※この作品はR-18です。

『監獄の掟』   作:ミスターN

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第18章命 第7節あの時の真実

第7節 あの時の真実 残り10時間

 

 タイムカウンターは、『9時間59分30秒』を示している。ついに刻限とされた時間まで、あと10時間を切ってしまった。

 その間に私はいろいろなことを思い出したのだ。

「ねえ、春香?」

「うん、何?」

 私たちはタイムカウンターが見える位置に座っていた。タイムカウンターがあるところの反対側の壁に腰を掛けて、二人で蛍光色の無機質な光を見つめている。

 春香から毒気が抜けたようにも見える。あの凶暴な春香の顔は、どこか鳴りを潜めたようにも見える。あるいは、ただ単に隠しているだけなのか。

 私は・・・どうなってしまったのだろうか。

 望月先輩は・・・父親の圧力に負けた。私と春香を殺すと脅され、その脅迫に負けた望月先輩は、彼の父親剛三郎さんの指示で、私を別荘に幽閉した。

 その後の私は・・・いったいどうなったのであろうか。春香は、思い出しているのだろうか、この出来事について。やはり聞いてみたい。

「私思い出した。やっぱり私・・・お腹の子・・・おろしてた。」

「そう・・・。」

 春香の声がくぐもって低くなる。やはり・・・怖い。

「私が子供をおろしたのは・・・私の意思じゃないの。」

「千早ちゃんの意思じゃない!?じゃあ誰の指示なの?」

 春香が驚いて私の方に顔を向けた。やはり春香は、まだ思い出していないということなのだろうか。

「望月剛三郎。望月財閥のトップで、望月俊先輩の実の父親。」

「どういうことなの?説明してくれる?」

 私は春香の方に向き直った。春香もそれに合わせて、体を私の方に向ける。

「あの事件があった後、私は望月先輩が手配してくれたホテルに缶詰めになった。」

「千早ちゃん・・・お腹の子の母体を気遣ってくれたからね。」

「それに、私を世間の目から隠すという意味合いもあった。そこでしばらくの間は、不自由のない暮らしを送っていたの。ところがある日、先輩が私に会いに来た。『父親の剛三郎に負けた。春香と千早を生かしておくためには、父親のいうことを聞かざるを得なくなった。その為に、千早には子供をおろしてもらわなくてはならない。』そういう趣旨だった。」

 春香は顔をしかめ、吐き捨てるように言った。

「酷い話・・・。どうして千早ちゃんの子供を殺さなくちゃいけなかったの・・・?」

「跡目争いになるから。結論から言えば、剛三郎さんは、私と先輩の結婚を認めなかった。剛三郎さんは、先輩に・・・別の許嫁を宛がう方針だった。もしも私がこの子を産んでいたら、それは先輩にとっての『隠し子』になる。先輩の血脈を継いだこの子は、放置すれば、誰か別の勢力に担ぎ上げられかねない。それを防ぐために・・・この子の命を・・・。」

 私はお腹をさすった。私のお腹の中には、殺してしまった我が子の魂が今も眠っているような気がしたのだ。

「そんな・・・私たちのしたことって、意味なかったの?・・・何のために楓を殺したのよ。何のために・・・こんな苦労したっていうのよ・・・。」

 春香は呆然として、地面を見つめている。

 この記憶が正しければ、春香がここから脱出したとしても、先輩と一緒になることはできない。最初から、前提が壊れていたのだ。『先輩を巡って私たちが殺し合いをする』それ自体が、間違っていたのだ。

「仕方がないことだった。ことは望月財閥の血脈に関わること、従わなければ、どこまでも望月財閥の手の者が追ってきて、私は殺されてしまう。春香だって・・・。先輩は・・・それだけは避けようとしてくれていたの。」

「その結果が・・・千早ちゃんの堕胎と幽閉。」

 胸が痛くなる。涙がこみあがってくるのを感じる。自分のお腹をさすってみる。しぼみ切ったお腹を。

 私は、この子を産むかどうか真剣に考えていた。そして考えながら、私は次第にこの子に自分の生きる意味を見出していたのだ。生まれてくる我が子の朗らかな笑顔、「お母さん、お母さん」と呼びながらキャッキャッとはしゃいでる我が子、人並み以上の幸せ、私が決してつかむことのなかった満ち足りた人生を送れるであろう我が子を考えたら・・・次第に私はこの子を産みたいと思うようになっていたのだ。水瀬さんも言っていた、謝りながら生きる人生、それも悪くないと思い始めていたのだ。我が子の為なら、たとえどれだけ自分が苦しくても、きっと何とかやっていける、そんな気がしていたのだ。

 だから・・・おろさなくちゃいけないと分かった時は、本当に悔しかった。

「私、段々この子のことを産みたくなっていた。最初は・・・春香に先輩を譲ろうとして、本気でこの子をおろすことを考えていたの。だけど、水瀬さんと会って、春香が『絶対産んでほしい』って言っているのを知って、気持ちが揺らいだ。」

「当たり前でしょ。生まれてくる命に罪はない。たとえどんな出自だとしても、生まれてくる子供に穢れはないの。殺していい理由なんてあるはずない。」

 春香が言うと説得力が違う。

「でも・・・春香の命を危険に晒すわけにはいかなかった。」

 春香は押し黙っている。

「私・・・本当に悔しい。こんな形で・・・自分の子供を殺さなくちゃいけなかったなんて・・・。望月剛三郎!あの男のせいで・・・私の・・・確かにあの人にとっては、望月財閥に脅威を与えるかもしれない先輩の子供。だけどそれ以前に・・・私の子供であるのよ・・・。」

 私はこぶしを握り締め、ぎゅっと唇を噛んだ。涙が頬を伝うのを感じた。

「・・・もう終わってしまったことだよ。今更どうこう言っても始まるものじゃない。・・・先を話して。他に思い出したこと、あるんでしょ?」

 私は軽く頷いた。そして苦虫を噛み潰したような顔をする春香を横目に、話を続けた。

「私・・・お腹の子を堕胎した後、望月家が有している軽井沢の別荘に幽閉されたの。身の回りのお世話もしてくれる人がいたから助かったりしたけど、その人の本当の目的は、私を見張ることだった。私はろくに外には出られないし、携帯電話も取り上げられた。当然、別荘には外部と連絡を取る手段なんてなかった。」

「千早ちゃん、軽井沢にいたの?」

「・・・ええ。」

 春香が怪訝な顔をする。

「その話を聞いて、今思いだしたことがあるの。私・・・そういえば望月先輩から電話をもらった気がする。内容は・・・千早ちゃんが堕胎することになって、確か・・・別荘に閉じ込められるって話だった。その時、彼は・・・館山。うん、確かに彼は『館山』に連れていかれたって言ってたのよ。」

「私も先輩から『館山』に連れていかれるって聞いてた。だから、先輩は本当に私が館山に連れていかれると勘違いしていたんだと思う。それは多分、剛三郎さんから先輩には、わざと嘘の場所を教えられたから。」

「先輩が取り戻しに行くのを防ぐため?」

 私は「うん」とうなづいた。

「外部から接触できなくなった私は、一体何をしていたのか?」

「何をしていたの?」

「・・・それが思い出せない。多分何にもしていなかったんだと思う。テレビはかろうじてあったから、それで世の中のことを知れたし、退屈しのぎにはなったと思う。あと本もそれなりにあった。だけど、パソコンはなかったわ。それと気になるのは、私は一体いつまでそこにいたのか・・・。」

 問題はそこなのだ。私は、自分が拉致されたときの記憶がある。その記憶によれば、私は「家」にいた。別荘みたいな大層な邸宅ではなく、普通のアパートのようだった。

「それに何の意味があるの?」と春香は尋ねる。

「私が記憶しているこの場所に拉致される直前のイメージと、私が閉じ込められていた別荘のイメージは異なっているのよ。つまり、私の記憶が正しければ、私はこの場所ではない別の場所で拉致されたということになる。」

「そうか、なんとなく読めてきた。千早ちゃんは、途中で無罪放免になったんだね?」

「ほとぼりが冷めたと判断されて、別荘から放り出されたのかもしれない。ちなみに、私が拉致された記憶のあるその『家』っていうのは、アパートなんだけど、春香が住んでいるアパートではなかった。」

「じゃあ、私たちは、千早ちゃんが解放されても別々に住んでいたってことになるんだね。」

「記憶が正しければ、多分そうね。」

 私が気になっているのは、剛三郎さんがそう易々と私を解放することがあり得るのか、ということだった。

「剛三郎さんは、そんなにも早く私を解放するのかな?」

「どういうこと?」

「あの人が私を軽井沢に軟禁したのは、事件のほとぼりが冷めるのを待つ必要があったからなのよね?先輩も、1月や2月で解放されることはないって言っていた。多分1年とか2年、あるいはもっと長く軟禁されるのだろうと思ってた。正直、一生続くような気さえしていたの。けど、監禁は恐らく短期間だった。」

 正直、監禁されている今この時点で何歳かが分からない。だから監禁の期間も分からないのだが、なんとなくだが、監禁が始まってから拉致されるまで長い期間があったような印象はない。

 そして拉致された場所と別荘が違う場所である以上、私は望月剛三郎から解き放たれたということになる。少なくとも、私が持っている拉致されたときのイメージでは、望月財閥によって軟禁されている訳では、どうもなさそうだった。

「大学には戻ったのかな?」と春香が問う。

 それも記憶はない。まだ記憶が戻っていないだけなのか、それとも本当に記憶から抹消されてしまったのか分からないのだが、とにかく大学に戻ったという記憶はない。

「多分戻っていないと思う。だとしたら、私はあの別荘を追い出されて何をしていたっていうのかしら・・・。」

 春香は言う。

「じゃあ、どっちかの記憶が間違っているんだと思う。千早ちゃんが連れ去れれる直前の記憶と、別荘のイメージのどちらかが。」

「勘違いしているってこと?」

「記憶を改ざんされたのかもしれないし、ただ単に勘違いをしているだけなのかもしれない。連れ去られる直前の記憶である「アパート」、それ自体がつくられた記憶なのか、はたまたもともと監視されていたのが別荘ではなくて、その「アパート」だったのか。軟禁されてから拉致されるまでの期間がそんなに長い間じゃないんだったら、きっと千早ちゃんは、望月剛三郎に軟禁されているところを拉致された、これは間違いないと思うんだよ。」

 そういうことか・・・。あれ?でも待てよ。

「そもそも、雪村家の人間が、望月財閥が監視して隠している私の居場所を特定することなんてできないと思う。私の存在は、望月財閥にとっては絶対の機密。だとすれば、私の居場所を外部の人間が知ることは、そもそもできないんじゃないの?」

 春香は何かを思い出したように、驚いたような表情を見せた。

「テレビのニュースでやっていたんだけど、あの事件があった後、雪村家系の人間が、望月財閥から追い出されたみたい。」

「それは私も覚えてる。そういうニュースをホテルの中で見てたよ。」

 両家の関係が切れているのだとしたら、尚更、情報は入ってこないはずだ。だとしたら、彼らはどうやって私の居場所を突き止めたというのだろうか。

 再び重い沈黙が訪れる。タイムカウンターは、残り『9時間42分09秒』を指している。

 結局私は、ずっと春香から逃げ続けていたのだ。病院で私は・・・春香に謝れなかった。それは私が、春香から逃げていたから。春香の表情が、態度が、気持ちが、怖すぎて直視することができなかったからだ。

 その後もずっと逃げ続けていた。ホテルにいる間、私は外部と接触することができた。春香に電話して謝ろうと思えば、謝ることはできた。でも私はそれをしなかった。そのことを伊織に叱られた。当たり前だ。最も謝らなくちゃいけない人に、私はなんだかんだ理由を付けて、何もせずに放置していたのだから。

 私は隣にいる人の顔を伺ってみる。まっすぐに正面を見据え、何か物思いにふけっている。その顔は、今はいたって普通だ。でもその顔が、ある時突然、生気を失ってしまう。私はそのことへの恐怖で、体が縮んでしまうのだ。

 でも、春香に謝罪しないまま、私が何を思って彼に抱かれて、思い悩み、雪村さんの下へと向かい、そして彼女を殺めたのか。それを説明しないまま、この世を去ってしまうなんて絶対にありえないし、あっちゃいけないことだ。

 絶対に怒られる。罵られるだろうし、怖い顔で睨み付けられるだろう。怖すぎて吐いちゃうかもしれない。でもそれでも、このままにしておくわけにはいかない。

「春香。」

 彼女に何も反応はない。

「私たちがここに監禁される前に最後に会ったのって、もしかしたら、あの病院だったんじゃないかな。」

「・・・・・。」

 聞こえているはずなのに、春香はわざと無視している。

「いやそれどころか、私たちがここで再会する前に最後に会話を交わしたのが、あの病院だったと思うの。私は、あの事件があった後、望月財閥が経営するホテルの一室に匿われた。でも携帯電話が奪われていた訳じゃない。私は、春香に連絡を取ろうと思えば、いつでも取れる状態にあったの。ただそれも一か月くらいの間だけ。先輩が剛三郎さんの言いなりになって、私が堕胎手術をした後、私は軽井沢の別荘に押し込められた。その時には、私は完全に籠の鳥状態になった。携帯電話は取り上げられて、春香に連絡することは不可能だった。多分、それから私は、春香に連絡を取ることが物理的に不可能だったんだと思う。だから、私たちがこうやって会話を交わすのは、実はあの日以来だったんじゃないかな。」

「で・・・、だから何なの?」

 春香はぶっきらぼうに返事をする。

「私・・・自分の口から謝ってはいないと思う。だから、ここで謝らせてほしい。」

「さっきから散々謝られているんだけど。」

「もう一度ちゃんと、自分の口から説明したい。私がどういう思いだったのか。」

「そんなこと聞いたって、結論は何も変わらないわ。」

「お願い・・・私の最期の気持ちだから・・・受け取ってほしい。」

 「最期」という言葉で、春香の口元がゆがんだ。私は、それを不承不承ながらの承諾と受け取った。

「あなたに、信じてもらえないかもしれないけど、私本当に後悔していた。先輩と関係を持ってしまったこと、そのせいで、私たちは引き返せない道を歩むことになってしまった。先輩と関係を持ってしまった後も、私は演技をつづけた。でも信じてほしい。彼と既成事実を作るつもりなんてなかったの。私と先輩が交わってしまったのは、あの時の一回・・・あと堕胎しなくちゃいけなくなって、そして彼とお別れすると分かった時の一回。過ちを犯したのは、その2回だけだった。」

 春香は私から目を逸らして、耳だけを傾けている。私も春香の方を見ずに、私は続けることにした。

「私・・・春香のことが怖くなった。一緒に住んでいて、何ていうか・・・殺気だったものを感じていたの。」

「千早ちゃんも思い出したんだよね。私が・・・楓を使って、千早ちゃんを殺そうとしたこと。」

「私は・・・春香の『殺意』を感じていた。私、殺されるって。だから私、春香の元を離れようと思った。引っ越しの準備をしてた。そんなある日、雪村さんから電話があった。」

 鮮明に覚えている。あの時のこと。身の毛もよだつような、あの戦慄。何が起ころうとしているのか、当事者として立ちどころに分かったから。

「雪村さんが私を殺そうとして誘い出していることは、すぐに分かった。そして、それが春香の差し金だって、なんとなく気づいていた。」

 私は春香の方を向いた。春香は依然として私から目を逸らしたままだ。

「私・・・本当に死ぬつもりだったの。」

「えっ・・・。」

 春香の顔がこわばる。

「自分自身、身ごもったと感じていた。生理が来なかったから。そして調べたら・・・妊娠していたことが分かったの。私・・・すごく動揺した。もしお腹が大きくなってしまって、私の妊娠がバレてしまえば、先輩は責任を取って私と結婚しようと言い出すかもしれない。そんなことになったら、私は・・・春香に合わせる顔がない。脳裏には、『雪村さんと刺し違える』そのことがよぎっていたわ。」

 春香がはっとする。

「私の言葉・・・だよね。」

「・・・うん。でもそれが一番だと思っていた。雪村さんが死んで、私も死ねば、邪魔者は誰もいなくなる。お腹の子も死んでしまうけど、春香が幸せになる為には仕方がない犠牲。そう思ってた。だけど私は、臆病だったから・・・そんな決断もできず、日にちだけが過ぎていった。」

 胸が苦しい。思い出すだけでもつらいのだ。あの時のことは。

「だから好都合だった。このままあの人に呼び出されて、殺されてしまおう。そうすれば、雪村さんも逮捕されて、全てがうまくいく・・・。」

「嘘でしょ・・・。」

「私は死ぬつもりで、遺言を伝えるために、電話をした。律子お母さんと、美希にね。辛かったなぁ・・・。自分が死ぬって分かってて、だけどそれを相手に悟らせちゃいけない。特に美希に電話をするのはつらかった。美希は勘がいいから、私が死のうとしているってすぐにバレちゃったし。おかげで、なかなか電話を切れなかった・・・。」

「本当に死のうとしていたなんて、嘘でしょ・・・。」

「春香にも先輩にも事前に連絡しなかった。連絡なんかしたら、意地でも連れ戻される。というより・・・私の決意が揺らいじゃう・・・。だから連絡しなかった。」

「アンタは・・・計画通りだったのよ!楓を殺して、妊娠の事実を明かして、彼を手に入れる!計画通りだったんじゃないの!?」

 私は立ち上がって春香の正面に位置して正座をする。

「違うわ!その逆よ・・・。私は本当に殺されようとしていたの!」

 春香はまた目を逸らそうとする。私は春香の顔を両手で掴んで、私の顔の方へ向けさせるのだ。

「ちゃんと私の目を見て!私は殺されようとしていた。挑発したの雪村さんを。もう私は妊娠しているって伝えた。そうしたら・・・急に彼女から魂が抜けてしまったの。」

「嘘で・・・しょ・・・?」

「彼女は明確に『自分を殺して』って言った。あとはもみ合ったとはいえ、殆ど自殺だった。彼女はだんだんと力を緩めていって、そして私は・・・彼女のお腹に・・・。雪村さんは、包丁をさらに深く突き刺すように言ってきた。私は、恐怖と緊張でおかしくなりそうになりながら、柔らかいものに突き刺すように、深く刺し入れた。雪村さんのうめき声が今でも脳裏に焼き付いていて、離れない。」

「そんな・・・嘘よ!」

「嘘じゃない!現実を見てよ!」

 春香は私の手を振り払った。

「アンタは、楓を最初から殺すつもりだった!だからあの場所にホイホイ行ったのよ!」

「・・・冷静に考えて。私には、あの子を殺す手段なんて何も持っていなかった。」

「・・・・・。」

「あの子の命を奪った包丁は、あの日雪村さんがホームセンターで買ったものだった。そして私は何も武器を持っていない。事前に連絡もしなかった。もし雪村さんが本気で私を殺そうとしたら、逆に私はどうやって抵抗できたっていうの?」

「何か武器を持っていたのよ!返り討ちにできる何かを!」

「所持品検査がされたけど、私は武器になるようなものを何も持っていなかった。仮に持っていて、包丁か何かで抵抗したとしても、それで雪村さんを刺殺すことはできない。傷は一か所しかないの。仮に私が持ってきた凶器で雪村さんを刺してしまったら、彼女が持ってきた包丁でもう一度彼女を刺すことはできなくなる。」

「そんな・・・。」

 気づけば、私の目から熱いものがこぼれていた。

「春香。私は確かにひどい人間だと思う。人の善意を利用し、傷つけるような人間だった。春香だって利用してきた。だけどこれだけは信じてほしい。あの時、私は本当に死のうとした。春香の為に、春香が幸せになる為に・・・死のうとしたの!」

「千早ちゃん・・・。」

「許してなんて言わないし、言えない。結局私は死ねなかったし、春香に謝ることもできなかった。だから!私は言いたいの!」

 私は三つ指を立てた。

「ごめんなさい、春香!私は・・・春香を・・・大切な親友を裏切ってしまった!本当にごめんなさい!ごめんなさい・・・ごめんなさい・・・」

 涙が止まらない。これはきっとうれし涙なのだ。自分が死ぬ前に、私の罪を告白することができた。春香に謝ることができた。そんな達成感のある涙。極めて自己満足的で、自分勝手な涙。

「ふふっ・・・。」

 春香は微笑している。私は予想外の反応に驚いて顔を上げた。

「春香・・・?」

「千早ちゃんの狙いは大よそ分かったよ。自己満足なんでしょ?冥土にモヤモヤした気持ちを持ち込みたくないっていう。」

 その通りだ。春香の言う通り、これは単なる私のわがまま。勝手気ままな願いなのだ。

「・・・・・。」

「図星みたいだね。」

 無言でいると、春香がそう言ってきた。

「・・・ええ。・・・首を絞められているときは・・・笑顔でいてほしいから・・・呪ったり、恨んだり・・・そんな顔されて・・・最期を迎えたくないから。」

「ふふっ・・ふふふふふ・・・。」

 春香が少し気味の悪い笑顔を見せる。私は眉をひしゃげた。この子は、一体何を考えているのだろうか。

「ねえ、千早ちゃん。」

「う・・・うん。」

「もう水に流そうよ。」

 私にとってはなんだか意外すぎる言葉だ。ビックリして、目を見開いた。春香はニコニコしている。

「どうせもう、千早ちゃんは死んじゃうんだし、私も先輩を逃しちゃったんだから。今更いがみ合ったってしょうがないでしょー?」

 正論だと思う。普段の春香だったら、この笑顔はかわいくて、ほっこりするのに、なぜか今見ると、怖くてしょうがない。何か裏を含んでいるようにも見えるのだ。

「あ・・・ありがとう!春香。」

「ええ。」

 それだけか・・・。何かもう少し言葉があると思ったんだけど・・・。

「あーあ、何だかうじうじ考えちゃって損しちゃった。」

「・・・・・。」

 ほんっと、春香ってとりこし苦労多いよねー、とか、これだけ一緒にいて、まだ私のこと分かってなかったのー?とか、本当だったらそんな冗談をぶつけたい。だけど今の春香は、何ていうか・・・よくわからない。

「どうしたの、千早ちゃん?何か考え事?」

「・・・あっ・・・その・・・」

「まだ隠し事があるの?」

 春香の顔が淀んでいる。その目は、不信に満ちているような気がするのだ。

「何もないわ!」

「そう・・・。」

 ふうー、っとため息をついた。なんだか、春香の顔を見ると生きた心地がしない時がある。あまりにも負い目を負い過ぎたせいかもしれないし、死ぬって決まって、少し気持ちが臆病になったせいかもしれない。

「ねえ、千早ちゃん。ごめんね、何か気の利いたことの一つでも言ってほしかったんでしょ。」

「い、いやそんなことはないけど・・・。」

 まあ、でも春香の方から冗談言ってくれれば、少しは和めたかもしれないかな。

 春香は言う。

「・・・もし仮に、美希がこの場にいたらなんて言ってただろうね。」

「美希ね・・・。」

「『んも~、千早さんにそんな顔されちゃったら、ミキたとえその笑顔に騙されちゃっても全然幸せなの~』とか。」

 私は思わず吹き出してしまった。

「なにそれ。さすがに美希もそんなことは言わないでしょー。」

「じゃあこんな感じかな。『ミキ的には、千早さんに騙されるの慣れてるから、ぜんぜんOKなのー』とか。」

 むむっ・・・それは無いとは言えない感じだな。

「どう?これはあり得るんじゃない?」

「ま・・まあ、時と場合による・・・かな?」

「ふふっ。千早さんって素直じゃないのー。」

 春香がふざけて美希の真似をしてみる。それにしてもさっきから全然似てないのね。

「全然似てないわよ、春香。」

「え~ショック~。なの。」

 また私は吹き出してしまった。

「『なの』つければいいってもんじゃないわよ。」

「そう『なの』?ミキはじめてしった『なの』。」

「もう、半分バカにしてるでしょ。」

「なのなのー。」

「まったく・・・」

 自然と笑みがこぼれてくる。なんだか昔を思い出せたような気がする。昔は、ナチュラルにこんなバカを始終やってたんだっけ。

「私凄く後悔している。」

 春香がそうつぶやいた。

「私もよ、春香。」

「あの時、千早ちゃんのいうことを聞いておけばよかったんだよ。あのサークルに入らず、別のサークルに入っていれば、こんなことにはならなかった。」

「あの時、引っ張ってでも春香を止めるべきだった。そして自分自身も入るべきじゃなかった。私にその勇気が無かったから、ずるずると・・・。」

 そう思う反面、あのサークルにいることができたから、得ることができたものもある。春香は言う。

「でもあのサークルにいて、とても楽しかった。先輩のこととか抜きにして、みんなでゲームしたり、トランプやったりウノやったり、すごろくやったり、お茶飲んでお菓子食べてくっちゃべったりして、凄く楽しかった。」

「春香の言う通りだわ。私もあそこでかけがえのない時間を過ごすことができた。悪いのは・・・全部私ね。」

 春香がしかめ面をする。

「もうその話は止めようよ。誰も得しないよ。」

 しばらく考えたのち、私はにこっと笑った。

「そうね。」

 考えたり、後悔したりしたって仕方がない。だってもう、残りは『9時間12分24秒』しかないんだから・・・。

 

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