第3節 「トクナガ先生」
小学校に上がり、私の世界は一変した。本に出合ったのである。本の中の世界は私にとって衝撃的だった。本を知らなかったときの私は、世界がまるで自分の家と保育園しか存在しないかのように思っていた。
だけど、本に出合って、世界は無限大に広いのだと実感した。
私は学校で孤立していた。クラスメイトが怖かったのだ。保育園の時の様に、父親のことで馬鹿にされて、「嘘つき」となじられるのが怖かったのである。
だからそんな私は、家の近くにある図書館に通い詰めていた。もちろん学校には図書室がある。だけど、私はそこを利用することはほとんどなかった。学校の人たちに会ってしまうからだ。それに学校の図書室は、蔵書数が図書館と比べてはるかに少なかった。
ある日のことだ。私はその時読んでいた児童書を借りようと、図書館の司書さんに近づいた。すると不意に、髪が長くて、若くて美しいその司書さんが私に声をかけたのだ。
「きみ、よくうちの図書館に来るわね。気に入ってもらえた?」
「えっ・・・うん・・・はい。」
急に話しかけられたので、すごく驚いてしまっていた。引っ込み思案の私は、突然話しかけられるのがものすごく苦手だった。
「きみ、ここの近くの小学校に通ってる?」
「はい・・・。」
「そっかー。学校に図書室もあると思うけど、わざわざうちに来てくれてるんだね。本当にありがとう。」
「いえ・・・どういたしまして・・・。」
顔が真っ赤になりそうだ。まさか声を掛けられるとは思わなかったから、何も心の準備ができていなかったからだ。
「きみ、名前は?」
「あまみ・・・はるかです。」
「春香ちゃん、ね。」
「はい・・・。」
「今日は何の本を借りていくの?」
私は手に持っていた本を司書さんの方に差し出した。
「『ぼくは王さま』シリーズね。私も子供のころは好きだったなー。かわいい王さまと不思議な世界で、すごく引き込まれたなー。今日はこれを借りていくの?」
私はこくりと頷いた。
「はい、じゃあ貸出の準備をするから、そこに座って待っててね。」
そう言われて私は貸出カウンターにある椅子に座った。司書のお姉さんは、手際よく本の処理を進めていく。
やがて3分もしないうちに貸し出しの準備が終わっていた。
「はい、じゃあ貸出期限は来週の今日までね。今度読んだ感想を聞かせてね。」
「・・・はい。わかりました。えっと・・・」
私はその司書さんの名札を見た。漢字で書いてあって読めない。
「トクナガ。トクナガアケミ。」
「トクナガ先生・・・。」
「先生じゃないんだけど・・・まぁいいわ。」
「じゃあ・・・失礼します。トクナガ先生。」
「うん、じゃあね。春香ちゃん。」
私は深々と一礼をして、図書館を後にした。トクナガ先生はいつまでも手を振っていたのを覚えている。
その翌日、私は再び図書館を訪れた。家に帰って夢中で本を読んでいたこともあって、その日のうちに読み終えてしまったからだ。私は本の返却手続きのために、出入り口近くにあるカウンターを訪れた。そこには、昨日私に声をかけてきた「トクナガ先生」が新刊本の整理をしていた。
「あら、春香ちゃん。あれ?もう読み終わったの?」
トクナガ先生は手を止めて、私に話しかけた。
「・・・はい。」
「今日は・・・もう返そうかなって。」
「本当にいいの?そう・・・。じゃあ返却の準備をするから、貸してちょうだい。」
私はカウンターに近づいて、トクナガ先生に本を手渡した。
「はい、ありがとう。」
トクナガ先生はまたしても手際よく、返却の手続きを進めている。
そんな中不意にトクナガ先生が話しかけてきた。
「ねえ、春香ちゃん。春香ちゃんは、学校でも本を読んでるの?」
「・・・はい。読んでます。」
「友達と遊んだりとかは?」
「私・・・友達いないです。」
「そうなの?」
私は小さくうなずいた。
「じゃあ・・・私が友達になるってのはどうかしら?」
「えっ・・・?」
私は驚いた。友達って、同い年としかできないのだと思っていた。それに友達とは、自然にできるものだと思っていたのに、意識的に「なる」というのが、私には理解できなかったのだ。
「春香ちゃん、本好きでしょ?」
「はい。」
この「はい」といった時だけ、私の声のトーンが明るかった。
「でしょ?私もそう。だから、春香ちゃんとは気が合うと思うの。一緒におしゃべりしましょう。ねっ?」
トクナガ先生は笑顔で詰め寄ってきた。今から考えれば、彼女のやり方は少し強引だったのかもしれない。
ただ、不思議と嫌な気持ちはしなかった。むしろ、少しだけだったけれど、なんだかワクワクする感じがした。トクナガ先生には、不思議と親近感がわいてくるのである。同じ「本好き」ということが警戒感を薄めたのかもしれないが、子供心になんとなくだが、トクナガ先生の心のやさしさに気付いたからなのかもしれない。仕事柄心配するとか、そういう損得勘定を度外視した、人と人との交わりを、どこかで感じていたのかもしれない。
「うん・・・。」
私は少し惑ったが、首を縦に振った。
「よし、きまり!じゃあ、春香ちゃん。こっち来て。面白い本のお話しをしてあげるから。」
そういってトクナガ先生は私を招き寄せた。私はワクワクしながら、カウンターへと向かった。