間。
そのすべてが、
彼女の身体の奥底──正確に言えば子宮の裏側あたり──に、微かな痒みを起こすのだ。
痒み。
それは、掻きたくても掻けない場所の痒み。
指が届かないほど深いところで、何かが目覚めつつあるという予兆。
彼女はそれを「魔力圏の過給反応」として説明していた。
破軍学園の主任教官・美作弥吉の理論を借りれば、
羞恥心や不快感が魔力エンジンのブースターになるのと同じように、
迷宮の空気が魔力回路を刺激し過給を行っているのだ、と。
だが、その説明は嘘だった。
彼女は知っている。
自分が、迷宮の空気を吸い込むたびに、太腿の内側が湿るのを知っている。
案内を終えて寮に戻った後、シャワーの湯が肌に当たるだけで腰が砕けるのを知っている。
夜、布団の中で無意識に指が股間に伸びるのを知っている。
神崎葉月は、Cランクの案内役として迷宮の入り口に立ち続けることで、
徐々に、しかし確実に、迷宮に飼われている。
身長百六十二センチ。破軍学園の女子生徒の中では中程度。
だが、その肉付きは中程度ではなかった。
彼女の肢体は、どこから見ても「十分に育っている」の一言に尽きた。
三年間の迷宮案内で培われたのは戦闘経験ではない。
迷宮の湿気と魔力干渉を全身で浴び続けた結果としての、肉体的な成熟だ。
制服のブラウスは、胸元で辛うじてボタンを保持していた。
彼女の乳房は、一年前には掌程度に収まっていたはずだが、
現在はその境界線を危うく越えている。
いや、越えている。
ブラウスの生地は胸の膨らみに引っ張られ、ボタンの間からは肌の白さが覗く。
破軍学園の制服が「乳袋」仕様であることを考慮しても、
彼女の膨らみは仕様の許容範囲を超えていた。
これは、迷宮の魔力が乳腺を刺激し続けた結果だと推測している。
正確な医学的根拠はない。
だが、迷宮の空気を吸い込むたびに乳首が硬く勃起し、
ブラウスの生地に擦れるたびに微かな快感が走る事実は、
何らかの因果関係を示唆していた。
ウエストは細い。
異常なほどに細い。
彼女の食生活が特別に管理されているわけではない。
だが、迷宮の空気を浴びるたびに、腹部の皮下脂肪がまるで融解するように減っていく。
代わりに、その脂肪は臀部と胸部に移動しているかのように見えた。
三年前の入学時には平坦だった腹部は、今はうっすらと縦の筋が浮き、
その両側に柔らかな窪みが形成されている。
臍は深く、その底に指先を差し入れると、
身体の奥底で何かがきゅ、と収縮する感覚がある。
臀部は、制服のスカートの裾からはみ出さんばかりの質量を誇っていた。
スカートの丈が膝上十センチであることを考慮しても、
彼女の臀部の曲線は裾のラインを著しく超過している。
歩くたびにスカートの裾が揺れ、
太腿の付け根から臀部の下端にかけての柔らかな曲線が、見え隠れする。
それは、破軍学園の制服デザインの意図を、
意図以上の成果をもって体現していると言えた。
太腿は太い。
だが、それは決して不健康な太さではない。
むちむちとした、皮下脂肪と筋肉の絶妙なバランスによって形成された、
安産型と呼ぶにふさわしい質量の太さだ。
太腿の内側、歩くたびに互いに擦れ合う部分は、
制服のスカートの裾よりもさらに奥に位置するため、通常は隠れている。
だが、階段を降りる時や椅子に腰掛ける時に、
その白く柔らかな肌が一瞬だけ覗く。
その一瞬の覗きが、男子生徒の視線を無意識のうちに捕らえて離さない。
肌は白い。
病的なほどに。地下迷宮の案内役を務める者は、
日中を迷宮の内部で過ごすことが多いため、日照に触れる機会が少ない。
その結果、彼女の肌は雪のように白く、
そして迷宮の湿気によって常に薄い汗ばみを帯びている。
その汗ばみは、肌にぬめりを与え、
触れれば指が吸い付くような質感を生み出していた。
掌は小さく、指は細い。
だが、その指先は常に微細な粘液の膜に覆われている。
三年間の迷宮案内で、壁面の苔に触れる回数は数えきれない。
そのたびに指先に付着した苔の分泌液は、洗っても完全には落ちず、
指紋の溝に微量の成分が残留し続ける。
その残留成分が、指先の感覚を異常なまでに鋭敏にしていた。
自分の指先で自分の肌を触れるだけで、電流が走るような快感がある。
彼女は、この事実を誰にも告げていない。
髪は黒く、肩甲骨の中ほどまで届く長さ。
普前は無造作に下ろしているが、迷宮案内の際は一本のポニーテールに束ねる。
そのポニーテールは、歩くたびに背中の中程で揺れ、
その動きに合わせて首筋のほつれ毛が頬を撫でる。
そのほつれ毛が頬を撫でる感触が、迷宮の空気に含まれる媚薬成分と相まって、
微かな興奮を誘うことを、彼女自身は自覚している。
唇は薄い。
だが、薄い唇の端には常に微かな湿り気があり、
それが唇に不釣り合いな艶を与えている。
その湿り気は、彼女が無意識のうちに舌で唇を舐める癖があるからだ。
迷宮の空気を吸い込むと、口の中が乾く。
乾きを癒すために舌を出す。
その動作が、男たちの視線を彼女の唇に釘付けにする。
彼女はそれを知っている。
知っていて、止めない。
あるいは、止められない。
瞳は茶色。
だが、迷宮の燐光を浴びると、その茶色の中に琥珀色の輝きが宿る。
それは、猫の目が暗闇で光るのにも似た、夜行性の捕食者の瞳だった。
だが彼女は捕食者ではない。
捕食者の目を持った、被捕食者だ。
その瞳の奥には、恐怖と期待が表裏一体となった危うい光が常に宿っている。
[#・]
下級生たちは、私が案内した場所で散った。
東雲結衣は壁面の苔に同化し、魔獣の苗床として再構成された。
橘邑希は精気を吸い尽くされ、四足獣の腹の下で動かない肉塊と化した。
月城紗雪は花の魔獣に溶かされ、花弁の中で消化され尽くした。
そして──名も告げぬDランクの槍使いは、
自ら服を脱ぎ捨てて全裸になり両腕を広げて魔獣たちを迎え入れた。
私が案内したのだ。
私が第二層の入り口まで導いたのだ。
私が「壁に触れるな」「苔に触られると気持ちよくなる」と忠告しながら、
その忠告の裏で自分自身が迷宮の空気を好いていることを隠していたのだ。
四人の下級生が迷宮の餌になったのは、ひとえに私の案内の結果である。
その事実は、私の胸骨の裏側を冷たい指で撫でるように痛んだ。
だが、痛みは、すぐに別の何かへと変質した。
迷宮の空気は痛みさえも快楽へと変換する。
後悔の念が腹の底を這い回るうちに、いつしかそれは微かな疼きへと変わり、
疼きはやがて子宮の奥底でくすぶる熱へと変わっていった。
ごめんね。
謝罪の言葉は、迷宮の湿った空気に溶かされて誰にも届かなかった。
いや届かなかったのではない。
届けるつもりがなかったのだ。
私は謝りながら、同時に思っていたのだ。
あの子たちが蹂躙される光景を、私はどこかで期待していたのだと。
三年間の迷宮案内で培われたのは知識ではない。
三年間で私の身体に刻み込まれたのは、
迷宮の空気を吸い込むたびに子宮が疼くという生理的事実だった。
そして、その疼きが何を意味するのかを、私は正確に理解していた。
私は、見たかったのだ。
誰かが迷宮に食われる瞬間を。
自分以外の人間が、
あの苔に這い回され、
あの粘液に溶かされ、
あの魔獣に貪られる瞬間を。
それを見ることで自分がまだ安全な位置にいることを確認したい、
という卑劣な安全欲求。
それ以上に、純粋にその光景に興奮していたという倒錯した嗜好。
三年間の迷宮案内は私をそういう女に育てた。
下級生たちが散った後の通路は静かだった。
魔獣たちは獲物を消化し終えると、それぞれ壁面の苔の中へと戻っていった。
まるで胃壁の絨毛が消化物を吸収し終えて再び平坦に戻るように。
迷宮は食事を終え静かに蠕動を再開しているだけの巨大な消化器官に過ぎなかった。
私は一人残された。
第一層と第二層の境界あたりの通路に、立ち尽くしていた。
来た道は閉じている。
だが第二層の奥へと続く道は、まだ開いている。
魔獣たちは消えた。
だがそれは奥へと引き上げただけだ。
迷宮の蠕動は止まない。
私を奥へ奥へと送り出す波動は、絶え間なく続いている。
戻れない。
進むしかない。
いや進むのか。
進んでどうする。
あの四人ですら第二層の入り口で散ったのに。
Cランク下位の私が、一人で第二層を突破できるわけがない。
だがここに留まっても、空気は濃くなる一方だ。
三年間で培った微かな耐性はある。
だがそれは、滴る媚薬を舐め続けて舌が麻痺したに過ぎない。
耐性などではない。
ただの感覚の死滅だ。
舌が麻痺しても喉は麻痺しない。
喉が麻痺しても肺は麻痺しない。
肺が麻痺しても子宮は麻痺しない。
子宮だけは、いつまでも敏感に、この空気の甘さを感じ取り続ける。
「……はぁ」
ため息が漏れた。
それはため息の形をした喘ぎ声だった。
私は壁に手をついた。
三年間で何度も触れた壁面の苔。
その感触はもはや私にとって他人の肌ではない。
自分の肌の延長のように馴染んでいる。
いや馴染んでいるのではない。
苔が私の掌の皮膚を浸食し、掌の感覚を書き換えているのだ。
三年前はただの湿気だった。
二年前はねっとりとした粘液だった。
一年前は温かさを感じた。
そして今、苔に触れると脈動が伝わってくる。
苔が脈動しているのではない。
苔の下の壁が脈動しているのだ。
そしてその脈動は
私の掌から手
腕へ手
腕から上
腕へ上
腕から肩へ
肩から鎖骨へ
鎖骨から胸骨の中央を通り、
乳房の裏側を経て、
腹筋の縦の溝を下降し
臍の底に到達し、
そこからさらに下へ下へと這い降りていく。
三年前には存在しなかった経路だ。
迷宮の魔力が三年かけて私の体内に敷設した専用回路。
苔の脈動を直接子宮に伝えるための、迷宮と私を結ぶへその緒。
私は、三年かけて迷宮に飼い慣らされていた。
「……あ」
子宮がきゅ、と縮んだ。
苔の脈動が子宮に届いたのだ。
それはオーガズムの前兆にも似た微細な収縮だった。
太腿の内側がじわりと熱くなる。
このままではいけない。
私は壁から手を離した。
掌に苔の粘液が糸を引く。
その糸が青白い燐光を受けて妖しく光る。
まるで私の掌が迷宮とへその緒で繋がっているかのような光景。
糸を断ち切るように掌を振る。
糸は切れた。だが掌の粘液は落ちない。
三年間で掌に染み込んだ苔の成分は、もはや洗っても落ちない。
それは私の皮膚の一部になっていた。
進むしかない。
私は第二層の通路へと足を踏み出した。
◆◆◆
通路は変わっていた。
下級生たちが散った後の第二層は、あの時よりも深くなっていた。
空気の密度が違う。
あの時は霧と言える程度の粘度だった空気が、今はもっと重い。
水に浸かっているのと変わらないほどの密度だ。
呼吸をするたびに口の中に粘液が入り込む。
それはもはや空気ではない。
液体だ。
迷宮は空気を液体に変えている。
第二層の環境が一段階深まったのだ。
四人の下級生を消化したことで迷宮が成長した。
養分を得て迷宮の子宮はさらに厚く
さらに湿り、さらに粘着質になったのだ。
「……んっ」
粘液を飲み込むたびに喉の奥から甘さが広がる。
三年間の被曝で鈍化した味覚でさえ、この濃度には抗えない。
甘い。濃厚な甘さ。
それは腐れかけの桃の甘さであり
同時に女の発情期の匂いであり
同時に精液の生臭さでもある。
それらすべてが混ざり合い煮詰められ濃縮された甘さ。
舌が痺れる。
唇が腫れる。
顎が弛緩する。
口の中の粘液を飲み込むたびに食道から胃へ胃から腸へと
媚薬成分が直接体内に侵入していく。
肺からの吸収より速い。
胃からの吸収は血管に直接乗るからだ。
太腿の内側が熱くなる。
子宮が疼く。
乳首が硬くなる。
「……だめ……」
独り言は誰にも聞かれない。
だからこそ正直な声が出る。
その声には抗おうとする意志と同時に
降伏したいという欲求が半々に混じっていた。
◆◆◆
通路が開けた。
そこは第二層の奥深くに位置するドーム状の空間だった。
天井は見えない。
壁面は遥か彼方へと弧を描いて消えている。
ただ床だけが明確に存在した。
苔に覆われた床面は脈動し青白い燐光を放っている。
その光は全体として一つの巨大な脈動を形成しており
ドーム全体が迷宮の心臓のように収縮と拡張を繰り返していた。
ぼぉん。ぼぉん。ぼぉん。
低い振動音が空間を満たしている。
それは心音だった。
迷宮の心音。
一秒に一回。
人間の安静時心拍数と同じ。
迷宮は人間と同じリズムで脈動している。
それは偶然ではない。
迷宮が人間を喰らうことでそのリズムを獲得したのだ。
私は空間の中央に立った。
迷宮の心臓の真ん中に立っている。
振動が足の裏から全身を駆け上がる。
さっきまでとは比べ物にならない強度だ。
足の裏から踵へ踵から膝裏へ膝裏から太腿の内側へ
そして直接子宮へ。
迷宮の心音が子宮に直接響く。
「あ……あぁ……」
膝が震えた。
快感だ。
純粋な快感だ。
何も触れられていないのに立っているだけでこの快感。
迷宮の心臓の上に立っているだけで
全身が愛撫されているような感覚。
それは実際に愛撫されていた。
迷宮の振動が空気中の粘液を波動として伝え
その波動が制服を透過して肌に直接触れているのだ。
波動は制服の下の肌を万遍なく撫で回している。
胸の膨らみを下から持ち上げるように。
腹の窪みをなぞるように。
臀部の曲線を包み込むように。
そして太腿の内側から股間へと直接触れるように。
「んっ……!」
背筋が反った。
波動が股間に到達した瞬間、クリトリスが直接振動したのだ。
制服越しに。
ショーツ越しに。
それでも確かに振動した。
迷宮の心音が私の身体の中で
最も敏感な部分だけを狙って響いている。
三年間で迷宮は私の身体を学習したのだ。
私の魔力回路を通じて。
私がどこで快感を感じどこで疼きどこで濡れるか。
三年間の案内役として迷宮と接続していた時間は
迷宮にとって私という個体を完全に把握するための準備期間だったのだ。
そして今迷宮はその蓄積された知識を総動員して私を攻めている。
「や……やめ……」
腰が揺れた。
揺らしたかったわけではない。
波動が腰を揺らせたのだ。
私の身体は迷宮の心音に同調し始めている。
心音に合わせて子宮が収縮し
収縮に合わせて腰が揺れ
腰の揺れに合わせて太腿が擦れ合う。
私は迷宮の心臓の上で自ら交尾のダンスを踊らされている。
「あ……あぁ……だめ……こんな……」
制服のブラウスが乳首を擦るたびに電流が走る。
スカートの裾が太腿の内側を揺れるたびに火照る。
ショーツの布地が股間に食い込むたびに濡れる。
すべてが迷宮の心音に同期している。
私の呼吸も。心拍も。子宮の収縮も。太腿の震えも。
同調。
完全なる同調。
三年かけて迷宮は私との同調を準備し今それを完成させようとしている。
◆◆◆
その時空間の奥から影が出た。
影ではない。実体がある。
だがあまりにも巨大なため最初は壁面の凹凸かと思った。
影はゆっくりと輪郭を明確にしてきた。
三メートル。
その高さに私は息を呑んだ。
人間ではない。
だが人間の形をしている。
二本脚で立ち二本の腕を持つ。
頭部があり肩があり胸がある。
しかしすべてが人間より遥かに大きく
遥かに厚く
遥かに濃密だった。
異形の鬼。
それ以外の呼び名が見つからなかった。
肌は苔と同じ青白色だが苔より遥かに密度が高い。
筋肉の繊維一本一本が見えるほど引き締まりその繊維の一つ一つが
人間の拳大あるいはそれ以上に太い。
血管が浮き上がり血管の中を流れる液体まで見えるほど
皮膚は薄い部分と厚い部分が不規則に分布している。
肩幅は私の身長ほどあるだろうか。
胸板は分厚くその表面には人間にはない余分な骨格が肋骨のように並んでいる。
腹部は岩のような腹筋で構成され臍にあたる部分には深い孔が開いている。
そこから微かに青白い光が漏れていた。内臓自体が燐光を放っているのだ。
腰から下は太腿が樹幹のように太く膝から下は逆関節のように曲がっている。
人間ではない。
だが獣の脚でもない。
この脚は人間の女を受け入れるために設計された股関節の可動域を持っていた。
背中には巨大な瘤が二つ左右に対称して隆起していた。
それらは時々びくんびくんと痙攣している。
まるで未成熟の翼かあるいは過剰な乳腺組織か。
顔はあった。
だが人間の顔ではなかった。
額から二本の角が生えている。
角は螺旋状に捻れ先端は鋭く尖っている。
目は三つ。
正三角形を描くように配置された三つの瞳はすべて金色だった。
猫のように縦長の瞳孔を持ち暗闇の中でぎらりと光る。
鼻は平坦で鼻孔だけが二つ開口している。
口は人間より遥かに大きく耳元まで裂けている。
唇は厚く紫色でその隙間から人間の歯より
遥かに大きく尖った歯並びが覗いている。
だが最も異形なのはその股間だった。
人間の男と同じ形状の器官を持っていた。
だがその大きさは人間とは比較にならない。
太腿の付け根から垂れ下がる剛直は未だ勃起していない状態でも
私の腕ほどの太さがあり長さは膝に届かんばかりだった。
先端の亀頭は拳大で表面には人間にはない微細な突起がびっしりと並んでいる。
陰嚢は西瓜ほどの大きさで内部で何かが蠢いているのが皮膚越しに見える。
そしてその剛直の根元から下にかけて人間の女と同じ形状の秘裂が併存していた。
両性具有。雄と雌の器官を同時に持つ異形。
それは迷宮が人間を苗床にして産み出した魔獣の中でも
高位に座する最上位個体であることを示していた。
「……」
私はその異形を見上げた。
三メートルの巨躯を見上げるためには首を限界まで反らさねばならない。
首筋が露わになる。
その首筋に迷宮の心音が直接振動する。
首筋から耳の裏へ耳の裏から側頭部へ波動が伝わる。
頭の中でぼぉんぼぉんという音が反響する。
異形の鬼は動かなかった。
三つの金色の瞳が私を見下ろしている。
ただそれだけだ。
だがそれだけで私の全身から汗が噴き出した。
冷たい汗ではない。
熱い汗だ。
発汗というより分泌だ。
私の身体はこの異形を見た瞬間に、
それが何であるかを本能で理解し自ら潤滑液を分泌し始めたのだ。
恐怖ではない。
恐怖は確かにあった。
三メートルの巨躯と拳大の亀頭と西瓜大の陰嚢を見て恐怖しない人間はいない。
だが恐怖と同時に何か別のものが私の中で沸き上がっていた。
好奇心ではない。
憧憬ですらない。
もっと根源的で名状しがたい衝動。
メスがオスを見た時のあの何か。
全身の毛穴が開き皮膚がざわめき子宮の奥底がきゅうと疼くあの感覚。
三年間迷宮で培った微かな感覚が今爆発的な強度で火を噴いている。
だめだ。これはだめだ。
理性が叫んだ。
三年間耐えてきた。
三年間迷宮の空気に耐え苔に耐え粘液に耐え媚薬に耐え
自らの身体が雌化していく事実に耐えてきた。
その三年間の耐性が今この瞬間すべて試されている。
異形の鬼が一歩踏み出した。
床面の苔がその巨躯を受け止めぐちゅりという淫靡な音を立てる。
その音は私が先ほどまで聞いていたすべての音より重く深く濃密だった。
巨躯の一歩は迷宮の子宮壁を揺るがすほどの重圧を持ちながら
同時に猫のような静かさを持っていた。
二歩目。三歩目。
近づいてくる。ゆっくりと。
必要がないのだ速く動く必要が。
この空間に入った時点で
獲物は逃げられないことを鬼は知っているのだから。
四歩目で鬼は私の目の前に立った。
見上げる。見上げる。見上げても見上げても頂が見えない。
腹筋の岩のような隆起が目の前にあり
その奥に胸腔の中で何かが鼓動する音が聞こえる。
鼓動といっても人間より遥かに低い周波数だ。
ぼぉん。ぼぉん。
それは迷宮の心音と同じリズムだった。
鬼と迷宮は同期している。
鬼は迷宮の子宮内部で生まれた上位個体なのだから当然だ。
[#・]
三つの金色の瞳が、私を見下ろしていた。
見下ろす、という表現は正確ではない。
あの巨躯からすれば、私は見下ろされるべき存在ですらない。
見下ろされるためには、まず認識されねばならない。
だがあの瞳には、認識という能動的な営為が存在しなかった。
そこにあるのは、反射だ。
鏡が目の前の物体を反射するように、鬼の瞳は私を反射しているだけだ。
壁の苔を反射するのと同じ程度の関心で。
足元の粘液を反射するのと同じ程度の軽蔑で。
鏡の中の私は、笑っていた。
三年間の案内役生活で培った、顧客対応用の笑み。
「壁に触れないでくださいね」と言う時の、営業用の笑み。
それが、私の顔に貼り付いていた。
鬼が動いた。
私に向かって、ではない。
ゆっくりと、その巨大な身体を反転させたのだ。
背を向けた。
私に。
三メートルの背中。
瘤の隆起。
岩のような筋肉の背丈。
そのすべてが、「おまえは相手ではない」と言っていた。
背中を向けた。
それは、戦闘において最大の侮蔑だ。
無防備な背中を晒すということは、
おまえの攻撃など我が皮膚を傷つけるに足りず、
おまえの存在など我が認識に値しない、という絶対的な格付けだ。
だが、それだけではなかった。
鬼の背中には、下腹部のあたりに、
あの両性具有の器官が垂れ下がっているのが見えた。
未だ勃起していない状態の、腕ほどの太さの、膝に届かんばかりの。
それが、歩くたびに左右に揺れる。
重たげに。
蕩けるような質量感で。
背を向けたのは、その器官を見せつけるためだった。
おまえにはこれを扱う資格がない。
おまえは、これを受け入れる値打ちがない。
メスとしても、最下層。
不完全な、
中途半端な、
勇気がなくて迷宮に潛ることもできず、
かといって表面に残る才もない、
旧式の案内人形に過ぎないおまえは、
これを見る資格すらない。
見る資格すらない。
そう言われていた。
私の奥底で、何かが裂けた。
三年間の案内役生活で培った、あの微かな、年々濃くなる痒み。
あの湿った、甘い空気を吸うたびに子宮の裏側を撫でられる感覚。
あれは、何だったのだ。
三年間の迷宮被曝で身体に刻まれた、
白い肌、
膨れ上がった胸、
重たくなった臀部、
常に湿る太腿の内側。
あれは、何のためだったのだ。
迷宮は、私を育てていたのではない。
迷宮は、私を、あの鬼の餌に育てていたのだ。
だが、鬼は、その餌すら認めていない。
「不完全なメス」は、鬼の食欲すら刺激しない。
私は、笑うのをやめた。
代わりに、別のものが口元に浮かんだ。
それは、三年前の入学式の日に、
私が自分の姿を鏡で見た時に浮かべたはずの、あの表情だった。
騎士になる。
誰にも負けない騎士になる。
Cランクなどという中途半端な枠に収まらず、自分の力で道を切り開く騎士になる。
そのはずの表情が、三年ぶりに、私の顔に戻ってきた。
笑いが込み上げてきた。
「あはは」
声に出して笑った。
乾いた笑いではない。
湿った笑いだ。
喉の奥から粘液を含んだ笑いが、迷宮の空気の中を伝播していく。
「面白い。あんた、私を舐めてる。メスとしても落第ってわけか。
Cランクの騎士としても、メスとしても、私は中途半端だって?
認めないよ。そんなの、認めるわけにはいかないんだよ」
右手を腰に走らせた。
腰に巻かれた赤銅色の縄。
固有霊装、緋縄(ひなわ)。
三年間、迷宮の魔力を吸い続け、
私の肌に密着し、私の肉体を雌化させ続けた、共犯者。
私は、その縄の端を掴み、引いた。
縄が腰から解ける。
三年間、一度も完全に解いたことのない縄が、初めて、私の肌から離れた。
その瞬間、私の全身に鳥肌が立った。
縄が肌から離れたことで、三年間蓄積されていた迷宮の魔力が、
一気に私の体内へと逆流してきたのだ。
それは、決壊したダムの濁流のような、濃密で粘着質な魔力の奔流だった。
三年間。
三年間、
この縄は迷宮の魔力を吸い、
私の身体に還元し続けていた。
だが、その還元は徐々に行われていた。
一滴ずつ。
一ミリリットルずつ。
ゆっくりと、私の身体が適応するペースで。
今、そのペースが崩れた。
縄が肌から離れたことで、蓄積された三年分の魔力が、
一瞬で私の体内に雪崩れ込んできたのだ。
「あッ……!」
熱い。
背骨が沸騰するような熱さ。
血管の中を粘液が駆け巡るような、重くて熱くて甘い感覚。
子宮が、痙攣した。
三年間で少しずつ馴らされていた子宮が、
一気に三年分の魔力を注入され、きゅうきゅうと収縮を繰り返す。
太腿の内側が、濡れた。
以前の「湿り」ではない。
汁が滴っている。
三年分の媚薬成分が一気に作用し、
私の身体は麗妃調教済みのメスのように、開放された。
だが、私は立っていた。
膝は折れなかった。
折れなかったのは、怒りが支えていたからだ。
この魔力は、私を雌化させるためのものではない。
この魔力は、私があの鬼を喰らうための、三年間の貯金だ。
「あんたね、勘違いしてる」
私は、鬼の背中に向かって言った。
声は震えていた。
快感で震えていた。
だが、言葉は震えていなかった。
「迷宮は、私をあんたの餌に育ててたんじゃない。
迷宮は、私に、あんたを喰わせるために、三年かけて餌を用意してたんだよ」
緋縄が、私の右腕に絡みついた。
三年間、私の腰に巻かれていた縄が、今度は私の腕に巻き付いている。
その縄は、以前よりも赤かった。
三年間の迷宮魔力を吸い続けたことで、縄の赤銅色は深紅に変化していた。
血のような赤。
処女の血のような、鮮やかで生々しい赤。
縄の表面の微細な棘が、私の腕の皮膚に突き刺さる。
痛い。
だが、その痛みは快感だった。
縄の棘が溶け、粘液となり、私の腕の皮膚から直接魔力回路に介入してくる。
三年間で熟知した感覚。
だが、今回は私が縄を操っている。
縄の魔力を、私の意思で制御する。
「緋縄縛(ひなわしばり)」
私の唇が、その技名を紡いだ。
三年間、一度も自分のために使ったことのない技。
他人を縛るための技が、今、私自身の武器となって、鬼に向けられる。
縄が伸びた。
赤い蛇のように、空気中を滑る。
粘着質な空気の中を、縄は水を切るように高速で飛び、鬼の背中に巻き付いた。
「ッ……!」
鬼が、初めて声を上げた。
それは獣の咆哮であり、同にして人間の驚愕だった。
鬼が振り返る。
三つの金色の瞳が、私を見た。
今度は、反射ではない。
認識だ。
ようやく、私を認識した。
だが、その認識は「敵」のそれではなかった。
鬼の三つの瞳に浮かんだのは、純粋な好奇心だった。
足元の粘液が突然動き出した時のような、
あるいは壁面の苔が予想外の形状に成長した時のような、捕食者の好奇心。
面白い。
あんた、面白いメスだ。
そう言っていた。
「面白いだと?」
私は笑った。
もう営業用の笑みではない。
歪んだ、引き攣った、だが確かに騎士の笑みだった。
「面白いんじゃない。私は、あんたを喰らうと言ってるんだ」
緋縄が鬼の背中に巻き付く。
縄の粘液が鬼の皮膚に触れた瞬間、縄の吸血機能が発動した。
三年間、迷宮の魔力を吸い続けた縄は、今度は鬼の魔力を吸い始めた。
鬼の魔力は、迷宮の魔力とは比較にならないほど濃厚だった。
縄が鬼の魔力を吸い取るたび、その魔力は縄を通じて私の体内に流入してくる。
三年分の迷宮魔力の逆流すら上回る、灼熱の魔力が、私の身体を満たしていく。
「あッ、ああッ……!」
熱い。
熱すぎる。
子宮が溶ける。
子宮が沸騰する。
下腹部の奥底で、何かが弾けた。
それは三年間の迷宮生活で私が唯一、
『私の矜持』
として保持し続けた、最後の防壁だった。
理性の堤防が決壊した。
三年間、徐々に侵食されていた堤防が、
鬼の魔力という濁流によって一瞬で押し流された。
だが、それは崩壊ではなかった。
決壊した水は、ただ流れるだけではない。
それは力だ。
濁流は、すべてを押し流す力だ。
私の理性は、堤防として機能することをやめ、濁流となって私の身体を駆け巡り始めた。
迷宮の魔力が、私を雌化させる。
鬼の魔力が、私を狂わせる。
だが、その二つの魔力が混ざり合った時、何か別のものが生まれた。
雌でもなく、騎士でもない。
捕食者でもなく、被捕食者でもない。
もっと根源的な、魔導的干渉の極致。
「魔導騎士……!」
私の口から、その言葉が迸った。
それは、三年前の入学式の日に誓った言葉であり、
三年間の迷宮案内で忘れかけていた言葉であり、
今、この瞬間、私の中で蘇った言葉だった。
緋縄が、さらに締め上がった。
鬼の魔力を吸い取る速度が加速する。
縄の表面の粘液が、鬼の皮膚を浸食し始める。
三年間、迷宮の苔が私の皮膚を侵食したように。
緋縄が、鬼の皮膚を侵食している。
鬼が、咆哮した。
三メートルの巨躯が、背を反らし、口を大きく開けて咆哮する。
その咆哮は、迷宮全体を揺るがした。
天井から粘液が滴り、壁面の苔が一斉に明滅し、床の脈動が乱れた。
だが、私は手を離さなかった。
緋縄を握る両手に、鬼の魔力が流れ込み、
私の指の骨がきしむほどの圧迫感を与えても、私は手を離さなかった。
「喰らう……!」
私は叫んだ。
その声は、もはや人間の声ではなかった。
迷宮の空気を震わせ、
壁面の苔を共鳴させ、
鬼の咆哮と重なり合う、異形の声だった。
私の身体は、熱かった。
鬼の魔力が、
私の全身を駆け巡り、
血管を焦がし、
筋肉を軋ませ、
子宮を満たしていく。
それは、快感だった。
かつてないほどの、圧倒的な快感。
三年間の迷宮被曝で知った微かな快感など、この前にかかれば塵に等しい。
だが、その快感は、私を雌にするためのものではない。
私は知っている。
この快感は、鬼の魔力を私の身体が受け入れている証拠だ。
受け入れているのではない。
取り込んでいるのだ。
消化しているのだ。
喰らっているのだ。
鬼の魔力を、私の魔力として変換している。
三年間、迷宮の魔力を縄を通じて吸収し続けた私の身体は、
魔導的な変換機として完成していた。
迷宮は、私を雌にするために三年かけて育てたのではない。
私に、鬼を喰らうための消化器官を育てていたのだ。
鬼の咆哮が、悲鳴に変わった。
鬼の皮膚に巻き付いた緋縄が、その表面の粘液で鬼の皮膚を溶解し始めていた。
三年間の迷宮魔力で鍛えられた縄の粘液は、
迷宮の苔が人間を分解するのと同じように、鬼の皮膚を分解し始めていたのだ。
「ああ……あああ……!」
私の口から、嬌声が漏れた。
それは、鬼の悲鳴と共鳴していた。
私が鬼を喰らうたびに、鬼が苦痛を叫ぶ。
その苦痛が、私に快感として伝わる。
緋縄を通じて、鬼の苦痛が私の快感に変換されているのだ。
倒錯。
狂気。
だが、これこそが魔導騎士の戦いだ。
相手の力を奪い、自分の力とする。
それが、固有霊装・緋縄の真の能力であり、神崎葉月という騎士の、真の姿だ。
三年間の迷宮案内は、そのための準備期間だった。
迷宮は、
私に餌を与え、
私の身体を育て、
私の魔力回路を鍛え、
そして今、最後の獲物として、この鬼を用意した。
鬼の抵抗が弱まった。
三つの瞳の光が、薄れていく。
巨躯が、ゆっくりと傾き始める。
私は、笑った。
三年前の入学式の日のように、
未来を信じていたあの頃のように、純粋に、笑った。
「いただきます」
私の唇が、その言葉を形作った。
それは、食事の前の挨拶であり、同時に、
三年間の迷宮生活の終わりの挨拶であり、
そして、真の魔導騎士としての、産声だった。
────
鬼が、金棒を顕現させた。
それは鬼の股間に垂れ下がっていた剛直とは別のものだった。
いや、別のものではなかった。
同じものが変質したのだ。
鬼の両性具有の器官のうち、雄の部分が膨張し硬化し、
そして変質した。
人間の男根に似た形状から、金属的な質感を持つ棍棒へ。
拳大の亀頭が鎌首をもたげた毒蛇のように膨れ上がり、
その表面の微細突起が鋭利な棘へと変化した。
螺旋状に捻れた角と同じ紋様が金棒の表面に刻まれ、
そこから青白い燐光が脈動するように漏れていた。
固有霊装だ。
鬼にも固有霊装があった。
三メートルの巨躯と両性具有の器官を持つ最上位個体は、
迷宮の苗床から産み出された魔獣でありながら、
同時に抜刀者としての資格を持っていた。
金棒の長さは鬼の身長に匹敵する。
三メートル。
鉄塊のような質量が、片手で軽々と振り上げられた。
「……は」
私は息を吐いた。
笑いが込み上げてきた。
笑い以外に何が出せというのだ。
三メートルの鬼が三メートルの金棒を振り回す。
私は百六十二センチの女が5メートルの縄を投げる。
何が違う。
何も違わない。
どちらも、
自分の身体の一部を武器にして、
相手を叩き潰そうとしている。
ただ、規模が違うだけだ。
規模の違いは、質の違いではない。
蟻が象に挑むのも、象が蟻を踏み潰そうとするのも、
本質においては同じ暴力の応酬だ。
違うのは一つだけ。
象は蟻を踏むことに何の感情も抱かない。
だが蟻は象に挑むことに全存在を賭ける。
その違いが、今の私には、
世界の重さの分だけ、
運命の質量の分だけ、
圧倒的に有利に思えた。
鬼の三つの金色の瞳が変わった。
反射から認識へ変わったあの瞳が、
今度は認識から標定へと変わった。
私を獲物として認識したのだ。
緋縄が鬼の皮膚を溶解し始めたことで、
鬼は私を「無視できない存在」として再評価した。
そして金棒を顕現させた。
それはすなわち、鬼が本気になったという証拠だ。
三メートルの巨躯を持つ最上位個体が、
百六十二センチの中途半端な案内役相手に、
本気で武器を取り、本気で殺しに来るというのだ。
光栄だ。
いや光栄などという上品な言葉ではない。
これは、全身の毛穴が開き、
乳首が硬く勃起し、
太腿の内側がじわりと濡れるような、
もっと生々しい感覚だ。
メスがオスに見定められた時の、
あの背筋が震えるような感覚。
だが今の場合、オスに見定められたのではない。
捕食者に見定められたのだ。
獲物として。
食べる価値のある肉として。
「いいよ。その目だ。その目だよ」
私は言った。
声は震えていた。
だが震えているのは恐怖だけではない。
震えの中には
恐怖と快楽と闘志が
三つ編みのように絡み合い、
ほどけることも
固まることもできない状態で共存していた。
「あんたは今、私を見た。反射じゃなく認識じゃなく
獲物として見た。それで十分だ。それだけで
私はあんたと同じ土俵に立った」
抜刀者とは何か。
魔導騎士とは何か。
それは、運命の重さに比例する魔力総量を持つ者に与えられる称号だ。
だが運命の重さとは何か。
それは、世界に与える影響力の大きさであり、
同時に世界から受ける圧力の大きさだ。
鬼は迷宮の最上位個体として世界に強い影響を与える。
私はCランクの案内役として世界にほとんど影響を与えない。
だが、今この瞬間、
私は鬼に影響を与えている。
緋縄が鬼の皮膚を溶かし、
鬼は金棒を顕現し、
鬼は私を獲物として認識した。
私の存在が鬼の行動を変えた。
これこそが運命の干渉だ。
これこそが魔導騎士の本質だ。
魔導騎士とは、結局のところ、
クダラナイ矜持に全てを注ぎ込める異常者なのだ。
私は自嘲した。
三年間迷宮に飼われながら最後まで飼い犬になりきれなかった。
それは忠誠心ではなく頑固さであり、
勇気ではなく臆病さの裏返しだった。
逃げるにも踏み出すにも中途半端な女が、
最後に選んだのが戦いだったなどというのは、
あまりにも英雄譚らしすぎて滑稽だ。
だが滑稽でいい。
滑稽こそが私の武器だ。
鬼は美しい。
三メートルの巨躯は完璧な対称性を持ち、
螺旋角は芸術的な曲線を描き、
金色の三瞳は捕食者としての威厳に満ちている。
完璧な捕食者。
完璧な暴力。
完璧な美しさ。
私は不完全だ。
百六十二センチの中途半端な身体。
三年間で雌化しただけの中途半端な肉体。
CランクからDランクに転落した中途半端な実力。
不完全な騎士。
不完全な暴力。
不完全な女。
だが不完全なものには隙がある。
隙は欠陥であり同時に可能性でもある。
完璧な鬼には隙がない。
隙がないということは可能性もない。
成長の余地がない。
だが私には成長の余地がある。
いや成長という言葉は正確ではない。
変質の余地がある。
三年間迷宮に浸され続けた私の身体は、
まだ完成していない。
まだ変わり続けることができる。
金棒が振り下ろされた。
空気が裂けた。
物理的に裂けたのだ。
金棒が通過した軌道に沿って、
粘液質の空気が真空の亀裂を形成し、
その亀裂が周囲の空気を巻き込んで爆発的な衝撃波となった。
衝撃波は壁面を薙ぎ払い、苔を剥ぎ取り、
通路の壁を露出させた。
剥ぎ取られた苔の下から現れたのは生の岩ではなく、
赤い筋肉のような有機質の壁面だった。
迷宮の皮膚が剥がれたのだ。
迷宮の皮膚の下から筋肉が露わになる。
その筋肉は赤く脈動し、傷口から透明な粘液──
迷宮の血液──が溢れ出していた。
私は衝撃波を浴びた。
受ける前に回避した。
いや回避できたのだ。
三年間の迷宮案内で培った勘は、
迷宮の内部での物理的変化に対する感知能力だった。
空気が動く前に気圧が変わる。
気圧が変わる前に壁面の苔が明滅する。
苔が明滅する前に床面の脈動が乱れる。
連鎖的な予兆の最も早い段階を感知して回避する。
それが三年間で私が無意識のうちに身につけた生存技術だ。
だが回避できても衝撃波は追ってくる。
空気中を伝播する衝撃波は粘液質の抵抗を受けて減衰するが、
それでも私の身体を横から叩いた。
「ぐっ……!」
身体が浮いた。
百六十二センチ五十二キロの身体が衝撃波一発で宙に浮く。
壁面に叩きつけられる前に緋縄を壁に打ち込み体勢を立て直した。
縄が壁面の苔に吸い付く。
その瞬間、縄の吸血機能が壁面から迷宮の魔力を吸い取り、
私の身体に還元される。
三年間で何百回もやった。
迷宮で足を滑らせた時、壁面に縄を打ち込んで体勢を立て直す。
そのたびに縄は迷宮の魔力を少しずつ吸い取っていた。
だが今は「少しずつ」ではない。
三年分の蓄積で縄の吸着能力は桁違いに強化されている。
一瞬の接触で吸い取った魔力は、
以前なら十分間分の吸収量に相当した。
「あッ……!」
熱い。
迷宮の魔力が私の体内に流入するたびに、
子宮がきゅうと縮む。
三年間で馴染んだ感覚だが、
今回の流入量は段違いだ。
子宮が痙攣する。
太腿の内側が痺れる。
だが痺れの中に快感がある。
この快感こそが私の燃料だ。
三年間迷宮が私に与え続けた媚薬は、
私を雌にするための毒ではなく、
戦うための興奮剤だったのだと、
今この瞬間私は信じることにした。
鬼が二度目の振り下ろしを放った。
今度は横薙ぎだ。
三メートルの金棒が水平線を描くように私の腰の高さを薙ぐ。
私は跳んだ。
跳んだというより跳ねた。
床面の苔を足裏で蹴った瞬間、
苔が弾力を持って私を上方へ押し上げた。
迷宮の子宮壁は柔らかい。
踏みつければ反発する。
その反発を利用して跳躍する。
迷宮の中で戦う以上迷宮自身を足場として使うのは当然だ。
空中で体勢を入れ替える。
鬼の横薙ぎを飛び越え、
鬼の背後へと回り込む。
緋縄を解き放つ。
赤い蛇が空中を滑る。
三年分の迷宮魔力を蓄えた深紅の縄は、
空気中の粘液を切り裂くように飛び、
鬼の左脚の膝裏に巻き付いた。
「緋縄縛!」
叫びとともに縄が締まる。
縄の表面の棘が溶け粘液となり鬼の皮膚に浸透する。
吸血機能が発動し鬼の魔力が縄を通じて私へと流入してくる。
「あぐ……ああッ……!」
熱い。
鬼の魔力は迷宮の魔力とは比較にならない濃度だ。
三年間の迷宮魔力で馴らされた私の魔力回路は、
鬼の魔力を受け入れることができる。
だが受け入れるたびに身体が沸騰する。
子宮が熱い。
子宮が熱いのに乳首も熱い。
乳首が熱いのに太腿も熱い。
全身が熱い。
戦っているのに興奮している。
戦っているから興奮しているのだと気付く。
これだ。
これこそが抜刀者の戦いだ。
暴力と快楽は表裏一体だと言ったのは誰だったか。
美作弥吉か。あの禿頭の教師長か。
「エロスは最強のブースターなのだ」と言ったあの男の言葉が、
今になって骨身に沁みる。
羞恥心が魔力を昂らせるなら、
戦闘における恐怖と快楽もまた魔力を昂らせる。
戦いながら濡れる。
濡れながら戦う。
それが魔導騎士の戦い方だとしたら、
私は三年間でその準備を完璧に整えられていたことになる。
鬼が脚を振り回して縄を振りほどこうとした。
巨躯の一撃は暴風を巻き起こし私の身体を吹き飛ばすのに十分だ。
だが私は手を離さなかった。
緋縄を握る両手に鬼の魔力が流れ込み
指の骨がきしむほどの圧迫感を与えても離さなかった。
その代わり縄の弾性を利用して
鬼の脚に巻き付いたまま身体を引き寄せた。
鬼の膝裏に張り付くようにして私の身体は鬼の左脚に密着する。
百六十二センチの私が三メートルの鬼の脚に張り付く様は、
まるで子供が親の脚にしがみついているかのように見えるだろう。
だがしがみついているのではない。
貪りついているのだ。
縄を通じて鬼の魔力を吸い取りながら、
同時に迷宮の心音と同調した私の子宮が、
鬼の脚から直接脈動を受け取る。
鬼の脚は迷宮の一部から産み出されたものだ。
鬼の脚もまた迷宮の脈動と同調している。
つまり私は今鬼と迷宮の両方から同時に魔力を供給されているのだ。
「あ……あぁ……! 熱い……熱いよ……!」
子宮が震える。
三年間で雌化した子宮は、
今、二つの供給源から魔力を注入され限界を超えようとしている。
限界を超えるとはどういうことか。
それは魔力回路の決壊であり、
同時に魔力回路の拡張でもある。
ダムが決壊すれば水は溢れるが、
溢れた水は新しい川を形成する。
私の中で三年間馴らされていた魔力回路が決壊し、
新しい回路が形成されようとしている。
だがそのプロセスは快楽を伴うものではなかった。
「ぎ……ッ……!」
痛い。
子宮が引き攣るような激痛が走った。
三年間で雌化した子宮は魔力を蓄える器としては優秀だが、
魔力を変換するエンジンとしては未完成だった。
迷宮の魔力は受け入れられる。
だが鬼の魔力は濃度が高すぎる。
未完成の変換エンジンに高濃度の魔力を流し込めば、
エンジンが焼き切れるのは当然だ。
焼き切れる。それは死だ。
魔導騎士としての死だ。
魔力回路が焼き切れれば二度と魔力は使えない。
Fランク以下への転落ではない。
抜刀者としての存在そのものが消滅する。
だめだ。このままでは本当に死ぬ。
吸い取りすぎだ。
鬼の魔力を吸い取る速度が私の変換能力を上回っている。
縄を緩めるべきか。
いや緩めれば鬼に反撃される。
手を離すべきか。
いや離せば三年間の準備が無駄になる。
私はどうすればいい。
答えは一つしかなかった。
変換能力を上げるしかない。
三年間で雌化した子宮という器を、
変換エンジンとして完成させるしかない。
どうやって。
三年間迷宮は私に答えを教え続けていたのだ。
迷宮の空気は媚薬だった。
苔は愛撫だった。
粘液は接吻だった。
それらすべては魔力回路を刺激し拡張するための準備運動だった。
そして今最後の仕上げとして鬼という高濃度魔力源が用意されている。
変換能力を上げるには、
子宮という器を限界まで開くしかない。
限界まで開くとはどういうことか。
それは雌としての本能を全開にすることだ。
恐怖を快楽へ変換する。
痛みを疼きへ変換する。
疼きを熱へ変換する。
熱を魔力へ変換する。
その変換回路こそが三年間迷宮が私に敷設した専用回路であり、
苔の脈動を子宮に伝えるへその緒だった。
私は目を閉じた。
閉じた瞼の裏で三年間の記憶が走馬灯のように流れた。
最初の年。湿気に鬱陶しさを感じたあの日。
二年目。苔の感触が掌に残り始めたあの日。
三年目。子宮の裏側に痒みが生じたあの日。
そして今日。
痒みは疼みに変わり疼きは熱に変わり熱は今魔力へと変わりつつある。
変換プロセスは完成している。
あとは私がそれを受け入れるだけだ。
受け入れる。
それは雌として屈服することではない。
雌として完成することだ。
騎士として戦いながら雌として快楽に溺れることこそが
神崎葉月という不完全な抜刀者の唯一完全な戦い方なのだ。
「……いいわ」
私は目を開けた。
目を開けた瞬間世界は変わっていた。
見える。見えるものが変わったのだ。
三年間迷宮で見えていたのは苔と燐光と粘液と暗闇だった。
それらはまだ見えている。
だが今はそれらの向こう側も見える。
苔の脈動一つ一つに含まれる魔力粒子が見える。
燐光の一粒一粒に含まれる情報量が見える。
粘液の中を流れる迷宮の血液そのものが見える。
そして鬼も見えた。
鬼の皮膚の下で流れる魔力経路が全て見えた。
三つの金色瞳から脳へ至る視覚神経の経路も、
両性具有の器官から全身へ分配される魔力供給ラインも、
金棒という固有霊装と鬼の身体をつなぐ接続端子も、
すべてが見えた。
「……見える」
東雲結衣が見ていたものを私は今理解した。
彼女は迷宮の記憶を見ていた。
だが私は迷宮そのものを見ている。
三年間迷宮に浸され続けた結果として、
私の索敵能力は東雲結衣とは異なる方向で覚醒したのだ。
彼女は記憶を見た。私は構造を見た。
見えるものは違う。だがどちらも「視る」ことには変わりない。
鬼の左脚に巻き付いた緋縄からさらに一本縄を伸ばす。
今度は脚ではなく金棒そのものに狙いを定めた。
金棒は鬼の固有霊装だ。
固有霊装とは使用者の魂の一部だ。
つまり金棒に触れることは鬼の魂に触れることだ。
縄が金棒に巻き付いた瞬間、鬼が咆哮した。
三メートルの巨躯が再び反り返り
三つの口から同時に咆哮が出るかと思えば一つの口から出ていた。
金色の瞳三つすべてが見開かれ瞳孔が針のように収縮した。
痛みだ。
鬼が痛みを感じている。
固有霊装への干渉は使用者にとって直接的神経痛に等しい。
縄の吸血機能が金棒から直接鬼のコア魔力を吸い取り始めた。
先ほどまで脚から吸い取っていたのは末梢魔力だ。
血管で言えば毛細血管から血液を吸い取るようなものだ。
だが固有霊装から吸い取るのは心臓から直接血液を抜くに等しい。
「あああああッ……!」
私の中に鬼のコア魔力が雪崩れ込んできた。
熱い。熱い。熱い。熱い。熱い。
五感すべてが熱一色に染まる。
子宮が沸騰する。
血管の中を溶鉄が流れる。
脳髄が焼ける。
骨髄が沸く。
そして快感。
全身全霊全身細胞全百兆個すべてが同時に絶頂したかのような快楽だった。
鬼のコア魔力が私の全身を駆け巡るたびに
魔力回路が焼け、拡張され、焼けそして拡張されを繰り返す。
「あ……あ……ああ……あああああッ……!」
声が出た。
嬌声だ。
戦場で嬌声を上げる騎士など聞いたことがない。
だが出ずにはいられない。
快感が大きすぎて声が出ずにはいられないのだ。
恥ずかしい。
恥ずかしいが止められない。
恥ずかしいからこそ魔力が昂る。
美作弥吉の理論通りだ。
羞恥心は最強のブースターだ。
戦いながら嬌声を上げる羞恥心が私の魔力出力をさらに押し上げる。
「イク……!」
私は叫んだ。
それしか言えなかった。
絶頂と魔力変換と戦闘続行が同時に同レベルで進行している状態で
理性のコントロールなど望むべくもない。
イくとは何か。
それは魔力回路の一時的決壊と再構築だ。
決壊と再構築は同時に起きる。
破壊と創造は表裏一体だ。
私の中で子宮という器が限界まで開かれ
限界を超え破壊されそしてより大きな器として再構築される。
その瞬間的な破壊と創造のプロセスこそがイクということだ。
そしてイった直後の子宮は空っぽだ。
空っぽだからこそ次の魔力を受け入れることができる。
イって空になってまた満たされてまたイく。
この循環こそが魔導騎士神崎葉月の戦闘スタイルだった。
三年間迷宮は私を雌化していた。
雌化するとはイくための準備だった。
イける身体こそが魔力変換エンジンとして完成した身体だった。
迷宮は私を雌にすることで騎士として完成させようとしていたのだ。
なんという倒錯。
なんという背徳。
なんという滑稽。
女として完成することが騎士として完成することと同じだなどと、
誰が信じるだろうか。
だが事実なのだ。
三年間の雌化プロセスはすべてこの瞬間のためだった。
鬼のコア魔力を受け取り変換し返し続けるためには
完全に開かれた子宮が必要だったのだ。
「あは……あはは……!」
笑いが込み上げてきた。
快楽の中で笑う自分が滑稽で滑稽でたまらない。
泣きそうなほど可笑しい。
こんな戦い方があるか。
こんな騎士があるか。
嬌声を上げながら魔力変換する騎士など聞いたことがない。
だがあるのだ。
今ここにあるのだ。
神崎葉月という名の不完全な騎士に
最も不完全な形で完成された戦闘スタイルがあるのだ。
鬼が膝をついた。
三メートルの巨躯が膝をつく時迷宮の子宮壁は揺れる。
床面の苔が波打ち壁面の苔が一斉に明滅する。
天井から粘液が大雨のように降り注ぐ。
私は粘液を浴びながら鬼を見下ろした。
膝をついた鬼を見下ろす位置に私いる。
百六十二センチの人間が三メートルの鬼を見下ろす。
物理的にはあり得ない光景だ。
だが今この瞬間だけはそう見える。
鬼が膝をついたことで頭部が低くなり
私は鬼の背中に張り付いたまま位置を保っているからだ。
鬼の背中。
瘤のような隆起二つ。
その隆起から伸びる太い筋肉の束。
背中の中程で交差する筋肉の編み目。
そこに緋縄を食い込ませた。
「いただき」
短く言った。
いただきますではない。
いただきだ。
いただきとは頂くことであり奪うことだ。
鬼から魔力を頂く。
鬼から命を頂く。
鬼から魂を頂く。
緋縄が背中の編み目に食い込み
縄の粘液が筋肉の隙間に浸透していく。
三年間で迷宮全体を浸食した苔と同じように。
緋縄という名の一筋の赤い線が
鬼という巨大な生体回路に侵入し内部から書き換え始めた。
鬼が震えた。
三メートルの巨躯が小刻みに震えている。
それは寒さではない。
恐怖でもない。
快感だ。
緋縄の粘液には吸血機能と同時に麻痺成分も含まれていた。
三年間迷宮の魔力を吸着し続けたことで縄には
迷宮由来の媚薬成分も蓄積されていたのだ。
その成分が鬼の体内に侵入し
鬼自身もまた快感に蝕まれ始めていた。
捕食者が捕食され始めている。
「あんたも感じるんでしょ」
私は鬼の耳元で囁いた。
鬼に耳はない。
だが角がある。
螺旋状に捻れた角は感覚器官として機能しているだろうことは
三年間迷宮を見てきた私には想像できた。
角に向かって息を吹きかける。
熱い息だ。
三年間迷宮魔力で発火した私の体温は常人より高い。
その熱い息が角に触れた瞬間鬼が再び震えた。
「感じるよね。あんたは迷宮から産み出されたんでしょ。
迷宮の子どもなんでしょ。だったら迷宮の空気で興奮するはずだよね」
三年間迷宮で培った媚薬成分を含んだ私の息は迷宮と同じ甘さを持っていた。
私は三年間迷宮に飼われたことで
自らが迷宮と同じ成分を分泌するようになっていたのだ。
[#・]
鬼が吼えた。
その咆哮は、先ほどまでの反射的な威嚇ではなかった。
屈辱と羞恥が煮えたぎり、
蒸気となって喉から噴出するような実存の底からの咆哮だった。
三メートルの巨躯が、背中に張り付いた百六十二センチの女を振りほどこうと、
全身の筋肉を鋼のワイヤーのごとく収縮させる。
瘤のような二つの隆起が、
まるで生き物のように蠢き背中の編み目から粘液が噴き出した。
「あ──ッ!」
私は弾かれた。
物理的な衝撃ではない。
鬼の全身から放出された魔力の爆発だ。
緋縄が食い込んだ背中の筋肉から、
高濃度の魔力が堰を切ったように溢れ出し
それが衝撃波となって私の身体を内側から押し出したのだ。
百六十二センチ五十二キロの身体が、風に舞う木の葉のように宙を滑る。
「ぐっ……!」
縄が伸びる。
三年間の蓄積魔力を帯びた深紅の糸が、
粘液質の空気を切り裂いて壁面に吸い付く。
その瞬間、縄を通じて迷宮の魔力が体内に流入し子宮がきゅうと収縮した。
だが、先ほどまでの甘い疼きではない。
これは警告だ。
鬼が振り返った。
三つの金色の瞳が今度は私を真正面から捉えていた。
反射でも、認識でも標定でもない。
これは、敵意だ。
三メートルの最上位個体が百六十二センチの中途半端な案内役を、
滅ぼさねばならぬ怨敵と心魂に刻んだ決意と誓約。
その瞳の奥に、私は見た。
羞恥があった。
鬼は、感じていた。
先ほど私の緋縄に貫かれ、魔力を吸い取られ快感に震えた自分自身の痴態を。
捕食者が被捕食者に快感を覚えたという事実が、
鬼の存在そのものを根底から揺るがしていた。
羞恥は屈辱を生み、
屈辱は怒りを生み怒りは──力を生む。
「いいよ」
私は笑った。
壁面の苔に背中を預け緋縄を右腕に巻き直しながら、
冷ややかにそして淫靡に、嗤った。
「感じたんだろ? あんたも。私に貫かれて、魔力を吸われて震えたんだろ?
捕食者が被捕食者に犯されて、気持ちよくなったんだろ?」
鬼の三つの瞳が、すっと細められた。
螺旋状の角がかすかに振動する。
それは怒りの表れだ。
だが、その怒りの裏側に私は確かな動揺を見た。
鬼は、自分が感じた快感を否定できないでいる。
否定したいのに、身体が覚えているのだ。
緋縄の粘液が筋肉に染み込み、
媚薬成分が血流に乗り今も全身を甘く痺れさせている。
「あんた、迷宮の子どもなんだろ? 迷宮に産み出された最上位個体。
だったら、迷宮の媚薬には抗えないはずだ。
迷宮の空気を吸って育ったんだから、迷宮の魔力に感じるのは当然だよ。
恥ずかしいことじゃない。私も三年間、ずっと感じてきたんだから」
緋縄が、私の意思に応えた。
三年間、腰に巻かれ、迷宮の魔力を吸着し続けた固有霊装。
その機能は、今、新たな段階へと適応しようとしていた。
縄の表面が、微細な棘から粘液状の被膜へそして被膜から、
さらに異なる質感へと変質していく。
私はそれを、掌の感触だけで理解した。
鬼の魔力を吸収したことで、緋縄は進化したのだ。
鬼の身体から流出した高濃度の魔力。
それは、迷宮の魔力よりも遥かに濃厚で遥かに獰猛で、
遥かに──官能的だった。
その魔力を吸収したことで、緋縄は自らの形状を最適化し始めた。
もはや単一の縄ではない。
私の掌の中で、縄は三本に枝分かれしていた。
一本は、拘束に特化した。
鬼の巨躯を縛り上げるための、硬質な縄。
表面の粘液は瞬時に硬化し鋼のワイヤーのような強度を獲得する。
一本は、吸収に特化した。
鬼の魔力を吸い上げるための、軟質な縄。
表面の粘液は常に流動し触れたものの魔力を根こそぎ奪い取る。
一本は、打擲に特化した。
鬼の肉体を打ち砕くための、鞭状の縄。
表面の粘液は硬化と軟化を高速で繰り返し、打撃の瞬間だけ鋼の硬度を持つ。
三本の縄が、私の右腕から蜘蛛の脚のように伸びる。
「……ふふ」
笑いが漏れた。
三年間。
三年間、私はこの縄を腰に巻いてただ迷宮の空気を吸い続けていた。
その間、縄は少しずつしかし確実に、私の身体と同化していた。
私の魔力回路を把握し、私の神経系を学習し私の思考パターンを記憶していた。
そして今、鬼の魔力という最高の燃料を得たことで縄はついに、
私の意思を完全に反映する器官へと進化したのだ。
これは固有霊装の覚醒だ。
DランクからCランクへ、CランクからBランクへ。
ランクの壁を越えるには、固有霊装の覚醒が必要不可欠とされる。
私は三年間、その覚醒を待っていた。
待ちながら迷宮に飼われ、
迷宮に育てられ迷宮に雌化させられていた。
そのすべてが、この瞬間のための準備だった。
鬼が動いた。
金棒を振り上げる。
三メートルの巨躯が、
三メートルの金棒を私に向かって振り下ろす。
その軌道は、先ほどとは比べ物にならないほど洗練されていた。
鬼は学習している。
私の回避パターンを読み、次は逃げられない角度から叩き込もうとしている。
だが、私も学習している。
鬼の魔力を吸収したことで私は鬼の魔力経路を見ることができる。
三つの金色の瞳から脳へ至る視覚神経の経路。
両性具有の器官から全身へ分配される魔力供給ライン。
金棒という固有霊装と鬼の身体をつなぐ接続端子。
それらすべてが、網の目のように可視化されている。
金棒が振り下ろされる、
そのわずか手前で私は鬼の魔力経路に異常を感知した。
右肩から右腕へ至る経路に、魔力が集中している。
つまり、右からの振り下ろしだ。
私は左へ跳んだ。
予想通り、金棒は私の右側を通過し床面を粉砕した。
苔が弾け、粘液が飛沫となり迷宮の血液が噴出する。
その血液を浴びながら、私は三本の縄を同時に放った。
拘束の縄が、鬼の右脚に巻き付く。
硬化した粘液が鋼の枷となって、鬼の膝を固定する。
吸収の縄が、鬼の左腕に絡みつく。
流動する粘液が鬼の皮膚を浸透し、魔力を吸い上げ始める。
打擲の縄が、鬼の顔面──三つの金色の瞳の中央──に向かって鞭のようにしなる。
空気を裂き、粘液を切り裂き硬化した先端が鬼の眉間を打ち据えた。
「ッ!」
鬼がたじろいだ。
三つの瞳のうち中央の瞳が一瞬だけ光を失い、そして再び輝きを取り戻す。
だがその輝きは先ほどよりも明らかに濁っていた。
打擲の一撃が、鬼の視覚神経に直接ダメージを与えたのだ。
鬼が吼える。
今度の咆哮は、苦痛に満ちていた。
私は笑った。
淫靡に冷徹に、そして楽しそうに。
「どうしたの? 最上位個体。迷宮の子ども。
たった三本の縄に、そんなに苦しそうな顔をして」
鬼が金棒を振り回す。
だが、拘束の縄が右脚を固定しているため
その動きは先ほどよりも明らかに鈍い。
私はその隙を見逃さなかった。
吸収の縄を通じて、鬼の魔力をさらに吸い上げる。
子宮が熱くなる。
魔力が体内を駆け巡る。
変換エンジンが、高濃度の魔力を必死に処理しようと回転数を上げる。
「あ……あぁ……」
快感が、背骨を駆け上がる。
鬼の魔力は、迷宮の魔力とは比較にならないほど濃厚だ。
その魔力を吸い上げるたびに、私の全身が震える。
乳首が硬く勃起し太腿の内側が濡れ、
子宮がきゅうきゅうと収縮を繰り返す。
戦いながら、私は確実に絶頂に近づいていた。
だが、それでいい。
美作弥吉の理論を思い出す。
「エロスは最強のブースターなのだ」
羞恥心が魔力を昂らせるなら、快感もまた魔力を昂らせる。
私は三年間迷宮の空気を吸って、この瞬間のために身体を準備してきた。
快感を魔力に変換する回路は、すでに完成している。
鬼が、伐刀絶技を発動した。
「ッ!」
鬼の全身から、魔力の奔流が噴き出した。
それは先ほどの衝撃波とは比べ物にならないほどの規模だった。
巨躯が、内側から膨張するように一回り大きくなる。
筋肉の繊維一本一本が膨れ上がり、
血管が浮き上がり皮膚の下で魔力が渦巻く。
身体能力強化系の伐刀絶技。
鬼は、自らの肉体を強化したのだ。
拘束の縄が、悲鳴を上げる。
鋼の硬度を持っていた粘液が、
鬼の膨張する筋肉によって引き伸ばされそして弾け飛んだ。
吸収の縄も、
鬼の魔力出力が急激に上昇したことで吸収が追いつかなくなる。
打擲の縄は、硬化した先端が鬼の皮膚に弾かれた。
鬼が、自由になった右脚で床を蹴る。
信じられないほどの速度で私に迫る。
その速さは、先ほどまでの鈍重な動きからは想像もできない。
伐刀絶技による身体能力強化は、単なる筋力の増強ではない。
魔力を肉体に直接作用させることで、
反応速度、瞬発力、そして攻撃の精度を桁違いに向上させる。
金棒が、横薙ぎに迫る。
私は跳んだ。
だが、遅かった。
金棒の先端が、私の左脇腹をかすめた。
硬化した粘液の表面が、私の制服を切り裂き肌を裂き、血を飛ばす。
「ッ!」
痛みが、走る。
だが、その痛みは、快感へと変換された。
迷宮の空気を吸い続けた私の神経系は、痛覚と快楽の境界を曖昧にする。
裂かれた脇腹から流れる血が、まるで愛液のように私の太腿を伝い落ちる。
私は壁面に叩きつけられた。
背中に苔の感触。
粘液が傷口に染み込み、媚薬成分が血流に乗る。
痛みがさらに快感へと変換される。
鬼が、私を見下ろした。
三つの金色の瞳に今度は確かな優越の色が浮かんでいた。
最上位個体としての、捕食者としての当然の表情。
三メートルの巨躯が、百六十二センチの女を見下ろす。
その構図は、あまりにも自然であまりにも絶望的で、
そしてあまりにも官能的だった。
鬼が、金棒を振り上げた。
止めを刺すつもりだ。
私は、笑った。
「……甘い」
鬼の動きが、止まった。
いや、止まったのではない。
止めざるを得なかったのだ。
私の左脇腹から流れ出た血。
それが、床面の苔に触れた瞬間苔が──反応した。
血に含まれる私の魔力成分を感知し、苔が増殖を開始したのだ。
私の血液は、もはや迷宮の魔力と区別がつかない。
迷宮は、私の血を自分の一部と認識した。
苔が、鬼の右脚に絡みつく。
先ほど、緋縄が巻き付いていた場所だ。
緋縄が吸収しきれなかった鬼の魔力の残滓が、そこに残っていた。
その残滓と私の血が反応し、苔が鬼の脚を這い上がる。
「あんた、忘れてるよ」
私は、壁面に背中を預けたまま、言った。
「ここは、迷宮の中だ。あんたの庭じゃない。あんたも、私も、等しく迷宮の餌だ。
迷宮はあんたを産み出した。でも、迷宮は私も育てた。
三年間かけて。あんたよりも、ずっと長くずっと濃く」
鬼が、右脚を振って苔を払おうとする。
だが苔は払っても払っても、新たな苔が這い上がってくる。
私の血が迷宮の苔を活性化させているのだ。
私の血液そのものが、迷宮の一部となって鬼を侵食しようとしている。
鬼の三つの瞳に初めて、恐怖の色が浮かんだ。
最上位個体として、迷宮の頂点に立つ捕食者として鬼は恐怖を知らなかった。
だが、今、その瞳に恐怖が宿った。
自分が産み出された迷宮そのものに、侵食されようとしているという恐怖。
「怖い?」
私は、ゆっくりと立ち上がった。
脇腹の傷からは、まだ血が流れている。
だがその血は、床の苔に吸われ壁の苔に吸われ、
そして私の緋縄に吸われて三本の縄をより深紅に染め上げていく。
「私も、怖かったよ。三年間。毎日。迷宮の空気を吸うたびに、
自分が自分でなくなっていくのが怖かった。でも、慣れた。
慣れると怖さは、快感に変わる。あんたもすぐに慣れるよ」
緋縄が、私の意思に応えてさらに枝分かれした。
三本が、六本に。
六本が十二本に。
十二本の縄が、私の全身から蜘蛛の巣のように広がる。
それは、もはや縄ではない。
私の神経系そのものが体外に露出したかのような光景だ。
「あんたは、強い。最上位個体。三メートルの巨躯。両性具有の器官。
固有霊装。伐刀絶技。全部、私より上だ。でも私には、あんたにないものがある」
十二本の縄が、鬼の全身に巻き付く。
拘束の縄が、両腕を固定する。
吸収の縄が全身から魔力を吸い上げる。
打擲の縄が、あらゆる急所を打ち据える。
「三年間。三年間、迷宮に飼われた時間だ。あんたは迷宮に産み出されただけ。
私は、迷宮に育てられた。産み出されただけのあんたと、育てられた私。
どっちが迷宮に愛されているか、考えてみなよ」
鬼が、咆哮した。
だが、その咆哮は、先ほどまでの威嚇ではなかった。
苦痛と快感と、恐怖とそして屈服の色を帯びていた。
十二本の縄が鬼の全身を締め上げる。
緋縄の吸血機能が、鬼の魔力を根こそぎ吸い上げる。
鬼の巨躯が、少しずつしかし確実に、萎縮していく。
三メートルの身体が二・八メートルに、
二・五メートルにそして二メートルに。
「あ……あぁ……」
私の口から、喘ぎが漏れる。
鬼の魔力が、私の体内に雪崩れ込む。
三年間の蓄積魔力と、
鬼のコア魔力が混ざり合い私の魔力回路を限界まで押し広げる。
子宮が沸騰する。
全身の血管が溶鉄となる。
脳髄が焼け、骨髄が沸く。
そして、快感。
全身全霊、
全身細胞、
全百兆個すべてが同時に絶頂したかのような快感。
「イク……イクイクイクイク……!」
私は叫んだ。
快感が大きすぎて、声を出さずにはいられないのだ。
鬼が、膝をついた。
二メートルにまで縮んだ巨躯が、床面の苔に沈み込む。
三つの金色の瞳が私を見上げる。
その瞳に、もはや敵意はなかった。
あるのは恐怖と、快感とそして屈服だけだった。
私は、鬼の前に立った。
脇腹の傷からはまだ血が流れている。
だが、その血はもはや私のものではない。
迷宮の一部として、床に、壁に、そして鬼の身体に吸収されていく。
「いただきます」
私は、鬼の頭部に手を伸ばした。
螺旋状に捻れた二本の角。
それを両手で掴み、引き寄せる。
鬼の顔が私の顔のすぐ近くに来る。
三つの金色の瞳が、私の瞳を映す。
その瞳の中に私は自分自身を見た。
三年間、迷宮に飼われた女。
三年間迷宮に育てられた女。
三年間、迷宮に雌化させられた女。
そして今迷宮の最上位個体を喰らおうとしている女。
「あんたは、私の最初の獲物だ」
私は、鬼の唇に、自分の唇を重ねた。
鬼の口は、人間より遥かに大きい。
だが私の口は、その一部を覆うだけで十分だった。
唇が触れた瞬間、鬼の全身が震える。
緋縄を通じて鬼の魔力が私の体内に流れ込む。
その魔力は、もはや抗うことなく私の一部となっていく。
私は、鬼の口腔に舌を差し入れた。
二股に分かれた鬼の舌が、私の舌に絡みつく。
それは抵抗ではなく、屈服だった。
捕食者が被捕食者に舌を絡める。
その光景は、
あまりにも倒錯的で
あまりにも官能的で、
そしてあまりにも美しかった。
鬼の魔力が、完全に私のものとなった瞬間。
私は、絶頂した。
◆◆◆
迷宮の心音が、変わった。
ぼぉん、ぼぉん、ぼぉんという低い振動が、
先ほどよりも速く先ほどよりも深く、先ほどよりも──甘く響く。
迷宮が新しい獲物を迎え入れたのだ。
私は、鬼の身体を抱きしめていた。
二メートルに縮んだ巨躯を、百六十二センチの私が抱きしめる。
その構図は、まるで母が子を抱くかのように見えるかもしれない。
だが、違う。
これは捕食者が獲物を抱く抱擁だ。
喰らう前に、その温もりを味わうための。
鬼の三つの瞳が、ゆっくりと閉じられる。
その瞼の裏で鬼は何を見ているのだろうか。
迷宮に産み出された瞬間の記憶か。
それとも、私に喰われる直前のこの快感か。
「おやすみ」
私は、囁いた。
緋縄が、鬼の全身を包み込む。
十二本の縄が繭のように鬼を覆い、
その中で鬼の身体が、少しずつ少しずつ、溶けていく。
迷宮の苔が人間を分解するように、緋縄が鬼を分解する。
鬼の魔力が
鬼の肉体が、
鬼の魂が
すべてが縄を通じて私の体内に取り込まれていく。
そして、私の腹部が、微かに膨らんだ。
それは、妊娠ではない。
だが妊娠にも似た感覚だった。
新しい命を宿したかのような、充実感。
鬼という最上位個体を私の子宮に取り込んだという、
圧倒的な充足感。
「……ふふ」
私は、笑った。
三年間の迷宮案内役生活。
そのすべてが、この瞬間のためにあったのだ。
迷宮は私を雌にすることで、騎士として完成させようとしていた。
そして今、私は完成した。
Cランクの案内役が迷宮の最上位個体を喰らうという、誰も想像しなかった形で。
だが、これは終わりではない。
迷宮は、まだ続いている。
第二層の奥にはさらに深い層がある。
第三層、第四層そして最深部には、何があるのか。
私はまだ知らない。
だが、知りたい。
この快感の先に何があるのかを。
私は、鬼の身体から離れた。
繭は、すでに空になっていた。
鬼のすべてが、私の中に取り込まれたのだ。
私は自分の腹部に手を当てた。
微かに膨らんだ下腹部。
その中で、鬼の魔力が渦巻いている。
「……行こう」
私は、第二層の奥へと歩き出した。
脇腹の傷は、すでに塞がっていた。
鬼の魔力が私の再生能力を飛躍的に向上させていた。
太腿の内側は、まだ濡れている。
だがそれはもはや愛液ではない。
迷宮の粘液だ。
私の身体が、迷宮の一部となりつつある証拠だ。
歩くたびに、緋縄が腰に巻き付く。
枝分かれした縄は、今はまた一本に戻り私の腰を優しく締め付ける。
その感触は、三年間で馴染んだものだ。
だが今は少しだけ違う。
縄の中に、鬼の魔力が流れている。
その温かさが私の腰から全身に広がっていく。
第二層の通路は先ほどよりも深くなっていた。
空気の密度が、さらに増している。
呼吸をするたびに粘液が口の中に入り込む。
それは、もはや空気ではない。
液体だ。
迷宮は鬼を喰らった私を、さらに深い層へと誘っている。
「……楽しみだな」
私は、呟いた。
その声は、案内役生活で培った営業用の笑みを含んでいた。
だが、その笑みの裏には確かな闘志が宿っていた。
落ち零れが、迷宮の最上位個体を喰らった。
その事実が私を変えた。
もう、私はただの案内役ではない。
迷宮の捕食者を喰らう、捕食者になったのだ。
通路の奥から、新たな気配が近づいてくる。
三つ四つ、五つ。
複数の魔獣が、私を迎えに来ている。
迷宮が次の獲物を用意したのだ。
「……いいよ。来な」
私は、緋縄を右手に巻き直した。
深紅の縄が、青白い燐光の中で妖しく輝く。
その輝きは三年間の迷宮案内役生活の集大成であり、
そして新たな戦いの始まりだった。
迷宮の心音が、さらに速くなる。
ぼぉんぼぉん、ぼぉん。
それは私の心臓の鼓動と、完全に同調していた。
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